ウルトラジャンプ 50話の掲載号からは毎月買って、最新話を逐一読んでいる。
ジョジョリオンの12巻も発売日に買って、あわせて読んで、
ダモカン登場以来のテンションの高まりに面白く読んでいるところである。
カレラ登場時のエピソードであったり、1巻から現在まで描かれてきた伏線とも辻褄が合わなくなる所が多数出てきているが、
ダモカン登場からの過去編・現在編が面白いので、「今のほうが面白いから、とりあえずまあいいかな?」と思えてしまう。
8部 ジョジョリオンを読んできて、いちばんノレなかった所は、主人公が何者か分からず感情移入しづらい点だった。
加えて、SBR 激しいレースとバトルの反動からか、連載当初はユルイ、目的も見えづらいままにエロやナンセンス、セルフオマージュ(パロディ)を散りばめるような展開が続いたので、
コミックスを買うのを止めようか?と思うくらい、読み続けるのがダルイときがあった。
夜露が登場して、ロカカカの実を巡るサスペンスが導入された辺りから物語の気運が変わって、
主人公(定助と康穂)・東方家・岩人間の三者が相対するバトルの様相を呈してから、面白くなってきたように思う。
岩人間とロカカカの実は、物語にサスペンスと興奮を加えるための後付け設定じゃないか?と思うのだけど、
やっぱり、ジョジョのお話は、敵がいてバトルがあってという、戦いの駆け引きで盛り上がるマンガなのだと思う。
吉良とジョセフミの過去編が紡がれる中で、定助を構成する2人の主人公のキャラクターが明らかになってきた。
ジョセフミは、4部 仗助の生い立ちがもう少し不幸になったような感じで、
吉良は、(殺人鬼だった)4部の吉良が、もう少し幸福な生い立ちになった感じで、設定されていると思う。
4部では相対して戦った2人が、8部ではバディとなり、
孤独に育ったジョセフミに、信頼の手を差し伸べたのが吉良だったのが面白い。
ジョセフミは、幼児の時 実母に見殺しにされかけたところをホリーさんに助けられ、壁の目に埋まった後は康穂に助けられた。
ジョセフミも吉良も、聖母 ホリーさんを救うため身を挺して戦っており、
3部のセルフオマージュを盛り込みつつ、血の通ったバトルとキャラクターが描かれる展開に熱くなる。
ジョジョリオンの連載がはじまった当初、性的な描写が多く盛り込まれていたこともあり、
8部の吉良も、きっと性的な変態嗜好を持った殺人鬼で、
定助が壁の目に埋まっていたのも吉良の策略が絡んでいて、物語の最後は、記憶を取り戻した主人公と吉良の戦いになる
ーーそんな風に予想をしていた。
しかし、今月のウルトラジャンプ 52話の展開・描写を見る限り、
吉良はカッコいいキャラのまま、正義の使徒として死んでいく気配が濃厚である。
考えてみれば、8部 ジョジョリオンで、性的変態の吉良吉影がふたたび登場し、主人公と追いつ追われつのバトルを繰り広げたとしても、
それは、かつての4部の展開の二番煎じ、ムダな後付けの蛇足でしか無い。
(ジョジョ アイズオブヘブンでDIOがお馴染みのように倒される展開や、ドラゴンボール 復活したフリーザがあえなく打倒される展開など、悪い方の後付け製作・蛇足・駄作の見本だと思う)
ジョジョは、荒木先生がつねにフレッシュなテーマ、血の通ったキャラクターをつくり、
その時々の問題、時代、物語を紡いできたのが魅力だと思うので、
8部が4部の二番煎じにならずに済んで、本当によかったと思う。
4部の仗助と吉良が、新世界では二人の相棒となって、定助=ジョセフミ+吉良となって融合しているのは、
作者の「善悪は本来、曖昧なものかもしれない」という思想の深まりを示すものかとも思うし、
味わい深い悪役だった殺人鬼の吉良が、ホリーさんの愛を得て、ニヒルなヒーローとなって復活したのは何とも感慨深い気がする。
ーーマア、まだ52話を読み終わったところまでの感想なので、
この後 ジョジョリオンがどう転がっていくかは分からないけど…。
ジョセフミと吉良の融合に到るまでを描く過去編は(おそらく)およそ描き終わって、
来月号からは、現在 ダモカンと定助たちの戦いに移っていくのではないかと思う。
岩人間で、ダモカンの後にもう1~2人 強い敵がいて、東方家の家督争い(≒誰が病を克服するか?)があり、
残されたロカカカの実を巡って、定助・ホリー・東方家の誰が果実を手にするのか?が、最後のクライマックスになるだろうと思う。
過去編はかなりの盛り上がりを見せたので、これからの現在編 クライマックスの争いに、期待して注目していきたい。
ジョジョとドラクエ 三部作の凄みを語る
ドラゴンクエスト2に続き、ドラゴンクエスト1、ドラゴンクエスト3をクリアするまで遊んだ。
「ジョジョとゲーム」というカテゴリで、たびたびドラクエに触れてきたのですが、
ジョジョとドラクエは、三部作で一つのサーガが完結するという共通点があるし、
1980年代の末 ほぼ同じ時期にシリーズがスタートして、今に到るまで連作を重ねてきている。
この記事では、ドラクエ ロト三部作の再プレイの感想を中心にしながら、
ジョジョとドラクエ 三部作の持つ凄みについて語っていきたい。
***
ドラクエ ロト三部作、そしてMOTHER1~3も最近に遊んでみて、
RPGの面白さは、以下の順番に箇条書きできると思う。
・物語の主人公となり、世界に入り込む。「もうひとつの人生」を体験する
・ミッションをクリアする。行動範囲を広げていく楽しみ
・敵とのバトル。戦いに勝ち、キャラクターを強くしていく楽しみ
・アイテムの収集
(個人的に、サブゲーム、隠しダンジョンの類は不要)
「荒木飛呂彦の漫画術」によれば、少年漫画の王道はプラス、プラス、プラスのストーリーづくりにあるという。
ドラクエはプラス、プラス、プラスのゲームづくりを徹底していて、初心者にも優しい、国民的RPGと言われる所以である。
パーティーが全滅しても経験値は減らないし、アイテムを奪われることも無い。
レベルを上げて、根気よくプレイすれば(普通は)クリアできるように作られていて、
魔王討伐までのストーリーだけではなく、レベルを上げてどんどん強くなっていくゲームの仕組みが、プラスの積み重ねになっている。
マンガの要素になぞらえてゲームを語るならば、自分の場合、
ドラクエのキャラクターデザインが鳥山明によるものでなければ、ここまでハマらなかっただろうと思う。
丸っこいフォルムで描かれたドラクエ1~3 敵キャラクターのデザイン、パッケージイラストの魅力は他に替えがたい。
鳥山明は、ドラゴンボール、ドクタースランプ 2つのマンガしか描かなかった、手塚治虫にはなれなかった等と批評されることがあるが、
ドラゴンクエストは、鳥山明 3つめのヒットマンガであったかもしれない。
「原作:堀井雄二、作画:鳥山明とチュンソフト」によるニュースタイルのマンガがドラゴンクエストだった、というところだろうか。
ドラクエ ロトの三部作を概観すると、
1はシンプル、中世ヨーロッパの薄暗い雰囲気と、ファミコンではじめて「物語」を描き出した衝撃が今も強く残る。
2は1の発展形で、個人的にはこれがベスト。ただし、人によっては難しすぎるクソゲー。
3は2の普及版、1・2とのリンクを形作ったもので、ひとつの完成形を迎える。
ドラゴンクエスト2を今一度 振り返ると、スケールアップの魅力を強く感じる。
(ジョジョ1→2→3のサーガと一致するが)初代から100年後の未来の物語であり、物語の時間軸が未来に向かって伸びた点。
そして、物語の舞台が、地理的に、横方向に大きく広がっている。1のアレフガルドの先に、(海を渡れなかったその先に)新しい舞台が拡がっている。
地下へ潜っていく洞窟に加えて、上に昇っていく塔が、あらたに登場している。
(1 竜王の城にも盛り込まれていた仕掛けだが)上へ上へ昇ったり、下へ下へ降ったり、最上階へ行ってまた下へ降りたり、とにかく歩かされる。
世界地図の端っこにザハンの島があったり、ルビスのほこらが1マスの大きさで、地下奥深くまで続く。ラダトームの城 太陽の石の仕掛けも、世界を隅々まで探索する仕掛けの一つだろう。
ドラクエ2 終盤において、邪神の像の洞窟では、下へ下へ、海底の奥深くへ降りていく。
ロンダルキア台地のふもとからは、上へ上へ、山中の厳しい洞窟を進み、白銀の台地に抜け出た後、空高く神官の住む神殿を目指し昇っていく。
最後は、邪神ーー神、人間の世界を超えた超常的な存在ーーとの戦いになる。
戦いの旅を共に過ごすのは家族であり、友達。身近な人たちと一緒になって、悪を倒す旅に出る物語である。
ドラクエ2をはじめてプレイしたのは小学4年生のときだが、アタマの中で思い描いていた、創作の「黒歴史ノート」がある。
王子王女たちがシドーとの決戦にどう挑むか?を想像したもので、シドーの猛攻に主人公たちは歯が立たない。
シドーのツメに引き裂かれ、サマルトリアの王子が倒れる。ツメがサマルトリアに食い込みながら剥がれ落ち、王子は死ぬ。
最後を看取ったローレシア王子が、シドーのツメを使って、サマルトリアの思いを継ぎ、シドーを倒すーーという展開だったと思う。
私は楽譜を読めないし、ピアノも弾けないのですが、
それでもシドーのテーマだけは、勘で鍵盤を弾き、およそ演奏できるようになったので、よほど印象が強かったのだと思う。
「さよならファミコン通信」「ドラゴンクエストエイジ」など、ドラクエ関係のインタビューが収録されたwebサイトによれば、
堀井氏はゲームデザイナー・シナリオライターであり、
プレイヤーが世界に入り込み、「もうひとつの人生」を体験するための手助けを、自らの仕事と定めていたようである。
プレイヤーごとに、各自の世界に入り込んでいって、楽しく遊び、物語を拡げる。
それが、ドラゴンクエストのシナリオでありストーリーであり、ゲームを遊んだ体験となる。
(その意味で、ドラゴンクエスト2は個人的にもっとも面白く、創作シナリオやピアノ演奏までを含めて、個人的なゲームプレイ体験であったのだろう)
ドラゴンクエスト3について。
2016年2月 ドラクエ3を再プレイする前後、清原和博が覚せい剤所持容疑で逮捕され、愚かさと悲しさに胸を痛めていた。
ファミコンの中古本体を買い込み、マシンとソフトがちゃんと動くか、最初にテストプレイしたのはファミスタ 86年度版で、
きよはらが4番を打つLチームでプレイし、きよはらに右中間の見事なホームランを放たせてはいたが、胸の悲しみは癒えなかった。
若いころ 清原は「覚せい剤打たずに、ホームラン打とう」という警察の広告に出演していたらしいが、今となってはとんでもない皮肉である。
そこで(?)、ドラクエ3を再開するにあたっては、お気に入りのプロ野球選手で4人パーティーを組むことにした。
主人公はまえだ、武闘家のえのもと、僧侶のおちあい、遊び人のきよはら。
きよはらが男のピエロだと、なんだか生々しいので、女のバニーガールにした。
遊び人のきよはらが、Lv20で賢者に転職する。
遊んでばかりの役立たず、放蕩を極めた愚か者だけが賢者への悟りを開くことができるというギミックで、絶妙のセンスでありトリック、そして堀井氏の優しさと矜持が滲み出ていると思う。
まえだとえのもとは前田智徳と榎本喜八、打撃を極める左打者で、
僧侶→賢者のおちあい(落合)は、きよはらの師匠格、後衛に並ぶ魔法使いたちは偉大な右のアーティスト。
そのようなパーティーバランスを考えていた。
しかし、ゲームの最期 女賢者2人が並ぶというのは絵面が悪く、まったく同じ能力のキャラばかりというのも面白味が無いので、
Lv38でザオリクを覚えたところで、きよはらを、賢者から戦士に転職させてしまった。
巨人移籍後の肉体改造を思わせるマッチョさで、まじんのオノを振り回すきよはらはガンガン成長し、
チームの4番目で「にっこり微笑んで」ばかりいたのが、最後にはチームで2番目に並び、敵からのダメージを引き受ける盾の役割まで果たすようになった。
ただし、きよはらはメガンテとパルプンテは覚えておらず、MPは79で、呪文ではおちあいに叶わない。
あと一歩でレジェンドにはたどり着けない、生涯 打撃三冠を獲得することのなかった清原らしい、もどかしさと底知れぬ可能性を体現・追体験したのであった。
再生・更生の願いを込めつつ、思い入れを持って「きよはら」の物語をプレイしていったが、現実の清原和博は、はたして更生できるのだろうか。
ちなみに、スーの東 ニューヨークの村を建設させた商人の名前は、のりさん(中村紀洋)である。
ドラクエ3 ゲームのメインシナリオである「上の世界」の旅は、現実世界の地球をなぞる旅である。
船を手に入れる前 ユーラシア大陸の最果ての村に、父親の手掛かりが残されていて、それが只の「みずてっぽう」というエピソードが印象に残る。
商人 のりさんの尽力でニューヨークが勃興し、瞬く前に発展するが、共産主義革命(?)で打倒されるエピソードも面白かった。
逆に、ヒミコさまとおうじゃのけん(日本刀?)を取り上げたジパングのくだりは、中世ヨーロッパが基調の世界観に馴染まず、違和感を感じ、イマイチだった。
ドラクエ3は、さまざまな点で、「ドラクエ2の普及版」だと思わせる点がある。
万人に遊べる難易度に調整されたパーティーバトル・謎解き、ゲームバランスは言うまでもなく、
船を入手してから、世界に散らばるキーアイテムを集める展開。
ネクロゴンドの洞窟 毒の沼地と、十字架状の入口。山を登った先に、悪の巣窟がある所などは、2に狙って似せていると思われる節がある。
ドラクエ1→2で世界が4倍サイズに広がったが、3は、1→2の世界観をさらに包含し、全てを包み込もうと意識して製作されている。
アレフガルドや精霊ルビス・竜の女王の因縁は言うまでも無く、
アレフガルドのフィールド曲(「広野を行く」)が三部作それぞれ違ったアレンジで登場し、ゾーマ戦のメロディの大元にまで使われていて、制作者の気迫と作り込みに感心させられる。
ドラクエ3は「上の世界」(≒現実の地球)をメインステージに、世界一周の旅をやり切った後、「下の世界」 闇のアレフガルドを訪れる。
上の世界と下の世界の交差は、個人的には、「現実世界と、ゲームの世界(仮想の世界)がリンクする楽しみ」を暗喩しているように感じている。
現実世界のギアナの大穴から、ゲームの世界のアレフガルドに落ちていく感覚。
(ドラクエ1・2をプレイして)かつて知っていた幻の大地に降りていく、顕在意識から無意識下の世界に降りていく、そんな感覚を狙っていると思う。
ゲームのラスト ギアガの大穴が閉じて、アレフガルドが太陽の光に充たされた世界となるのだが、
地下の世界=下の世界とするならば、穴が閉じた後、太陽の光で満たされるのは物理的にヘンな感じがする。
地球の地下にアレフガルドが存在するというよりは、現実世界の「意識の下」に、アレフガルドが隠されて存在していた、という解釈・感覚が、個人的にはピッタリ来る。
現実の地球を巡った物語の最後に、無意識の世界が発見され、認識され、最後 光の中に浮かび上がってくる。
ゲームの世界が、新たな世界が、現実のものとなって姿を現した瞬間である。ーーそのように、アレフガルドのはじまりの演出を認識している。
ドラクエ ロト三部作に共通する特徴として、
「主人公はキミだぜっ!」と言わんばかりの、物語に引き込むための徹底したガイダンス、
貴種流離譚の主人公になりきって、シンプルな成長物語を満喫できる楽しさがある。
1の主人公は、伝説の勇者ロトの子孫。
2の主人公は、1の主人公の100年後の子孫。親戚同士の王子と王女は、親近感が湧き、一体化しやすい。
3の主人公は、オルテガの子として生まれた若者で、最後 ラダトームの王から勇者ロトの称号を「授かる」。
生まれによってではなく、自分自身の努力と成果によって、勇者ロトの名前を得た、それが3の主人公であるーーという構図だ。
ドラゴンクエスト3は、現実の世界からゲームの世界が産み出されるまでを描いた物語。
「あなた」が主人公となり、伝説の勇者となって、アレフガルドを産み出すまでの話。
ドラクエ3--現実の地球、現実の世界が基になって、その後の1,2が産み出される。
だから、2がハッピーエンドになった以上、ドラクエの物語はもう無い。
現実の中から、ゲームという神話が生まれて、神話と現実が輪を描いて完結するまでを描いたのが1→2→3の三部作である。
***
ーードラクエの面白さを語る文章ばかり、あまりに長くなってしまいましたが、
ドラクエとジョジョに共通する、三部作 連作ならではの凄みを、最後に語っていきたいと思います。
まず、ジョジョとドラクエ 三部作に共通する強みは、
1つの作品だけで完結するのでは無く、3つの連作が揃うことによってはじめて成り立つ、作品の面白さと凄みを備えているということです。
ジョジョ1→2→3の三部作で、荒木先生は、エデンの東やルーツのような、時を超える大河ドラマを描きたかったと述べています。
ジョナサン(初代の主人公)がディオと戦い、ジョナサンの正義は子孫のジョセフに受け継がれ、そしてジョセフと承太郎が復活した悪の権化 DIOを倒す。
ジョナサンだけでもジョセフだけでも、承太郎だけでも描けなかった、3代居なかったら成り立たなかった物語を、荒木先生は描きたかったそうである。
ジョジョにおいては、1部で「白と黒の、2人の主人公」の対立と調和が描かれ、波紋法と吸血鬼のバトルが提示され、
2部で、ストーリーの展開においても、バトルのトリック・キャラクターのパワフルな魅力においても、前作を上回る加速した展開が描かれ、
そして3部で、1部の主題が再提示され、100年の時と、地球のすべてを駆け巡ったかのような旅の果てに、ジョースターとディオの戦いが決着を迎える。
ジョジョ1→2→3の三部作は、クラシックのソナタ形式に似た構造を持っていて、
主題の提示→展開→主題の再提示 3つの作品が、一本の音楽を奏でるように、スタートからラストまで、緩急持って突き進んでいく面白さがある。
ドラクエ1、2、そして3の三部作は、入れ子構造、円環、無限のループとなるような円環構造を持っている。
「王子の旅立ち→放浪の旅→帰還」という基本構造は、ドラクエ1、2、3に共通しており、
「旅の結果 何を得て、何を失い、最後 主人公はどこへ向かうのか」が、ドラクエで描き出される、主人公たちのドラマである。
ーー個人的に、ドラクエ3 ロトの勇者は、ゾーマを倒しアレフガルドの平和を確かめた後、上の世界に帰っていったのだと思う。
ドラクエ1 勇者とローラ姫が旅立つときの王宮のファンファーレ、2 ローレシア王宮の舞踏会、3 ロトの勇者を称える王宮のファンファーレは、
堀井氏が意識的に、似た構造のラストシーンを用意し持ってきていると思うが、象徴的な記号の使い方が本当にうまく、
ドット絵の使い方やヒントを集成し謎を解いていく積み重ねなど、ドラクエはファミコン時代の、記号を定義し積み重ねるRPGならではの面白さが満ち溢れた作品だと感嘆する。
ちなみに、貴種流離譚となるようなゲーム・マンガは、ドラクエ以外にも数限りなくある。
(貴種流離譚という概念自体が、折口信夫氏の定める民俗学・文学の用語であり、説話群を類型化するためのものであるから、該当例が多くあるのは当然かもしれない。
物語の類型の一種を指し、若い神や英雄が他郷をさまよいながら試練を克服した結果、尊い存在となるとする説話群を指すという)
ゲームでは、本の世界に入り込んで、再び現実に戻ってくる「エスパードリーム」。
不思議の国のアリスのような雰囲気のゲームだが、本の世界の女の子・村長が、現実世界に遊びにやってきたラストシーンの多幸感がとてもいい。
3DSの「妖怪ウォッチ 1」も、主人公たちが妖怪と友達になり、ラストバトル 訳あってお別れをするものの、最後 また友達として戻ってくるという、幸福感あるエンディングが良い。
ドラえもん 単行本6巻で描かれた、のび太の成長、ドラえもんとの別離・旅立ちを描いた最終話も、とてもよいお話だったと思う。
ジョジョのシリーズでは、
半身不随の元騎手 ジョニィが、ジャイロと大陸横断の旅に出て、最後 聖人の遺体では無く、親友の遺体と思い出を故郷に持ち帰るSBRが、もっとも貴種流離譚の典型に当てはまるストーリーとなるだろう。
ジョジョとドラクエ 三部作の凄みとして痛感するのは、
ゲームの「外」、マンガの紙面の「外」にある情報ーーすなわち、時間と空間の拡がりーーをリンクさせる面白さである。
部分が全体であり、全体が部分であるような、世界全体が一つにつながり、壮大なものを描き出せている、その感動。
現実の世界を旅しているようでいて、現実とは違う、「もう一つの世界」「もう一つの人生」を作り上げ、読者として体験できた感動が今でも強く残る。
ジョジョとドラクエ 初期の三部作には、イキイキとした、新しい世界が生み出された瞬間に立ち会えた喜びがあると思う。
もし、今からこれらのマンガ・ゲームをはじめて体験するという方があれば、絶対に、発売順に、1→2→3の順番でプレイすることをお薦めしたい。
(このブログでは、三部作のストーリーや展開をネタバレしてしまっているが、そんなことは知らず、作者が筆を重ねた順番に、読者が一緒に追体験していくのがいちばん真っ当な、贅沢な作品の楽しみかただと思う)
最後になりますが、ドラクエ3 アレフガルドの終盤に入り、ゲームを終えてしまうのが寂しくてレベル上げを繰りかえしていた最中、
「ドラクエ3が終わったら、4をやってもいいんじゃない?」「ピサロを見てみたいし」と助言してくれた私の子供に感謝したい。
(ドラクエ4 8人の勇者たちと、ピサロとロザリーの悲劇の物語は、ドラクエムックを孫引きしながら、子供に物語って聞かせていた。
「流した涙が、宝石になる」エルフのロザリーは、人間の悪業に巻き込まれ死に、彼女を失った悲しみでピサロは悪に走り、進化の秘法で怪物となる。勇者たちはピサロに、戦いを止めるよう訴えるが、怪物となったピサロの耳には届かない。
やむを得ず勇者たちはピサロを倒し、遺骨をロザリーのそばに埋める。エルフのロザリーは死後 植物の種となってお墓に埋まっていたが、ピサロを迎え入れて芽が出て草が伸び、一瞬で大きな花が咲いたーーというラストだった)
また、ドラクエやジョジョ、ゲームやマンガの好きな事を書いて楽しめる時間を持てるのも、
のんきに暮らしていられる日常があればこそなので、現実世界の平和と、人々の間に自分が存在できていることを感謝したいと思う。
追記:
ドラゴンクエスト3の余韻が冷めやらぬ内に、ドラクエ4(ファミコン版)をプレイし、クリアした。
1~5章の序盤で、低レベルからのレベル上げを繰りかえすのが辛かったこと、
(1~3までを通してプレイした直後のためか)バトル・謎解きがやや簡単すぎて歯ごたえが無かったのは難点だが、
概ね楽しく遊ぶことができた。
エンディングの演出は、キャラクターの織りなす寸劇がBGMと相まってとてもよく出来ていて、ファミコンゲームの一つの極みを見るようで感動した。
7人の仲間たちを一人ずつ見送って、独りになった勇者が故郷に帰るのだが、
私は、マスタードラゴンのご加護でシンシアが復活して、仲間たちと共に幸せなエンディングを迎えたのだと解釈している。
(勇者が最後 故郷の幻を見ながら死んでいったようにも見えて、曖昧にボカしている所がいい演出だと思う)
エンディングのシーンを観ていて、はじめて気づいたのは、
1章のスタート地点 バトランドの南の岩山を越えたすぐ先に、勇者の隠れ里が配置されていたことで、
1~5章の物語が同時進行で進み、エンドール(end:目的地)に向かって主人公たちが導かれるシナリオなど、盛り上がる展開で面白かった。
ドラクエ4は、ジョジョ 4部と似て、前作までの基盤を活かした番外編・新シリーズで、新機軸とマンネリ感が絡み合う微妙な面白さだった。
スーパーファミコン(中古本体)を買ってドラクエ5・6をプレイするか、3DS等で発売中の7~10をプレイするか迷っているが、
5~10までを通してプレイすることを考えると、膨大な時間と労力がかかりそうで、でも楽しそうで眩暈がする。
桝山寛氏の「テレビゲーム文化論」で読んだのだが、
ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」によれば、「遊び」は4つの要素から成り立っており、それは「競争」「偶然」「模倣」「眩暈」であるという。
模倣とは、なりきり、ロールプレイのことを指し、眩暈はサプライズ、意外な展開や新鮮な驚き・感動のことだろうと思う。
4つの要素は、ジョジョにもドラクエにも当てはまるし、古今東西のさまざまな遊びにも当てはまると思う。
願わくば、野球選手は野球賭博に「競争」「偶然」「眩暈」を求めて遊ぶのではなく、
春からはじまる公式戦で、自らの誇りと技量をかけて、精一杯 真剣勝負で遊んでほしいと思った次第である。
プロ野球選手以外の仕事でも、人生や生活そのものが、何らかの形で「遊び」の4要素を含み、
スリルや興奮、事件と平和が相乱れるのが人間の生活であるように思う。
ゲームの名作、ドラゴンクエスト2
ドラゴンクエスト2(ファミコン版)を、発売当時以来 29年ぶりに再プレイした。
実家に眠っていた古いファミコンカセットを探し出し、カセット端子の汚れを取り除き、
中古品のファミリーコンピュータ(本体)を購入し、ようやくプレイすることができた。
子供のときに遊んでいたカセットが、(もう無くなっていると思っていたのだが)実家に眠っていて、
青い紙箱の中には、プラスチックの容器にカセット、取扱説明書、パスワードのメモ書きまでが残っていた。
ファミコン 端子の汚れは、「クレ エレクトロニッククリーナー」(接点復活剤)を綿棒に浸し、やさしく磨き上げることでクリーニングできる。
アナログ電波のチャンネルを介して、テレビモニターにファミコンの映像と音声が流れ始めたとき、とても不思議な感じがした。
30年近く前の電子製品が、まだ壊れずに動いていて、一瞬のうちに「今」と「昔」が繋がった感じがして、
ファミコンカセットを大切に取り扱っていた、昔の自分にありがとう、という気持ちだった。
(ジョジョのコミックス 12巻以降を発売時に買い揃えて、大半は実家の本棚に眠っている。
30年近く前のマンガ本になるが、これらの本やゲームを、さらに30年後 再び眺めることもあるのだろうか?)
***
ドラクエ2をスタートし、2週間くらいかけてクリアしたが、とても面白かった。
小学4年生で初めてプレイした時は、シドーを1度か2度倒したことはあったものの、
とても難しく、敵が強すぎて、めったにクリアできるものではない、と思っていた。
今回は、インターネットで「水の羽衣が2着作れる」という攻略情報を利用したこともあったが、
それ以外は、昔の記憶を頼りにしつつ、自分で謎を解き、じっくりレベルを上げながら冒険を進めていった。5つの紋章の隠し場所など、昔の記憶を、けっこう覚えていたのが意外だった。
(後日 サマルトリアの王子にミンクのコート/まほうのよろいを装備させて、ハーゴンの神殿の戦いに挑んだが、無事 クリアすることができた。Lv44,39,32まで上げていたので、地力が上がっていたようだった)
船を手に入れて海に出たとき、ものすごい解放感があり、
ロンダルキアへの洞窟を抜けて、真っ白な高原に出てきたときも、「ああ!」という感動があった。
敵キャラが強く、命のやり取りをしている緊張感があり、
目的地までの行路が絶妙に難しく設定されているので、要所要所を突破したときに「やった!」という達成感があり、その積み重ねで最後までプレイできた。
あらすじ的な意味のストーリーは単純で、戦闘画面のグラフィック・SEも簡素なものだが、
シンプルであるがゆえに、プレイヤーが個々に想像力を膨らませ楽しむ余地がある。
ファミコンソフトの名作は、お寺の石庭、抽象絵画のようなシンプルさと奥深さを持っていて、
ビシッと決まった、ひとつの宇宙を形作っている。
ゲームデザイナーとプレイヤーの知恵比べ、イタズラの掛け合いのような面白さで成り立っており、
今 遊んでも、100年後の人が遊んでも楽しめるだろう、普遍的な面白さを備え持っていると思う。
ーージョジョベラー 荒木先生の発言によれば、「ヒットアルバムの法則」(?)と呼ぶべきものがあり、
あるアルバムが「名盤(=最も売れたアルバム)」となったのは、「その一つ前のアルバム」が優れた作品で、多くのファンに次作への期待を抱かせたからだという。
ドラクエ2は、まさに「その一つ前のアルバム」で、2が大ヒットを記録した後、次作のドラクエ3は、まさに社会現象と呼ぶべき、人気のピークを迎えた。
ドラクエ1→2→3の制作期間の短さ、連打・連打・連打で畳みかける密度の濃さに、驚かされる。
ジョジョ1→2→3部にも共通する所があるが、作者が若く、ジャンル自体が草創期にあり、自由な実験を思い切ってやりきったような、
そんな進取の気風に満ち溢れた、奇跡のような連作が、ジョジョでありドラクエであったと思う。
2016年の今 ジョジョもドラクエも、多くのファンを持つ「名作」として、一定のポジションを獲得しているが、
願わくば、発売当時(執筆当時)の息吹をそのままに、制作者の叩き付けた筆致をそのままに、長く楽しめるカタチで残していってほしいものだと思う。
ドラクエ2でいえば、グラフィック・戦闘バランスなどを変更したSFC版は、やはり初代とは別物だし、
ジョジョのコミックスで、政治社会・宗教上のよほどの事情などが無い限り、単行本の内容は書き換えず、執筆時のままで刊行してほしい。
絵画や小説、交響曲が長く繰り返し楽しまれ続ける仕組みが出来上がっているように、
マンガやゲームも、現代の娯楽、新たなメディアとして、長く、繰り返し楽しまれる仕組みが出来上がってほしいものだと思う。
(WiiUのヴァーチャルコンソールや、マンガ喫茶などは、ゲームやマンガの「図書館」として、昔の名作を繰り返し楽しめる、文化的に意義ある施設・サービスだと思う)
マンガの基本4大構造から探る、ゲームの面白さと独自性
「荒木飛呂彦の漫画術」によれば、マンガには「基本となる4つの構造」があり、
重要な順に、キャラクター、ストーリー、世界観、テーマ 4つの要素が存在する。
これらは互いに影響を及ぼし合って存在し、これらを増幅し統括するのが絵とセリフである。
マンガ読者の目に見えているのは絵(紙面)であるが、
その奥にはキャラクター、ストーリー、世界観、テーマがそれぞれにつながり合って存在している。
この構造はいわば、ひとつの世界の営み、宇宙とも言えるのではないかーーと述べられています。
荒木先生はマンガを「最強の総合芸術」と考えているとのことで、
「基本の4大構造」プラス「絵」プラス「言葉」を同時に表現することができ、かつ、その全てを独りで漫画家は創作せねばならない。
そのようなメディアはマンガだけだと、力強い自負が著されています。
基本4大構造の図式は、マンガに限らず、いろいろなものに拡張できる概念だと思う。
この記事では、ゲーム(テレビゲーム)に基本4大構造を当てはめて、モノづくりの面白さを探ってみたい。
***
私が考える、ゲームの基本4大構造は、下記のようなものです。
・ゲームの基本4大構造
キャラクター:キャラクターの操作性。敵キャラクター・味方キャラクターとの絡みで、自分自身は何を操作できるのか
ストーリー:ゲームのシステム、ゲームバランス。ゲームの目的、目的を達するためのプロセスはどのようなものか
世界観:ゲーム内で描かれる世界のありよう。プレイヤーに訴える雰囲気、印象、情感。
テーマ:ゲームの遊びどころ、キモ。一言でいって、何をしたいためのゲームなのか
そして、これら基本要素を具体的に表現するのがコンピュータであり、
プレイヤーとコンピューターの相互のやりとりの積み重ねが、ゲームを遊ぶ行為である。
総合芸術として、ゲームの独自性は、
プレイヤーがコントローラーを操作し、操作した結果が(計算を経て)モニターに反映され、
これに基づきプレイヤーが次の操作を考え実行するという、一連のインタラクティブなアクションにある。
アクション・シューティングだけでなく、ロールプレイング、シミュレーションなどジャンルを問わず、
コンピューター(あるいはコンピュータの背後にいる、ゲームマスター)とプレイヤーの相互のやりとりの面白さこそが、ゲームの面白さの本質である。
ゲームは「見るもの」でなく「プレイするもの」であり、
その点でゲームは、マンガ・小説・映画よりも、演劇・コンサート・アトラクション施設・スポーツに近い。
トランプや将棋、鬼ごっこやしりとりなど、人間同士で遊ぶさまざまなゲームも、テレビゲームの大きな母胎となっている。
以下 思いつくままに、星5つ×4項目=20点満点でゲームの星取り評価を列挙していきます。
・光神話 パルテナの鏡
キャラクター:4
ストーリー:2
世界観:4
テーマ:3
総合13点
寸評:キャラクターやゲームステージの設定は面白いが、ゲームバランスが悪く、序盤が難しく後半が拍子抜けする。
・悪魔城ドラキュラ(初代)
キャラクター:3
ストーリー:4
世界観:5
テーマ:4
総合 16点
寸評:主人公の操作感に馴れる必要があるが、ホラー映画に準拠した世界観の演出、グラフィックと音楽の盛り上げ方がピカイチ。
・ゼルダの伝説(初代)
キャラクター:5
ストーリー:4
世界観:3
テーマ:5
総合 17点
寸評:序盤のパラメータの低さ、ヒントの少なさは辛いが、「謎を解き明かす」「勇気と知恵で、ダンジョンを攻略」する楽しみが詰込まれている。
・ゼルダの伝説 神々のトライフォース
キャラクター:5
ストーリー:5
世界観:4
テーマ:5
総合 19点
寸評:あらすじ的な意味のストーリーではなく、アイテムを収集しダンジョンを突破していく、その積み重ね・プレイ履歴がストーリーとなっている。
・ドラゴンクエスト2
キャラクター:5
ストーリー:5
世界観:5
テーマ:5
総合 20点
寸評:ゲームの難易度、緊張感がベスト。新たな世界が創り、拡げられていく瞬間の感動が詰込まれている。
・MOHTER3
キャラクター:3
ストーリー:3
世界観:1
テーマ:1
総合 8点
寸評:類型的で、投げやりな駄作。サウンドバトルでボタンを押すと、なんとなく気持ちいい感じがすることくらいしか褒める点が無い。
・オバケのQ太郎 ワンワンパニック
キャラクター:1
ストーリー:1
世界観:2
テーマ:1
総合 5点
寸評:Q太郎の操作に浮遊感・爽快感が無く、イヌの鳴き声にやられる理不尽さに、頑張ってクリアする気を削がれた。
・スーパーマリオブラザーズ3
キャラクター:5
ストーリー:5
世界観:4
テーマ:5
総合 19点
寸評:ドラキュラやロックマンをやっていて、「あれ、マリオのように飛べないのか?」と思ってしまう。それくらい身体に刷り込まれている。
・ドンキーコング(初代 ファミコン版)
キャラクター:3
ストーリー:2
世界観:3
テーマ:4
総合 12点
寸評:テレビゲームの偉大な原点であるが、今プレイすると全3面で、ボリュームが少なすぎた。マリオが高く飛べないのに違和感。
・テトリス
キャラクター:4
ストーリー:5
世界観:4
テーマ:5
総合 18点
寸評:ブロックをクルクル回して落とす、瞬時の計算と操作が噛み合った気持ち良さは他に替えがたい。
・ジョジョの奇妙な冒険(SFC)
キャラクター:2
ストーリー:3
世界観:5
テーマ:3
総合 13点
寸評:原作マンガのファンという視点では、楽しんでプレーできた。原作を知らない人にはお薦めできない。
ーーこんな感じです。
ジョジョやドラゴンボール、バタ足金魚、AKIRAなどのマンガ作品にも、同様の星取り評価を付けていくことができると思う。
「数字」というものは、抽象物でありながら、数を積み重ね較べることで何となく具体的な、定量的な説得力が出てきてしまう。
不思議なものだと思う。
ゲームやマンガの感想は、根本的に、読者 個々人の自由な意思に委ねられるべきものですが、
世間のレビューサイト・口コミサイトが繁盛するのも、また一方で、人間社会の自然な意思形成なのだろうと思う。
ドクタースランプ→ドラゴンボール→COWA!へと続く、鳥山明作品の大団円
私事ですが、この春に自宅を購入することになった。
30歳で結婚して、40歳で住処を固めてと、10年ごとに人生の節目が訪れている気がする。
(50歳で行方不明、60歳で白骨化した遺体が発見される、という展開にならないよう気をつけたい)
そんな折、ドラゴンボール連載30周年の記念本「超史集」が発売され、
鳥山先生が「(ドラゴンボールは)いつのまにか放っておけないほど好きな作品になっているのかもしれませんね」というコメントを寄せている。
個人的には大変な驚きであり、じんわりと嬉しくなるコメントで、衝撃の大事件だった。(極個人的には、鳥山先生のコメントと、マイホーム購入の時期が一致した奇縁に嬉しさを感じている)
この記事では、鳥山明作品の読書メモ、個人的な関わりを記していきます。
***
私のマンガ読書歴は、ドクタースランプ/ドラゴンボール→ジョジョと続き、鳥山先生には大きな影響を受けた。
2005年 鳥山明デザインの「QVOLT」という電気自動車が発表されたとき、東京のショールームに駆け付け、買おうかどうか真剣に悩んだことがある。
タカラのセールスマンが、もう少し営業上手で、電気自動車のメリットと楽しさを上手く伝えていたらこの車を買っていたと思う。
(恥ずかしい話だが、20歳すぎにドラゴンボールを中古本で買いそろえ通読し、感激のあまり鳥山先生にファンレターを書いたこともあった)
鳥山明作品は、物心ついた頃から身のそばにあり、ドクタースランプのコミックスが人生の最初期に読んだマンガ本である。
キャラクターの表情がとても愛らしく、ニコニコ笑った笑顔のかわいらしさは、他にたとえようがない。
(大人になって読み直して気づいたが)千兵衛さんはよい男で、動物を守るため真剣に怒り、仕事と人生の楽しみを両立させてもいる。
みどりさんが千兵衛さんに惚れて結婚するエピソードは、わずか4~5ページほどで描かれていたのだが、みどりさんのアラレたちを眺める視線がとても優しく、強く印象に残っている。
私にとって、ドクタースランプは「心の原風景」であり、てらわずに言えば「生きる喜び」「世界の美しさ、楽しさ」を伝えてくれたマンガである。
次いで始まったドラゴンボールは、孫悟空の成長譚、少年が大人へと成長する冒険物語である。
ドラゴンボールは連載1話からジャンプで読んでいたが、平成元年が始まる頃 悟空が大人になり、天下一武道会で優勝しチチと結婚した。
この時点でドラゴンボールは一度完結し、サイヤ人編からは、同じキャラクターと舞台を使った別のマンガが始まったと思っている。
鳥山先生は、ドラゴンボール連載時「次回の続きをどうするかはあまり考えずに、読者といっしょに、作者自身もワクワクして描きつづける」執筆スタイルをとっていたという。
ストーリーが展開していくワクワク感は、(個人的に)レッドリボン軍との戦い→天下一武道会→ピッコロ大魔王との戦いが最高潮で、
マジュニアが現れたくらいからは、話を畳みにかかっているというか、同じ展開の繰り返しになり始めているのをどう収束させるか、マンネリの予感が現れ始めていた。
サイヤ人編からは、牧歌的だった雰囲気をガラリと変えて、宇宙規模の戦いで戦闘描写も激しくなっていったが、
ドクタースランプ以来の読者だった私にはあまり馴染めず、悟空がラディッツと相打ちになって死んだり、天津飯がナッパに腕を切り落とされたシーンで微妙な違和感がしたものだった。
ベジータやフリーザとの戦いは緊迫感がすごく、カッコいいシーンの連続に興奮して読んでいたが、ドラゴンボールは一番に追いかけるマンガでは無くなっていった。
平成元年初頭 サイヤ人の戦いが始まった頃に、ジョジョは3部が始まっており、承太郎の登場から、ジョジョにのめり込んで読むようになっていった。
鳥山先生が「大全集」のインタビュー等で述べているが、
自分の描くマンガは娯楽であり商業作品であり、読者(小学生男子)の要望に応えてドラゴンボールを描き続けていったとのことである。
ハリウッド映画に例えると、悟空が登場しチチと結婚するまでが「ドラゴンボール」。
サイヤ人の設定が追加され、フリーザとの戦いで悟空が宇宙一になるまでが「ドラゴンボール バトルヒーローズ」。
前作が好評を博したので、人造人間たちとの戦いをあらたに描いた続編が「ドラゴンボール バトルヒーローズ2」、
さらにその後 ブウとのエピソードを描いたのが「ドラゴンボール バトルヒーローズ3」。
サイヤ人~ブウ編までの展開は、ストーリーにあまり連続性が無く、
一本の長編小説というよりは、バトルヒーローの戦いと活躍を描いた、3本のアクション映画を観たような、そんな感覚がある。
鳥山作品には大きく2つの魅力があって、
1つはドクタースランプに代表される、ほのぼのとしたかわいい世界観の、(超史集 鳥山先生いわく)「地味なバカバカしさ」の集約されたもの。
もう1つは、カンフーアクションとAKIRAの超能力描写を組み合わせたかのような、疾走感あふれるスリリングなアクションである。
ドラゴンボールは連載30周年の今も、世界的に大きな人気を獲得し続けているが、
アクション要素のカッコ良さが人気を博していて、「地味なバカバカしさ」要素のほうは人気が薄いように思われる。
ドラゴンボール完結後 COWA!、カジカ、サンドランド、ネコマジン、ジャコ 一連の短編作品が発表されたが、
いずれも「地味なバカバカしさ」に重きを置いたもので、激しいカンフーアクションの応酬は影を潜めている。
キャラクターの輪郭も丸っこく、背が縮んでしまったので、
サイヤ人のアクションバトルに魅かれた読者には、何とも刺激が薄く、つまらない凡作群ばかり量産するようになってしまったと映るだろうと思う。
ジャコの発売時 短編コミックスが重版されたのだが、鳥山先生が帯コメントを寄せていて、
「(COWA!は)だれがなんといおうと すべての作品の中でいちばん大好きなマンガであります」と述べている。
自分もCOWA!には思い入れがあり、懐かしさと静かな感動を覚えていたので、このコメントは嬉しかった。
COWA!は、ドラゴンボール完結後 絵本作品を描きたいと思っていた鳥山先生が、
(ジャンプ編集部の、短編作品を連載せよとの要望に応じ)短編コミックで、絵本的表現を試みた作品である。
3人の子供モンスターとはぐれ者の大男が、一緒に旅をして、人間とモンスターの交流を深めるストーリーである。
丸山マコは元相撲取りで、対戦相手を勢い余って殺してしまい、世間が嫌になってはぐれ者になり、オバケたちの住むこうもり岬にやってきたという。
マコの身の上話を聞き終わったパイフーは、「やっぱ人殺しじゃん」とポツリと言う。
これは強烈な皮肉で、
丸山マコの心情は、バトルヒーローとなった悟空たちのある種の真実を描いたものであり、
15年もの週刊連載を描きつづけて、「戦い」に疲れ果てた作者の真情でもある。
しかし、ここからがCOWA!の本編の始まりで、
マコとパイフーたちは、オバケ風邪から村の皆を救うため、一台の車に乗り込み旅に出発する。
ホームセンターのトンボの電飾を見つめるパイフーの純な視線、裏も表もなく明け透けでバカな子供たちの様子に、マコの心が少しずつほぐれていく。
魔女の住処を目指した冒険はやがて終局を迎え、パイフーは少しだけ成長し、マコと3人はたしかな友情を結ぶようになる。
村への帰路 マコが「おれたちは世界最強のチームだ」と宣言するシーンが印象深い。
ラストにひと悶着あって、子供モンスターの企みは破綻し、マコは騙されたような形にもなって、気まずく旅は終わってしまう。
そして最後、パイフーとホセたち、村の皆が心を合わせて、マコにひとつのプレゼントを贈るーー「ありがとう! マコリン!!」のメッセージを込めて。
とても感動的なシーンで、今 思い返すだけでも涙が出そうになってしまうのだが、
COWA!はとても良い作品で、戦いに疲れたはぐれ者が、いかにして自らの人生(幸せ、心の平穏、穏やかな生活)を取り戻すか その過程が描かれている。
鳥山明の心の叫びであり、ドクタースランプで描かれたペンギン村に、悟空やアラレが、「とりさ」自身がようやく帰ってこれた。
作品世界の大団円であり、鳥山明の創作作品はドクタースランプから始まって、ドラゴンボールの宇宙に拡がり、COWA!のオバケ岬に帰ってくるーー私は、そのように捉えている。
***
ーードラゴンボールは文字通りのモンスターコンテンツで、30年間 人気が衰えず、
最近では、鳥山明以外の人間が作者となり、ドラゴンボールスーパーの漫画・アニメを連載し続けている。
スターウォーズの新作シリーズが公開され、ジョージルーカスからディズニーへ、作品が他人の手に渡ったことを知った。
ドラゴンボールも、鳥山先生が死んだ後も何らかの形で他人に引継がれ、20年後50年後も新作が描かれ続けているのかもしれない。
しかし、マンガの作家性を求める自分としては、鳥山明のマンガ作品は、(当たり前だが)当人が考え描いたものでなければ意味が無く、
鳥山先生の創作世界は、大きくは、ドラゴンボール完結、COWA!とサンドランドを描いた辺りで老境に到り、その後 大きな新作・新展開が産み出されることはないだろうと思う。
ドラゴンボールは、アニメ・ゲームで新展開が続いているが、
20年後50年後まで続けていくつもりであれば、孫悟空に替わるあらたな主人公を産み出す必要があるだろう。
悟空が主人公の物語としては、マジュニアが魔族の敵ではなくライバルとなった天下一武道会、ブウをウーブ(初心)として弟子に迎えたラストで展開が極まっているからである。
ドラゴンボールスーパー アニメ版は、作画の出来が悪いということで(?)鳥山先生にも不評をかこっているが、
第6宇宙との争いに入ってからの展開はけっこう楽しみで、アニメの新編スタートを楽しみに待っている。
ストーリーの最後は、展開的にもテーマ的にも、悟空がウーブと旅立つ、冒険の初心への回帰が約束されているのだろう。
かつて、1980年代に発売されたドラゴンボールのムック本などで、
鳥山先生は「亀仙人のような、トボけた爺さんになりたい」「100歳まで生きるぞ!」とつぶやいていた。
ドラゴンクエストやドラゴンボールの新作デザインはそこそこにして、鳥山先生には余生を充分に楽しんでいただきたい。
サンドランド ラオの坦懐を抱えつつ、亀仙人のように闊達自在な、楽しい人生を送ってほしいものだと思う。
鳥山先生には、今までたくさんのマンガを読ませていただきありがとうございました、と伝えたい。
ジョジョリオン 50話までの、ストーリーのアウトラインと、今後 気になる3つの「謎」
ゲームや映画の話題を離れて、ひさしぶりに、ジョジョリオンのことを書きます。
ウルトラジャンプ 最新号が発売され、吉良とジョセフミが過去に出会ったときの話を読んだ。
公園のベンチでジョセフミと吉良が語り合うシーンは印象深く、久しぶりに「カッコいい男の横顔」を拝んだ感じがした。
ジョジョの連載で、1話まるごとが過去の回想にあてられたことは珍しく、
他にはたしか、6部 ウェザーとプッチの過去を振り返る話くらいしか無かったかと思う。
過去のエピソードは(物語の展開上)すでに過ぎ去った出来事であり、簡潔な説明で、要点だけテンポよく抜き出していく描写が良い。
幼児だったジョセフミは母の愛に恵まれず、命を助けられたホリーさんを慕うようになり、
ホリーさんの命の危機に、(スタンド仲間として仲良くなった?)吉良と共に立ち向かう。
ジョセフミのセリフと言動、シャボン球スタンドを使って木の枝を接合するシーンに、
ジョセフ・ジョルノを思い起こさせる聡明さがあり、今後を期待させて盛り上がる感じになっている。
ジョジョリオンは連載50話達成、(ウルトラジャンプ掲載の最新話で)コミックス12巻までページ数が進んでいる。
物語が佳境に入りつつあり、クライマックスに向けて伏線を畳みはじめている。
ここで、これまでのストーリーのアウトラインを振り返り、描かれた「謎」(伏線、エピソードの積み重ね)を整理してみたいと思う。
手元にコミックスは置かず、うろ覚えの箇条書きで振り返っていきます。
●ジョジョリオン 50話までの、ストーリーのアウトライン
・主人公、壁の目で康穂に発見される
・主人公は、吉良吉彰と関わりがあったらしいことが分かる。4玉は、二人の融合を示す
・主人公が、東方家に居候をはじめる
・ホリーさんは病気をしている。吉良の一族と東方家に、何か関わりがあったらしいことが分かる
・ジョニィと東方家の物語を知る。壁の目は、聖なる遺体のパワーが関わっているらしいことが暗示される
・東方家の嫡子たちが、石化病に襲われ、苦しんできたことが分かる
・岩人間 夜露が現れ、主人公・東方家と敵対していたことが明かされる
・東方憲助は家を守るため働いており、主人公の味方らしいことが示される
・ロカカカの実が登場し、東方常敏が岩人間と関わっているらしいことが示される
・ロカカカの実を巡って、主人公、東方家、岩人間の争いが始まる
・カレラが現れ、主人公の過去(吉良とジョセフミ、カレラの関わり)が明らかになり始める
・吉良とジョセフミ 主人公が壁の目に埋まり、記憶喪失となるまでの過去が明らかになり始める
ーーストーリーのアウトラインは、大体こんなところだったと思う。
●ジョジョリオンで今後 気になる物語上の「謎」は、下記の3点です。
・主人公は何者なのか?
吉良とジョセフミの過去と、2人が一つになったことの意味。
・東方家は石化病を克服できるのか?
ロカカカの実と代々続く呪いの病は一体何なのか。
・杜王町は震災から復興できるのか?
壁の目が隆起した謎が明かされ、町の住民たちは平和で安心な暮らしを手に入れられるのか。
反対に、小ネタというか、これまでのエピソードごとにちりばめられてきた伏線で回収されないだろうもの、
謎が謎のままで残されるだろうもの、辻褄が合わないまま置いておかれるっぽいものを挙げていくと…
・桜次郎との戦いの最中、主人公の脳裏に蘇った「謎の男」
・吉良の住んでいたマンションで、桜次郎が女の子にSMプレーを仕込んでいたことの意図
・謎のマーク(出版社のマーク)が、吉良の死体や東方家に刻まれていたこと。誰が仕掛けたのか?
・虹村さんは、何を狙って東方家に潜入していたのか。ホリーさんと東方家にどんなトラブルがあったのか?
・康穂が新聞記事で読んだ、宝石を持ったまま海岸に流れ着いた幼児の謎
・東方家の地下室で、ジョセフミは過去に軟禁されていたのか?つるぎちゃんと面識はあったのか
・夜露が死の間際「定助は東方家に裏切られて死ぬ」と吐き捨てたが、夜露は何を知っていたのか
ーー書き出しながら振り返っていくと、
つるぎちゃんが登場し、夜露が現れたあたりがストーリーの組換えポイントで、
1エピソードごと・連載1話ごとに、話のつながりがおかしく、前後が繋がらないところがあった。
地下室の扉から、つるぎの母らしい人が覗き込んでいる / 夜露の目からサランラップ / 康穂はどのように夜露に監禁され、1~2日 どのように過ごしていたのか など。
ジョジョの過去のエピソードでいうと、
SBR 2ndレースに突入してスタンド使いが現れ始めたあたり、ポルポが自分の指を食っていたあたり、レッドホットチリペッパーを倒した後の空虚感など、
ストーリーの流れがまだ出来上がっていなくて、キャラクターがどこに行くのか 読んでいて掴めず、エピソードがバラバラに散らかっている感じがしたものだった。
SBRなどは、少年ジャンプでの連載(4巻 オコエモバとの戦いまで)が終わって、ウルトラジャンプに移籍するにあたり、
明らかにストーリーを組み換えて(聖なる遺体と大統領の設定を追加し)、グッと面白くなって続きが再スタートした。
荒木先生は、連載漫画はときに間違えるのも味のうちとして、
ミュージシャンのライブ演奏や日記執筆と同じように、月々の漫画連載を描きつづけているとのことで、
物語の完結後 結果的に、回収されない伏線があったり、エピソードの辻褄が微妙に繋がらなかったり、放置された箇所が出てきてしまうのは、これはしょうがないことだろうとも思う。
マンガの創作に限らず、日々の生活や仕事に敷衍して考えても、
ある日 思いついた着想や考え、ある日に発言し実行した仕事が、未来永劫 追加・訂正を加えず正しいままであり続けるということは無い訳で、
人間の仕事は、どんなものでもトライアンドエラーの連続であるだろうとは思う。
ジョジョリオンは、2時間映画でいうと、1時間10分くらいを過ぎて、
物語の設定が出そろい、キャラクターの考え方も理解できて、主人公たちの行く末に興味・愛着がだんだん湧いてきたくらいの時点だと思う。
ストーリーの幹がグググッと盛り上がって、枝葉末節を精緻に作り込みながら、クライマックスに導いていってくれることを期待したい。
ウルトラジャンプを毎月買うかは分からないけど、コミックスはだいたい発売時に買って読んでいきたいと思っています。
ゲームプレイの略歴と、ノスタルジーの検証
自分自身の好み・体験を振り返ろうということで、
私自身が遊んできたゲームの略歴を、まとめてみました。
年代順に、自分で買って遊んだソフトを箇条書きで並べています。
カッコ綴じになっているのは、友達から借りて遊んで、印象に残っているソフトです。
自分の遊んできたゲームを振り返る中で、懐かしい気持ちが湧きますが、
ジョジョを含めて「思い出のマンガ/ゲームは、ノスタルジーがあるから魅力的に思うのか?」と考えました。
年代一覧の後に、自分の連想を記しています。
***
●任天堂との出会い ~1985年以前
ゲーム&ウォッチ、ファミコンのドンキーコングが近所で流行していたが、
液晶の小さな画面、黒っぽいモニタになじまず、自分ではやらなかった。
横井軍平氏のパズル「テンビリオン」が祖父の家にあり、時々いじって遊んでいた。
●1985年
クリスマス前後 親に、ファミコン本体と、キン肉マン・マッスルタッグマッチを買ってもらう。
父親の趣味で、同時にエキサイトバイクを入手した。
キン肉マンをはじめて起動したとき、緊張し、神聖な感じがしたが、
2016年の今も、あたらしくゲームを始めるときのワクワクした感じ、神聖な感じは変わっていない。
キン肉マン・マッスルタッグマッチ
エキサイトバイク
スーパーマリオブラザーズ
オバケのQ太郎・ワンワンパニック
忍者じゃじゃ丸くん
ハイパースポーツ
ジッピ―レース
●1986年
グーニーズ
忍者ハットリくん
(アトランチスの謎、影の伝説、マイティボンジャック)
ドラゴンクエスト
(魔界村、悪魔城ドラキュラ、1942)
スーパーチャイニーズ
じゃじゃ丸の大冒険
(がんばれゴエモン、高橋名人の冒険島、迷宮組曲)
プロ野球・ファミリースタジアム
水晶の龍
●1987年
ドラゴンクエスト2
エスパードリーム
もえろツインビー
ウルトラマン・怪獣帝国の逆襲
(ドラえもん、キングコング2、アルゴスの戦士)
夢工場ドキドキパニック
(ファンタジーゾーン、アルマナの奇跡、聖闘士聖矢、女神転生)
SDガンダム・スクランブルウォーズ
マイクタイソン・パンチアウト
(上海、ブロックくずし)
ファミスタ'87
1987年頃のクリスマスに、「おえかき せんせい」の最新版を買ってもらった。
タッチペンで描いた絵をテレビに映し出すことができ、データ保存はできなかったが、繰り返しモニターに絵を描いた。
●1988年
ドラゴンクエスト3
ナゾラーランド第3号
バイオミラクル・ぼくってウパ
(妖怪道中記、ドラゴンボール・大魔王復活)
ファイナルラップ
スーパーマリオブラザーズ3
(桃太郎電鉄、忍者龍剣伝、テトリス)
ロックマン2
●1989年
ワギャンランド
MOTHER
(スプラッターハウス)
ふぁみこんむかし話・遊遊記
●1990年
ドラゴンクエスト4
ドクターマリオ
ロックマン3
F-ZERO
●1991年
(いただきストリート)
(ウルトラマン SFC版)
シムシティ―
(ファイナルファンタジー4)
ゼルダの伝説 神々のトライフォース
ファミコンジャンプ2
●1992年
(ストリートファイタ-2)
スーパーマリオカート
ドラゴンクエスト5
ファイナルファンタジー5
●1993年
ジョジョの奇妙な冒険 SFC版
スーパーファミスタ2
●1994年
スーパーファミスタ3
MOTHER2
●1995年
実況パワフルプロ野球2
(クロノ・トリガー)
●1996年
実況パワフルプロ野球3
1996年 スーパーマリオ64、アークザラッド2が発売された辺りでゲームから離れる。
家族が上記タイトルをプレイしていたが、自分もやってみようとは思わなかった。
●1999年
ジョジョの奇妙な冒険 プレイステーション版
●2013年
子供が6歳になった年、ニンテンドー3DSを買い与える。
ルイージマンション2
●2014年
(ポケットモンスターY、妖怪ウォッチ1・2、ソニックロストワールド 子供のヘルプに入る)
●2015年
子供がWiiUを入手。ヴァーチャルコンソールで、レトロゲームを再プレイし始める。
MOTHER1・2(再プレイ)
リンクの冒険
スーパーマリオメーカー
ロックマン2(再プレイ)
MOTHER3
●2016年 1月まで
ドンキーコング
ゼルダの伝説
ゼルダの伝説 神々のトライフォース(再プレイ)
エスパードリーム(再プレイ)
スーパーマリオUSA(ドキドキパニックの再プレイ)
悪魔城ドラキュラ
***
ーー以上です。
振り返って見ると、自分の好みはいたって普通で、
「マリオ」と「ドラクエ」、レースゲーム、野球ゲーム、ジョジョなどのキャラクターゲームである。
キン肉マンを楽しみ、オバQに引っかかったことで、以降 クソゲーには注意し、
ファミコン通信の情報を頼るなどして、慎重にゲームを選ぶようになった。
1985~1995年に、40本くらいのソフトを買っているが、
(小遣いを含めて)親のお金で買ってもらっており、両親にはあらためて感謝しなければならない。
「マリオ」と「ドラクエ」、両者の含む内容を解きほぐすと、
横井軍平→宮本茂に引継がれる、アクションの操作性とパズル的な謎解き、対人対戦を楽しむアクションゲーム。
堀井雄二・鳥山明のつくりだした、物語に入り込んで体験するRPGということになるのだろう。
ゲーム略歴を書き起こして気づいたのだが、自分の「ゲーム選択の基準」には2つあり、
ドクタースランプ/ドラゴンボールに連なる「かわいいキャラクター・世界観のもの」、
ジョジョの系譜にある「ホラー、オカルト、ロックのテイストが入ったカッコいい、恐ろしい感じのもの」。
自分のマンガ読書歴はドクタースランプ/ドラゴンボール→ジョジョと続いていったので、
マンガの好みとゲームの好みが、およそピッタリ一致しているのが面白かった。
人間の人格・精神性は幼少期に養われて、根本の人格はよくも悪くもずっと変わっていないのかもしれない。
私自身は1976年生まれで、1980年代 小学生の時が、もっともゲームに熱中していた。
中学→高校に進学し、1996年に成人するときまでに、段階的にゲームから離れていったように思う。
ゲーム略歴を見ると、平成以降 ゲームのプレイ本数が減り、遊んだのはシリーズものばかりになる。
表を見ていると、テレビゲームのシリーズ化・マンネリ化に飽きていった記憶が蘇る。
ーージョジョを含めて「思い出のマンガ/ゲームは、ノスタルジーがあるから魅力的に思うのか?」、
いわゆる思い出補正はどのくらい強いものなのか、という問いであるが、
私自身は、思い出補正=ノスタルジーの有無と、作品の面白さは全くの別物だと思う。
レトロゲームーードンキーコング、スーパーマリオブラザーズ、ゼルダの伝説、ロックマン2etcーーを遊んでみて、
2016年の今 はじめてプレイしたものも、20数年ぶりにプレイしたものもあるが、
それぞれのゲームの面白さは、「今、プレイしている瞬間」に感じるもので、ゲームプレイの瞬間瞬間にしかゲームの面白さは生じ得ない。
ファミコン時代の「名作」ゲームは、グラフィックやSEが素朴、ボリュームが少ないなどの難点はあるが、
そんな難点をいつのまにか忘れて、ゲームの世界にプレイヤーを引きずりこむ術に長けている。
横井氏がアイデアマン、オモチャづくりの稀代の名人であり、
宮本氏が工業デザイナーのセンスと知識をもって、ゲームシステム・ゲームデザインをしっかり作り込み、
「ストーリーでは無く、ゲームで勝負する」「資金量ではなく、アイデアで勝負する」ところにファミコン時代の任天堂の強みがあった。
ゲームでもマンガでも、あるいは小説や映画、スポーツやレクリエーションでも同じだと思うが、
人間の行為は、今 その瞬間にそれを行い、それを楽しむものである。
今 なにかをしている瞬間に、過去や未来のことをあれこれ考える余裕は無く、
目の前にある対象に取り組む、頭の中に今あるものを外に描き出す、その連続こそが人生なのだろうと思う。
ジョジョやゼルダ、ドラクエ マンガ・ゲームの傑作は、いつ読んでも(プレイしても)面白い。
昔読んで面白くなかったものが、今読んで感想が変わることはあまり無い。
自分の子供を見ていても、子供の直観は鋭く、だいたいの場合は正しい。
宮本茂氏は、かつて松本人志との対談で、
「子供はバカじゃない。知識の量が足りないだけで、彼らにはちゃんと知性がある」と語り、
(「ゲームは女子供を適当にだまして売りつけるようなものだろ?」という)社会の無理解に憤っていた。
宮本茂は、本気で子供のためにゲームを作っている、この人たちの作るゲームはやはり信頼できる、と思った瞬間でした。
ゲーム・マンガは、基本的に子供のためのもの、あるいは子供の心を持った大人に向けた娯楽・文化なのだろうと思います。
40近い中年の自分が、マンガやゲームの感想を大っぴらに語るのは、少し気恥ずかしい思いもあるのですが、
昔を懐かしみながら、また未来への憧れを常に抱きながら、ゲームやマンガにこれからも触れ合っていきたいと思っています。
追伸:
今更ですが、任天堂の開発史についてご存じない方もあるかと思います。
任天堂の元社長 山内 溥氏の語録(http://crossing.blog.eonet.jp/blog/yamauchi.html
)、
横井軍平 - Wikipedia(牧野武文氏による一連の著作がおススメです)、
宮本茂と松本人志のインタビュー 書き起こし(http://blog.livedoor.jp/zot3six/archives/6324546.html)です。
各リンクをご参照いただけましたら幸いです。