ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョリオン53話 過去編が完結し、「無かったことにされるだろう伏線」を整理する

ジョジョリオン 53話、ジョセフミと吉良が壁の目で一体化するまでの話を読んだ。

過去編の展開はとても面白く、2人の友情と信頼、経済ヤクザたるダモカンの迫力に恐々としながら引き込まれて読んだのだが、
コミックス1巻~11巻まで描かれたエピソード、細かく散りばめられた伏線と、どうにも辻褄が合わないところが多数出てきてしまった。

私 個人としては、マンガは「面白ければ、それでよい」ほうで、
マンガは創作物なのだから、時系列や展開の論理的整合性はある程度あればそれでよく、
ストーリーやキャラクター、テーマがクッキリ浮かび上がって、読者の胸を打つ印象的なものが有るかどうかが何より大切だと思う。

(そもそも、設定や論理的整合性がいくら矛盾無くキッチリ出来ていても、面白くない作品だったら読まないし、読んでも印象に残らないだろう)

しかしながら、ジョジョリオンは、
主人公の出生の謎や、東方家・吉良家を巡る現代日本の闇を探るミステリーとして構想されたと思しき作品であり、
謎や伏線があまりに散らかり過ぎて、メチャクチャになってしまうのも残念な気がする。

来月号 最新話を読むまでのヒマつぶしとして、また、一つの想像する楽しみとして、
ジョジョリオン 53話までに描かれた謎と伏線を、振り返ってみたいと思う。


ーー以前 ジョジョリオン50話(ジョセフミが海で溺れて、ホリーさんと吉良に助けられる話)を読んだときに、
ジョジョリオンの謎と伏線について、箇条書きでメモを起こしました。
この記事では、これらを基に、私自身の予想を記してみたいと思います。



ジョジョリオンで今後 気になる物語上の「謎」は、下記の3点です。

・主人公は何者なのか?
 吉良とジョセフミの過去と、2人が一つになったことの意味。

・東方家は石化病を克服できるのか?
 ロカカカの実と代々続く呪いの病は一体何なのか。

杜王町は震災から復興できるのか?
 壁の目が隆起した謎が明かされ、町の住民たちは平和で安心な暮らしを手に入れられるのか。



●反対に、小ネタというか、これまでのエピソードごとにちりばめられてきた伏線で回収されないだろうもの、
謎が謎のままで残されるだろうもの、辻褄が合わないまま置いておかれるっぽいものを挙げていくと…


・桜次郎との戦いの最中、主人公の脳裏に蘇った「謎の男」

→謎の男は、おそらく、ジョジョリオンにはもう出てこない。

吉良吉影の死・定助の誕生をめぐる場面の、キーキャラクターとして登場を匂わせていたと思われる。
しかし、53話までの過去編で、定助の誕生は描かれてしまったので、このキャラの出番は無くなってしまったのではないか。

もしかすると、まだ現れない「第6の岩人間」として、謎の男が登場するかもしれない。


SBRで、オーダーメイド帽子を買ったのは誰なのか?

→51話 2011年初頭~夏頃までの期間に、ジョセフミと吉良が、病床のホリーさんに面会していた。
このとき、吉良は「あたらしい帽子を買ったよ」と話していたが、これが(2話で登場した)SBR オーダーメイドの帽子で、
おニューの帽子を被った吉良がホリーさんと面会し、その後 マンションで桜次郎の襲撃に逢い、女の子と共に監禁されたのだろう。
(桜次郎の襲撃から脱出した後、吉良はジョセフミとヨットに乗り、そしてダモカン達に襲われた)

2話で、帽子屋さんが「(数日前に)吉良さんが帽子を買いにきました」と証言していたのと時系列が噛み合わなくなってしまう気がするが、
後に書かれた51話の描写のほうが、正しかったことになってしまうのだろう。



・謎のマーク(出版社のマーク)が、吉良の死体や東方家に刻まれていたこと。誰が仕掛けたのか?

→2chで「ペイズリーパークの能力が発現して、主人公たちを家系図に導いたのではないか」という考察があった。
素晴らしい解釈で、合理的・納得できるので、それが正しいのだと思う。

康穂や常秀が、壁の目で、何者かに噛まれたような歯型が付いて、スタンド能力が発現したのは、
壁の目に残された、聖なる遺体のご加護の影響なのだろう。


・虹村さんは、何を狙って東方家に潜入していたのか。ホリーさんと東方家にどんなトラブルがあったのか?

→ダモカンによれば、吉良と憲助に何かしら繋がりがあったらしいことが示されている。

吉良一族(吉良、ホリーさん、虹村さん)と東方家の争いは、今後 描かれるキーモチーフとして残されてあるのかもしれない。
東方家の一族の内、跡継ぎの長男である常敏、その嫁、孫のつるぎの物語がまだ語られていないので、
この辺りと絡めて、「誰がロカカカの実を手に入れ、呪いの病を克服するのか?」で、クライマックスのストーリーが描かれるのではないだろうか。


・康穂が新聞記事で読んだ、宝石を持ったまま海岸に流れ着いた幼児の謎

→荒木先生のお気に入りの映画に「アイズ・ワイド・シャット」があり、エロをモチーフとした分析困難な異世界が描かれているという。
「アイズ~」では、映画の本筋とは繋がらない、小さく、しかし意味不明で不穏・不気味なエピソードが散りばめられているとのことで、
宝石を持った幼児は、これと同じく、杜王町をめぐる不穏な雰囲気を醸し出すためのミスリード、本筋に絡まない小ネタだと思う。


・東方家の地下室で、ジョセフミは過去に軟禁されていたのか?つるぎちゃんと面識はあったのか

→たぶん、無かったこととして、無視されるような気がする。
もしくは、生前 吉良と憲助らが繋がっていた描写を示す中で、「吉良のための、秘密の離れ」として、この部屋が出てくるかもしれない。

吉良と憲助は、呪いの病を克服する方法をともに探そうと、何らかのかたちで協力をはかっていたのだろう。
(吉良はロカカカの実の存在を知っているが、憲助には話さず、フルーツ・樹木の栽培方法だけを学び、聞きだそうとしていた?)


・夜露が死の間際「定助は東方家に裏切られて死ぬ」と吐き捨てたが、夜露は何を知っていたのか

→死の間際の捨てゼリフで、夜露の意識が混濁していたものとして、無かったことになるのではないか。
しかし、「夜露がジョセフミと吉良を襲うも、地震による壁の目の隆起により助かった」という設定は、53話の中でしっかり実現されていたと思う。


・カレラが話した、ジョセフミと吉良との過去。半年間、カレラは何をしていたのか

→ダモカン登場の話が始まって、吉良とジョセフミの過去編が始まりだす辺りから、作中のテンションが一気に高まり、エピソードの熱が高く、面白くなってきた。
逆に言えば、コミックス11巻 カレラ登場の話が終わって、次のダモカンの話に移る辺りで、ストーリーの構想を考え、改めたと見るのが自然で、
であれば、11巻までに描かれた、カレラ登場時のエピソード、カレラの伏線めいたセリフは、無かったものとして捨てられるのではないだろうか。

カレラとジョセフミ、吉良が一緒に移っている写真は、何かの機会に、カレラがジョセフミに近づいて、さりげなく撮影させてもらったのだろう。

ヨットハーバーの攻防で、カレラは爆弾の媒介となり、アタマに強い衝撃を受け、記憶が混濁してしまった。
岩人間の双子も、ジョセフミにブッ飛ばされて頭に大怪我をしてしまったので、カレラをめぐる認識が混濁してしまったのだろうか(…?)


ーー最後の、カレラの記憶障害の仮説は、あらき100%さんの予想から採ったものでした。
あらき100%さんでは、ジョジョリオンのこれまでの伏線描写を全て織り込んで、時系列・整合性に矛盾が出ない仮説を描き出していて、これは大変な労力だと、感心せざるを得ない。

私自身は、もう少し醒めたところがあって、
ジョジョリオンの1巻~10巻くらいまでは正直 あまり面白くなかったので、それまでの描写・伏線が無かったことになっても、ある程度は構わない。
 11・12巻~クライマックス~ラストまでの構想が楽しみで、これからの展開で、面白く読ませてくれたらありがたい」
と思っています。

いずれにしても、ジョジョリオンが今後 どんな展開・盛り上がりを見せていくのか、楽しみに読んでいきたいと思っています。

フェヒナーの法則と、不易流行

理数系の新書本を、雑学+中高科目の復習として、ときどき読み返すことがある。
京極一樹 著「中学・高校数学のほんとうの使い道」という本があり、なるほどと思わされる一節があった。


「人間の感覚は刺激の対数に比例する。これをフェヒナーの法則という。

フェヒナーは「100の刺激が100増加して200になる感覚と、200の刺激が200増加して400になる感覚は等しい」という事実を発見し、
心理的な感覚量は、刺激の強度ではなく、刺激の強度の対数に比例して知覚されると結論づけました。

フェヒナーの法則は、人間の幅広い感覚において正しいことが確認され、
音量の単位(デシベル)、ピアノの鍵盤の音階、星の明るさ(等級)などに適用されている」


ーーフェヒナーの法則の例を読んで連想したのは、
ドラゴンボールに代表される、少年漫画のインフレーション描写のことだった。

フリーザが「わたしの戦闘力は53万です」と宣言し、変身を繰りかえす度に戦闘力は倍々で膨れ上がる。
悟空の10倍界王拳は通用せず、元気玉でも倒せなかったところを、怒りでスーパーサイヤ人に目覚め、超絶化したその能力で、フリーザを打ち倒す。

戦闘能力(数値)のインフレーションは、倍々で数字が増えて、
もっとすごく、もっと強く、もっと激しい戦いでないと、読者の欲求は満足できなくなる。

ラディッツの戦闘力が仮に500だとして、それを上回るベジータの戦闘力が550では迫力不足で、
ナッパが1000、ベジータが5000、フリーザの兵隊は10,000を超える強者ばかり……と、
数字の波が高く高く盛り上がっていかなければ、ハイウェイをブッ飛ばすような高揚感・疾走感は得られない。

これは、スポーツマンガ ドカベンスラムダンクなどの全国優勝を目指し盛り上がっていく展開でも同じであるし、
もっと言えば、映画やマンガ、ヒットシリーズ 最新作に寄せる期待、新商品の開発、株式相場の運用などにも共通する、人間のサガだと思う。


ジョジョの場合は、ドラゴンボールキン肉マンなど、戦いの舞台がどんどんインフレしていく諸作品を見ていたためか、
トーナメント形式ではなく、スゴロク形式で旅を進め、目的地に向かってストーリーを盛り上げていく構造を採用した。

3部→4部→5部→6部…と、ストーリーの構造や目的を少しずつ組み換え、
マンネリにならず、能力や設定の単純なインフレーションに陥らないよう、作者が留意してきたことが伺える。

ただし、ジョジョの場合は、ジョナサンに始まるジョジョの血統が(ネタとして)行き詰ってしまったことと、
スタンド能力のネタ・描写がどんどん複雑化し、作者のさじ加減でバトルが決着する、モヤモヤした展開が増えていってしまった。


創作の物語でも、現実の商売でも、「同じことを長く続けて、マンネリにならず、良いものを残しつつ新しいことをし続ける」のは難しく、得難いことだと思う。

ジョジョの場合 6部で、物語の設定・ストーリー展開が複雑さを極めてしまったが、
一旦 全てをリセットし、近代の始まりの時代に立ち返ることで、7部・8部以降の展開が産み出された。

現実世界で、ファミコンのリセットボタンを押すようにクリアーなやり直しはできないが、
「不易流行」を追い求め、実践していきたいものだと思う。

「時よ止まれ、おまえは美しい」  /  ジョジョ7部・8部で描かれつつある、新境地について

ジョジョ3部 DIOに、「ザ・ワールド 時よ止まれ!」という決めゼリフがある。
DIOディオ・ブランドー)は石仮面を被って人間を超えた吸血鬼となり、
さらにスタンドを身に付けて、肉体・精神ともに「ブッチギリで、人間を超えた存在」になった。
世界の全てを支配する、時を停止・支配する能力の決めゼリフとして、土壇場で発せられるセリフである。

このセリフは、ファウストの「時よ止まれ、おまえは美しい」が、イメージソースの一つになっていると思う。


恥ずかしながら、私自身はまだゲーテファウストを読んだことが無く、
手塚治虫のネオ・ファウストを読んだことが有るだけで、ファウストについて語ることはとてもできないのですが、
「時よ止まれ、おまえは美しい」というセリフは、ファウストの劇中 クライマックスのシーンで、主人公が発する。
人生で最良の瞬間、これ以上は無いと思える最高の瞬間に立ち入って、件のセリフが発せられるそうである。
(インターネットにファウストのあらすじをまとめたサイトがあり、ご興味のある方にはお薦めです)


ファウストは、19世紀前半 ゲーテがその生涯をかけて書き上げた劇曲である。
「時よ止まれ!」「最高の瞬間よ、繰り返し自分の手元に留まれ! この幸せよ、永遠であれ!」という願いは、太古の昔から人類が描いてきた夢であったと思うが、
17世紀 デカルトの唱えた機械論的自然観、「われ思う、ゆえにわれ有り」の名セリフに象徴されるように、近代人にとって「時間」は、制御・管理すべき対象物であり、
貧民街から成り上がって悪のカリスマを極めようとしたDIOが、時を支配する超能力を身につけたのは、まことに自然の成り行きといえるのだろう。


「時よ止まれ、おまえは美しい」というセリフはとても詩的で美しく、
私なども、日常のいろんな場面で、心中つぶやくことがある。

ジョジョリオンの最新話など、ページをめくっていくのが楽しみで、でも、ちょっと勿体無かったりする。
エピソード・場面場面のピークに向かっているのを感じるからで、「読んでしまえば終わってしまう、でも読まないと進まない」というジレンマがある。

ドラクエなんかもその一つで、物語が終盤に到って、ゲームの終わりが近づいてきたことを感じると、すこし寂しくなる。
ひどくなると、LV1でゲームをスタートする前から「ゲームは始めると、終わってしまう」とのジレンマに襲われるようになる。
熱烈なドラクエファンであったという、淡路恵子さんの談話で、かつて「ドラクエをプレイして、ラスボスの前までたどり着いたらセーブデータを消して、もう1回最初からやり直す」と聞いたことがある。
淡路さんは「ドラクエは裏切らないもん」とも発言されており、シャレっぽい雰囲気が味わい深い。


ーーゲームやマンガで、読み終わってしまうのが名残惜しくなった場合は、
とりあえず一旦読み切ってしまって、後で(読み返したくなったら)読み返せばいい。

時は止まらず、流れ続けるが、
作品に封じ込まれた「時」はいつも「そこ」にあり、いつも寄り添って存在しているということである。


「ザ・ワールド 時よ止まれ!」の名ゼリフに象徴されるように、
DIOは全てを支配する、ジョジョという作品世界の全てを引き受ける、悪の大ボスであった。

1~3部が完結して以降のジョジョは、(個人的独断では)番外編であり外伝で、本来なら別作品として紡がれるものであったと思う。
作者 荒木先生によれば、「人間賛歌」という通底する大テーマがあり、スタンドバトルにもまだまだネタがあり、週刊少年ジャンプとして人気連載作を減らしたくないとの思いなどから、
3部完結後 「街を描く番外編」として4部が始まり、その後も続編が描かれ続けて、今に到ることとなった。

ドラゴンボールに関する夢想で、仮にサイヤ人が襲来する前後で連載終了できていたら、「鳥山明 第3のヒットマンガ」が産まれていたのではないか?と思うときがある。
ジョジョも同様に、3部完で作品を締めくくっていれば、あるいは長くても4部完結までで終了させていれば、もう少し違ったその後の展開があったのではないか?
一読者に過ぎない私が、そんなことを思っても何の意味も影響力も無いのだけど、そんなパラレルワールドを想像したくなる膨らみが、両者の作品世界には有ると思う。


時間を支配する大ボスとしてDIOが再登場した後、4~6部のボスは時間を操る能力者が続き、
6部のボスはDIOの因縁の残滓・DIOの野望を継ぐ後継者として現れ、作品世界をひっくり返して、時間軸をリセットして新世界が始まった。
7部のボスは空間を操作する能力で、これはかつての時間系能力者と対をなす形で、物理的世界を支配する大技を設定してきたのだと思う。

7部、8部、そしておそらく9部以降の展開も、ジョジョの世界には、DIOのような、人間を超える超生物、悪の権化であるような大ボスは、おそらく登場してこないだろうと思う。
1~3部、6部までの展開で、それらの勧善懲悪のバトルを描き切っている(だろう)ということもあるし、
1部のジョナサンが7部のジョニィに生まれ変わった経緯を見ても、
作者の世界観・人間観、創作上の興味は、白と黒の二元論的な争いから、「白と黒の間の、豊かで微妙なグレー」を描く事に移っているように思われる。

7部 ジャイロとジョニィが師弟のようで兄弟でもあり、互いが互いを教え諭すような間柄であったり、
ジョニィと大統領の土壇場で、どちらが正しいことを述べているのか? 誰にも分からないような微妙な狭間があったりした。
8部 定助たちと東方家、岩人間の争いも、当事者 それぞれにそれなりの言い分・正当性があり、複雑微妙なさじ加減が描かれていくのではないかと思う。

小中学生のためのシンプルな勧善懲悪では無く、
青年~大人になってしまった後の、現実世界の生き様を描いているのが、7部・8部以降のジョジョではないだろうか。

ジョジョリオン52話 「信頼」 の感想

ウルトラジャンプ 50話の掲載号からは毎月買って、最新話を逐一読んでいる。
ジョジョリオンの12巻も発売日に買って、あわせて読んで、
ダモカン登場以来のテンションの高まりに面白く読んでいるところである。

カレラ登場時のエピソードであったり、1巻から現在まで描かれてきた伏線とも辻褄が合わなくなる所が多数出てきているが、
ダモカン登場からの過去編・現在編が面白いので、「今のほうが面白いから、とりあえずまあいいかな?」と思えてしまう。


8部 ジョジョリオンを読んできて、いちばんノレなかった所は、主人公が何者か分からず感情移入しづらい点だった。
加えて、SBR 激しいレースとバトルの反動からか、連載当初はユルイ、目的も見えづらいままにエロやナンセンス、セルフオマージュ(パロディ)を散りばめるような展開が続いたので、
コミックスを買うのを止めようか?と思うくらい、読み続けるのがダルイときがあった。

夜露が登場して、ロカカカの実を巡るサスペンスが導入された辺りから物語の気運が変わって、
主人公(定助と康穂)・東方家・岩人間の三者が相対するバトルの様相を呈してから、面白くなってきたように思う。

岩人間とロカカカの実は、物語にサスペンスと興奮を加えるための後付け設定じゃないか?と思うのだけど、
やっぱり、ジョジョのお話は、敵がいてバトルがあってという、戦いの駆け引きで盛り上がるマンガなのだと思う。


吉良とジョセフミの過去編が紡がれる中で、定助を構成する2人の主人公のキャラクターが明らかになってきた。
ジョセフミは、4部 仗助の生い立ちがもう少し不幸になったような感じで、
吉良は、(殺人鬼だった)4部の吉良が、もう少し幸福な生い立ちになった感じで、設定されていると思う。

4部では相対して戦った2人が、8部ではバディとなり、
孤独に育ったジョセフミに、信頼の手を差し伸べたのが吉良だったのが面白い。

ジョセフミは、幼児の時 実母に見殺しにされかけたところをホリーさんに助けられ、壁の目に埋まった後は康穂に助けられた。
ジョセフミも吉良も、聖母 ホリーさんを救うため身を挺して戦っており、
3部のセルフオマージュを盛り込みつつ、血の通ったバトルとキャラクターが描かれる展開に熱くなる。


ジョジョリオンの連載がはじまった当初、性的な描写が多く盛り込まれていたこともあり、
8部の吉良も、きっと性的な変態嗜好を持った殺人鬼で、
定助が壁の目に埋まっていたのも吉良の策略が絡んでいて、物語の最後は、記憶を取り戻した主人公と吉良の戦いになる
ーーそんな風に予想をしていた。

しかし、今月のウルトラジャンプ 52話の展開・描写を見る限り、
吉良はカッコいいキャラのまま、正義の使徒として死んでいく気配が濃厚である。

考えてみれば、8部 ジョジョリオンで、性的変態の吉良吉影がふたたび登場し、主人公と追いつ追われつのバトルを繰り広げたとしても、
それは、かつての4部の展開の二番煎じ、ムダな後付けの蛇足でしか無い。
ジョジョ アイズオブヘブンでDIOがお馴染みのように倒される展開や、ドラゴンボール 復活したフリーザがあえなく打倒される展開など、悪い方の後付け製作・蛇足・駄作の見本だと思う)

ジョジョは、荒木先生がつねにフレッシュなテーマ、血の通ったキャラクターをつくり、
その時々の問題、時代、物語を紡いできたのが魅力だと思うので、
8部が4部の二番煎じにならずに済んで、本当によかったと思う。

4部の仗助と吉良が、新世界では二人の相棒となって、定助=ジョセフミ+吉良となって融合しているのは、
作者の「善悪は本来、曖昧なものかもしれない」という思想の深まりを示すものかとも思うし、
味わい深い悪役だった殺人鬼の吉良が、ホリーさんの愛を得て、ニヒルなヒーローとなって復活したのは何とも感慨深い気がする。


ーーマア、まだ52話を読み終わったところまでの感想なので、
この後 ジョジョリオンがどう転がっていくかは分からないけど…。

ジョセフミと吉良の融合に到るまでを描く過去編は(おそらく)およそ描き終わって、
来月号からは、現在 ダモカンと定助たちの戦いに移っていくのではないかと思う。

岩人間で、ダモカンの後にもう1~2人 強い敵がいて、東方家の家督争い(≒誰が病を克服するか?)があり、
残されたロカカカの実を巡って、定助・ホリー・東方家の誰が果実を手にするのか?が、最後のクライマックスになるだろうと思う。

過去編はかなりの盛り上がりを見せたので、これからの現在編 クライマックスの争いに、期待して注目していきたい。

ジョジョとドラクエ 三部作の凄みを語る

ドラゴンクエスト2に続き、ドラゴンクエスト1、ドラゴンクエスト3をクリアするまで遊んだ。

ジョジョとゲーム」というカテゴリで、たびたびドラクエに触れてきたのですが、
ジョジョドラクエは、三部作で一つのサーガが完結するという共通点があるし、
1980年代の末 ほぼ同じ時期にシリーズがスタートして、今に到るまで連作を重ねてきている。

この記事では、ドラクエ ロト三部作の再プレイの感想を中心にしながら、
ジョジョドラクエ 三部作の持つ凄みについて語っていきたい。


***


ドラクエ ロト三部作、そしてMOTHER1~3も最近に遊んでみて、
RPGの面白さは、以下の順番に箇条書きできると思う。


・物語の主人公となり、世界に入り込む。「もうひとつの人生」を体験する
・ミッションをクリアする。行動範囲を広げていく楽しみ
・敵とのバトル。戦いに勝ち、キャラクターを強くしていく楽しみ
・アイテムの収集
(個人的に、サブゲーム、隠しダンジョンの類は不要)


荒木飛呂彦の漫画術」によれば、少年漫画の王道はプラス、プラス、プラスのストーリーづくりにあるという。

ドラクエはプラス、プラス、プラスのゲームづくりを徹底していて、初心者にも優しい、国民的RPGと言われる所以である。
パーティーが全滅しても経験値は減らないし、アイテムを奪われることも無い。
レベルを上げて、根気よくプレイすれば(普通は)クリアできるように作られていて、
魔王討伐までのストーリーだけではなく、レベルを上げてどんどん強くなっていくゲームの仕組みが、プラスの積み重ねになっている。

マンガの要素になぞらえてゲームを語るならば、自分の場合、
ドラクエのキャラクターデザインが鳥山明によるものでなければ、ここまでハマらなかっただろうと思う。
丸っこいフォルムで描かれたドラクエ1~3 敵キャラクターのデザイン、パッケージイラストの魅力は他に替えがたい。

鳥山明は、ドラゴンボールドクタースランプ 2つのマンガしか描かなかった、手塚治虫にはなれなかった等と批評されることがあるが、
ドラゴンクエストは、鳥山明 3つめのヒットマンガであったかもしれない。
「原作:堀井雄二、作画:鳥山明チュンソフト」によるニュースタイルのマンガがドラゴンクエストだった、というところだろうか。


ドラクエ ロトの三部作を概観すると、
1はシンプル、中世ヨーロッパの薄暗い雰囲気と、ファミコンではじめて「物語」を描き出した衝撃が今も強く残る。
2は1の発展形で、個人的にはこれがベスト。ただし、人によっては難しすぎるクソゲー
3は2の普及版、1・2とのリンクを形作ったもので、ひとつの完成形を迎える。



ドラゴンクエスト2を今一度 振り返ると、スケールアップの魅力を強く感じる。
ジョジョ1→2→3のサーガと一致するが)初代から100年後の未来の物語であり、物語の時間軸が未来に向かって伸びた点。
そして、物語の舞台が、地理的に、横方向に大きく広がっている。1のアレフガルドの先に、(海を渡れなかったその先に)新しい舞台が拡がっている。

地下へ潜っていく洞窟に加えて、上に昇っていく塔が、あらたに登場している。
(1 竜王の城にも盛り込まれていた仕掛けだが)上へ上へ昇ったり、下へ下へ降ったり、最上階へ行ってまた下へ降りたり、とにかく歩かされる。
世界地図の端っこにザハンの島があったり、ルビスのほこらが1マスの大きさで、地下奥深くまで続く。ラダトームの城 太陽の石の仕掛けも、世界を隅々まで探索する仕掛けの一つだろう。

ドラクエ2 終盤において、邪神の像の洞窟では、下へ下へ、海底の奥深くへ降りていく。
ロンダルキア台地のふもとからは、上へ上へ、山中の厳しい洞窟を進み、白銀の台地に抜け出た後、空高く神官の住む神殿を目指し昇っていく。
最後は、邪神ーー神、人間の世界を超えた超常的な存在ーーとの戦いになる。

戦いの旅を共に過ごすのは家族であり、友達。身近な人たちと一緒になって、悪を倒す旅に出る物語である。


ドラクエ2をはじめてプレイしたのは小学4年生のときだが、アタマの中で思い描いていた、創作の「黒歴史ノート」がある。
王子王女たちがシドーとの決戦にどう挑むか?を想像したもので、シドーの猛攻に主人公たちは歯が立たない。
シドーのツメに引き裂かれ、サマルトリアの王子が倒れる。ツメがサマルトリアに食い込みながら剥がれ落ち、王子は死ぬ。
最後を看取ったローレシア王子が、シドーのツメを使って、サマルトリアの思いを継ぎ、シドーを倒すーーという展開だったと思う。

私は楽譜を読めないし、ピアノも弾けないのですが、
それでもシドーのテーマだけは、勘で鍵盤を弾き、およそ演奏できるようになったので、よほど印象が強かったのだと思う。


「さよならファミコン通信」「ドラゴンクエストエイジ」など、ドラクエ関係のインタビューが収録されたwebサイトによれば、
堀井氏はゲームデザイナー・シナリオライターであり、
プレイヤーが世界に入り込み、「もうひとつの人生」を体験するための手助けを、自らの仕事と定めていたようである。

プレイヤーごとに、各自の世界に入り込んでいって、楽しく遊び、物語を拡げる。
それが、ドラゴンクエストのシナリオでありストーリーであり、ゲームを遊んだ体験となる。

(その意味で、ドラゴンクエスト2は個人的にもっとも面白く、創作シナリオやピアノ演奏までを含めて、個人的なゲームプレイ体験であったのだろう)
 


ドラゴンクエスト3について。

2016年2月 ドラクエ3を再プレイする前後、清原和博覚せい剤所持容疑で逮捕され、愚かさと悲しさに胸を痛めていた。
ファミコンの中古本体を買い込み、マシンとソフトがちゃんと動くか、最初にテストプレイしたのはファミスタ 86年度版で、
きよはらが4番を打つLチームでプレイし、きよはらに右中間の見事なホームランを放たせてはいたが、胸の悲しみは癒えなかった。

若いころ 清原は「覚せい剤打たずに、ホームラン打とう」という警察の広告に出演していたらしいが、今となってはとんでもない皮肉である。

そこで(?)、ドラクエ3を再開するにあたっては、お気に入りのプロ野球選手で4人パーティーを組むことにした。
主人公はまえだ、武闘家のえのもと、僧侶のおちあい、遊び人のきよはら。
きよはらが男のピエロだと、なんだか生々しいので、女のバニーガールにした。

遊び人のきよはらが、Lv20で賢者に転職する。
遊んでばかりの役立たず、放蕩を極めた愚か者だけが賢者への悟りを開くことができるというギミックで、絶妙のセンスでありトリック、そして堀井氏の優しさと矜持が滲み出ていると思う。

まえだとえのもとは前田智徳榎本喜八、打撃を極める左打者で、
僧侶→賢者のおちあい(落合)は、きよはらの師匠格、後衛に並ぶ魔法使いたちは偉大な右のアーティスト。
そのようなパーティーバランスを考えていた。

しかし、ゲームの最期 女賢者2人が並ぶというのは絵面が悪く、まったく同じ能力のキャラばかりというのも面白味が無いので、
Lv38でザオリクを覚えたところで、きよはらを、賢者から戦士に転職させてしまった。
巨人移籍後の肉体改造を思わせるマッチョさで、まじんのオノを振り回すきよはらはガンガン成長し、
チームの4番目で「にっこり微笑んで」ばかりいたのが、最後にはチームで2番目に並び、敵からのダメージを引き受ける盾の役割まで果たすようになった。
ただし、きよはらはメガンテパルプンテは覚えておらず、MPは79で、呪文ではおちあいに叶わない。
あと一歩でレジェンドにはたどり着けない、生涯 打撃三冠を獲得することのなかった清原らしい、もどかしさと底知れぬ可能性を体現・追体験したのであった。

再生・更生の願いを込めつつ、思い入れを持って「きよはら」の物語をプレイしていったが、現実の清原和博は、はたして更生できるのだろうか。
ちなみに、スーの東 ニューヨークの村を建設させた商人の名前は、のりさん(中村紀洋)である。



ドラクエ3 ゲームのメインシナリオである「上の世界」の旅は、現実世界の地球をなぞる旅である。
船を手に入れる前 ユーラシア大陸の最果ての村に、父親の手掛かりが残されていて、それが只の「みずてっぽう」というエピソードが印象に残る。
商人 のりさんの尽力でニューヨークが勃興し、瞬く前に発展するが、共産主義革命(?)で打倒されるエピソードも面白かった。
逆に、ヒミコさまとおうじゃのけん(日本刀?)を取り上げたジパングのくだりは、中世ヨーロッパが基調の世界観に馴染まず、違和感を感じ、イマイチだった。


ドラクエ3は、さまざまな点で、「ドラクエ2の普及版」だと思わせる点がある。

万人に遊べる難易度に調整されたパーティーバトル・謎解き、ゲームバランスは言うまでもなく、
船を入手してから、世界に散らばるキーアイテムを集める展開。
ネクロゴンドの洞窟 毒の沼地と、十字架状の入口。山を登った先に、悪の巣窟がある所などは、2に狙って似せていると思われる節がある。

ドラクエ1→2で世界が4倍サイズに広がったが、3は、1→2の世界観をさらに包含し、全てを包み込もうと意識して製作されている。

アレフガルドや精霊ルビス・竜の女王の因縁は言うまでも無く、
アレフガルドのフィールド曲(「広野を行く」)が三部作それぞれ違ったアレンジで登場し、ゾーマ戦のメロディの大元にまで使われていて、制作者の気迫と作り込みに感心させられる。


ドラクエ3は「上の世界」(≒現実の地球)をメインステージに、世界一周の旅をやり切った後、「下の世界」 闇のアレフガルドを訪れる。
上の世界と下の世界の交差は、個人的には、「現実世界と、ゲームの世界(仮想の世界)がリンクする楽しみ」を暗喩しているように感じている。

現実世界のギアナの大穴から、ゲームの世界のアレフガルドに落ちていく感覚。
ドラクエ1・2をプレイして)かつて知っていた幻の大地に降りていく、顕在意識から無意識下の世界に降りていく、そんな感覚を狙っていると思う。
 
ゲームのラスト ギアガの大穴が閉じて、アレフガルドが太陽の光に充たされた世界となるのだが、
地下の世界=下の世界とするならば、穴が閉じた後、太陽の光で満たされるのは物理的にヘンな感じがする。
地球の地下にアレフガルドが存在するというよりは、現実世界の「意識の下」に、アレフガルドが隠されて存在していた、という解釈・感覚が、個人的にはピッタリ来る。

現実の地球を巡った物語の最後に、無意識の世界が発見され、認識され、最後 光の中に浮かび上がってくる。
ゲームの世界が、新たな世界が、現実のものとなって姿を現した瞬間である。ーーそのように、アレフガルドのはじまりの演出を認識している。



ドラクエ ロト三部作に共通する特徴として、
「主人公はキミだぜっ!」と言わんばかりの、物語に引き込むための徹底したガイダンス、
貴種流離譚の主人公になりきって、シンプルな成長物語を満喫できる楽しさがある。

1の主人公は、伝説の勇者ロトの子孫。
2の主人公は、1の主人公の100年後の子孫。親戚同士の王子と王女は、親近感が湧き、一体化しやすい。

3の主人公は、オルテガの子として生まれた若者で、最後 ラダトームの王から勇者ロトの称号を「授かる」。
生まれによってではなく、自分自身の努力と成果によって、勇者ロトの名前を得た、それが3の主人公であるーーという構図だ。
 
ドラゴンクエスト3は、現実の世界からゲームの世界が産み出されるまでを描いた物語。
「あなた」が主人公となり、伝説の勇者となって、アレフガルドを産み出すまでの話。

ドラクエ3--現実の地球、現実の世界が基になって、その後の1,2が産み出される。
だから、2がハッピーエンドになった以上、ドラクエの物語はもう無い。

現実の中から、ゲームという神話が生まれて、神話と現実が輪を描いて完結するまでを描いたのが1→2→3の三部作である。



  ***



ーードラクエの面白さを語る文章ばかり、あまりに長くなってしまいましたが、
ドラクエジョジョに共通する、三部作 連作ならではの凄みを、最後に語っていきたいと思います。


まず、ジョジョドラクエ 三部作に共通する強みは、
1つの作品だけで完結するのでは無く、3つの連作が揃うことによってはじめて成り立つ、作品の面白さと凄みを備えているということです。


ジョジョ1→2→3の三部作で、荒木先生は、エデンの東やルーツのような、時を超える大河ドラマを描きたかったと述べています。
ジョナサン(初代の主人公)がディオと戦い、ジョナサンの正義は子孫のジョセフに受け継がれ、そしてジョセフと承太郎が復活した悪の権化 DIOを倒す。
ジョナサンだけでもジョセフだけでも、承太郎だけでも描けなかった、3代居なかったら成り立たなかった物語を、荒木先生は描きたかったそうである。

ジョジョにおいては、1部で「白と黒の、2人の主人公」の対立と調和が描かれ、波紋法と吸血鬼のバトルが提示され、
2部で、ストーリーの展開においても、バトルのトリック・キャラクターのパワフルな魅力においても、前作を上回る加速した展開が描かれ、
そして3部で、1部の主題が再提示され、100年の時と、地球のすべてを駆け巡ったかのような旅の果てに、ジョースターとディオの戦いが決着を迎える。

ジョジョ1→2→3の三部作は、クラシックのソナタ形式に似た構造を持っていて、
主題の提示→展開→主題の再提示 3つの作品が、一本の音楽を奏でるように、スタートからラストまで、緩急持って突き進んでいく面白さがある。


ドラクエ1、2、そして3の三部作は、入れ子構造、円環、無限のループとなるような円環構造を持っている。
「王子の旅立ち→放浪の旅→帰還」という基本構造は、ドラクエ1、2、3に共通しており、
「旅の結果 何を得て、何を失い、最後 主人公はどこへ向かうのか」が、ドラクエで描き出される、主人公たちのドラマである。

ーー個人的に、ドラクエ3 ロトの勇者は、ゾーマを倒しアレフガルドの平和を確かめた後、上の世界に帰っていったのだと思う。

ドラクエ1 勇者とローラ姫が旅立つときの王宮のファンファーレ、2 ローレシア王宮の舞踏会、3 ロトの勇者を称える王宮のファンファーレは、
堀井氏が意識的に、似た構造のラストシーンを用意し持ってきていると思うが、象徴的な記号の使い方が本当にうまく、
ドット絵の使い方やヒントを集成し謎を解いていく積み重ねなど、ドラクエファミコン時代の、記号を定義し積み重ねるRPGならではの面白さが満ち溢れた作品だと感嘆する。


ちなみに、貴種流離譚となるようなゲーム・マンガは、ドラクエ以外にも数限りなくある。
貴種流離譚という概念自体が、折口信夫氏の定める民俗学・文学の用語であり、説話群を類型化するためのものであるから、該当例が多くあるのは当然かもしれない。
 物語の類型の一種を指し、若い神や英雄が他郷をさまよいながら試練を克服した結果、尊い存在となるとする説話群を指すという)

ゲームでは、本の世界に入り込んで、再び現実に戻ってくる「エスパードリーム」。
不思議の国のアリスのような雰囲気のゲームだが、本の世界の女の子・村長が、現実世界に遊びにやってきたラストシーンの多幸感がとてもいい。
3DSの「妖怪ウォッチ 1」も、主人公たちが妖怪と友達になり、ラストバトル 訳あってお別れをするものの、最後 また友達として戻ってくるという、幸福感あるエンディングが良い。
ドラえもん 単行本6巻で描かれた、のび太の成長、ドラえもんとの別離・旅立ちを描いた最終話も、とてもよいお話だったと思う。

ジョジョのシリーズでは、
半身不随の元騎手 ジョニィが、ジャイロと大陸横断の旅に出て、最後 聖人の遺体では無く、親友の遺体と思い出を故郷に持ち帰るSBRが、もっとも貴種流離譚の典型に当てはまるストーリーとなるだろう。


ジョジョドラクエ 三部作の凄みとして痛感するのは、
ゲームの「外」、マンガの紙面の「外」にある情報ーーすなわち、時間と空間の拡がりーーをリンクさせる面白さである。
 
部分が全体であり、全体が部分であるような、世界全体が一つにつながり、壮大なものを描き出せている、その感動。
現実の世界を旅しているようでいて、現実とは違う、「もう一つの世界」「もう一つの人生」を作り上げ、読者として体験できた感動が今でも強く残る。

ジョジョドラクエ 初期の三部作には、イキイキとした、新しい世界が生み出された瞬間に立ち会えた喜びがあると思う。
もし、今からこれらのマンガ・ゲームをはじめて体験するという方があれば、絶対に、発売順に、1→2→3の順番でプレイすることをお薦めしたい。
(このブログでは、三部作のストーリーや展開をネタバレしてしまっているが、そんなことは知らず、作者が筆を重ねた順番に、読者が一緒に追体験していくのがいちばん真っ当な、贅沢な作品の楽しみかただと思う)

 
最後になりますが、ドラクエ3 アレフガルドの終盤に入り、ゲームを終えてしまうのが寂しくてレベル上げを繰りかえしていた最中、
ドラクエ3が終わったら、4をやってもいいんじゃない?」「ピサロを見てみたいし」と助言してくれた私の子供に感謝したい。

ドラクエ4 8人の勇者たちと、ピサロとロザリーの悲劇の物語は、ドラクエムックを孫引きしながら、子供に物語って聞かせていた。
「流した涙が、宝石になる」エルフのロザリーは、人間の悪業に巻き込まれ死に、彼女を失った悲しみでピサロは悪に走り、進化の秘法で怪物となる。勇者たちはピサロに、戦いを止めるよう訴えるが、怪物となったピサロの耳には届かない。
やむを得ず勇者たちはピサロを倒し、遺骨をロザリーのそばに埋める。エルフのロザリーは死後 植物の種となってお墓に埋まっていたが、ピサロを迎え入れて芽が出て草が伸び、一瞬で大きな花が咲いたーーというラストだった)

また、ドラクエジョジョ、ゲームやマンガの好きな事を書いて楽しめる時間を持てるのも、
のんきに暮らしていられる日常があればこそなので、現実世界の平和と、人々の間に自分が存在できていることを感謝したいと思う。
 

 

追記:

ドラゴンクエスト3の余韻が冷めやらぬ内に、ドラクエ4(ファミコン版)をプレイし、クリアした。
1~5章の序盤で、低レベルからのレベル上げを繰りかえすのが辛かったこと、
(1~3までを通してプレイした直後のためか)バトル・謎解きがやや簡単すぎて歯ごたえが無かったのは難点だが、
概ね楽しく遊ぶことができた。

エンディングの演出は、キャラクターの織りなす寸劇がBGMと相まってとてもよく出来ていて、ファミコンゲームの一つの極みを見るようで感動した。
7人の仲間たちを一人ずつ見送って、独りになった勇者が故郷に帰るのだが、
私は、マスタードラゴンのご加護でシンシアが復活して、仲間たちと共に幸せなエンディングを迎えたのだと解釈している。
(勇者が最後 故郷の幻を見ながら死んでいったようにも見えて、曖昧にボカしている所がいい演出だと思う)

エンディングのシーンを観ていて、はじめて気づいたのは、
1章のスタート地点 バトランドの南の岩山を越えたすぐ先に、勇者の隠れ里が配置されていたことで、
1~5章の物語が同時進行で進み、エンドール(end:目的地)に向かって主人公たちが導かれるシナリオなど、盛り上がる展開で面白かった。

ドラクエ4は、ジョジョ 4部と似て、前作までの基盤を活かした番外編・新シリーズで、新機軸とマンネリ感が絡み合う微妙な面白さだった。


スーパーファミコン(中古本体)を買ってドラクエ5・6をプレイするか、3DS等で発売中の7~10をプレイするか迷っているが、
5~10までを通してプレイすることを考えると、膨大な時間と労力がかかりそうで、でも楽しそうで眩暈がする。

桝山寛氏の「テレビゲーム文化論」で読んだのだが、
ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」によれば、「遊び」は4つの要素から成り立っており、それは「競争」「偶然」「模倣」「眩暈」であるという。

模倣とは、なりきり、ロールプレイのことを指し、眩暈はサプライズ、意外な展開や新鮮な驚き・感動のことだろうと思う。
4つの要素は、ジョジョにもドラクエにも当てはまるし、古今東西のさまざまな遊びにも当てはまると思う。

願わくば、野球選手は野球賭博に「競争」「偶然」「眩暈」を求めて遊ぶのではなく、
春からはじまる公式戦で、自らの誇りと技量をかけて、精一杯 真剣勝負で遊んでほしいと思った次第である。

プロ野球選手以外の仕事でも、人生や生活そのものが、何らかの形で「遊び」の4要素を含み、
スリルや興奮、事件と平和が相乱れるのが人間の生活であるように思う。

ゲームの名作、ドラゴンクエスト2

ドラゴンクエスト2(ファミコン版)を、発売当時以来 29年ぶりに再プレイした。

実家に眠っていた古いファミコンカセットを探し出し、カセット端子の汚れを取り除き、
中古品のファミリーコンピュータ(本体)を購入し、ようやくプレイすることができた。

子供のときに遊んでいたカセットが、(もう無くなっていると思っていたのだが)実家に眠っていて、
青い紙箱の中には、プラスチックの容器にカセット、取扱説明書、パスワードのメモ書きまでが残っていた。

ファミコン 端子の汚れは、「クレ エレクトロニッククリーナー」(接点復活剤)を綿棒に浸し、やさしく磨き上げることでクリーニングできる。
アナログ電波のチャンネルを介して、テレビモニターにファミコンの映像と音声が流れ始めたとき、とても不思議な感じがした。

30年近く前の電子製品が、まだ壊れずに動いていて、一瞬のうちに「今」と「昔」が繋がった感じがして、
ファミコンカセットを大切に取り扱っていた、昔の自分にありがとう、という気持ちだった。

ジョジョのコミックス 12巻以降を発売時に買い揃えて、大半は実家の本棚に眠っている。
 30年近く前のマンガ本になるが、これらの本やゲームを、さらに30年後 再び眺めることもあるのだろうか?)


 ***


ドラクエ2をスタートし、2週間くらいかけてクリアしたが、とても面白かった。

小学4年生で初めてプレイした時は、シドーを1度か2度倒したことはあったものの、
とても難しく、敵が強すぎて、めったにクリアできるものではない、と思っていた。

今回は、インターネットで「水の羽衣が2着作れる」という攻略情報を利用したこともあったが、
それ以外は、昔の記憶を頼りにしつつ、自分で謎を解き、じっくりレベルを上げながら冒険を進めていった。5つの紋章の隠し場所など、昔の記憶を、けっこう覚えていたのが意外だった。

(後日 サマルトリアの王子にミンクのコート/まほうのよろいを装備させて、ハーゴンの神殿の戦いに挑んだが、無事 クリアすることができた。Lv44,39,32まで上げていたので、地力が上がっていたようだった)


船を手に入れて海に出たとき、ものすごい解放感があり、
ロンダルキアへの洞窟を抜けて、真っ白な高原に出てきたときも、「ああ!」という感動があった。

敵キャラが強く、命のやり取りをしている緊張感があり、
目的地までの行路が絶妙に難しく設定されているので、要所要所を突破したときに「やった!」という達成感があり、その積み重ねで最後までプレイできた。


あらすじ的な意味のストーリーは単純で、戦闘画面のグラフィック・SEも簡素なものだが、
シンプルであるがゆえに、プレイヤーが個々に想像力を膨らませ楽しむ余地がある。

ファミコンソフトの名作は、お寺の石庭、抽象絵画のようなシンプルさと奥深さを持っていて、
ビシッと決まった、ひとつの宇宙を形作っている。

ゲームデザイナーとプレイヤーの知恵比べ、イタズラの掛け合いのような面白さで成り立っており、
今 遊んでも、100年後の人が遊んでも楽しめるだろう、普遍的な面白さを備え持っていると思う。


ーージョジョベラー 荒木先生の発言によれば、「ヒットアルバムの法則」(?)と呼ぶべきものがあり、
あるアルバムが「名盤(=最も売れたアルバム)」となったのは、「その一つ前のアルバム」が優れた作品で、多くのファンに次作への期待を抱かせたからだという。
ドラクエ2は、まさに「その一つ前のアルバム」で、2が大ヒットを記録した後、次作のドラクエ3は、まさに社会現象と呼ぶべき、人気のピークを迎えた。

ドラクエ1→2→3の制作期間の短さ、連打・連打・連打で畳みかける密度の濃さに、驚かされる。
ジョジョ1→2→3部にも共通する所があるが、作者が若く、ジャンル自体が草創期にあり、自由な実験を思い切ってやりきったような、
そんな進取の気風に満ち溢れた、奇跡のような連作が、ジョジョでありドラクエであったと思う。


2016年の今 ジョジョドラクエも、多くのファンを持つ「名作」として、一定のポジションを獲得しているが、
願わくば、発売当時(執筆当時)の息吹をそのままに、制作者の叩き付けた筆致をそのままに、長く楽しめるカタチで残していってほしいものだと思う。

ドラクエ2でいえば、グラフィック・戦闘バランスなどを変更したSFC版は、やはり初代とは別物だし、
ジョジョのコミックスで、政治社会・宗教上のよほどの事情などが無い限り、単行本の内容は書き換えず、執筆時のままで刊行してほしい。

絵画や小説、交響曲が長く繰り返し楽しまれ続ける仕組みが出来上がっているように、
マンガやゲームも、現代の娯楽、新たなメディアとして、長く、繰り返し楽しまれる仕組みが出来上がってほしいものだと思う。

WiiUのヴァーチャルコンソールや、マンガ喫茶などは、ゲームやマンガの「図書館」として、昔の名作を繰り返し楽しめる、文化的に意義ある施設・サービスだと思う)

マンガの基本4大構造から探る、ゲームの面白さと独自性

荒木飛呂彦の漫画術」によれば、マンガには「基本となる4つの構造」があり、
重要な順に、キャラクター、ストーリー、世界観、テーマ 4つの要素が存在する。
これらは互いに影響を及ぼし合って存在し、これらを増幅し統括するのが絵とセリフである。

マンガ読者の目に見えているのは絵(紙面)であるが、
その奥にはキャラクター、ストーリー、世界観、テーマがそれぞれにつながり合って存在している。
この構造はいわば、ひとつの世界の営み、宇宙とも言えるのではないかーーと述べられています。

荒木先生はマンガを「最強の総合芸術」と考えているとのことで、

「基本の4大構造」プラス「絵」プラス「言葉」を同時に表現することができ、かつ、その全てを独りで漫画家は創作せねばならない。
そのようなメディアはマンガだけだと、力強い自負が著されています。


基本4大構造の図式は、マンガに限らず、いろいろなものに拡張できる概念だと思う。
この記事では、ゲーム(テレビゲーム)に基本4大構造を当てはめて、モノづくりの面白さを探ってみたい。


 ***


私が考える、ゲームの基本4大構造は、下記のようなものです。


・ゲームの基本4大構造

キャラクター:キャラクターの操作性。敵キャラクター・味方キャラクターとの絡みで、自分自身は何を操作できるのか

ストーリー:ゲームのシステム、ゲームバランス。ゲームの目的、目的を達するためのプロセスはどのようなものか

世界観:ゲーム内で描かれる世界のありよう。プレイヤーに訴える雰囲気、印象、情感。

テーマ:ゲームの遊びどころ、キモ。一言でいって、何をしたいためのゲームなのか


そして、これら基本要素を具体的に表現するのがコンピュータであり、
プレイヤーとコンピューターの相互のやりとりの積み重ねが、ゲームを遊ぶ行為である。

総合芸術として、ゲームの独自性は、
プレイヤーがコントローラーを操作し、操作した結果が(計算を経て)モニターに反映され、
これに基づきプレイヤーが次の操作を考え実行するという、一連のインタラクティブなアクションにある。

アクション・シューティングだけでなく、ロールプレイング、シミュレーションなどジャンルを問わず、
コンピューター(あるいはコンピュータの背後にいる、ゲームマスター)とプレイヤーの相互のやりとりの面白さこそが、ゲームの面白さの本質である。

ゲームは「見るもの」でなく「プレイするもの」であり、
その点でゲームは、マンガ・小説・映画よりも、演劇・コンサート・アトラクション施設・スポーツに近い。
トランプや将棋、鬼ごっこやしりとりなど、人間同士で遊ぶさまざまなゲームも、テレビゲームの大きな母胎となっている。


以下 思いつくままに、星5つ×4項目=20点満点でゲームの星取り評価を列挙していきます。


光神話 パルテナの鏡
キャラクター:4

ストーリー:2

世界観:4

テーマ:3

総合13点
寸評:キャラクターやゲームステージの設定は面白いが、ゲームバランスが悪く、序盤が難しく後半が拍子抜けする。


悪魔城ドラキュラ(初代)
キャラクター:3

ストーリー:4

世界観:5

テーマ:4

総合 16点
寸評:主人公の操作感に馴れる必要があるが、ホラー映画に準拠した世界観の演出、グラフィックと音楽の盛り上げ方がピカイチ。


ゼルダの伝説(初代)
キャラクター:5

ストーリー:4

世界観:3

テーマ:5

総合 17点
寸評:序盤のパラメータの低さ、ヒントの少なさは辛いが、「謎を解き明かす」「勇気と知恵で、ダンジョンを攻略」する楽しみが詰込まれている。


ゼルダの伝説 神々のトライフォース
キャラクター:5

ストーリー:5

世界観:4

テーマ:5

総合 19点
寸評:あらすじ的な意味のストーリーではなく、アイテムを収集しダンジョンを突破していく、その積み重ね・プレイ履歴がストーリーとなっている。


ドラゴンクエスト
キャラクター:5

ストーリー:5

世界観:5

テーマ:5

総合 20点
寸評:ゲームの難易度、緊張感がベスト。新たな世界が創り、拡げられていく瞬間の感動が詰込まれている。


・MOHTER3
キャラクター:3

ストーリー:3

世界観:1

テーマ:1

総合 8点
寸評:類型的で、投げやりな駄作。サウンドバトルでボタンを押すと、なんとなく気持ちいい感じがすることくらいしか褒める点が無い。


オバケのQ太郎 ワンワンパニック
キャラクター:1

ストーリー:1

世界観:2

テーマ:1

総合 5点
寸評:Q太郎の操作に浮遊感・爽快感が無く、イヌの鳴き声にやられる理不尽さに、頑張ってクリアする気を削がれた。


スーパーマリオブラザーズ
キャラクター:5

ストーリー:5

世界観:4

テーマ:5

総合 19点
寸評:ドラキュラやロックマンをやっていて、「あれ、マリオのように飛べないのか?」と思ってしまう。それくらい身体に刷り込まれている。


ドンキーコング(初代 ファミコン版)
キャラクター:3

ストーリー:2

世界観:3

テーマ:4

総合 12点
寸評:テレビゲームの偉大な原点であるが、今プレイすると全3面で、ボリュームが少なすぎた。マリオが高く飛べないのに違和感。


テトリス
キャラクター:4

ストーリー:5

世界観:4

テーマ:5

総合 18点
寸評:ブロックをクルクル回して落とす、瞬時の計算と操作が噛み合った気持ち良さは他に替えがたい。


ジョジョの奇妙な冒険(SFC)
キャラクター:2

ストーリー:3

世界観:5

テーマ:3

総合 13点
寸評:原作マンガのファンという視点では、楽しんでプレーできた。原作を知らない人にはお薦めできない。


ーーこんな感じです。
ジョジョドラゴンボール、バタ足金魚、AKIRAなどのマンガ作品にも、同様の星取り評価を付けていくことができると思う。
「数字」というものは、抽象物でありながら、数を積み重ね較べることで何となく具体的な、定量的な説得力が出てきてしまう。
不思議なものだと思う。

ゲームやマンガの感想は、根本的に、読者 個々人の自由な意思に委ねられるべきものですが、
世間のレビューサイト・口コミサイトが繁盛するのも、また一方で、人間社会の自然な意思形成なのだろうと思う。