ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

東方定助は復活する

ジョジョリオンの連載 ダモカンの過去編が始まった辺りから、ウルトラジャンプをだいたい毎月買って読む習慣になっている。

月間でも週間でも、連載1回ごとに「引き」があって、次回の展開を想像する楽しみがあることは同じだ。
連載の合間を待つことはじれったくもあるが、コミックスの一気読みには無い、リアルタイムで体験する楽しみ、ヒマなときにあれこれ考える楽しみがある。
(テレビドラマの次回予告に焦らされたり、プロ野球ペナントレースの盛り上がりをジリジリ体験するのと、同じような感覚だろう)


 ***


ジョジョリオン 最新話(4月18日時点)は、ドロミテが康穂に追い詰められて、自白を開始した所で終わっている。

ドロミテの話までで、主人公の定助は、合計3回、水に沈んで生死の境をさまよってきた。
夏の海岸で、ジョセフミが溺れて死にかけたとき。
ジョセフミと吉良が、岩人間の襲来を受け、壁の目のそばに沈み込んだとき。
そして今回、ドロミテの策略で、六つ壁神社の池に沈みかけたときである。

3回 水に沈むたびに、いずれも、主人公は女性に助けられ命を救われている。
これは、面白いネタが思いつかないためのマンネリではなく、作者の意図による繰り返し、重ね合わせだと思われる。


たしか、ジョジョベラー 付属冊子のインタビューだったと思うのですが、荒木先生の発言で、
「定助のセーラー服は、漂流している人の象徴です」と述べられていたことがあった。

ここから先は、私自身の憶測、主観的な思い込みが入った見解なのですが、
ジョジョリオンの物語は、大きく2つの軸があり、
犬神家の一族」になぞらえた東方家の家督争いの物語と、3.11 東北大震災からの復興をテーマに定助を描く物語になっていると思う。

インタビュー等によれば、
ジョジョリオン 第1回めのネームを書き始めている頃に3.11 東北大震災が起こり、
「仙台の物語を描くにあたり、震災を無視することはできない」と、急きょ 壁の目の設定が付け加えられたそうである。

定助がセーラー服を着たまま記憶を失い、帰るところを探しさまよっている。
(震災の被災者では無い私が、あまり簡単に言うことはできないのですが)
東北の大震災、熊本の震災であったり、戦災、交通事故や犯罪被害、ガンや急病などさまざまな災厄。

記憶を失い、「定まるところ」を求めてさまよう定助の姿は、視点によってはとてもつらく、
そのつらさを中和するため、ボケたゆるいキャラクターが設定されているのかもしれない。


定助が地面の中に沈んでいくのは、(水木しげる風に言えば)「あの世」、死の世界へ沈んでいくことの象徴である。
そして、ホリーさんや康穂の手助けを借りて、そこから何度でも定助は復活する。

定助は死なない。

ジョジョリオンのラスト 私の予想ですが、
定助の記憶は最後まで戻らず、壁の目から蘇った後の記憶を基点に、康穂たちと新しい人生を歩み始める。

定助が4回目の水没をしたり、ロカカカの実を他人に分け与えて死んでしまったり、主人公が死んで終わるラストにはならないのではと思う。

記憶が無くなっても、住む家が思い出せなくなっても、仲間がいれば、きっと人生を歩んでいける。
震災からの復興に祈りを込めて、希望の持てるラストになるのではないか。そんな気がしている。

(常敏か憲助のどちらかは、因果応報の報いを受けて死んでしまうかもしれない。常秀やカレラは、大体あんな感じのキャラで終わるだろうと思う)

 

 

追伸:

上記の記事を書いた後、インターネットを検索してみたところ、

3.11と芸術というテーマにて、2014年 河北新報が、荒木先生のインタビューを行っていました。

宮城県NPOに勤務する方のブログで、3.11とジョジョリオンについて触れた記事です。よろしければご一読ください。

「オレは誰だ?」3.11に被災した杜王町をめぐるジョジョの奇妙な冒険。 - マンガHONZ

 

「人生をいじくり回してはいけない」 水木しげるの背後霊と、ジョジョのスタンド使いたち

水木しげる先生のエッセイ「人生をいじくり回してはいけない」を読んだ。

税務署や世間の冷たい仕打ちに心が折れて、クジけていたときに手にとったのだが、
南伸坊デザインのゆるい表紙につられて手にとった、水木さんのエッセイはとても面白く興味深いものだった。

南伸坊さんには、昔 京都のトイレで隣になったことがあり、南さんに「スミマセン」と会釈されたことがあった。
そのときの私は若くて余裕が無く、他人を寄せ付けないような怖い顔をしていたのだろう。申し訳ないことだったと思う)


本書は、水木しげるのオールタイムエッセイ・インタビュー・放談から、人生にまつわるモノを集めた選集である。
太平洋戦争に従軍した話、ラバウル土人との交流、紙芝居描きからマンガ家を目指した戦後の話、境港の水木家のルーツの話などが出てくる。
水木しげるのお父さんとお母さんの話、紙芝居を描いていたときの話は初めて読み、面白かった。

「蝶になった少女」の章、中国人女性と土人の少女の話が切なく美しい。
死んで生まれ変り蝶になった少女というと、ジョリーンのラストを連想するところもある。


もちろん、同書のメインテーマの一つは「妖怪」で、
妖怪を見るのではなく、いかにして「感じる」のかなど、面白いエッセイが並んでいる。

不勉強のため初めて知ったが、江戸時代に鳥山石燕という妖怪を描いた画家があり、
「鬼太郎」に登場する妖怪たちは、石燕の「百鬼夜行」、柳田國男の「妖怪談義」をベースに発想、デザインされていったとのことである。

私自身の主観的な、何となくの連想であるが、
水木しげるの妖怪たちは、妖怪ウォッチの現代の妖怪たちの基となっていることはもちろん、ウルトラ怪獣鳥山明のモンスターたちにも繋がり、
そして、(後述しますが)水木しげるの背後霊は、ジョジョのスタンドにも繋がっているような気がする。

水木さんの言う「あの世」、資本主義的現実世界から離れたもう一つの世界が、
夢や空想の幻ではなく、どこかで繋がり、大きな実在となって存在している気がする。
ーーこれは、水木さんのエッセイを読んだばかりで夢見心地になっているというだけではなく、半分くらいは、本当にそのようなモノがある気がするし、あって欲しい。そう思う。


(本書には、その他にも、水木しげるが妖怪の風景画を書くために、日本の風景写真を撮りためて自家製の辞書を作った話。
鬼太郎やネズミ男に実在のモデルがいたり、目玉おやじが連載マンガの苦し紛れから生まれたアイデアだったりと、
ジョジョにも通底する、マンガ製作の面白い話が沢山でてきます。
ちくまの文庫本で、千円しない値段で買えるのでお得だと思います)


 ***


ーーすこし順番が前後してしまったのですが、
水木しげるの「人生をいじくり回してはいけない」に、「予期せぬ出来事」「死について」というエッセイがあります。

水木さんが50~60代を迎えたころ、(出身地である)出雲のご先祖さまの夢を見るようになり、
生命の危機を乗り越えたり、成功のチャンスを掴んだり、ご先祖さまが背後霊となって救ってくれていたのではないか。
そして、出雲の祖霊さまたちは妖怪とも重なり、ラバウル土人たちと似たノンビリ貧しく、幸福な暮らしぶりをしていたのではないか という一節があります。

妖怪マンガで人並み以上の成功を手に入れた後、人生を落ち着かせた熟年の水木先生が、夢の中で得た着想です。


面白いなと思うのは、荒木先生がジョジョの「スタンド」を考え付いたとき、
作者は30歳に差し掛かるくらいの年齢で、ヒットを掴むべく、いちばん上り調子であった頃です。

スタンドは自らの「意思の力」で現れるもので、側に立ち、戦うものです。

連載が進み、4部の終盤から運命論が表に出てくるようになり、
作者が40歳を越えた頃、6部以降の連載では宗教論・宇宙論も加わって、
物語の中に、自分の力を越えるもの、自分自身ではどうしようもないものが現れ、主人公たちがどう折り合いをつけるか? そんな展開が描かれるようになってきました。

7部以降の連載では、聖なる遺体の奇跡、呪いの病とロカカカの実が登場。
露伴の読みきりでも、マナーの戦いを挑む山の神が敵として現れるなど、物語が不可知の領域に進みつつあります。

少年ジャンプ連載の頃は、自分の意思でスタンドを発現させ、知恵と勇気、仲間との友情で敵を打ち倒してきたものが、
作者が40~50歳を越えるにしたがって、自分自身よりも大きなもの、どうしようもない運命論の中であがく人間の戦い、
運命を切り開きつつ運命に準ずる、そんな人間の有り姿を描くことに、着眼点が移り変わってきました。


水木しげるさんが60歳になった頃にたどりついた、自身の人生を見守ってきてくれた守護霊(背後霊)たち。

そして、荒木先生が今のジョジョリオンから9部にかけて描いていくだろうスタンド使いたちが、どんな人生の軌跡を描いていくのか。
楽しみに読んでいきたいと思っています。

ジョジョを野球選手に例える 8部編 (作成中)

ジョジョを野球選手に例える 8部、ジョジョリオン編。

ただし、ジョジョリオンはまだ連載中で物語のかたち・イメージが固まりきっていないため、
あくまで「作成中」の扱いです。

2014年~最近にかけて、オリックス・バファローズに注目してプロ野球を観ることが多いので、
オリックス関係の選手が多くなっています。


●8部

定助=糸井嘉男

康穂=小谷野栄一

カレラ=森脇浩司(監督)


ホリーさん=福良(監督)

吉良=金子千尋

ジョセフミ=吉田正尚

ジョセフミの母=栗山英樹(監督)



憲助=清原和博(引退後)

花都=桑田真澄(引退後)

常秀=中田翔

常敏=菅野智之

つるぎ=稲村亜美


ダモカン= (?)
ドロミテ= (?)
愛唱= (?)


岩切厚徳=田中将大


ーーざっと思いついたのは、こんなところです。

ダモカン、ドロミテらの岩人間について、本当は、プロ野球選手で当てはめることは可能です。
(安易な連想として、デブのイメージでドカベン香川、ハゲのイメージでピッカリ投法の佐野など)

しかし、杜王町における岩人間の位相、立ち位置を考えると、
「人間以外の存在」、「危険薬物の密売に手を染める犯罪者(ヤクザ)」であり、とてもヤバイ連想に繋がっていきました。

何名か、実在のプロ野球選手(OB含む)でピッタリ当てはまりそうな人がいたのですが、
ご本人の名誉を棄損する可能性もあり、実名は差し控えさせていただきます。
プロ野球の賭博、犯罪、トラブルなど「黒い歴史」に詳しい方は、当該人物をイメージして楽しんで頂けるかもしれません)

「ジャンプ流 荒木飛呂彦」の発売によせて、当ブログの記事を解題します。

2017年のお正月に、「ジャンプ流 荒木飛呂彦」が発売された。
荒木先生の仕事場の様子や、マンガを描くときの詳細な様子が動画で紹介されていて、記録映像としてとても興味深い。

自分は一度、「岸部露伴は動かない ルーブル編」の原画展を見に行ったことがあり、正直なところ 原画の迫力そのものにはあまり感動しなかったのだが、
今回の動画のような、どうやってマンガが描かれているかの工程、一瞬一瞬のペンの息遣いを観ることができるのはとても興味深い。

集英社はアニメや映画など、どうでも良いメディアミックスに荒木先生を駆り出すのではなく、
ジョジョ 8部以降の連載と、(時々で良いので)作者の執筆背景が分かる資料の作成に取り組んでくれたらありがたい。

ジャンプ流は、「荒木飛呂彦の漫画術」のビジュアル版のような趣で、
荒木マンガのファン、絵作りに興味のある方には、手にとって頂いて損はない一冊ではないかと思う。


ーー年明けにジャンプ流が発売されオメデたいこと、また、今回の記事が150本目の投稿となることを記念して、
当ブログの記事の解題を行ってみたいと思う。


カテゴリー

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    商売としてのジョジョ (19)


当ブログの執筆動機を振り返ると、
私(ブログ管理人)がジョジョを読んできたその感想、解釈、主観的なよもやまのことを広く整理し、書き残したいということがありました。

ブログは文章を綴るものなので、必然的に、ジョジョのストーリー、キャラクター、テーマの解釈などを語る文章が主になっています。
マンガの魅力の大きなものは「絵」、ビジュアルに有ると思いますが、ブログの形式上 ジョジョの絵の魅力については、殆ど触れることが出来ていません。

また、当ブログを書き始めた当初の裏の動機として、ジョジョのテレビアニメの出来があまりに酷く、メディアミックスのずさんな展開に腹が立ったので、
自分なりに思うところのジョジョの魅力を、世間に公開する形で書き残してみたいという気持ちもありました。


ブログのカテゴリーを整理すると、
ジョジョ3部~7部、ジョジョリオン」というカテゴリーが、それぞれのパートにスポットを当てた内容です。

「商売としてのジョジョ」というカテゴリーは、ジョジョのメディアミックス、売らんかな主義の雑な商品群を、批判的な目で眺めて書いた記事です。

このブログの文章は全般に長く、ジョジョとはあまり関係のない話題の記事が延々と続くことがあります。
ジョジョ全体」というカテゴリーは、ジョジョのストーリーやテーマ、世界観を包括的に語ろうとしている記事もあり、本来ならば「未分類」と呼ぶべき雑多な記事もあります。
ジョジョと●●」という記事は、すみません、ジョジョとは殆ど関係の無い記事が多く、プロ野球や音楽、亀、コンピュータゲームなど、私の個人的な趣味が主題になっています。

最後に、「ジョジョのルーツを探る」という記事は、荒木先生の映画エッセイに触発されてつくったカテゴリーです。
「映画の掟」と「ホラー映画論」、2冊の新書をガイドブックに、ホラー映画やサスペンス映画を観てみるとけっこう面白かったので、
それらの、ジョジョのルーツとなっているだろう作品群、映画やマンガ、小説など多彩な先達の作品を追いかけて書いた記事です。


近年、ジョジョの発行部数が1億部を突破したそうで、
少年ジャンプでは6作目、戦後マンガ全体の中でも有数のヒット作に登りつめたことは、(一読者に過ぎない私の視点からでも)何となく嬉しい。

大まかに考えれば、ジョジョコミックス100冊(1部~7部までの全巻セット)を100万人が購入している計算になり、
ジョジョを1部から7部、おそらく8部まで全部読み通している「濃いファン」が世界に100万人もおられるというのは、考えてみればスゴイスケールである。
日本人の1%が、ジョジョのあの紫色の背表紙のコミックスを1巻から100巻まで買い揃えたことがある訳で、4部から始まった背表紙の絵巻風イラストを、何人の日本人がこれまで本棚で眺めてきたんだろう……そんな感慨にふけってしまう。

私自身は、文章を書きだすと長くなってしまうタイプで、
コミックマーケットやSNSの集いに参加したい感じでもなく、一人でコツコツとブログを書くのが性に合っている。

ジョジョの原作者は荒木先生で、100万人の読者が100万通りに、さまざまに作品を受け取って楽しんでいるならば、それは素晴らしいことだと思う。
願わくば、ジョジョの原作のさまざまな解釈や読みどころの紹介、映画や音楽など元ネタの作品を(芸術鑑賞の意味合いで)紹介しているサイトがもっと増えれば嬉しい。
そんな気持ちで、私自身としてはこのブログを書いています。

ジョジョリオン14巻の感想 「金」と「病気」で語る現代社会

ジョジョリオン 14巻とウルトラジャンプ 1月号(60話の掲載号)を、買って読んだ。

ジョジョリオン 60話は、ゾンビ化した少年とおばさんが定助に襲い掛かってくる話で、
ゾンビがあげる奇声、何種類あるのかと思うほどのバリエーションの豊富さがいい感じである。
少年やおばさんの人体が、リアルな街角の中で破壊されていく描写も、気持ち悪さに興が乗っている感じがする。
(このパラグラフだけを取り出して読むと、なんて非道徳的な感想を公けにするのか…という感じだが、今回の話はそういう話だったので仕方が無い)


ジョジョリオン 14巻は、個人的に読みどころが多く、面白い4話の詰まった一冊だった。

ジョジョリオン 14巻の主なモチーフは「金」と「病気」で、
現代日本、社会の在りよう、(作者自身、読者たちをも含めた)身近な人々への風刺がなかなか鋭く描かれていたと思う。

定助がダモカンを倒すシーンの無関心な通行人たち、ミラグロマンを巡る一連の人々の在りよう、突如現れた母親に馴染めない東方家の人々など。

荒木先生がミラクルジャンプのインタビューにて、
「(4部とは違って)8部の杜王町では、「他人に無関心な、リアルな現代社会の人々の有りよう」を描きたい」という旨を述べていた。
14巻に出てくる登場人物たちは、皆が何かしら嫌なところを隠し持っていて、露わになったり隠したりしているが、そんなリアリティーの描写を楽しんで読んでいた。


話が逸れるようだが、最近 「稲村亜美」のグラビアを目当てに、はじめてビッグコミックスピリッツを買って読んだことがあった。
この一冊が驚くほど詰まらなくて、(スピリッツ掲載マンガのファンには申し訳ないですが)
どのマンガも物語性が薄く、つまるところ「セックス」と「暴力」の2つしかテーマが無く、あとは少年誌の延長のスポーツマンガしか載ってなくて、面白いマンガがほぼ皆無の有様だった。

(さらに話題を外れると、ウルトラジャンプジョジョリオン以外は美術部学生のエロマンガくらいしか載っておらず、同エロマンガもお金を払って読みたいかと言われると首を傾げる。
子供が読んでるコロコロコミックを読んでみると、でんぢゃらすじーさんは子供への愛が溢れていて面白いが、樫本マナヴの忍者マンガは露骨にDIOのスタンドをパクりながら読者の受けも悪い様子で見ていられない有り様だった)


ーー何の話かというと、ひいきの引き倒しのようで恐縮ですが、最近のマンガ雑誌には、ほとんどロクなマンガが載っておらず、面白くない。
でんぢゃらすじーさんとweb連載のキン肉マン、そしてジョジョリオンの三作品くらいしか、自分が知るところ、毎回 一定のクオリティを保ち、読者を楽しませようという作品は見当たらない感じだった。

ジョジョリオンは正直なところ、最初の3~4巻くらいが面白くなく、
ラーメンの小池さんやキン肉マンのパロディ、巨乳の女の子に鼻血を出す描写の辺りなど、「もう読むのを止めようか」と思うくらい詰まらなかった。

作者の事情は分からないが、ジョジョリオンはSBR完結から間を置かずに連載が始まっており、
最初の3~4巻くらいまで、SBRの反動か、「ゆるく、パロディ然とした雰囲気」が全編に漂っていたので、それが自分には合わなかったのだと思う。

夜露が死んで、常敏が現れた8~9巻、ロカカカの実の設定が登場した後から話が引き締まって変わっていったように思うが、
これから先 コミックス15~18巻くらいでジョジョリオンは完結するかと思うが、面白いエピソードを積み重ねてほしい。


最後に、ジョジョリオンの58話 定助がホリーさんの病院を訪れる場面で、いかにも日本人然とした風貌の医師と看護婦が登場、
激高する定助をノラリクラリと交わしながら、自分の仕事を淡々とこなし務めを果たしていた。

医師の彼らは決して悪い人ではなく、あんな感じで相手を気遣いつつ淡々と自らの務めをこなしていくのが、現実の大人の過半数であり、あるべき姿とも思う。

最近に、自分の家族に病気が発覚し、総合病院での検査に立会いつつも、どうにもならない、他愛のないことを逡巡していた。
「つまるところ、医師は他人。壁の目が近くにあれば、自分と家族の病気を移し替えてもらうのに…ロカカカの実があれば、聖なる遺体のご加護があれば助かるかもしれないのに…」
幸い、家族の病気はさほど深刻ではなく、しっかり治療していけば問題解決できそうなことが分かったのですが、
病気や家族、金のことは身につまされる問題で、人生の大きな問題の一つだと思わされた。

家族の病気にあたり、WELQやNAVERまとめを参照することは無かったのですが、ジョジョリオンの一節が頭に浮かぶことはあった。
生きて健康に暮らしているからこその幸せで、ビッグコミックスピリッツは下らなかったが、下らないマンガの愚痴を書き込んで楽しんでいる内が華かもしれない。
健康はありがたいものだと思った。

ジョジョリオン 59話の感想(メモ書き)

ウルトラジャンプ11月号掲載のジョジョリオン 59話、極簡単なメモ書きの感想です。

「池の辺に住む男 ①」というタイトルの話で、
神社のほとりに住む四肢欠損の男、岩人間の長老格の男(?)が登場した。
一目見た時、「乙武さん」がジョジョに現れたと思ってしまったのだが、何とも際どい存在で、
身体に障害を持っているだけでなく、岩人間の秘密、中世から続く(?)杜王町の闇の歴史など、様々なモノを背負って生きてきただろうことを伺わせる。

憲助さんが嘘をつくとき、「アゴの無精髭を触る」くせがあることが明かされたが、
この話では2回、花都さんに脅しをかけるときと、常敏と岩人間の繋がりの推理話を聞かされたときにも、アゴ髭を触っている。
憲助は純粋素朴なただの善人では無く、定助に何か隠し事をしており、
ロカカカの所在が明らかになった時点で、東方家と定助の最後の争い・利害の対立が巻き起こるのだろう。


8部 ジョジョリオンのお話は、ロカカカの枝を巡る争いでクライマックスを迎えつつある。
最近 康穂とカレラの出番が無いが、
今やってる話の次くらいで、定助の三角関係(ほのかな恋愛)が整理され、憲助夫婦の関係に変化が起こるような、男女の機微の話が描かれるのではないだろうか。

ジョジョ 3部~7部、そして8部の展開を振り返ると、
クライマックスに向けて、毎回 パターンを変えて、都度ごとに盛り上がる展開を組み込んで、最後 面白く読めるように工夫しているのを感じる。
一般に不評な5部のクライマックス(矢じりを巡って、ボスとジョルノたちが争奪戦を繰り広げる展開)も、3部や4部と被らないよう作者が考えた工夫を感じる。

今回の8部がどんなクライマックスになっていくのか、連載期間で1年~1年半くらいではないかと思うが、楽しみに読んでいきたいと思う。
来月号は休載なので、次回 その②を読めるのは12月発売の1月号だけども…気長に待ちたいと思う。

見えないものを可視化する  手塚治虫の「アラバスタ―」、「マンガの描き方」

荒木飛呂彦の漫画術」に、絵とは何か、荒木先生が自説を述べるくだりがある。


 ここで改めて、絵とは何か、という話をしたいと思います。
 絵の本質的な役割は、見えないものを可視化して伝えることだ、と考えています。
 描き手はいったい何を伝えたいのか、と言えば、それは愛や友情、正義など目に見えないものであり、見えないものを絵にしないといけないのです。

 音楽も目に見えませんが、それを可視化しているのが音符で、見た目が美しい楽譜はやはりいい音楽なのだそうです。
 見えるものと見えないものがつながっているのは興味深い。

 シンボル化の意味も見えないものを描くことにあるわけで、
 ドラえもんミッキーマウスアンパンマンなどのキャラクターは、親しみやすさ、やさしさといったものを絵で伝えていると言えるでしょう。
 また、ひとつの絵だけでなく、マンガ全体で見えないものを伝えることもできます。

(以上、荒木飛呂彦の漫画術 第5章 絵がすべてを表現する より引用)


ーー漫画術ではこの後、大友克洋童夢」の超能力描写に触れた後、波紋・スタンドの解説に話が拡がっていく。
アナログの手書きを極めんとする、ライブ感を大切にする、マンガの神様が降りてくる瞬間を待つなど、
いずれも「見えないものを形にする」、見えないもの=超常的なもの・神と繋がる瞬間を求めて努力する、荒木先生の芸術観が現れている。


「見えないものを可視化する」という一節を読んでいてハタと思い出したのが、手塚治虫「アラバスタ―」である。

元々2chで「4部 透明の赤ちゃんとネズミ狩り(球撃ち)は、手塚治虫のマンガが元ネタになっている」との指摘があり、
元ネタと思しきアラバスタ―を見つけて、読んでみたのだが、表面的に重なりが無くはないものの、ジョジョ4部とアラバスタ―はテーマもストーリーも全然異なるマンガだった。

アラバスタ―は、透明人間の少女 亜美を巡る男たちの物語で、怪人アラバスタ―、ゲン、カニ平、ロック、4者4様の男の生き様を描いたピカレスクロマンである。
(強いて言えば、日常に潜むミステリーを描いたジョジョ4部では無く、ヤクザの抗争と成り上がりを描いた5部に近い)

アラバスタ―のテーマは「見えないものを描く」、真・善・美とは何か。
差別や迫害に苦しんだ主人公たちが、社会から逸脱し、社会に敵対しつつも、最後に何を見つけて死ぬのか、
悪人の生き様(死に様)を通して「ほんとうに美しいもの」を映し出す、逆説的なストーリーとなっている。


手塚治虫によれば、アラバスタ―は江戸川乱歩のグロテスクで隠微なロマン物を描こうと思って描かれたとのことで、その手のホラー・SFが好きな方にはお薦めです。
作者自身は、ネガティブ・ニヒルな方向に傾きすぎたとして、同作を気に入らなかったそうですが、
私などはそうでもなく、10点満点中 7点くらいの、なかなか面白く、読みどころのある作品だと思う。

「見えないものをどう描くか」というところで、主人公の亜美が透明人間であり、透明であるがゆえの迫害・差別に苦しみ、同じ苦しみを持つ怪人(アラバスタ―)に出逢った彼女は、善と悪、美と醜の狭間で揺れ続けることになる。

ロック、ゲン、ゲンの子分、カニ平とその母親、そしてアラバスタ―と、それぞれのキャラクターに背景があり、
ストーリーの要所要所の見せ場が面白く、やや展開が強引・つなぎ目の粗い所もあるが、演劇的な舞台転換の鮮やかさ、キャラクターの哲学のぶつかり合いが迫力を生んでいる。

物語の冒頭 人種差別に苦しむ黒人(アラバスタ―)の前半生、公害や貧困に追い込まれるゲンの家族たちなど、時事的な要素を盛り込みつつも、
より普遍的な美と醜の議論、何が正しくて何が間違っているのか、真実は何か、人間の本当の美しさは何か…という問題が、ストーリーを通して描かれていく。


残念な点が2つあって、
1つは、週刊連載が短期終了となり、また手塚治虫の筆も今一つ乗らなかったためか、物語の中盤以降 展開が駆け足になって、テーマの描き込みに、もう少し具体的に描ける余地が有った感じがすること。
もう1つは、亜美が終始 守られる立場のかよわい少女のままで、透明であることが最後まで報われず、かわいそうな異端の少女のまま死んでしまったことである。

アラバスタ―の亜美が、もし、ジョジョ4部の静・ジョースターであったとしたら、
アラバスタ―に導かれ奇顔城の王女となった後、どこかの時点でスタンド能力(=透明になる能力)に目覚め、自発的な意思を持った超能力者として、自らの運命に戦いを挑む。
透明な身体は不遇では無く、自らに備わった能力であるとして、ロックやアラバスタ―とのトリックバトルに挑んでいるような気がする。
ーーほとんどトリッシュかジョリーンのような展開になってしまうのだけど、現代の読者の視点からすると、亜美の置かれたありようがちょっと古臭く、悲劇の型にハマりすぎてる感じがした。


手塚治虫のマンガが面白いのは、ジャンルやストーリーの種類を問わず、作者の世界観、テーマに一本 筋が通っており、読む価値の無いモノを作らないことである。
絵作り、キャラクター作りの魅力もさることながら、ストーリー展開のうまさ、テーマと世界観の押し出し方のうまさ、作者の見識・哲学の面白さ、文芸面の魅力が手塚マンガを唯一無二の存在に押し上げていると思う。

「学研まんが NEW世界の歴史」を最近 読んだのだけども、これと共通する面白さ、物語の厚みが手塚治虫のマンガにはある。
つまり、社会の歴史、人間の生活の厚み、国家や地理の時間の重なり、人間が幾世代に渡ってどのように生き延びてきたのか、何を求めて何を失ってきたのか、
時間と経験の厚みがストーリー・キャラクター・世界観・テーマに反映されているからこそ、単なる紙に描かれたインク染み以上の、単なるコマ送りの動く映像以上の、目に見えないものを可視化して読者に伝えることができるわけである。


アラバスタ―と同じく、手塚治虫マンガ全集収録作品で、「手塚治虫のマンガの描き方」という本がある。
荒木飛呂彦の漫画術」と似た立ち位置の本で、手塚治虫のファン、(手塚を基礎とする)戦後マンガのファンの方ならば、いちど手にとって読んでみることをお薦めします。

現代マンガの高度なデッサン・デフォルメ、CGを用いた画面づくり等は学べませんが、
表面的な視覚効果以外のマンガのほぼ全ての要素は、手塚治虫によって基礎がつくられ、現在までの規範(=教科書)となっていることが確認できると思います。

マンガの描き方では、あとがきにかえて、作者自身による作者へのインタビュー(という短文)が掲載されています。
マンガは「批評」ですよ、という一文で同書は締めくくられる。
文章の切れ味が鋭く落語調の面白さがあり、マンガの根本は絵と話、ビジュアルと言葉の両方にある、ということがよく分かります。地味ですが、おススメの一冊です。