ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

スティール・ボール・ラン キリスト教と関わりつつの総括

ジョジョキリスト教の関わりに主眼を置きつつ、7部のストーリーとテーマを総括しようとする記事です。

 


ジョジョ展みたいなシリーズ歴代主人公集合企画があるとき、
ジョナサンがシーザー風バンダナ、ジョセフが飛行帽、7部からはジョニィが登場するのが恒例になった。
ジョナサンの後付けデザインも気になるが、それ以上に私がしっくり来ないのが、7部主人公としてジョニィのみがフィーチャーされジャイロの姿が無いことだ。

個人的な感覚では7部を引っ張った主人公はジャイロ、ジャイロとジョニィのコンビであり、
ジャイロツェペリ=荒野をひとり馬で行く、謎の男 のイメージが無ければ、SBR以降の新世界が描かれることも無かったかもしれない。

1部映画が公開された頃、ツェペリ家の2人が馬に乗り、ジョースター7人の馬車を導き進むような大型ポスターが描かれた。
「ツェペリさんがカラーで描かれるのは初めてで、ツェペリさんもジャイロのおかげで復活できました!」との作者コメントが付いていたが、
すこし大げさに言えば、ジャイロのイメージが産まれて、これを核に、SBRレースや19世紀末新世界が産まれたのを示唆しているのではないか と思う。


ジャイロツェペリは、ネアポリス王国出身の死刑執行人で、
ネアポリス王国のモデルはヴァチカン市国、実在した中世フランスの死刑執行人をモデルに、ジャイロの出自を設定している。

ヴァチカンはカトリックの総本山であり、死刑執行人は王に仕える忠実な家臣。

そして、ジャイロが「謎の男」であるのは複雑な二面性を持っているためで、
彼は、祖国、父親と家業からの「独立」を志向しながら、
同時に、一族の誇りと鉄球の技術を受け継ぎ、キリスト教や祖国への忠実さを失った訳でも無い。

ただのヤンキーや跳ねっ返りではなく、自らの足元を踏まえて理解しており、
いわば「運命」を受け入れつつそれに抗おうとする現代的苦悩の持ち主で、
「納得」を求めて旅をしていた。

ヨーロッパからアメリカへ、大陸横断レースに参加したジャイロは、
象徴的な意味で、旧来秩序からの脱出、新世界への旅を象徴するキャラクターだった。


ジャイロとリンゴォの戦いは、ジャイロの心の叫び、魂の叫びがほとばしったとても熱い戦いだった。

ジャイロと対照的なのが、(リンゴォ戦に共演した)ジョニィとホットパンツで、
ジャイロから「意志の力」を諭され、馬に乗る意志と鉄球の技術に目覚めていったジョニィは、最後は自らの足で歩きだすまでに成長する。
ジョニィは聖人の遺体を求めてはいたものの、自分のため、現世的なご利益を求めてすがったもので、信仰心は無かった。

ホットパンツはヴァチカンからの使者で、修道女だった。
男装の麗人として登場したホットパンツは、マイクOとの戦いまで相当強かったのだが、
シビルウォーの館で修道女の正体がバラされ、大統領との戦いで「罪を清めるため、神さまに全てを捧げます」と告白した後 あっけなく死んでしまう。
ジャイロジョニィとの違いは、「自らの意志」を持っていたかどうかで、そこが死生の分かれ目だったのではないか? と思う。


6部→7部の展開を俯瞰すると、
6部を通じて、既存のキリスト教文化、西洋文化、複雑に発展しすぎた作品世界からの脱出を試み、
7部にて、世界の再生、ルネッサンス(再興)、シンプルであらたな空白地点から物語を語り直していこうとの試みを行っている。

SBRレース 1stステージのゴールは教会。
そして、アメリカ大陸を西から東に横断して、最後にたどり着くのはニューヨークの三位一体教会、納骨堂で完結する。

ウルトラジャンプに連載が移籍した頃、何かのインタビューで作者が、SBRは「巡礼」の旅、と答えていた。
(読者の反応は気にせず、描きたいことを描いていきます、と意気軒昂なコメントも載っていた)

5部ゲーム本インタビューなどによると、3~6部の物語は3年単位で描かれていて、
1年め キャラクターの登場 → 2年め 物語を発展し、膨らませる → 3年め 終演に向かう
リズム・サイクルだったらしい。

SBRでも同く、1st~3rdステージくらいまでに主要人物の登場を済ませた後、
3rdステージの終盤、主人公たちの瞳に「光」が描かれるように変わってからは特に面白く、
3rd~7thステージまで物語中盤の旅は、

人間の生きるべき「道」を求めて、それぞれ毛色の違った、示唆的なテーマを盛り込んだエピソードが続いていったと思う。

主人公2人は、聖人の遺体、宗教的奇跡への距離感が異なっていた。

サンドマンの「裏切り」は、フーゴのときに描けなかった、キリスト教のユダの裏切りを、青年誌移籍後に実現させたものだろう。

ウェカピポとジャイロ父のエピソード、シビルウォーの話、シュガーマウンテンの泉で物々交換する話なども、キリスト教的な含蓄を多く含んでいると思う。


レース終盤 遺体を総取りし、敵役として登場してきたヴァレンタイン大統領。
大統領の髪型(ウィッグのような、くるくるカール)は、アメリカ合衆国初代大統領 ワシントンを模していると思われる。

SBRの時代はアメリカ建国の100年後であり、ウィッグを着ける風習はすでに無くなっていたが、
ヨーロッパからのキリスト教文化を引継ぐ移民、またワシントン以来「開国、独立」の開拓者精神を表す象徴として、
大統領一派は古風な、くるくるカールの髪型をしていたのだろう。

大統領の野望は、アメリカ大陸に散らばった聖人の遺体を集め、宇宙の法則、神の奇跡とご加護を丸ごとわが身に引き寄せようという壮大なものだった。
スタンド能力のスケールもさることながら、胆力があり、演説にも長け、「切れ味鋭いけどあたたかい」人物の魅力は、他に無いものがある。

ヴァレンタイン大統領はとても強く、
ジャイロとジョニィ、ルーシーとスティール氏、ディエゴとホットパンツ レースの登場人物が束になってかかって、ようやく遺体争奪戦が終わった。

遺体は結局のところ誰のものにもならず、人間の思惑、善悪や人智を超えた存在だった。
最後に納骨したであろうルーシーに光が差し込んだのは、
聖人からの思いやりというよりは、(作中 随一の過酷な経験をさせた)作者からのフォローだったかも と思う。

物語のラスト ジョニィは親友の「遺体」を持って、大西洋を反対に渡り、ネアポリス王国を目指す。
故郷を飛び出したジャイロを故郷に連れて帰る旅で、作中 あれほど執着した聖人の遺体ではなく、親友の遺体を持って、鉄球を形見に祖国へ帰る。

ジョニィのモノローグで、この物語は「祈り」と「再生」の旅であった と語られる。
これは作者自身の独白でもあり、
物語世界の再生を目指して、作者自身のあらたな祈りを求めて、スティール・ボール・ランの旅は、巡礼と開拓の旅は描かれていったのだと思う。

「運命」と戦う主人公たち ジョジョシリーズの通観、ジョジョリオンのクライマックス予想

実家に本を取りに行き、ジョジョ5部6部のコミックスなどを手元に取り寄せた。
5部コミックスを47巻から読み直して、5部文庫本あとがきなど周辺の資料を見返していた。

5部文庫本の作者あとがき、ジョジョメノンの作者インタビュー、4部リミックス本の巻末 吉良吉影の出自にまつわるインタビューなど。


5部文庫本のあとがきにて、1~3部、5部に到る作品のテーマが語られている。

3部のDIOは、高祖父(ジョナサン)あるいはそのひとつ上の世代から続く、「宿命」「因縁」の象徴として現れる。
承太郎は、DIO本人に出会ったことは無く、運命的に戦うことを義務付けられるが、一族の誇りを力に戦った という概説だった。

1部→2部→3部の三部作で、大きなひとつの物語、ジョースター家とDIOの対決を描いているのはご存じの通りである。

(ちなみに、5部コミックスを読み返していて、毎回毎回 バトルのたびに細かい展開、二転三転をよく考え続けてきたものだと感心している。
 1部から2部へのひっくり返し、純潔なジョナサンの次が破天荒なジョセフで、一族のルール(=1部での展開)をひっくり返していくのも痛快で、
 武装ポーカーや魔少年ビーティーの頃から一貫して、頓智やトリック、二転三転の駆け引き、クライマックスのどんでん返しが好きな作風だと思う)


3部以降 ラスボスは時間を操る能力者で、DIOからプッチ神父に到るまで、それぞれのやりかたで時を操り、主人公たちの行く手を阻む。
SFのアイデアをアラキ流にパワーアップさせていて面白く、端的にはAV機器の操作ボタンになぞらえることもできる。

5部 キングクリムゾンが登場するくだりを読んで(遅まきながら)気づいたのだが、
ラスボスたちの能力は、時間を操作するというSF的テーマに加えて、「運命」が主人公たちに襲いかかってくる、その象徴として描かれている。

メタ的に見て、ストーリー展開上 最大・最後の障害が「ラスボス」であり、
時間を操作し支配する能力は、作品世界(=運命)を支配する能力だからである。


ジャンプでの週刊連載を読んでいた当時から、
ジョジョのシリーズは4部以降は「外伝」、あるいはファーストシーズン(初期構想)が終わった後のシーズン2、3、4…が続いている気がしてきた。

実際、ジョナサンとDIOの対決から始まったストーリーは3部のラスト コミックス28巻でいったん幕を降ろしているのだが、
椛島編集に賛辞を届けるあとがきの後、幕間を挟んで、
29巻から杜王町の日常が静かに語られ、毎日の暮らしが幕を開けていく。

しかしながら、作者の中にあるテーマ、運命に立ち向かう主人公たちの物語としては、
1~3部のシーズン1を終えた後、4部、5部、6部、7部…と、首尾一貫して、人間たちの物語を描いてきた流れが見える。

たぶん、私がバオー来訪者ジョジョ1部を週刊連載で読んできた(古株の)読者で、
連載当時 ディオブランドーが登場した1部が小4、承太郎とDIOの決着が中3の終わりで、年令的に、少年マンガに最も熱中してハマり込む時期だった。

その頃の印象が強いため、4部5部以降はどうしても「外伝」感を感じてしまうが、
たとえば、私よりもっと若い方で、5部から読み始めた方は5部を基準に前後の物語を読みはじめるだろうし、7部や8部から読みはじめる方もある。
テレビアニメから興味を持ってシリーズ全巻を通して読んでいった方もあるだろうし、
このあたりの感想は、個々人の年令・状況・体験によって、さまざまに幅が出て違いがあるのだろう。


人間賛歌の物語は6部で時間軸が巻き戻り、7部以降の月刊誌連載が続いている。

7部 ヴァレンタイン大統領のスタンド能力は、時間テーマからは外れて、パラレルワールドを操作する能力になっている。

メタ的に見て、AV機器的な時間テーマはネタが尽きており、
物理的世界=作品世界=「運命」をつかさどる究極の能力を、時間テーマ以外の、物理学のさまざまなエッセンスから求めているのだと思う。

私自身 宇宙の仕組みや素粒子の構造を探るような物理の先端分野に疎く恐縮ですが、
「時間」と「空間」が物理的世界を構成する根本の要素であり、
このあたりから元ネタをとって、マンガ的にパワーアップしたスタンド能力が最後に現れてくるのではないか と思う。


8部 ジョジョリオンは、収穫へのカウントダウンがはじまり、
目下 つるぎの行動の謎を巡って、ストーリーが折りたたまれはじめた最中である。

ジョジョリオンのいわゆるラスボス(=スタンド能力を使って戦う、定助の最後の対戦相手)は、
岩人間の医院長、常敏のいずれか、あるいはその両方だろう。

ただし、いわゆるラスボスとのスタンドバトルが終われば物語が解決するかというとそんなことは無く、
ジョジョリオンの主眼は「家族」と「街」を描くことにあり、「現代日本の家族」と「一族の誇り」が回復されるまでは、物語が意味をもって終わることが出来ない。

ストーリー上の最大・最後の障害は、定助たち3人チーム(康穂と豆ずくさん)の未来、東方家と吉良家の未来、呪いの病を誰がどのように克服していくのか である。
主人公たちの生き方を含めて、杜王町の行く末に明るい希望が見えるまでは、ストーリーを閉じることができないだろう。


ウルトラジャンプの最新号 つるぎが血まみれのノリスケをどこかに隠そうとしているシーンは、
「誰がノリスケを殺した(殺そうとした)のか!?」が伏せられており、様々な予想、ミスリードを導入している。

わたし個人の予想では、つるぎがノリスケを殺したのではなく、
何かしら、さまざまな事件、岩人間の医院長とのロカカカ争奪、ホリーさん・吉良との因縁、常敏一家と主人公の争い、ノリスケ夫婦の不和、街と生家を巡るいろいろなウラオモテみたいなものが重なり合って、
さまざまな事情と行く末の果てに、上記のつるぎのシーンに到達するのでは と思う。
(月刊誌連載で、このシーンに到達するまで、1年後、2年後 3つくらいのエピソードを経て、2021年までには到達するんだろうか… しばらく先の話である)

今の折りたたまれた、さまざまな因縁が重なった状況は、
糸がからまって毛玉になったような、あるいは、一枚の紙から折り紙が折りたたまれたような、原型の見えない、複雑怪奇な状況である。

定助と康穂たちの行動が、状況を進めて、ものごとの解決に向かっていくと思うが、
シャボン玉に隠された「超ひも理論」の謎は、どこかの段階で、意味をもって現れストーリーを動かし、ときほぐすのでは と思う。
スタンドバトルの大技として使われるかもしれないし、
こんがらかった状況、キャラクターたちの生命や死、置かれた状況を解決する、なにがしかの超能力を発揮するのではないか と予想している。

ただし、どうやってストーリーやキャラクターたちがラストまで推し進んでいくのか、予想はつかない。
二転三転のひっくり返し、チープなトリックや頓智問答が好きな作風であり、
「魔法の剣」や「超常的な奇跡」に頼らず、主人公たち人間の、現実的な努力にそって解決されると思うので、落しどころが楽しみである。

ジョジョ6部 キリスト教と関わりつつの総括

ジョジョキリスト教の関わりに主眼を置きつつ、6部のストーリーとテーマを総括しようとする記事です。

 


6部は、5部で示された「運命の奴隷」モチーフの進化、「人間は、産まれながらに罪を背負う」ことの深化と追求が図られた。

「罪人」として、罪を背負って生まれてきた(=物語の舞台に登場してきた)主人公。

ジョリーンは、父の愛に恵まれなかった娘であり、
(コミックス1巻のはしがきによれば)聖母マリアさまのような大きな人類愛を持つべくイメージされたキャラクターである。

また、アナスイやプッチとウェザーの兄弟も、罪を背負って登場してきたキャラクターである。

ジョリーンが作中で強くなっていくのは、
父と娘の人間関係を回復し、喪失したものを取り戻し強くなっていくからである。
父のDisc(記憶と能力)をわが身に取り戻す展開は、その象徴である。


連載時 ジョリーンの罪状がどんどん重くなって、物語が膨らみ、どうやって収拾するのか?
脱獄をしたとしても、罪を犯したことの償い、精算をどうやってするのか?と思いながら読んでいた。


敵役のプッチ神父は、(ジョジョ読者であり、正統なキリスト教会の神父さまから見ると)
これは認められないもので、キリスト教とは異なる全くの異端、カルト的な思考・行動の持ち主 という評価であった。

プッチ神父が異端であるのは、作者の意図をもってのことだと思う。

何故ならば、プッチ神父は、作者の宗教観を問い質すために作られたキャラクターだからである。

荒木先生が、(自身の中にあるであろう)キリスト教への矛盾・疑問、自問自答を行い、
既存の宗教観から己の宗教観・哲学を見出すために描かれた、あるいは描きつつそのような意図が深まっていった。
私はそのように思っている。

プッチ神父が「真の邪悪」とウェザーに断罪されるのは、
それだけ、このキャラクターが重い意味を背負って、舞台の役割を演じたことの証しである。

ほとんど神がかり的な、偶然を味方につける力までをもって、
DIOの息子(≒神の子、悪魔の子)すらも味方につけて、
「天国」に向かって、プッチ神父は進んでいく。

果たしてその先どうなるのか?というところで、プッチ神父が物語をグイグイと引っ張り、
立ち姿や身のこなし、いわゆるポージングも気合が入って決まっており、表情や発言にも切れがある。
荒木先生自身 6部の中で、プッチはお気に入りの悪役だったようで、ビジュアルと哲学、行動がバッチリはまって、決まっている実感があったのだろう。


物語の最後 プッチ神父の野望は潰えて、倒されて終わる。

ジョリーンからエンポリオに託されたウェザーリポートの能力が、プッチを倒す。
承太郎からジョリーンへ、あるいはジョナサン・ジョースターの世代から受け継がれた意思や魂の繋がりによって、DIOの一派の末裔を滅ぼす。

エンポリオとプッチ、直接にはジョースター一族ともDIOとも血縁が繋がらない「他人たち」によって、100年余りの善と悪の戦いが幕を降ろす。


プッチ神父が求めた「天国」は、おそらく、ニーチェの超人思想「永劫回帰」にヒントを得ている。

ニーチェは、既存の宗教(19世紀当時のキリスト教)を克服しようと、自らの哲学、生きるべき道筋を思索と著述から見つけ出そうとした。
その苦闘は、プッチ神父の物語にそって、あるいは5~6部を通じて描かれた、作者の苦闘に重なる。

あるいは、ジョジョ1部の開始当初から遡って、もっと遡って作者の幼少時代からの精神的成長の総決算だったのかもしれない。
(荒木先生の通った高校はプロテスタントのミッションスクールであり、幼少時から西洋芸術(絵画や音楽)に造詣深い両親のもとで育ったそうである)


プッチ神父を倒した「正義の力」は何だったのか?
一口で言い切ることはできず、様々な意味、重ね合わせ、象徴の深読みが可能だと思う。

私の思う、気づいたところを箇条書きで述べていくとーー

・超常的な宗教観念に対する、人間の絆

・隣人愛
 (キリスト教の根本であり、イエスキリストが説いた言葉の根本)

プッチ神父とウェザーの間にあった、兄弟の因縁。仏教用語で言う、因果応報

・ジョリーンのベルトバックルに、(たしか、脱獄後 ロメオとの再会話から現れた)「陰陽マーク」を思わせるバックル。
 道教の陰陽、自然を賛美する東洋思想
 
・ジョリーンの最後に現れた、蝶が舞う、胡蝶の夢
 道教の開祖 荘子が語った夢は、(私なりに言えば)「自然に還れ」のテーゼに重なる。

・仏教的な輪廻転生を思わせる、キャラクターたちの魂の転生

最後の審判を乗り越えた先?に、ほんとうの「天国」が有った?
 全てをもう一度やり直す、パラレルワールド、新世界の誕生


ジョジョのストーリーと舞台は、そうして、6部から7部へ、19世紀末のアメリカ大陸に繋がっていく。

7部では、イエスキリストを荒木流に純化・表出したと思しき、「究極の聖人」が登場する。
(7部の劇中 究極の聖人が倒れ、復活し、東方への旅を続けアメリカ大陸に到達するエピソードが描かれる。これはある意味で、「究極の開拓者物語」だと思う)

ジョジョ7部の舞台は19世紀末、1部と同じ時代設定である。

物語世界の原初に帰り、大自然に還って、どんな冒険を描くのか?
作者は、一度終わったジョジョの舞台装置を使って、何を「語り直そう」としたのか。

ティーブンスティールは、なぜリスクを冒してSBRレースの開催を企画し、
ジャイロやジョニィ、レースの登場人物たちは、なぜ、旅に出なければいけなかったのか?

ーーそれはまた、別の話である。

ジョジョ5部 キリスト教と関わりつつの総括

ジョジョキリスト教の関わりに主眼を置きつつ、5部のストーリーとテーマを総括しようとする記事です。

 


ジョジョにまつわる小話として、
連載直前の週刊少年ジャンプに「驚異の二重人格者ジョジョが登場!?」みたいなウソ予告が載ったという小話がある。
(私自身は、その号の予告を見た記憶が無く、インターネットの情報からの又聞きです)

5部の主人公 ジョルノは、遅ればせながら登場した「驚異の二重人格者」と、言って言えなくもない。
正義と悪のハイブリッドであり、神の子と悪魔の子を混合したような生まれ。
(そもそも、DIOという悪役はイタリア語の「神 Dio」から名前を採っているということで、作者の込めた意味は一筋縄ではいかない)

究極の美と正義を体現するものとして、ミケランジェロダビデ像をモチーフにビジュアルが構想されたとも言うし、
あるいは5部開始直前の構想では、ジョルノを女性主人公として描くアイデアもあったらしい。(ゴールドエクスペリエンスの能力は、生命を産む女性のイメージ)

ただし、(ジョルノファンの方々には申し訳ありませんが、)これらの設定・構想が全て盛り込まれ実現されたかと言うと微妙で、
かつて宅八郎とのインタビューで荒木先生が語った「ムリヤリキャラを作って、話を始めた」感じが、ジョルノの造形には漂っている。

もろもろのイメージや設定が活かされていないというか、キャラクターの行く末が見えづらいまま、五里霧中のままで話が始まったような、そんな印象を連載当時に思ったものだった。


ジョルノたち主人公は、物語に登場してきた時点で、ギャング=「罪人」=「悲しい過去を背負っている」。
そこが物語のスタート地点で、そこから這い上がってどう生きるか?が、5部のストーリー展開だったと思う。

キリスト教で、産まれながらに人が罪を背負って生きること。
椛島編集が呟いたであろう「生きていることの悲しさを描きたいよな」というかねてからのモチーフを、
キリスト教文化の総本山であるイタリアを舞台に、ゴッドファーザー的ギャング抗争を描きつつ、キリスト教の骨子を背景に負って描き進めたのが5部だった。

ブチャラティが天使を伴って昇天する、宗教画のような扉絵。

ディアボロ(イタリア語の悪魔)は文字通りの悪魔として現れて、徹底的な悪役・敵役として散っていった。

5部の欠点として思うのは、主人公と敵役のキャラが今一つ弱く、ジョルノとボスの対立位相が今一つ明確でなく、ピントがぼやけている。
(一方、ブチャラティトリッシュの活躍、プロシュートとペッシの奮闘はこれまでに無く新鮮で、面白く描けていたと思う)

ジョルノたちとボスの最終決戦が今一つ盛り上がらないのは、
5部のストーリーが主人公サイドに重きを置いて、罪人たる彼らがいかにして救われるかまでの物語に力点を置いていたからだと思う。

「運命の奴隷」論が登場するエピローグは、ブチャラティたち主人公チームの生き様を補強するもので、
運命の奴隷、産まれながらに悲しい過去を背負った罪人がどう生きていくかのテーマは、5部での語りを経て、6部に持ち越される。


5部文庫本の最終巻に、荒木先生のあとがきが載っていて、かなり思い入れの入った、熱い文章が描かれている。
たしかジョジョメノンのインタビューでも「5部はジョジョの神髄。ジョジョのテーマを深く描き切った」との自負が述べられていた。

(一読者に過ぎない)私としては、作者のそこまでの思い入れに違和感を覚えるところもある。


下記 あくまで私自身が読者として受けた感想であり、作者の背景・事情を全て知った訳も無く、主観と憶測によるものですがーー

5部は、ネタ切れ、長期連載のきしみと歪み、商業誌連載のトップとして、様々な重圧があった中で描かれた作品である。

ユリイカ 斎藤環氏によるインタビュー、ブブカ 宅八郎との対談による印象もあるかと思いますが、
作者が「苦しみつつ、乗り切って描いているな」という印象が強い。

描くべきストーリーが見当たらず、キャラクターも無く、何も無かった出発点からキャラクターが出来て、
キャラクターを動かしていく内に、テーマを背負った物語が出来て、然るべきところに落ち着いた。

それが、作者が述べるところの、「苦しいときに吹いてくれる、黄金の風」だったのではないかと、不遜ながら思います。

「運命の奴隷」として、運命に抗い、運命に従い準じて生きて、やがて死ぬ。
ブチャラティたちの苦闘は、そのまま(5部執筆当時の)荒木先生の苦闘であり、
だからこそ、作者にとって最も思い入れ深く、真髄を描き切った作品だと、掌中の珠を愛しんでおられるのだと思います。

ブチャラティナランチャの対話が印象的なエピソードのタイトルは、ジャンプ掲載時「ボートに乗るのは!?」だった。
プリンスの曲 Get on the Boatノアの箱舟)にイメージが重なる、既存の社会組織、既存の世界からの脱出である。

ジョジョ5部と6部の難点 (ジョジョとキリスト教の関わり、端書き)

仕事の関係でキリスト教とそれに類比・対置する思想哲学を調べる必要があって、自分なりにあれこれ読んでいた。
まだまだ調べて実践し、確かめている最中であるが、
途中でふと気がついたことがあり、
ジョジョのシリーズ、中でも5部と6部、7部以降の展開は、キリスト教の解釈と深く関わっているのではないか」
ということだった。


私の手元には今日現在、ジョジョの5部と6部だけが手元になく、(昔に読んで)実家に置いたままになっている。
結婚をして実家を出たときにほとんどの本を実家に置いて、(結婚後)順次刊行されるSBRの単行本を手元に置いていた。
その後 きっかけがあり、最近になって1~4部までの単行本を手元に取り寄せた。

私にとって、ジョジョ5部と6部は捉えづらく、率直に言って手放しでは絶賛しにくいシリーズであった。

お断りとして、下記 5部と6部を部分的に否定、disる発言を行っていきますが、
私個人の見解であり、自由な意見としてご容赦頂きたいと思いますーー

 


ジョジョシリーズを1部から7部まで通して読んできて(8部は未完のため対象から除外)、
5部と6部は、他と較べていくらか落ちる。

理由はいくつかあって、
・3部、4部からのスタンドバトルで物語を繋ぐ連載形式に飽きていて、マンネリ感が強い

スタンド能力が分かりにくく複雑になり、頓智を掛けあってバトルが二転三転する爽快感が無くなった

・絵柄、コマ割りに癖が強くなって、読みにくくなった

・何となく読んでて息詰まる感じがあり、楽しい、広々とした感じに欠ける


加えて、キリスト教などの勉強をしていて気付いたのが、

キリスト教を対象とした宗教・哲学の議論が物語に入り込んでいて、複雑で、読みづらい話になっている

ということだった。

荒木先生が、自分自身の宗教観・哲学思想を整理し、まとめ直しつつ、ストーリーやバトルの裏側で自問自答し描こうとしている。
だから、背景にあるルーツ(キリスト教)を知らないとエピソードや場面場面の意図・象徴が見てとれず、読み取れない。
5部と6部の分かりにくさ、読みづらさには、そのような事情があったと思う。

近作 SBRで言えば、シビルウォーの贖罪の話。
ホットパンツはなぜシビルウォーに勝てなかったのか、罪を清めるとはどういうことなのか。
キリスト教の知識と物語を知っていないと、モチーフの挿入された意味が分からない。

ちなみに、7部 SBRの全体を貫くキーワード、大きなモチーフは「開拓者の精神」であろうと、私自身は受け取っています。

そして、次の記事から、5部と6部におけるキリスト教の解釈と展開、それぞれのストーリーとテーマの全体像を、私なりに追っていきたいと思っています。

「お伽草紙」と「人間失格」  太宰治と吉良吉影のアント/シノ的二元論

(下記 ほとんどジョジョと関係ない記事であり、私の読書メモです。
 ジョジョリオンの連載は次号休載、つるぎと密葉の行方が気になりますが、幕間の暇つぶしとしてご覧ください)

 

仕事の参考に、ふと太宰治の「お伽草紙」を手にとって読んだところ、とても面白かった。
続いて、太宰治の暗いほうの話、「人間失格」を中学2年生のとき以来読み直した。

中学2年生ーー文字通りの中2病ーーのときに、人間失格というタイトルはインパクトがあってビビッと来て、
「ワザ、ワザ」と「二匹の動物がいました」の2フレーズに強いインパクトがあり、ネガティブな感じに嫌悪感を覚えつつ感動した。

その後、19才くらいのときにアンチ自殺論みたいな本(林田茂雄の「自殺論」)を読んで、たぶんその中に「自殺は良くない、エゴの象徴だ」みたいな太宰治批判に納得していた。
(ちなみに、高校生くらいのときに「だからたけしは嫌われる」という無名のライターが書いた黄表紙の書籍があり、当時 たけしに飽きていた自分は納得しつつ読んだ。
 自分の意見でものを述べるにはまだ到らず、他人の批判・言説を読んで、我が意を得たりと納得していたのだと思う。

19才になる同じころ、テリー伊藤が書いた「王さんに抱かれたい」を読んで感動していたのだから、青年の悩みは深刻だったのか朗らかだったのか、よく分からないところだった)

 

ーーそれからずいぶんと時間が経って、お伽草紙「浦島さん」から読み始めたところ、とても面白く、
同じ本(新潮文庫お伽草紙)に入っている「清貧譚」も面白く、次いで、反対方面(?)の人間失格を、青空文庫にて読んだ次第である。


人間失格は、荒木先生が「マンガ術」で述べたところ、マイナスの極致を追求する作品である。
少年マンガにおける黄金則 プラス、プラス、プラスのストーリー作りには当てはまらない。
キン肉マンのようなプラスプラスのストーリーづくりに飽きた読者(中2)が読むのに、おあつらえ向きだった訳である。

中2で読んだときは、「葉ちゃん」の幼少期のエピソードにグッと来て、自らと重ねつつ読んだものの、東京に出たくらいからストーリーがよく分からなくなった印象がある。
読者の私に、お酒や女性の経験が無く、人生の実体験に乏しかったためで、今回 読み直したときは、そこらの実体験を踏まえつつ読み進むことができた。


私の乏しい文学知識で述べると、夏目漱石芥川龍之介太宰治の3人は、間違い無く面白く、天才と呼んで差し支えないと思う。

太宰治が暗いのか明るいのか、どちらの作品がほんとうなのかみたいな議論があるが、どちらも本当だったと思う。
お伽草紙」と「人間失格」、作品の色合いは違うがそれぞれに面白く、作者の通底した視点、醒めたシニカルな物言いが面白い。

人間失格のあとがきは切ないしめくくりになっていて、
「私」(=若かったときの自分を振り返る、作者としての私)と「バーのマダム」が葉ちゃんを振り返り偲ぶ会話で物語が締めくくられる。
手記を読む内に、主人公と自分を重ねて読んできたのが、ここでパン!と仕掛けが解かれて、現実に引き戻される訳である。

「罪の対義語(アントニム)は何だろう?」という問いへの答が得られないままに手記が終わって、
バーのマダムが最後に、「あのひとのお父さんが悪いのですよ」「神様みたいないい子でした」と言う。

複雑な意味が込められてあって、ウラオモテがあり一口に言えないが、切れ味のいい言葉をアタマと〆に持ってくるのは、マンガと同じく物語作りの鉄則だと思う。
(ちなみに、今 私がキリスト教のにわか勉強をしていることもあって、人間失格のそこかしこに、ラストのマダムのフレーズを含めて、キリスト教的な愛に近づきつつそこに行きつけないとする、作者の思いを感じてしまう。誤解かもしれませんが…)


ーーすっかり長文になってしまいましたが、このブログ記事で書こうと思った本題は下記のところ、
吉良吉影太宰治に似ている、重なっているところがある(シノニムの関係にある)」です。

人間失格の中に、クロオの詩から、こんな一節が引用されています。


してその翌日も同じ事を繰返して、
昨日に異らぬ慣例に従えばよい。

即ち荒っぽい大きな歓楽を避けてさえいれば、
自然また大きな悲哀もやって来ないのだ。

ゆくてを塞ぐ邪魔な石を
蟾蜍は廻って通る。


私がこれを読んで浮かんだのが、吉良吉影が4部終盤でつぶやいたセリフです。
「激しい喜びはいらない…そのかわり深い絶望もない…… 植物の心のような人生を… そんな平穏な生活こそわたしの目標だったのに……」


太宰治が引用したクロオの詩 全文は、「上田敏訳 牧羊神」で読めます。下記 青空文庫にあります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000235/files/51173_42027.html

お読みいただくと分かりますが、元の詩はネガとポジを対比させるキリスト教賛歌になっていて、
太宰治は意図的に、この詩のネガな部分だけを切り取って、自分の物語として、もっとよい詩に作り直しているところが素晴らしい腕前だと思います。


最後に、完全な思い付きですが、4部吉良吉影のビジュアル上のモデルは、たぶん、デビッドボウイの若いときのイメージから幾分の着想を得ているかと思います。
(私を含めて、世間の読者たちから見て)吉良とデビッドボウイの顔姿がそっくり、印象も重なっているからです。

同様に、8部の吉良吉影 セーラー服を着た医者、黒髪のクセッ毛に特徴があり、シニカルな物言いと母親思いの真情に特徴があります。
8部の吉良吉影 ビジュアル上のモデルは、太宰治にあったかもしれない。
たぶん、荒木先生の胸中にそうした繋がりは無かっただろうと思いますが、個人的には、8部の吉良吉影と、太宰治(作家として作品に描かれた姿)は重なりました。

太宰治が頬杖をついた肖像写真、芥川龍之介を真似てポーズを取った写真、銀座のバーで織田作之助と歓談していたときの写真なんかを思い起こしていただければ、
吉良吉影太宰治は似ている!」と、ご納得いただけるのではないかと思います。

ジョジョリオン 「収穫へのカウントダウン」

ジョジョリオンの連載をけっこう楽しみに毎月読んでいて、ウルトラジャンプでは他に、オオカミライズともののがたりをある程度楽しみに読んでいる。

メランコリアは、最初の数回 面白かったのだが、話が繋がっているような繋がっていないようなややこしさを感じて、あまり良く分からなくなってしまった)


今月号 「収穫へのカウントダウン」は、康穂の三角関係とつるぎ母子の因縁が描かれはじめた話で、ボーイスカウトの意地悪さが小気味よい。魔少年ビーティーの一話以来で、懐かしさを感じる。


5chでジョジョリオンの感想を読んでいると、なぜペイズリーパークでロカカカの枝を追わないのか? と指摘があり、言われてみればその通りである。

康穂と定助を引き離して、枝争奪と恋愛成就を引き延ばすための措置であり、キャラクターやストーリーをどう描くかが「先」で、スタンド能力の使い方の有無は、ストーリー展開にあわせた「従」なんだろうと思う。


スタンドバトルのトリックや辻褄を追って読むと、今のジョジョリオンはけっこう辛い。3部~5部くらいまでの頃と違って、6~8部、とりわけジョジョリオンに到ると、二転三転のバトルにはあまり重きを置いてない感じがする。(個人的感想ですが)


映画や小説、マンガを見ていて、ストーリーのこの先はどうなるんだろう、キャラクターの行く末は、作者が舞台の裏に込めたテーマは何か? そういうものを追いながら、先へ先へ進んで、あーーっというラストの満足を求めて、最後まで鑑賞していく感じがある。

ドラゴンボール ブロリーの映画を観ていて、ストーリーの大筋はだいたい予想がつくものの、チライがブロリーに駆け寄っていって、クライマックスでドラゴンボールを使うシーンは、あーーっという感じになり、それなりの満足感があった。

否定的な意味のマンネリではなく、予定調和、安心感、落ちるべきところにストーリーが落ちることの満足感、と言う感じである。

ジョジョリオンの、向う1年くらい(?) クライマックスに向けての展開は楽しみで、主人公たち、東方家、ホリーさんの三者模様をどうまとめるか。

登場人物それぞれの悲喜こもごもがある筈で、「犬神家の一族」的盛り上げ方を期待している。

 


追伸:
先日 本屋さんに行ったら、岡田あーみん「こいつら100%伝説」と「ルナティック雑技団」が復刻されていて驚いた。
さくらももこ追悼フェアとして、ちびまるこちゃん他 一連のコミックスがズラリと並んだ横に、端っこに岡田あーみんの作品が並べられていた。
コミックの印刷日を見ると2018年11月とあり、さくらももこさんの死去後 急いで増刷されたことが分かる。

去年の夏 岡田あーみんの2作を読みたいと思って探したが、何千円もする中古本しか出回っておらず、困っていたのでビックリした。
さくらももこが亡くなって、懐古的にちびまるこを読む人が増えるだろうからついでに岡田あーみんも印刷しておけ、という明らさまな出版社の態度が面白かった。
(気迷ったが、結局 岡田あーみんのコミックを購入し、春までに読んでみよう と思っています)