ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

「何が起こっているのか分からない」 ジョジョに特徴的な場面描写

ウルトラジャンプ 2019年7月発売の最新号を読んだ。
常敏・つるぎとオージロー、マコリンの戦いが描かれた話で、スピーディーに決着して面白かった。

常敏のスタンドがどのような罠をしかけたのか、オージローはどうしてプールに飛び込み、マコリンは誰の携帯電話を取ったのか?
一読したときはよく分からず、何が起こっているのか分からなかった。

時間を置いて読み直して、常敏が自室でサイフ、携帯電話に罠を仕掛けていたこと。
オージローとその仲間を追跡するためにオージローを逃がし、即死させず、アジトと仲間にたどり着いたところで2人を倒したことが理解できた。

次号以降 オージローが撮影した動画が保護者連に拡散され、さらなる厄災が襲ってくるのか? ちょっと予想が付かない。
東方フルーツパーラー、吉良家の家族たち、岩人間の野望を含むところで、次号以降の展開が進むのだろう。


ジャンプと同日に発売されたコミックス21巻を読むと、毎月の連載を読むよりも通じが良く、
コミックス1巻単位くらいで、話がすこしずつ進み、キャラクターの動静が描かれ、積み重なりつつあることがよく分かる。

モカンと吉良ジョセフミの過去編からジャンプを毎月 読みはじめたが、
ジョジョリオンの話は、コミックス数冊を通して読んだほうが、エピソードの通りが良く、話の力点がよく分かって読みやすいかもしれない。
雑誌の紙質は汚く、コミックスのほうがきれいな紙で見やすいので、そちらのほうが読みやすい ということもある。


何が起こっているか分からない場面描写というのは、ジョジョに特徴的で、
トリックや駆け引きを散りばめる戦闘描写、
キャラクターやストーリーをあまり説明しすぎず、テーマや作者のお説教を表に出し過ぎず、
スリルとサスペンス、ホラーやグロテスクを前面に出しつつ、物語を紡ぐ荒木先生の創作技法によるものだと思う。


21巻で描かれた、常敏親子と小学校同窓生・教師たちとのやりとりはかなり面白く、
教職員として勤務経験のある自分には、ウンウンと頷きながら面白く読めた。

荒木先生が言うところ「キレイでないほうの現実」、醜さや酷さというものが世の中には確かにある。

そして、それらを説教臭くないかたちで表現する、
ただのグロやホラー、エロ描写で終わらせるのでなく、それらに対置、対抗する価値観を出して戦わせつつも、全体としてはエンターテインメントであるというのが、
ジョジョの、荒木飛呂彦作品のオシャレなところだと思う。

誤解を招く表現かもしれないが、ひらたく言って、「バカでも分かるように」説明はしない。
噛んで含めるように何でもかんでも説明しないので、初めて読んだときには分かりにくい。
それが流儀なのだろう。


ジョジョをめぐる感想を読んでいると、スタンド能力のあれこれの予想や分析、バトルの展開の良しあしを楽しみ批評する声が多い。
バトルや超能力の面白さが展開の機軸を成しているのは確かなのだけど、
私個人としては、ストーリー、キャラクターの流れ、展開のうねり、絵、コマ割りで表現される場面展開の表現力、そういったものを楽しみに読んでいる。

院長先生のスタンド能力は、たぶん、因果律、運命を操作する能力で、これまで杜王町に起こった不可思議な事象、つじつまの合わない展開とかも、
すべて、院長先生の能力で、主人公達はワナにかかっていたのだ…… みたいな展開が、ありそうな気もする。
ふた昔前の特撮、マンガでよく有ったかんじのアイデアで、終盤にちゃぶ台がえしをするだけでは面白くないので、もう二ひねりくらい有る気がする。

定助のシャボン玉が超ひも理論にあること、
常敏が熱をコントロールすること(エシディシ、バオーのウォーケンを連想させ、何か自然物理の根本からエッセンスを取った能力が出てきそう)、
医院長 明負悟の、運命や因果律を操作する能力。

トオル君・康穂との三角関係、常敏・つるぎを中心とした東方家の問題、ノリスケと花都の関係。
ホリーさんと岩人間の因縁から、ロカカカの実は果たして誰のためのものなのか というところで、
スタンドバトル、キャラクターたちの因縁を含めて、これからまとめていくネタは沢山ありそうだ。

東方家、吉良家、岩人間、さらには杜王町の住民たちが加わることで、
わりと生々しい感じの、理想的では無いイヤなところもある現実の人間たちが相まみえる展開は、なかなか面白い。

写真を合成して描く背景描写が、絵の全体的な質感、パースが微妙に揃っていなかったりするところもあるのだけど、
「リアルな現代日本の風景」を描きたい という、荒木先生の創作意欲から来るものなのだろう。

ここから先、未知の強敵みたいなものはもう出てこなくて、ストーリー、キャラクターの行く末をまとめにかかっているところだと思う。

台所のシンクで言うと、洗い物の水がゴゴゴゴゴッと音を立てて、渦巻きになって流れ出しているところで、
排水完了した後、シンクの排水口にいったい何が残っているのか?
美しい何ものかが顕れているのか、ゴミのような無残な現実が残っているのか 次号をお楽しみに、といった按配であった。

プロ野球、キン肉マン、ジョジョ 豪傑たちの生き様を追う

ジョジョと殆ど関係ない記事となり、すみません。
ジョジョリオンの連載を毎月読んでいますが、月刊誌ゆえか展開が遅く、こまめに感想を語りづらい雰囲気があります。
オージロー再登場の意外さ、つるぎと同級生 子どもと保護者たち、黒柳徹子のような学校長の陰険なやりとり、どちらにも非があり救われない感じは面白い。
スタンドバトルに入ると長くなってダレて、もっとテンポよく、キャラクター同士のかけあいを進めてほしい… というのが、最近の読後感です)


昨日 プロ野球オールスターゲームの第2戦にて、阪神の近本選手がサイクルヒットを達成。
打った近本は見事だが、パリーグの野手が怠慢な守備をしてわざと三塁打にしたことが、インターネットで賛否を呼んでいる。

個人的には、このようなやらせ、ファン感謝デーでやるようなおふざけはキライで、
お祭りごとの意味、ファンが何を喜ぶかの意味をはき違えているのではないか と思う。

落合が中日の監督をしていたとき「勝つことが最大のファンサービス」と言い、
2007年の日本シリーズで、山井が完全試合を達成する目前で岩瀬に交代させ、1-0で勝利、日本シリーズを勝ち抜いた事例があった。

前田智徳がアキレス腱を切って試合復帰した1996年頃、「もっといいプレーがしたい」とテレビ局のインタビューに呟いて答えていたが、
彼らが体現していたような真剣味は薄れてしまったのだろうか。

オールスターゲームは公式戦でも日本シリーズでもない、いわゆる花相撲の色合いがあり、年俸査定に含まれるのかどうか知らないが、
いつの間にかプロ野球は、私がよく観ていた1990年代からさらに変わって、何となく得体の知れない、さみしいものになってしまった気がしてならない。
とても残念だった。

さらに寂しさを募らせるのが、(この事件が起きたのが土曜日の夜、翌日は日曜日とあって)
ここは張さんの出番だ! サンデーモーニング 8:50にチャンネルをあわせれば、きっと張本が、今日現在のたるんだプロ野球選手に喝を入れてくれるに違いない!
と望みを抱いてサンデーモーニングを視たところ、
張本と田尾は、近本のバッティングフォーム 右の足が上がり過ぎ、左の手が入り過ぎていたが、昨日は良くなっていたので後半戦からはもっと活躍するはずだ と、
(私からすれば)どうでもいい技術論を述べるばかりで、かつての張本の牙は抜かれ、魂は削げ落ち、ただの好々爺になってしまっていたことがショックだった。


今年の4月1日から元号が変わり、平成は終わって、令和元年がスタートしている。
自分にはあまり関係が無いとうそぶいていたが、思わぬところで、日本社会の老い、移り変わりを実感した。
昭和は遠くなりにけり というフレーズがあるが、プロ野球の変節に、それを痛感した。

ついでのように言うが、先日 東京FMのニュースワイドを聴いていて、
「1980年代 少年ジャンプを代表するマンガは?」というアンケートがあり、回答の選択肢がドラゴンボールシティハンタージョジョ、その他マンガ 4つ。
1位 ドラゴンボール、2位 シティハンター、3位 その他、4位 ジョジョだった。(2位と3位は逆だったかもしれず、すみません。1位 ドラゴンボールが40%くらいの得票を集め、総回答数は2~3000だったと思います)

このアンケートを聞いて違和感を感じたのは、
1980年代のジャンプマンガといえば、鳥山明の2作品、キン肉マン北斗の拳キャプテン翼、聖闘士聖矢といったあたりで、80年代 ジョジョは決して人気作では無かった。
司会の鈴村健一は、ジョジョは連載が始まった当初 変なマンガという認識で、人気作ではなかった と述べていたが、そのとおりだった。
相方のハードキャッスルエリザベスは、ジョジョを知っているがキン肉マンは知らないという雰囲気で、何ともいえない世代ギャップを感じた。

おおげさにいえば、歴史認識というものは、こうやって、少しずつ入れ替わり、事実と食い違っていくのかもしれない。

日本プロ野球で、沢村栄治の速球は時速160kmを超えていたのか?みたいな議論があるが、客観的証拠が残っておらず、事実を正確にたどることが難しくなっている。
ジョジョを含めたジャンプマンガを巡る事情も同じで、客観的データが残っていても、歴史が書き換えられ、宣伝され、そのときどきの都合に良いようにゆがめられてしまうことがままあるかもしれない。


TFMのニュースワイドでは、鈴村健一と、(ねとらぼ?だったか、うろ覚えですみません)ニュースサイトの運営者が語り合っていて、
運営者さんの個人的一押しは、「銀河 流れ星銀」。犬が熊と戦う話で、作品説明を聞かされたハードキャッスルエリザベスは勝手が分からずポカンとしていた。

自分がはじめて少年ジャンプを読んだのは、1983~84年頃。
母親は最初 月刊少年ジャンプをまちがって買ってきて、兄がひどく怒った後、次に母親が買ってきた週刊少年ジャンプの表紙が、「銀河 流れ星銀」だった。

話がまとまらなくなってきたが、銀河 流れ星銀、魁! 男塾、北斗の拳のような破天荒なマンガ、豪快さ、豪傑の生き様を描いたマンガが減ってきたように感じて、少し寂しい。

1980年代前半 自宅近所にあった商店で、ドカベンの載ったチャンピオンを読んで、えらく汚い絵だなと思った記憶がある。
ドカベンあぶさんで描かれた昭和の「旧き良き時代」が移り変わり変質していくのは、ある意味で当然で、平成元年に建った建物が築後30年を超え、老朽化が進んでいる。

プロ野球の真剣勝負としての面白味が薄れていくのは寂しいことで、
かつて水島新司先生がチャンピオン巻末などで述べていた「日本のプロ野球が大リーグに勝ち、日本プロ野球こそを野球の本場として発展させたい」が、ものごとの本筋であるとは、今でも思う。

日本プロ野球が大リーグの下請け、4Aリーグみたいになってしまっているのは寂しいことで、
私は国粋主義者では無いが、日本プロ野球は日本プロ野球として、大リーグに負けない、日本独自の魅力を保った、地域社会に根付くものとして今後も発展を続けてほしい。

オールスター戦の花相撲は、その精神性において大問題であると言わざるを得ないが、かつて喝を入れてくれた張本はもう居ない。大沢親分ももう居ない。
そもそも、サンデーモーニングで喝とあっぱれを入れつつ適当なコメントをするだけの2人の爺さんに、何を期待して見ていたのか という向きもある。


豪傑の生き様を描くという意味で、1980年代ジャンプマンガの2つ、キン肉マンジョジョには、今でも大いに期待している。

実のところ キン肉マンの始祖編をまだ読んでおらず、シルバーマンがサイコマンと戦いはじめたあたりからしか読んでいないので、
何かの機会にヒマを見つけて、キン肉マン 王位争奪編後の展開を読み込んでみたいものだ と思っている。

ジョジョは、キン肉マンや男塾と重ならない点、荒木飛呂彦ならではの個性・表現も散りばめられているが、
読者の胸を熱くさせる少年マンガ、豪傑、男の生き様を描くという点で、彼らの描く作品には共通した個性がある。

スティールボールランは男2人の長旅もので、男の生き様を描く熱い話だった。

ジョジョリオンは、スティールボールランの裏、違う要素を取り入れて描いている節があって、主人公 定助のアイデンティティー探しに重きを置いている点が、(すでにオッサンとなった)自分にはまだるっこしく、じれったい部分もある。
フルーツ店の長男として、大家族の次期家長として苦悩する常敏、常敏から見た両親と妻、子どもたちのドラマが、クライマックスに向けての楽しみで、
常敏の行動に対する「裁き」、作者がどのような因果応報を提示するのか が読みどころと思って、期待をしている。

キン肉マンでは、キン肉マンソルジャー(アタル)が登場したのは良いのだが、
サタンと戦う、神を超えるか超えないかみたいな話がかったるく、そのあたりのテーマを超人プロレスに載せるのはムリがあるんじゃないか と勝手な心配をしている。

そもそもが、シルバーマン、ゴールドマン、ザ・マンの戦いを描き切ったところで、「神」のテーマはすでに描き切っており、
次のシリーズでさらにスゴイ、ザ・マンを超える強い男、同一路線でさらにスゴイ敵を出すのは難しいんじゃないか と思っている。

とは言うものの、ジョジョと違って、キン肉マンは同一の主人公(スグル)が主役を張りつづけて数十年 戦い続けているわけで、
物語を破たんせずに、読者に面白いと思わせ続けている時点で、ゆでたまご先生は只者ではない。

荒木飛呂彦が同い年のゆでたまごをライバル視し、近年 ジョジョ展大阪展を海遊館ヨコで開催するまで、大阪に足を踏み入れたがらなかったのも頷けるというものである。


ーー好き勝手なことを書いているが、この先、ジョジョキン肉マンの連載がどのように展開していくのか 楽しみに読んでいきたいと思う。

「海獣の子供」感想

ジョジョとほとんど関係ない話題で恐縮ですが、映画「海獣の子供」を観に行った。

 

宇宙が人の形(頭があって、胴体や手足がある)になって、宇宙=人=地球を表現するのは陳腐でどうかと思ったが、全体的に映像が凝っていて、どこまで凄いモノを見せるのか?みたいな意味で、満足感のある映画だった。

映画のラスト 海から光が立ちあがって、キラキラと空に立ち上っていくところ。

主人公達が空から地上に落ちてくるところで見えた、海の緑っぽい色合いとキラキラした小波がとても美しかった。


小学校高学年の子供と観たのだが、
クジラの体内でのシーンは精子卵子が結合して、受精卵から命が産まれたのを意味してるのだろうか? と話してきたのに、すこし驚いた。

空君が光になって海に消えていったのは、E=mc2を意味していると思うが、映画を観た直後 子どもに、あのシーンは相対性理論から来ていて、光が現れたり消えたり入れ替わったりして、理科や科学を習っていけば分かるが……と説明したが、よく分からない説明だった。

隕石のかけらを女の子が託されるくだりは、ジブリ映画 ハウルの動く城の、星を飲みこんで手放して…というくだりを思い出すところがあった。

 

この映画がいわゆるスピリチュアル、宗教がかってモヤモヤした感じがよく分からない という感想を散見するが、私自身は、この映画に宗教性は感じなかった。

自然賛美、生命の神秘を讃えつつ、海洋や宇宙の謎を折り込み、大きな絵を描きたかった映画なのだと思う。

 

この映画を観ていちばん驚いたのは、映画原作者(マンガの作者)が男性だったことである。

映画を観ながら、主人公のデザイン、女の子と男子2人の三角関係っぽいストーリーテリング、女性賛歌っぽい世界観から、この話を考えたのは女性、20~30代の若い女の人が自然や宇宙好きで、少女漫画っぽい、SFを絡めた話を頑張って描いたのだろう とテッキリ思い込んでいた。

同作品の作者は五十嵐大介氏、執筆当時 40歳前後のオッサンだったということを知って、とても驚いた。

 

荒木飛呂彦いわく、創作の秘訣は「この世界は美しい と念じること。まだまだ謎がある、何でも描けるって思うこと」で「自分で自分に限界をかけることがいちばん良くない」らしい。

(各種インタビューから、私が今思いついたかぎりの要約です)

 

海獣の子供は、映画・映像の面白さもさることながら、原作者の意外性、これを観た観客たちの分かったような分からない反応も含めて、世界の広さ、人間の謎をうかがわせる興味深い作品だった。

 

 

正統と異端 (オカルトとは何か)

2014年の春 このブログで、「ジョジョはなぜ気持ち悪いのか?」という記事を書いたことがあった。

ジョジョは、なぜ気持ち悪いのか? - ジョジョ読者のブログ

 

当時 ムーなどの編集によるミニムック、拷問と処刑、天使と悪魔、心霊現象やカルトを取上げたものを数冊買って、ヒマつぶしに読んでいた。

「人間はどこまで異常になれるのか、人間はなぜ、ときとして異常を求めるのか?」という根源的な問いもあったかもしれないが、ムーのムックに求めたのはやはり、刺激的な娯楽・慰安だったと思う。

 

これらのあやしいミニムック(学研が版元になっているところが面白い。私は学研の「科学と学習」、マンガ偉人伝で育った世代である)を読んで、ああこれはジョジョっぽいな…と思って、上記の記事を書いたのだった。

 

そして最近、キリスト教福音書を読んでいたところ、

ヨハネ福音書をはじめとする普遍的な、正統な福音書と、トマス福音書ほかの正統誌からは抹消された福音書があることを知った。

「異端」福音書を取上げた本は玉石混交で、著者の立場や主張が色濃く編集されたものも多く辟易したが、これはまさに、正統福音書の編纂過程で起きたことのミニチュアだと思った。

この1~2か月で読んだキリスト教関係の本の中では、「禁じられた福音書ナグ・ハマディ文書の解明 エレーヌ ペイゲルス (著)」という本が抜群に面白く、内容が明解でよく整理されており、女性の著者の温かい人柄がにじみ出ていてとても良かった。

英語の原題はBeyond Beliefで、皮肉めいたダブルミーニングになっているらしい。(極東ブログというブログに、この本の書評があり、ダブルミーニングの由来をはじめ、含蓄深い記事を書かれています)

 

そして、正統と異端、カトリックとオカルトの対立というモチーフは、

まさに荒木先生が描いてきたジョジョ、アラキマンガの通奏低音(≒通底するテーマ)であったと思う。

少年時代に悪魔的なロックにハマっていたこと、荒木先生のおばあさんが東京に住む孫を心配されていたとか、作者個人のエピソードから取り上げることもできますが、

何より作品の中に現れている。

魔少年ビーティーの逆説的ヒーロー性、バオー来訪者の異端の悲しみ、

そして、ジョジョ1部以降に紡がれたジョースターとディオを中心とする物語の数々。

 

近年の著書(マンガ術と映画エッセイ)にて荒木先生は、

イーストウッドをはじめとする名優・名監督、ホラー映画やサスペンス映画の名作を賛美すると共に、究極のヒーロー像として、イエスキリストを挙げていた。

(私の解釈では)「隠れて善を行う、孤独に生きて正しいことを貫く人」というイエス像※を述べていて、

ジョナサンを典型に、言うまでもないことだが、荒木先生の哲学や実体験、人生を重ねて得られた認識といったものが、ヒーローや悪役の造形に反映されているのだろう。

 

※ちなみに、荒木飛呂彦の漫画術 第三章キャラクターの作り方 より、原文は下記の通りです。

 

主人公は「善なるもの」であり、さらに「ヒーロー」である必要があります。ここでヒーローの条件が何かと言えば、実は、孤独である、ということです。

究極の選択を迫られたとき、それは主人公だけが解決できる、というものでなければいけませんし、自分の力でその難問を解決しなければならない主人公の立場は、どうしても孤独にならざるを得ません。

 

 (中略。5部 ブチャラティチームの主人公たちが、チームであってもはみだし者同士の集まりで、戦うときはそれぞれが孤独である旨を述べる)

 

社会のルールから認められていなくてもかまわない、たとえ孤独であっても大切なものを追い求める、これが最も美しい姿ではないでしょうか。

究極のスーパーヒーローは、イエス・キリストのような人物です。誰かに崇められはするが、お金をもらったりするわけでもなく、ひっそりと死んでいくかもしれない、それでも自分の中の正しい真実を追う人、それが、ヒーローなのです。

 

(以上、引用終了。この後、クリントイーストウッドの描いたヒーロー像を述べた後、承太郎をはじめとする主人公たちのキャラクター造形に話題が移っていく)

 

 

ーーまとまりのない記事になりましたが、私としては、ムーの編集によるミニムックは案外あなどれず、天使と悪魔という一冊は、ドギつい見出しやエグい臭みも多かったが、宗教史や神学の内容をよくまとめてあり、常識をくつがえす驚きがあった。

ムー本誌を買ったことは今まで無く、これからも無い気がするが、一連のミニムックはよい買い物だったと思う。出会いに感謝したい。

 

 

追記:

この記事を書いた後、ふと 情報を検索したところ、ムー編集者(TVの心霊番組なんかに出ている、三上編集長)のインタビューがあった。

小学館 学年誌編集者(切通理作氏の著書にある、上野氏へのインタビュー)と同じく、子どもの頃に読んでいた本の舞台裏、謎を探る試みは刺激的で面白い。

 

三上編集長のインタビュー 一部を抜粋・引用しますが、ほとんどそのまま、ジョジョの製作スタンスだ… という感じです。

荒木先生は、2003年 週刊少年「」というTV番組の取材で、「座右の銘 あらゆることを疑う」と述べていたことがあった。

古代ギリシア犬儒派キュニコス派)よろしくシニカルで醒めた物言い、神秘的なものに魅かれつつそれを疑い、自らの立ち位置と血肉、「人間らしさ」(人間賛歌)を失わない姿勢が、荒木先生の創作スタンスなのだと思う。

 

月刊「ムー」40周年記念展を開催! 編集長が語るオカルトとの距離感 |好書好日


――世界のオカルト事象を次々と紹介しては、オカルトブームを牽引していきました。いっとき、類似誌が多数、発刊されましたが、今も続いているのは「ムー」だけですね。「生き残れている」理由とは。編集方針に特色があるのでしょうか。

 方針で言えば「ノンフィクション・ミステリー」なんですね。ミステリーというと、推理小説の意味合いが大きい。なので、敢えて「ノンフィクション・ミステリー」。「世界の謎と不思議に挑戦する」というテーマを掲げているんです。超能力とか心霊、魔術など、要は教科書で扱わないような、「本当かな?」みたいなテーマの括りで企画を集めると、ともすれば、「トリックだ」とか、初めから「こんなのあるわけないじゃん」って思われてしまう。

 そこで作り手が、こういうジャンルに対して小馬鹿にするような態度、スタンスだと、思いっきり誌面に出てしまう。かといって、思いきりハマっちゃうと、読者がドン引く。「これ、ヤバイ雑誌だよ」ってなる。競合誌が今までいくつかあったんですが、どれも続かなかったのは、おそらくそういう理由だったと思うんです。

――小馬鹿にするのではなく、のめり込み過ぎず、真摯に向き合う姿勢こそ大事ということですか。

 「やらせ」みたいなことは一切していない。ただ、どんな突飛な説でも、仮説として提示するのは良い。ただし、それに至るまでのロジックは、読者を納得させるようなものにする。いちおう理屈があって、その記事の中で、筆者の中では矛盾のないように理屈が通っている。

座右の銘、心の泉

いわゆるミッションスクール、キリスト教系の学校法人に就職することになって、キリスト教西洋史、中近東地域の古代史をいろいろと調べて読んでいた。

 

いろいろとものを見る目が拡がったのは良かったし、楽しかったのだが、結論として、自分はクリスチャンに入信することもないし、仏教などの信徒になることも無いだろうな、と思った。

 

自分自身の場合は、であるが、「信仰する」という態度がどうも自分にはシックリ来ず、人間が自分で考え自分で行動し、自分たちの努力や友情によって問題を解決する という価値観がシックリ来るからである。

分かりやすく言うと、ドクタースランプキン肉マンに始まり、ドラゴンボールからジョジョに繋がった少年ジャンプ(のある世代の作家たちが紡ぎ提示した)価値観が、自分にとっては、人格の基礎を決定していたのだ と思う。

 

キリスト教や仏教、なかんずく開祖であるイエスブッダの言葉、言動には興味深いもの、感動し、取り入れたいと思うものがあまたある。

それらをひとつひとつこのブログで取り上げることはできないが、

これら宗教とズレたところ、別の立ち位置にある言葉(概念)で、ハタと胸を打つものも沢山ある。

今朝方 見たところでは、ソクラテスが説いた「無知の知」、サルトルが「実存は本質に先立つ」と言い、その奥さんのボーヴォワールが「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったとか。 --昔から知っている言葉ではあるが、折に触れて見返したとき、グッと来る。それは、その言葉が含むものが多く、豊かだからだろう。

 

エスが言った「汝の敵を愛せよ」という言葉は、子どものときはじめてこれを聞いて、不思議なことを言うなと思い、さっぱり理解できなかった。

最近になって、マタイ福音書からトマス福音書までを読み、イエスが言わんとしたことを、福音書の文脈からたどり、ようやく理解できるようになった(少なくとも、私の解釈で読むことはできた)

こうしたことは、人生の大きな恵みの一つだと思う。

 

ジョジョシリーズは、自分の中では、ドクタースランプキン肉マンドラゴンボールジョジョと続く、人生の中で続く「心の中にある基盤、心の泉」と言っていい、大切な存在である。

自分の子どもが今、約束のネバーランドブラッククローバーを読みはじめていて、なかなか面白いらしい。出水ぽすか先生は、ポケモントレッタ(?だったかのホビームックに付いていた、おまけマンガ)、オレカバトル ジンジャーエールのマンガを描いてときは、ここまでの作家で、あんな流麗な絵を描く人だとは思わず、ぽすかの本気はポケモントレッタには表れていなかった。

座右の銘、心の泉のようなものは人によってそれぞれだと思うが、誰かから誰かにその良さをムリヤリ伝えるのではなく、自然に拡がって、共有されるのがよいと思う。

 

イチロー引退会見より、抜書き

私が転職活動を行っていた昨年秋~今年の冬にかけて、作家の橋本治さんが亡くなり、貴乃花はカエルの絵本を発表し、イチローが東京ドームで試合に出て引退した。

自分が二十代のとき、橋本治の本をよく読んだり、貴乃花は少年ジャンプにまで登場した破竹の勢いで悲恋の物語を演じたし、イチローは神戸のオリックスに在籍時、よく試合のゆくえを追っていた。

私自身は40代の中盤にさしかかり、イチロー貴乃花は少し年上で、橋本治は自分の両親と同じ年代である。親の世代がこの世を去り、自分たち子どもの世代も人生の節目に差し掛かりつつあって、いろいろと転換期を迎えているのだな と思う。

 

イチローが日本に居た最後の頃、「インパクト!」という雑誌を出して、好きな映画はベイブ、巻末の言葉が「こんなもんで終わると思うなよ!」と意気軒昂だったことをよく覚えている。実際のところ、イチローが積み重ねた安打数はアメリカのそれが日本の二倍以上であり、日本プロ野球での積み重ねた履歴は、まだまだこんなものでは無かった。 途中、選手として苦しい辛い時期も多かったと思うが、一貫してやり通したのは素晴らしいことだと思う。

 

昔 二十代のころ、「プロ野球選手でいうと、松井秀喜が中学生リーグに参加してるみたいな感じ」と、友人に評されたことがある。いわゆるモラトリアム、内向的にカラに閉じこもりがちだったのを指して、発破をかけられたのだと思う。

好きなプロ野球選手は前田智徳、落合、イチロー、清原…といったところで、松井は、キャラクターの面白みが薄くケレンミが無く、一歩落ちる。

イチローの現役最終戦を見て、また引退会見を見てあらためて思ったが、「オレ流」を貫くには努力が要り、覚悟も必要で、ゆえに尊いのだと思う。

 

最後に、イチローの引退会見(フルカウントからの書き起こし)より、

2点、印象深かったくだりを引用し、締めくくりとします。

ティール氏がSBR記者会見で述べた一節とも重なる、開拓者の精神。自分自身も肝に銘じて、4月からの仕事に臨んでいきたいと思いました。

 

――子供たちに是非メッセージを。

「シンプルだなぁ。メッセージかぁ。苦手なのだな、僕が。まぁ、野球だけでなくてもいいんですよね、始めるものは。自分が熱中できるもの、夢中になれるものを見つけられれば、それに向かってエネルギーを注げるので。そういうものを早く見つけてほしいなと思います。それが見つかれば、自分の前に立ちはだかる壁に向かっていける。向かうことができると思うんですね。それが見つけられないと壁が出てくると諦めてしまうということがあると思うので。色んなことにトライして、自分に向くか向かないかというより自分が好きなものを見つけてほしいなと思います」

 

(中略)

 

――プロ野球選手になるという夢を叶えて成功してきて、今何を得たと思うか?

「成功かどうかってよく分からないですよね。じゃあどこからが成功で、そうじゃないのかというのは、全く僕には判断できない。成功という言葉がだから僕は嫌いなんですけど。……メジャーリーグに挑戦する、どの世界でもそうですね、新しい世界に挑戦するということは大変な勇気だと思うんですけど、でもここはあえて成功と表現しますけど、成功すると思うからやってみたい、それができないと思うから行かないという判断基準では後悔を生むだろうなと思います。やりたいならやってみればいい。できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。そのときにどんな結果が出ようとも後悔はないと思うんです。じゃあ自分なりの成功を勝ち取ったときに、達成感があるのかといったらそれも僕には疑問なので。基本的にはやりたいと思ったことに向かっていきたいですよね。

 で、何を得たか……まぁ、こんなものかなあという感覚ですかねぇ。それは200本もっと打ちたかったし、できると思ったし、1年目にチームは116勝して、その次の2年間も93勝して、勝つのってそんなに難しいことじゃないなってその3年は思っていたんですけど、大変なことです。勝利するのは。この感覚を得たことは大きいかもしれないですね」

椛島勝一氏は挿絵画家で、椛島編集のおじいさんだった。

ウルトラジャンプの最新号を買うと、「荒木飛呂彦原画展ー冒険の波紋ー」を、2020年1月 長崎県美術館で巡回開催します、とニュースが載っていた。

 

それだけなら、なぜ長崎?とは思ったものの、原画展がそこそこ人気あるのだな というだけの感想だったが、キャプションの記述を読んで驚いた。

 

荒木先生の初代編集 椛島良介氏の祖父である椛島勝一氏(挿絵画家)の作品が、長崎県美術館に所蔵されている縁もあり、同原画展の開催が決定した とのこと。

www.nagasaki-museum.jp

椛島編集は、荒木先生のデビュー前からの担当で、ジョジョ3部終了までを手掛けた方。

エジプトの古代文字が読めたり、澁澤龍彦やコリンウィルソンを荒木先生に薦め、「DIOはエジプトに居る」とアイデアを出し合っていた編集者である。

ジョジョベラーにて、2人の対談が載っています)

椛島編集のおじいさんがイラストレーターだったのは驚きで、半端なく絵が上手く、孫の椛島氏に到るまで、文化的な血脈が受け継がれていたんだ と納得した。

 

上記リンク 長崎県美術館の情報で、椛島勝一氏の原画もいくつか紹介されています。

もし長崎に行く機会があれば、市川森一ウルトラシリーズほかの脚本家)ゆかりの図書館や教会を訪ね、長崎県美術館にも立ち寄ってみたい。そんなことを思った。