ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョリオン 定助がホリーさんに助けられた話に、ガックリ来た感想

身の回りがバタバタして、慌ただしい日常を過ごしている。
去年は父が、今年は母が相次いで病院に入院し、幸い 二人とも無事で退院できる見込みなのだが、お迎えが迫りつつあることを感じる。

XTC Wake upという曲を聴きたいテンションになり、クルマの中でかけていたが、
ミックスがしつこく聴きづらいこの曲を聴きながら、テンションを高め、気持ちをまとめていた。

ウルトラジャンプ2019年12月号 定助がホリーさんに助けられる話で、たまたまの偶然だが、病院に集まる母と子の話しだった。
私の家族はマンガほどドラマチックな状況下には無いのだが、
母が子を想う気持ち、子どもが母を助けようとする意思を持つことは、誰にも頷ける普遍的な情緒であり、私も納得した。

インターネットでのジョジョリオンの感想を散見していると、
今回の話は良かった、主人公が母を助ける決意を得られたこと、ついにアイデンティティーを獲得できたことに感動した と、(通常比で)良かったという感想、肯定的な評価をする方が多いようだった。

マンガの感想を述べることは自由であり、良かったよ という方の感想・意見を尊重すべきことは当然なのですが、
私自身の感想としては、今回の話は、正直なところ、ここ最近で抜きん出て良く無かった。

今回の話 (ウルトラジャンプ連載時)「危険な追跡」と題された4か月分の連載は、
定助がアイデンティティーを獲得するという着地点がまずあって、そこに到らせるまでに、主人公やキャラクターたちをどう動かすか、というところが物語上の肝だったと思う。

雨の中 パトカーが集まり、定助が自分の孤独を告白し、雨粒の中に飛び込んでいく件がある。
その後に、病室に担ぎ込まれてホリーさんに助けられる流れになっているので、今月号の話の流れは、ある程度 事前に組み立てられていたのかもしれない。

ホリーさんが昏倒してベッドに縛られていた描写が以前にあって、そこから急に意識を戻して、理路整然と、母の慈愛を発揮して主人公を助けるというのは、
意外な展開のサプライズというよりは、ちょっとムチャクチャなのではないか というのが、最初の印象だった。
ホワイトスネイクが幻想を見せてきたときのような、微妙に辻褄の合わない描写で、これはどうやって収拾をつけるんだろう…? と、半歩引きながら読み進めていくと、
「これは果たして幻覚なのか、本当なのか!?」と主人公のメタ的なセリフが入りつつも、そのまま、最後まで終わってしまって、エッ!?となってしまったのが本当のところだった。

ジョジョシリーズを読み続けてきて、ページをめくりつつ気持ちが離れていく、というのはあまり無い経験で、
(熱心に読みはじめた3部以降でいうと)カメオ戦の後 アヴドゥルが生きていたことを、ポルナレフが知らされず隠されていたと発覚したくだり。
ジョルノが刑務所を訪問すると、ポルポが自分の指を食い始めたあたり、アナスイがカエルの脳にスタンドをつないでヨーヨーマッを倒したくだりなどである。

要するに、作中の展開についていけなくなって、気持ちがページから離れてしまう。しらけてしまう、という瞬間である。

今月号の話にて、やや強引には感じるが、ホリーさんと岩人間の因縁、主人公がホリーさんを助けることの意思の強調、アイデンティティーの確認。
そして、岩人間の院長の野望のありさまがピークに達するところを描いているのだと思う。

ダラダラとしたグチになってしまうが、明負院長が講演をするくだりも、司会のアクションやセリフがややわざとらしいというところから始まり、
そもそも、秘密下で研究しているロカカカの技術を、このようなかたちで講演・公開するだろうかという疑問や、
医療技術の肝であるところの等価交換が「謎」のままで、厚労省が認可をしたり、医療業界や患者さんたちが納得し受け入れるだろうか?
マンガで描かれた院長の講演を聞くかぎりでは、あやしい健康食品の通販番組と、同じくらいの説得力しか感じられなかった。

定助とホリーさんの絆を描きたい意図は分かるし、院長を中心とした再生医療の陰謀を描きたい意図は分かるのだが、
これまでに積み上げた描写との整合性、現実的なリアリティに基づく説得力が欠けている と感じられ、自分には、今回の話は、エンターテイメントとして受け入れられず、心に響かなかった。

アナスイがどうやってヨーヨーマッを倒したとか、アヴドゥルが生きてたことをポルナレフに隠す動機がそこまであったのかなど、
よく分からないくだりは時々あるものだったが、お話全体の基盤を揺るがすものではなく、アヴドゥルの父にアヴドゥルが変装していたとするなど、いかにも週刊連載らしい、その場の思い付きで話を変えたんだろうなという感じで苦笑したものだった。
今回の話は、8部の中心となるエピソード、話の重要な折り返し点になるものだろうと思うので、あまり面白くなかったのは残念だったが、仕方が無い。


メタ的な観点で見ると、主人公の左上半身にロカカカの影響で、岩が食い込んで、ジョースターの星のアザを含めて、7つの形が浮かび上がってるのが、
北斗の拳の北斗七星を意識しているのだろうか?と思って、ちょっと面白かった。

正直に言うと、ジョジョリオンの連載は、1巻~10巻くらいまでは冷ややかに、あまり面白くない…と思って、距離をおきつつ見ていて、
モカンが登場したくらいから面白さを感じ、これからの盛り上がりを期待して読んできたのだが、
オージローがせっかく再登場しつつも、あまり登場の意図がよく分からないまま倒されてしまい、
危険な追跡のエピソードが、院長のスタンド能力が何でもありで恣意的な解釈・逆転技(どこまでが追跡の意思を持つとし、どこからが追いかけさせるのか など、判断・判定の基準が主観的で、作者のサジ加減が見えてしまいやすい)になっていきそうで、
うーん、期待しつつ毎月の展開を読んできたけども、ジョジョリオンのこれからの畳み方には、あまり期待できないかな… と、半分 諦めを抱いたのが、今月号の話だった。

(このブログを見に来る方は、ジョジョリオンジョジョシリーズに関心がある、ファンだと言う方が主だと思います。)
あまりポジティブな感想ではないところが申し訳ないですが、正直なところ、ぶっちゃけたところの感想が以上のところだった。

あと1年くらいで、だいたい完結までの道筋が見えてくるのでは? と思いますが、愚かな読者の一人である私の期待を裏切って、面白くまとめてくれたら嬉しい。

でも、たとえ荒木先生がこのブログを読んでいたり、荒木先生が私と対面する機会を持てたり、(ありえないことですが)荒木先生が私の父母であって両親をディスることは親不孝だとしても、
良くないものは良くないし、面白くなかったのだからしかたがない。

ジョジョリオンにはもう1本の柱、東方家を中心に、家族のありかたをめぐる物語が残されている。
定助(=吉良家とジョセフミ)をめぐる家族のありかたと、東方家のありかたを対比しつつ、物語のクライマックスが描かれると思われる。

多分、なんとなくホリーさん、岩人間、吉良家をめぐるエピソードや設定はこれ以上 あまり盛り込まれないような気がするので、
残るところ、東方家のお家騒動、家族の幸せのありかた、というところに描写が割かれていく気がする。
こちらに期待して読んでいこうと思う。

ゆでたまご先生の天才性を語る キン肉マン1~4巻の感想

ドラえもんクレヨンしんちゃんミュージックステーション 金曜夜のTV2時間枠が解体され、ニチアサキッズ(スーパー戦隊からプリキュアまでの90分)が解体されて久しい。
世の中の移り変わりを感じる事例だが、息子に聞いたところ、今の子どもはyoutubeの無料動画で音楽をまず聴いて、気にいったものを購入・入手する音楽習慣に変わっているのだ という。
FMラジオを聴いたり、ミュージックステーションを見たり、カセットテープやVHSテープにお気に入りを録音録画した時代とは異なっている。
勿論、それが悪いという訳ではなく、技術革新、新たな視点の商品やサービスが開発されることで、音楽を楽しむ習慣にイノベーションが起こり、世の中が新しく変わっていくのは選択肢が豊かになり、良いことだと思う。

同様に、プレイボーイのサイトで毎週 キン肉マンの更新を読んでいて、
自分はキン肉マンしか読まない、超人さま、セックス依存症になりましたは読まない、あくまでわずかな慰安とヒマつぶしに読んでいるだけだ… とうそぶいていたが、
毎週毎週 オメガマンたちと運命の五王子たちの戦いを読んでいる内に、つまらないと思いつつも読み続けていて、いつの間にか渇望心が刷り込まれ、
勢い余って、キン肉マン 1巻~66巻の全巻セットを購入してしまった。

「ウェブの無料版でとりあえず読ませる、幅広く色んな人に知らしめる → 興味を持った人間を食いつかせ、全巻セットで購入させる 」という、
集英社と漫画全巻ドットコム、アマゾンの連携プレー、マーケティングに、まんまと引っかかって、乗っかってしまった。

電車の中吊り広告はめっきり見なくなり、街中や電車でマンガ・文庫本・新聞を読む人はめっきり減り、ケータイ電話をひっきりなしに眺める人たちが増えた。
何が良い、悪いということはさておき、マーケティングや商売のかたち、コミュニケーションのありかたというものはどんどん、スタイル、やりかたが変わっていくな と実感する一幕だった。


  ***


本記事の本題、キン肉マン全巻セットを買ってしまい、買った以上は仕方なく、1巻から順番に読みはじめた。

1巻~4巻まで読み終わり、キン肉マンがカメハメと出逢って、ジェシーメイビアと試合する直前のあたりまで読み終わった。

キン肉マンを読みながら思ったのは、幼児教育、擦りこみの効果はこわいな というもので、
子どもの頃 実家で兄が買っていたキン肉マンを読みふけったものだが、1~4巻のそこかしこのシーン、1巻と4巻は兄が持っていた記憶があり、
読み進めるごとに、このコマは見たことがある、このコマは印象深い、一方 こんなシーンはあったかな…?こんな話は全く覚えていない、と、
3~6才くらいの幼児のときに読んだ記憶と、大人になり知識や経験を得てから読んだ現在とで、さまざまな重ね合わせが出来たことだった。

自分は教育業界に勤めているが、名作絵本・児童文学として、中川李枝子の「ぐりとぐら」「いやいやえん」を奨める声は根強い。
大人になってからこれらを読んだのだが、私にとってはしっくりこず、つまらなくはないが、自分の感性や心中には響かず、芸術的な感動というものもあまり湧かなかった。

ぐりとぐら いやいやえん の二作は、「子どもの心中をそのままに描いた」「子どもの世界を率直に、素朴で純粋な明るさでもって描き出した」という観点で評価されることが多い。
それはそれで頷けるのだが、私にとって、芯のところで、この書評は響かない。

なぜならば、私にとって、正直なところ 絵本でいえば「かいじゅうたちのいるところ」「おしいれのぼうけん」のほうが前者より面白く、心に迫る感動が大きくあったし、
そもそものところ 未就学児だった当時 私は絵本で大きく感動した思い出は、絵画制作の題材となった「スイミー」を置いて他に記憶が無く、
スイミーよりもその他(当時に数多く触れていたはずの)名作絵本よりも、ドクタースランプキン肉マン、少年ジャンプで連載されていたマンガのほうがはるかに大好きで、心に刻まれる存在だったからである。


キン肉マン 1~4巻を読んでいて、恐ろしかったのは、子どものとき そこまで熱心に読みこんだつもりは無かったのに、
コミックスのそこかしこで、心に焼き付いたシチュエーション、場面場面のあったことである。

スグルがブタと間違えて宇宙船から放り出された一コマ、
テリーマンがスグルの家にやってきて、ここはまるでウサギ小屋だな とつぶやく一コマ。
キン肉マンが、日本人の朝食はごはんとみそしるに決まっておるだろうが とつぶやくコマ。
ナチグロンが大いびきをかいて眠り、キン肉マンが迷惑しているオチのコマ。

ナチグロンがどういじめられて、キン肉マンがどう彼を救ったか ストーリーのあらすじは全く覚えていなかったのだが、
キン肉マンがナチグロンをかばった、落ちこぼれだって、弱いいじめられっ子だって頑張って生きているんだ というメッセージは、子どものとき、はっきり心に刻まれたことを再読しつつ思い出した。

超人オリンピックが閉幕し、チャンピオンベルトの裏面を見て、チャンピオンの重みに気づいた一コマ。

超人オリンピック ロビンマスクとの戦い、テリーマンと怪獣退治するくだり、マリさんや女性新聞記者のくだりなどは全く覚えていなかった。

キン骨マンとイワオ 今見るとデザインが洗練されていて結構かっこいいが、こどものときはギャグ編がまだるっこしく、これらのキャラにも魅力を感じていなかった。


1~3巻まではギャグマンガのテイストが強く、当時の作者が興味を持ったものを存分に盛り込んでいる。
直接的には、すすめ!パイレーツなど当時流行っていたギャグマンガのノリ、作者の身の回りにあったもの、興味関心、楽屋受けみたいなものを盛り込んでいるのだが、
残念ながら、ゆでたまごが狙って描いたギャグで笑えるものはほとんど無かった。

2巻 アデランスの中野さんが、底なし星人の胃液に呑みこまれ、骨だけの姿になって浮かび上がる。
キン肉マンたちが、ああ…と嘆き、星人に怒りを発揮するくだりが、いわゆるシリアスな笑いとなっていて、おかしかった。

キャラクターのセリフに流れるような勢いがあること、キン肉マンやミート、子どもたちの描画がかわいく、流れるような滑らかさ、温かみがあること。
自分が子どものとき 絵を描くと、いっつも太い描線でグイーッと輪郭を描くクセがあったのだが、キン肉マンの作画から影響を受けたのだな と、つくづく思った。

野グソをしている女の子が居て、背後からカエル怪獣が登場するという話があるのだが、「女の子が野グソをする」というシチュエーションが物語の冒頭に違和感なく描かれるあたり、世相の差を感じる。
1960~70年代の絵本を読むと、保育園で悪さをした子どもが押し入れに閉じ込められるシーンがそこかしこに登場するが、これと同じく、世相の差、世の中の移り変わりを感じる一幕である。


あくまで個人的独断であるが、
ゆでたまご先生のすごさはギャグマンガ家としてのギャグセンスではなく、子どもの心を持ったままプロでマンガを描きはじめたそのすごさ、天才性に尽きると思う。

子どもの頃 兄はキン肉マンを読んで「絵が下手だ」と言い、
当時の西村編集長(?)が「ゆでたまごは絵も話も下手だったけど、キン消し含めて、彼らには稼がせてもらったよ」とうそぶいたという、兄から聞いた、まことしやかな伝聞に、子どもながら心を痛めていた。

ゆでたまごは、絵が下手なのではない。
デッサン的な意味でいえば、19~20歳で描きはじめた連載当初よりも、始祖編~オメガ編を描いている現在のほうが上達し整っているが、
ゆでたまごの絵のすごさ、ゆでたまごのマンガのすごさは、子どもの心 そのままに絵と話を考え、
小学生の落書きからスタートしたキャラをそのまま使い、小学校の友だち2人が協同作業でマンガを描き、そのままプロの連載作品として、描かれはじめてしまった、そのところにある。

キン肉マンは、超人オリンピックの開催からテイストを変え、5巻の作者はしがきにあるように、
主人公のスグルがドジで間抜けなヒーローから、少しずつ強くなり、たくましく成長する姿、正義超人たちと友情を深めつつ切磋琢磨する男の生きかたを描く物語に変貌していく。

超人オリンピック テリーマンラーメンマンロビンマスクのキャラクターの立ちかたは出色で、
(結末をすっかり忘れていたが、)キン肉マンロビンマスクの戦い 野生の本能=火事場のクソ力により逆転、勝利を収める筋立ては鮮やかであり、素晴らしい。

キン肉マンギャグマンガとして始まり、ウルトラマン、プロレス、プロ野球や特撮番組、当時のTVCMなど、ゆでたまごの好きなものを盛り込んだドタバタギャグでスタートした。
キン肉マンの顔は不細工だが、ブサイクだからこそかっこいい と、ロビンマスクとの戦いに到るまでに、私自身 思わされてしまった。

これはとんでもない筆力で、当時の読者だった子どもたちを魅了したストーリー展開に納得させられてしまったし、
何と言っても、後のシリーズに続く、キン肉マンを中心とした、ヒーローのありかた、ライバルや悪漢との戦い、男たちのドラマというものが、その原型が、短いページ数で作り込まれている。

ゆで先生が中野編集との対談で述べたとおり、1回めの超人オリンピックは一世一代の大仕事であり、この賭けに勝ち、キン肉マンと共に大きく成長を果たしたことで、
現在に至る、ゆでたまごキン肉マンの成長と成功への道のりが描かれた。重要な位置づけを占めるシリーズだったと思う。

(興味を持たれた方は、2019年春のプレイボーイ スグルとアタルが表紙のキン肉マン特集号に載っていた、ゆで先生と中野編集の対談など、読んでみてください。)


保育所保育指針、学習指導要領など 国が定める教育のキーワードとして、「たくましく生き抜く力」「生きる力」を育む、というものがある。

文科省厚労省が定める大綱的文書に異論は無いのだが、ふと思うのは、
キン肉マンが野生の本能、火事場のクソ力を発揮してロビンマスクに勝利をおさめたくだり、
ゆでたまご自身がキン肉マンと一緒に成長して、ドジで間抜けなヒーローからほんとうに強いプロレスチャンピオンへの階段を登り始める成長と友情の物語は、
まさに、現在の日本国が子どもたちに身に付けさせようとしている、「たくましく、これからの社会を生き抜く力」に他ならないのではないか ということだ。

(繰り言めいて申し訳ないですが、)中川先生の「ぐりとぐら」が保育園に設置し繰り返し読まれることはあっても、
キン肉マン」や「ドクタースランプ」が、保育園や小学校の本棚に並べられることは無い。
多くの保育園幼稚園において、絵本以外のメディアは存在を黙殺され、テレビやマンガ、ゲームやインターネットは無かったほうがよいもの として扱われている。

教育論はさておくとして、ひとつ確かなこととして、
どこに「その子にとっての真実」「世の中、世界を知り始めるきっかけ」が潜んでいるかは分からない。

教育業界の端くれとして、「子どもたちの自主性・主体性」を尊重する保育、(小中学校以降の)教育を行っていくのであれば、
いま 学校なり保育園にあるもの全てが、子どもたちにとっての全てではない。

学校教育は、ひろく社会をかたちづくる環境構成の一つでしかなく、よくもわるくもこの世はもっと広い世界であり、
未就学児~小中高校生くらいまでの、まだまだ経験や見聞が少なく未熟な子どもたちに関わるときに、子どもたちに敬意を持つからこそ、彼らの興味・主体性、彼や彼女の意思や可能性を損なってはいけないのだ と反省している。


最後に、ジョジョとすこし絡めた話題でいうと、
キン肉マンのキャラクターデザインは読者応募のパクリばかり、ジョジョは映画や洋楽、ファッションイラストからのパクリがひどい みたいな論調がある。

それは事実で、キン肉マンをいま読むと分かるが、すすめパイレーツなどのギャグマンガ梶原一騎の劇画からの影響。
(無許可のパクリではなく、雑誌企画として応募を呼びかけ、投稿作をアレンジしたというかたちで、)読者原案を基にした、さまざまな正義超人たちの姿がある。

コミックスに掲載された読者投稿のイラストを見ると、ラーメンマンロビンマスクなんかは、読者投稿のデザインをほとんどそのまま、マンガのキャラクターたちとして採用、作中に登場している。
著作権管理・パクリ指摘に厳しい昨今だと、読者投稿のそのまんまのパクリ、(民法上の規定はクリアしているとしても)あまりにもオリジナリティが無い。
ゆでたまごは、当時の読者のネタを吸い取って、編集部のマーケティングに乗っかっただけで、少年ジャンプの剛腕が凄かっただけで、ゆでに実力はないじゃないか みたいな意見がある。

子どもだった当時 私の兄も、キン肉マンを、タッグトーナメント編終了までほぼ全巻 買い揃えながら、同様の感想を述べていた。
(キン肉星王位争奪編からは、兄も飽きたのか、小学校5~6年生くらいになったのでコミックスを買わなくなった)

しかし、これらの指摘、非難はいささか思慮が浅い と言わざるを得ない。

では、ラーメンマンロビンマスクの読者投稿イラストを見て、誰か、ゆでたまご以外に、鎧の超人、辮髪の超人をつかって、あのようなキャラクター立て、ストーリー展開を描けたのだろうか? ということである。

ラーメンマンロビンマスクの投稿者は、(現今のディズニー、円谷プロ、あるいはJASRACのように)ビジネスとして、しっかりはっきり著作権を主張できる契約を当初に結んでおけば、
今頃 キン肉マンシリーズからのロイヤリティで大儲け、サラリーマンの副業収入以上の富を、一枚のイラストハガキから得ることが出来たのではないか とゲスな想像をしないでもない。

それは愚かな考えというもので、投稿作採用時の規定(誰に著作権が発生し、保有するかの決まり。集英社が抜かりなく、ビジネス上の規約を盛り込んだのだろう)はともかくとして、
マンガという作品制作において、付加価値の創造として、
一枚のイラストハガキから、小学校のノートへの落書きから、小学生2人の落書きごっこから、
誰が果たして、ゆでたまご以外に、あのようなかたちで、キン肉マンと仲間たち、ライバルたち、敵役たちの物語を紡ぎ出し得たか ということなのである。


キン肉マン 1~4巻を読んで、カメハメが出てきたあたりでもういいかな、と思ったのは、一通りのエピソードを読みきった満足感もあるし、
ここから先は、シリアス路線のプロレスに転向して同じ路線の拡大拡張になっていった印象がある、
(記憶に薄い)王位争奪編、まだ読んだことが無い37巻以降の新編を読むまで、コミックを順繰りに読むのがダルい、巻数が多過ぎる… という事情がある。

満腹感というか、もうお腹いっぱいだ という感覚はあって、
ここから先の展開 読んでいけば新たな発見があり、昔を思い出す懐かしさもあって、読めばたぶん、きっと面白いシリーズ展開が待っているのだろう。

私はマンガを一気読みするタイプではなく、じっくり読んで楽しんでいきたいタイプである。
ビジネス書、仕事における実用書は飛ばし読みをするし、自分に役に立つかどうか、自身の考えや興味関心と重なるかどうか、効率を考えて読む(作業する、仕事する)節がある。

マンガ、絵本といったものは仕事とは別で、創作の世界にじっくりと浸りたい。すぐに全部読んでしまうのは勿体無くて、じっくりその世界に浸って楽しみ続けたい。
贅沢な楽しみであると思っている。

当ブログのアクセス解析、インターネットで記事を書くことの反省

このブログを開設させて頂き、沢山の方がアクセス、記事を読んでいただきありがたいことだと思う。
ときどきコメントを頂くことがあって、コメント投稿いただく記事の種類は、アクセス割合に比例している。

当ブログの人気記事、アクセスの多いベスト3は下記の通り。

1位 ジョジョリオン53話 過去編が完結し、「無かったことにされるだろう伏線」を整理する

2位 MOTHER3 「END?」でそのまま終わってほしかったクソゲー

3位 ジョジョは、なぜ気持ち悪いのか?


アクセス割合は、インターネットで検索をする方、当ブログ(の記事、情報、キーワード)で何に興味を持ったかの割合であり、
おおげさに言えば、自分と他人 筆者と読者のコミュニケーションを探る行為であり、興味深い。

ジョジョリオンの伏線や設定の整理、また、ジョジョが気持ち悪いことの論考というのは、
(自筆記事のクオリティは別として、)皆が興味を持つことであり、自分自身も、他の方が同テーマで書いた記事があったら是非読んでみたい。


意外だったのは、ゲームレビューの記事を書いていて、MOTHER3が詰まらなかったという感想が多くのアクセスを集めたことだった。
当時 レトロゲームを懐古しつつやりこんでいて、その感想を書き留めたもので、耳目を集める期待は持っていなかった。

この記事が注目を集めたのは、記事の内容の「過激さ」であり、ネガティブなワードを含むダメ出しの直截さが読んだ人の感情を刺激しやすく、
また、インターネット検索で注目を集めやすい内容だったのだと思う。

MOTHER3ディスる記事を書いて、同シリーズの熱心なファンの方は、気分を害された方もあるようで、その点は申し訳なかったと思う。
コメント欄に、匿名でひとこと「死ね」と書く方もあって、驚き、そのコメントは削除させて頂いたのですが、
動機がなければ行動をしない訳で、私の記事に「死ね」と書きこみたくなるほど、その方を情緒的に揺れ動かす切っ掛けが自分の記事にあったのかも、と反省しつつ複雑な思いがする。
ただし、この記事を削除することはせず、そのまま載せておこうと思います。(理由は、同記事とコメント欄にて述べた通りです)


このブログを始めるときに、ブログ、SNSというものは「公共の場」における発言なので、
なるべくネガティブな発言、誰かを攻撃する物言い、無責任な放言はしないでおこうと思って、
自分なりに思うところの感想や意見、一貫した自分なりの考えを述べていこう と思って書きはじめました。

ただのおべんちゃら、ひいきの引き倒しは退屈だし、アクセス数を稼ぐための薄っぺらい情報広告は巷に氾濫していますが、そういうものではなく、
1対1の感想、著者と読者のシンプルな関係、対話的な感想、意見、批評というものを、(ジョジョファンである自分自身が)もっと読みたい と思ったからです。


糸井重里さんの仕事について補足すると、私自身は、MOTHERシリーズに限らず、糸井さんのキャッチコピー、広告業界における作品や仕事をある程度は知っています。
ほぼ日手帳を欲しいと思ったことはありませんが、世間一般の平均値と較べると、糸井重里のファンであり、興味を持っている と言えるでしょう。

昭和の終わり頃 井上陽水が出ていたTVCMで、「くうねるあそぶ」というキャッチコピーがあり、後に、糸井さんの作であることを知りました。
くうねるあそぶ は良く出来たキャッチコピーで、現在までに一般化し、
著作権上の許諾を得ているのかどうか定かではありませんが、)幼稚園や保育園の保育指針、NHK Eテレにて「くうねるあそぶ」のキーワードが、概念としてそのまま使われたりしています。

下記の記事で、糸井さんがこのコピーを考えたときの経緯が語られています。

糸井重里が語る「食う」「寝る」ともうひとつの大切なこと 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

日産自動車のためにつくったコピーで、「くうねるあそぶ。」があります。
落語の前座噺である「寿限無」に、「くうねるところにすむところ」があって、そこから発想を得たものです。
ぼくは、「くうねる」に「あそぶ」を入れないと納得がいかなかったんです。


このブログを書くことも、くうねるあそぶの3つめ、「遊び」に該当する行為で、人類の生存にとって何の意味も無い、必要のない行為とも言える。

「男の品格 気高く、そして潔く」川北 義則さんによる本があり、
さる企業経営者の方が、男のありかた、生きかたや遊びを再確認させてくれる本、という書評を述べていた。
率直なところ、奥さんに隠れて夜遊びすることを許してくださいね という意味なのだが、正妻たる奥さんに向けたメッセージと捉えると、
(公共の場である)書評でこのようなことを述べた経営者 Aさんの潔さ、図太さ、あるいは開き直りというものは、呆れ半分で器が大きい と認めざるを得ない。

夜遊びがいけない とされるのは、夜遊びによって傷つく人間が居る。そのことを省みない男のワガママさ、いい加減さが批判されるのだと思う。

インターネットにおける炎上騒動、政治家の先生がターゲットになることが多い「不適切な発言、言動」も似たところがあって、
自分自身がブログを書いていくにあたっても、この記事を読んでくださる誰かへの配慮、読者への配慮というものを忘れず、気をつけていこう と反省した次第です。

ジョジョリオンの路線変更、あれこれの要素への感想

イタリア・ルッカで行われたマンガアニメのフェスティバルに、荒木先生が登壇。
ジョジョはジャズコンサートの要領で描かれていて、シリーズ全体の終わらせかた 頭の中にイメージはあるが、そこにどうやってたどり着くかが、描いている自分にもまだ分からない」という旨のことを答えたそうである。

質疑応答の詳しい様子は、イタリアの現地まで取材に行っているらしい、あらき100%さんのレポートを待つのが良さそう。ナポリの下町を一人旅しているらしいが、ぶじに帰ってきてほしい。

 

7部の執筆を始めた当初、青丸ジャンプのインタビューで作者は、ジョジョは9部まで構想がある。ただし、前作とはテーマもストーリーも全然違う、旧作をなぞるだけのリメイクはしないつもりですよ という旨を述べていた。
何度かこのブログで述べたことがあるのだが、私自身の予想、
ジョジョシリーズ全体の結末は9部、老人が主人公。老人が死んで、次の世代に思いや願いを託す話になるのでは と思う。

ジョジョ9部の予想 老人の心境を描く物語 - ジョジョ読者のブログ

ジョジョの旧世界と新世界 何をどう「語り直して」いるのか、推測のメモ - ジョジョ読者のブログ

 

そして、イタリア・ルッカのマンガアニメフェスティバルを巡る記事、5chのコメントなどを読んでいると、率直な意見が複数出ていて面白い。
ジョジョシリーズの結末予想(だいたいの場合、承太郎が復活するとか、1部冒頭に戻る、夢オチ、作者がマンガ原稿を描いてるオチ というアイデアが多い)、ジョジョシリーズを読みはじめたときの思い出話、シリーズのどこで読むのを止めたか、現行作はなぜつまらないのか などなど。

インターネットのやりとりを読んでいて、自分なりに感想が湧くが、長文・雑多な内容になってしまうため、こちらのブログにまとめたものを書いていく。


ジョジョリオンの欠点として、キャラクターに出落ち感があり、使い捨てになっていること。

ストーリーの進みが遅くヤキモキすること、作画の迫力、切れの良さが若いころに較べて落ちていることなどが挙げられていた。

私自身 頷き思うのは、ジョジョリオンは、ストーリーが途中で路線変更、これまでの設定を畳んで作り直す、当初 AだったものがA´に変化しており、
そのために読みにくく分かりづらい、読者をヤキモキ・肩すかしさせる構成になっているんじゃないか ということだ。

ジョジョリオンはつるぎが出てきて、次に夜露が登場したくらいで「岩人間とロカカカ」の設定を追加、路線変更したんじゃないか と思う。
当初 犬神家の一族のイメージで、東方家という家族をめぐる話、家系の呪いと謎を追う話で描きはじめたものの、これだと家族同士の争いで激しいバトルが描けない。
命の取り合いが描けず、壁の目をキーとした土地の謎を探る話では、どうも先の展開を描きにくい と、作者自身思ったのではないだろうか。

7部 スティールボールランが、ウルトラジャンプに移籍した時点で、遺体と大統領の設定を追加したように、
8部も設定変更をして、壁の目(東方家の土地、等価交換の作用)に替わり、持ち運びしやすいロカカカの実というマクガフィン後腐れなく倒しやすい岩人間という敵を設定しだのだと思われる。

岩人間という存在のアイデアについて、無機物から有機物(生命)がいかにして誕生したのか、生命科学のさまざまな学説、研究の取り組みからアイデアを得ているのだろう と、5chで指摘されていた。自分は理科系に疎いので、へーと思い納得した。


ジョジョリオンは、当初 作者が10代だった1970年代の仙台を舞台に構想されていたが、1話のネームを準備中 東日本大震災が起き、急きょ時代設定を変更し、2011年の仙台(杜王町)を舞台に描かれはじめた、という経緯がある。

 

身勝手な立場(読者)で後付けを言えば、7部の完結後 休載期間を置いて、じっくり構想を練ってから描きはじめれば良かったのでは、作中の矛盾や突っ込みどころは減ったのではないか と思う。

しかし、荒木先生自身は7部完結から間を置かず、1か月の休みも置かず8部を描きはじめたかったのであり、アメリカ大陸の旅から帰ってすぐに故郷 仙台の話を描きはじめかった。

それがどう転ぶかは、舞台とキャラクター、物語のテーマ(どう始まって、どう終わらせるか) イメージを描いた上で、ひとつひとつのエピソードを組み立てながら、描きながら考えていこう ということだったのだと思う。


東方家の呪いの病い、土地の力(壁の目、岩人間という存在、キリストの奇跡を受け継いだらしいロカカカの実) さまざまな構想・アイデアが、コミック12~14巻くらい、ダモカンが登場して主人公の過去を整理し、その後の新ロカカカ争奪に移った以降で、ようやく物語の流れ、テーマやストーリー、キャラクターの行く末が固まった感がある。

 

5chでも指摘されていたが、ジョジョリオンを読んで思うのは、どうも流れるようなストーリー展開が無くなりつつあって、キャラクターがひとりでに動き、作者の思惑を飛び出したような感じが少ない。作者の姿が見えてしまう場面が多いというか、キャラクターがひとりでに動き出さず、棒立ちのままというか、作者の操り人形になってしまっている感じがある。

主人公の定助が記憶喪失であり、彼の背景が読者にも分からず、感情移入しにくい滑り出しとなっていたこと。謎に謎を重ねるストーリー展開で始まったため、キャラクターの意図が掴みづらいこと。

これまでのジョジョでは、2部、3部、5部、7部などが顕著だが、ストーリーの組み立て、方向性はシンプルで、キャラクターの積み重ね、キャラクターがいかに生き生きと動き出して、物語を引っ張っていくか でストーリーを魅せていく組み立てが多かった。

8部はほとんど逆のパターンで、パズルのように物語を組み立て、主人公の謎、東方家や杜王町の謎を解き明かすスタイルで、物語を描きはじめていった。

まだジョジョリオンは完結していないので全体評価は出来ないが、このスタイルは荒木先生には合っておらず、あるいは月刊連載=ジャズコンサートの形式には合っておらず、ゆえに、連載途中での路線変更、設定変更を行い、今に至っているのではないか と思う。


もう1つ、5chで指摘されていた事実として、4部と8部 同じ杜王町を舞台に描いているものの、8部の杜王町は殺伐としていて、4部のようなホンワカした感じが無い。テイストが違っていてガッカリする という意見。読者の率直な感想として頷ける、貴重なものだと思う。

 

8部杜王町と4部の違いは、街や住民が理想化して描かれておらず、むしろ、現代の日本のいやな面、生活に潜むさまざまな悪徳を描いている面だと思う。
8部を読んでいて息詰まるのは、物語の中に、なかなか休まる場面が少ない、出にくい。
主人公どうしの恋愛、家族におけるこっそりとした秘密の会話。過去編における主人公たちの友情に、「善なるもの」は描かれているものの。
2人~3人くらいまでの限られた人間関係 東方家さえ、大家族であるが、ひとりひとりはバラバラであり、密室感、人間関係が狭く閉ざされた感じが強い。

コミック14巻 ダモカンとの決着、ミラグロマン、花都さんが東方家に帰還するシーンが印象的である。

このあたりは、世相を読んでの判断。作者の意図したところなのかとも思う。
少子化、プライバシーや個人の権利の重視。ケータイを中心としたまばらなコミュニケーションの横行など。

つるぎちゃんが血まみれのノリスケさんをどこかへ運ぼうとしているシーン、とんでもない事態が起こりつつある一方で、常秀たちはケータイ電話をいじってひとり遊びしている、仲が悪い訳では無いが現代的な、人間関係は希薄な、それぞれの殻にこもった暮らしをしている。かつ、だからダメだと全面否定している訳でもない…という感じ。

 

ーー5chの書きこみに刺激を受けて、私が思うところ、ジョジョリオンの感想、今後の行く末 ありそうなところを書き起こしてきました。

現代日本の家族のありかた、幸せのありかたみたいな普遍的なテーマから始まって、ロカカカの実(≒キリストの遺体が生んだ奇跡)、呪いの病をいかにして克服するか、東方家と吉良家 ジョジョの主人公たちで呪いを振り切り、幸せを手にするのは誰か。

ジョジョリオンは、主に3部~4部で提示されたテーマをリメイクしつつ、5~7部の展開、(当然のことながら)作者のデビュー以来の筆致を踏まえた、これまでの展開の集大成がおのずと含まれていくだろう と思います。

お話がうまくまとまるのかどうか? は、もちろん私には分かりませんが。ストーリーやキャラクター、テーマの方向性は固まっていると思うので、1~2年の連載を経て、(そんなにこの先の展開は長くならない気がします)定助たちと常敏の対決をクライマックスに、つるぎとホリー 両者がどのように救われるのか、密葉さんのお腹にやどった赤ちゃんにも希望を託しつつ、未来に希望が紡がれる感じで終わるのではないか と思う。

岩人間の院長 (表面上)89才の老人が最後の敵になっていたり、東方家の熟年夫婦

 離婚した50代のカップルがラストへのキーを(たぶん)握っていたりと、登場人物の年齢層が、1~2部の頃からずいぶんと上がっている。

 

おせっかいな話だが、荒木先生は来年 還暦、60才を迎えるらしく、プライバシーは知らないが、それなりの老いを自覚する年令なのだと思う。

同い年のゆでたまご先生を含めて、よく長い間 マンガを描き続けてくださった、よく頑張ってきてくださったものだ… と、一読者として、ありがたい気持ちがする。

キン肉マンの次期シリーズ(オメガマンアリステラとの戦い、いい加減にアタルが勝つと予想しており、その後の展開)、ジョジョ 8部~9部以降の展開 読者は好き勝手なことを述べるものだが、一方で、作者も好き勝手なものを描いて、ぞんぶんに描きこんで欲しいものだと願っている。

 

「無敵のヒーロー」から遠く離れて

このブログ記事で、本ブログの記事は200本目の投稿になる。
数字にとくに意味は無いが、数字の節目が積み上がってくるのは何となく嬉しい。

本ブログでは、ジョジョ7~8部のことを主に書いているが、これは現在進行中の部であるからで、
個人的には、ジョジョシリーズのベストは1~3部、なかんずく3部で、中学生のときに熱中して読んでいた。

ひらがなの書き方や、「おはようございます」「ごめんなさい」のあいさつをメモ帳に書き留めずとも暗唱できるように、
小中学生までに読んだマンガは、自分の中に刷り込まれてしまった「概念」なので、言語化して整理する必要は無い。

ジョジョリオンは現在進行中のストーリーであり、ジョジョシリーズの全体像は、触れ直すたびに新たな発見・気づきがあったりもして、
それらをブログに書き留めているーーという次第である。


ジョジョリオンの連載は、定助が礼さんにしばしの別れを告げて雨弾に撃たれ、病院に担ぎ込まれたところまで進んだ。

定助が自らのアイデンティティーの不確かさ、記憶が無く、生家(肉親との絆、つながり)を喪失しており、だからこそ前に進みたい と訴えるくだり。
過去編のジョセフミから繋がるキャラクター設定なのだが、捉えようによっては、とても重たく辛い来歴である と感じた。

荒木先生によると、ジョジョシリーズ キャラクターたちの戦いは1対1で、善と悪を問わず、孤独な者たち同士の戦い、ひとりぼっちになった者がお互いにどう機転を働かせ生き残るか みたいなことを描いてきたそうである。

3部 ヴァニラアイスとの戦い「答えは3」のやりとり、ポルナレフがイギーやアヴドゥルのおかげで勝てたのか、自身の力で勝てたのか みたいなところである。

3部の承太郎は「無敵のヒーロー」で、3部作を完結させる主人公としてとにかく強く、産まれ育ちにもスタンド能力にも弱点は無かった。
(4部~6部にいたって、物語のテイストが変わっていくと共に、承太郎の役割も変わっていったが、3部の時点では完全無欠のヒーローだった)


近作 7部、8部ではずいぶんテイストが変わって、主人公たちはまったく無敵ではない。

ジャイロは謎の風来坊として登場するが、ジョニィに秘密を打ち明けた後、大統領に勝てず死んだ。

ジョニィもマイナスから始まった主人公として登場し、下半身不随の障害は克服されたが、成長しつつ成長しきれないという若さを残したまま、杜王町で子どものために死んだ。

初代主人公のジョナサンからして、ディオを倒してハッピーエンドというわけにはいかず、ジョセフも死んだと思わせてちゃっかり生き残るなど、
当シリーズの主人公は、スーパー戦隊みたいな勧善懲悪、悪を倒して正義の栄がやってきた、という終わり方をしない作風でもある。

現在連載中のジョジョリオンでは、定助は記憶喪失(震災前の記憶はたぶん回復しない)、ジョセフミとして産まれたときから孤独に、親の愛を得られずに育ってきた。
定助が空条家のルーツを探索しないのは、物語進行上のアラでは無く、設定を覚えているからこそで、
「そこに行っても、自分の求めるものは得られないので」、探しに行かないのだと思われる。

先日 8部11巻~21巻を読み返したのだが、過去編のところは面白く、ジョセフミと吉良のエピソードは心動かされるものがある。
(続くドロミテのゾンビエピソードは作者の趣味に走っていてイマイチだが、最後 赤ちゃんが定助を追い詰めるくだりは良いと思った)


ジョジョリオン 終盤にいたって、定助と常敏、2人の男がどう立ちまわるのか、
表の主人公が定助、裏の主人公が常敏というかたちで、ロカカカの実をめぐって院長との駆け引きを繰り広げながら、ラストまで突っ走っていくのではないか と思う。

ストーリーの表面的な進行としては、トオル君は院長とグルなのか悪役なのか?と思わせて、純粋な恋敵でした という肩透かしをさせるのでは と予想している。
院長とホリーさんの因縁、そこから吉良家と東方家の因縁に話が移って、最後 東方一家と定助の対決(=スタンドバトルに加えて、議論、哲学のぶつかりあい)で決着が付くのではないだろうか。

個人的には、家長 憲助さんにもう1枚2枚、裏があるような気がして、
(ロカカカの実が現れた以降)21巻までの描かれ方だと、どうも物わかりが良すぎるというか、主人公にとって都合のよすぎる人に思えてならない。
東方家の利益のために憲助さんは動いている筈で、ならば、最後の最後 定助とホリーさんに実を渡すのか、あるいはつるぎたち東方家のために実を使うのか そこのところの葛藤は、描かれるのではないか と予想している。

常敏も大家族の次期家長として産まれ、呪いの持病に苦しみ、イジメを受けて、そこから「毎日が夏休み」のライフスタイルに到った経緯がある。

定助も常敏も、どちらも全く、完全無欠のヒーローでは無い。

ジョジョリオンのラスボス(的な概念)はあえて言うならば「生と死」、現代日本社会をどう生き延びるかみたいな概念で、
物語の都合上 明負悟という強キャラは出てきているが、3部~5部みたいなスタンドバトルの盛り上がり、オラオララッシュの撃ちあいみたいな展開は無いだろうと思われる。
そもそものところ院長は89才で、ヨボヨボのじいさんがラッシュを撃って戦ったり、マッチョに空を飛んで戦うのは、絵的におかしいし、ちょっと無いんじゃないか と思う。

初期設定を背負って登場してきた主人公たちがどう生き延びるのか。
あるいは、常敏、花都、憲助の誰かは死んでしまいそうな気がするが、最後に死ぬとして、キャラクターがどういう生き様を見せて死ぬのか。

そこらあたりで、近作 8部のクライマックス、ザ・ワンダー・オブ・ユー(君の奇跡の愛)に到るまでの展開が描かれる気がする。
連載期間にしてあと1~2年くらいではないかと思うが、ロカカカの実 収穫まであと48時間、だいたいのところで物語は収斂に向かい始めている と思う。

お盆休みに聴く「砂の惑星」

お盆休みになると毎年 家族が実家に帰省して、(仕事の都合上)私1人だけで数日を過ごす。
ふだん 仕事や人間関係に忙殺されているときは一人になりたいと思い、家族からも離れて1人きりの充実感を味わうのだが、半日か1日くらい経つと物さみしくなってくる。
1人で過ごすことはともかく、仕事や社会的な役割がなく、何もすることが無いのに耐えられず、普段やらない家事や花壇への水やりをこまめにやりだす。
お盆が開けて仕事に復帰すると安心するので、人間はつくづく、社会的な生き物だと思う。

お盆や年末年始、仕事や社会から離れてすごす数日間は、たぶん、定年退職後 初老の人たちがどうやって毎日を過ごすか に似ていると思う。
ジョジョリオン 常敏が言う「毎日が夏休み」のアクティブさは無く、「シーザー 孤独の青春」のわびしい感じ、
人間 やることが無くなって一人きりになると、うっかり青年時代の足元おぼつかなさに退行してしまうのではないか というところがある。

飯島 敏宏監督の映画「ホームカミング」は、年老いたニュータウンと初老の人たちのかすかな情熱を描いており、
高田純次の演技はイマイチだったが婦警さんの役者がかわいらしく、観て得をした一本だった。


お盆休みのあいだ ひとりで食事をつくる必要があり、近場のイオンに買い物に行く。
イオンはふだん、A列車で行こうのイントロ、職員がクリーンタイムに入っていますのアナウンス、よく分からないアレンジの買い物マーチが延々流れている感じで、
買い物客としてワガママを言えば、毎日毎日 同じメロディが延々と流れ続けているのは、精神的な独房に閉じ込められたようで、あまり気持ち良くない。

朝早い時間など、ヘンな時間にイオンに行くと、ふだんと違うメロディが店内に流れていることがある。
以前にいちどシャツか何かを買いにいったとき XTC the mayor of simpleton が流れていて嬉しかった。
今朝 食品売り場に野菜やお惣菜を買いにいくと、Queen good old-fahioned lover boy が流れていて、エッ!?と思ったが、大好きな曲なので嬉しかった。

イオン社員の誰かが選曲をしているのか、有線放送を流しているのか 分からないが、選曲者の趣味が自分と合っていて嬉しい。


人間が社会的な生き物であるとは、「自分と似た人、自分と似た何か」を他人の中に見つけて喜ぶ ということでもある。
ジョジョの主人公たちは、承太郎やブチャラティ、ジャイロなど戦うときはひとり、孤独に戦うことを良しとしているが、同時に、主人公には仲間がいたり、誰か他人のために戦う社会性を持っている。

子どもからの影響で米津玄師を知り、海獣の子供のテーマソング、アルバム bootlegをよく聴いている。

絵本や童謡からイメージを取っている感じがあり、bootlegには、不思議の国のアリス、センダック「かいじゅうたちのいるところ」を連想させる2曲があり、
童謡と青春映画をミックスさせたかんじの歌詞、楽曲が並んでいるので、わりと正直な人なんだと思う。

米津玄師でいちばん気に入っている曲が「砂の惑星」で、最初 カチャカチャして騒がしい曲だなと思ったが、何回か聴いている内にお気に入りになった。
同名のSF小説から着想を得た一曲で、精一杯気取ってカッコつけた感じが良い。ジョジョでいえば、SBR ディエゴブランドーのような感じである。

インターネットのファンサイトを見たところ、砂の惑星は、ニコニコ動画の隆盛と衰退に捧げた作品ではないか という意見があった。
私はニコニコ動画をほとんど知らないが、米津玄師の活動の経緯を見るに頷ける説だと思う。

砂の惑星は、字義のとおり、砂漠ばかりの不毛な惑星に人が住んでいるという設定で、キリスト教っぽいフレーズを絡めて、中2病を昇華させた世界観が展開される。
若者はいつまでも若者であるわけではなく、いずれ青春時代(=モラトリアム)を卒業して大人になっていく。

米津玄師が「砂の惑星」的な世界観から卒業して、ふつうのバラードっぽい歌手になっていくのかと思うと、あまりつまらない。
山下達郎は、今ではバラードっぽいものばかり依頼を受けて作るようになったが、「僕の中の少年」は一代傑作で、クリスマスイブ~アトムの子あたりの作品は、何ともいえない煌めきが溢れている。

創作や制作には脂の乗った時期というものがあり、ことマンガやポップスにおいては、普通 25~35才くらいまでに一定のピーク、一度目のフィナーレを迎える感じがある。
一般社会で「転職は35才まで」というのに通じるものがあるかもしれない。

ーーあまりまとまらない記事になりましたが、米津玄師のこれからの活躍をそこそこ楽しみにしつつ、ジョジョリオンキン肉マンの連載を読む。
仕事の合間の私生活はあっさりしたもので、これに、プロ野球観戦と家族まわりのあれこれを挟んでいるというのが、毎日の日常である。

マンガ 「セブンブリッジ」の感想

セブンブリッジというマンガを読んだ。

板橋しゅうほうによるSFファンタジーで、白雪姫を中心に、いろんな童話・ファンタジーの要素を盛り込んだ想像力豊かな作品だった。

ジョジョとほとんど関係ない話題となり、すみません。付け足しのように加えると、本作冒頭に出てくるブックマンの描写は、ヘブンズドアーの能力描写に先駆けていると見えなくもない。
ヘブンズドアーの人が本になる描写は、先行するマンガ「外道の書」から来ているが、外道の書の作者は、セブンブリッジを読んでいたのかもしれない。

しかしそもそも、創作のエッセンスをどこに求めるかというのは視野の狭い了見で、白雪姫や不思議の国のアリスはどこから来たのか?童話やメルヘンに原著者が居て著作権が保障されるのか?
ウサギや小人のイメージ、物語を最初に作ったのは誰か?と、パクリ元、パクリ元、パクリ元…を無限に探し続けるのは、あまり前向きな考察にならない。
聖書や仏典、自然科学や考古学の新説を手繰って、なにかしら大きそうなイメージにたどり着くのがお定まりのパターンなのだろうか。

ーーセブンブリッジで展開されるアイデアやファンタジーもそんなところがあって、
現実世界の日本を飛び出したあと、作者の想像が及ぶ限り、さまざまな異世界を巡って、宗教、政治経済、人間の物語のエッセンスを詰め込んだ旅をする。

セブンブリッジ(7人の小人)の少しヒネッたキャラクター造形、敵役との戦いの感じは、東映特撮のスーパー戦隊を思わせるところがある。
それも道理で、板橋先生は若いとき、スパイダーマンなど東映特撮シリーズのキャラクターデザインを手掛けていたということだし、
芸大時代の創作仲間は、平成ウルトラマンシリーズの特撮に技術者として関わったとのこと。
類は友を呼ぶというか、自分も実写特撮が好きなので、ヒーローが巨大な敵と戦う感じや、1人1殺の武器を持って戦う感じはスタンドバトルやウルトラ怪獣よろしく、ググッと盛り上がるものがある。


個人的に感傷を呼ぶのが、作者が滋賀県出身で、冒頭 現実の日本の舞台として大津市の市街地が描かれており、
琵琶湖を囲む街並みの風景、児童劇団が演劇を行う県民ホールの様子など、なんとなくひなびた感じにリアリティーがあり、作者の描写力に度肝を抜かれた。

7人の小人がセブン・ブリッジ!と叫んで、異世界へ橋をかけるのは、2回。
物語のスタート 嵐の琵琶湖から旅立つときと、カプセルで眠っていた夏子に、あらたな旅を呼びかけ旅立っていくエンディングの、2場面である。

マンガや絵画の観かたとして、人間の目(日本人の目)は右から左へ流れ、右が過去、左が未来を表す というような一説がある。
1枚ものの絵画では、画面の向かって左側が未来、右側が過去であり、前向きで明るい感じの絵は、画面の左から光が差していたり、人物が左を向いているような話である。
(著名な例として、フェルメールの人物画を思い浮かべてみてください)

マンガ、日本語で書かれたマンガでは、ページは右から左に向かって開く。

そして、セブンブリッジ 1巻の冒頭で、現実の日本に別れを告げる夏子は、左(=未来)を向いて「そして、さよなら」とつぶやき、
県民ホールの舞台と重なり、現実とも夢(舞台)ともつかぬ異世界へ旅立っていく。
そして最後、もう1人の夏子が旅立っていった後 物語の主役の夏子はセブンブリッジと別れ、彼らの別れの言葉に「うん」と、右(=過去)を向いて涙ぐむのであった。

物語のラストのページ 白雪姫とアリスを組み合わせた一枚のイラスト、「君と夏子の夢見る時代は終わらない」とのセリフが何ともいえない感じがある。
言葉遣いやセリフ回し、絵柄の感じ、素朴な夢を吸い込んで朗らかな感じに、1980年代のマンガの、何とも懐かしい感じがある。
作者の年令や描いたときの状況にもよるし、1980年代末は私が小中学生だった時期で、青青しい子供の頃だった。

物語の設定がやたら凝っていたり、とぎれとぎれに読みにくいところもあったのだけども、
コンピュータやインターネットの設定は現代に先んじてリアリティーが有り、下品な方向やおちゃらけに持っていかず、真面目な感じに物語をまとめるのは良かった。

セブンブリッジの物語上 大津の県民ホールから物語が始まる必然性は薄いのだけど、そこを起点に持ってくるところに、作者の故郷への思いを感じた。
そしてそこから旅を始めて、ローカル線巡りの地方旅(近江八景なり、日本の名所なり、世界の名所を巡るみたいな展開だと興ざめしてしまう)にはもっていかず、
作者の想像と経験を詰め込んだ異世界への旅、夢と現実、過去と未来をつなぐ「人間の夢」を、全7巻・50話に描き出せた意欲作だと思う。


セブンブリッジというマンガは、大津を舞台の起点に置きつつ、夢と現実、過去と未来をつなぎ得た作品という意味で、
映画「幻の湖」の成功版、物語を破たんさせず最後まで渡り切った、描き切った物語だと思う。

近年 橋本忍先生は亡くなられたということだが、橋本先生はセブンブリッジを読んでいたのだろうか。
ときどき 琵琶湖大橋を通り過ぎるときに、幻の湖 血まみれのラストシーンを思い起こすのだが、そんなことを考える人が果たして、今の日本で何人居るのか。
一人でも思い起こす人がいるかぎりは、その物語は死なず、生き続けるのだろう と思う。