ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

火の鳥 全巻読了のメモ、手塚治虫と荒木飛呂彦の比較

手塚治虫の「火の鳥」を、黎明編から太陽編まで、ついでに別巻(角川文庫の第14巻。資料集的なもの)をあわせて読んだ。

火の鳥は小学5~6年生のときに読んだことがあり、印象的なコマやシーンが節々にあり、思い返しつつ読んだ。
今回 読んで面白かった、面白いというより凄みを感じ、感動したのは未来編と鳳凰編。
未来編と鳳凰編は、はじめて読んだときもとても面白かった印象があり、40を過ぎて読んだ今も同じだった。

子どものときと較べて、知識や経験が増えているので、火の鳥のストーリーやテーマ、ドラマを通じて作者が何を描いているか というのは、大人のときのほうがよく分かる。
太陽編など、子どものときは何を描こうとしている話なのかよく分からなかったが、宗教や歴史の知識を頭に入れて読むと、何のことかよく分かった。

有名な話であるが、火の鳥は、過去と未来を行き来しつつ現在に向かって描かれた未完の物語である。

手塚先生は1989年冒頭に亡くなってしまったが、死の直前に描かれた太陽編は、結果的に、火の鳥の完結をしめくくるべき作品となったのではないか と思う。
過去と未来を行き来しつつ物語が進んで、自由になった男女が愛と希望に駈け出すさまが、まさに、現実を生きる人間そのものだからである。

近代日本を舞台にした話、鉄腕アトムなど手塚キャラが大挙出演する「火の鳥」が、太陽編の後に描かれた可能性もあったらしいのだが、
鉄腕アトムブラックジャックはそもそもすでに成立した作品だし、火の鳥以外の手塚マンガは近現代を舞台にしたものが多い。
生と死、人間の生きざまを探るという手塚マンガの骨子は多くの作品に共通しており、
手塚マンガ≒火の鳥≒その他手塚マンガと言ってもよく?、とにかく、沢山のマンガを描き続けてきたんだな という感想しか出てこない。

 

火の鳥の連載を時系列に見ていくと、1967年~70年 黎明編~未来編~ヤマト編~宇宙編~鳳凰編を描いている。
よくこれだけのものを雑誌連載でつづけさまに描いたものだと思うが、その後 復活編以降の諸作品はちょっとパワーダウンを感じる。

まったくの個人的独断、偏見だが、
火の鳥 鳳凰編を描き上げ、がちゃぼい一代記を発表した1970年くらいまでが、手塚治虫の創造力・筆力のひとつのピークで、
その後 年令、経済的状況、社会の動向とのリンクなど、さまざまな要因があったと思うが、
1970年代前半に描かれた火の鳥復活編、アラバスタ―など(自分が最近に読んだ諸作品を見る限りでも)、どうも気力が落ちているというか、迷い道に入り込んだ感じがあって、読んでて暗い気持ちになったり、ストーリーに継ぎはぎ感が出てくる。
「マンガの描き方」という本のあとがきで、手塚治虫は、20代のころは無我夢中になってマンガを描き、30代にはプロ意識をもって描き、40代にはマンガ世代の心理を模索しながら描いた と述べている。
手塚治虫は1928年生まれで、40代にさしかかった1970年代は、少年マンガ家から出てきた自分がこの先 何を、誰に向かって描いていくか、距離感をはかりつつ模索していたのだろう と思う。

 

手塚治虫はストーリーを組み立てるのがとても上手い作家なので、それだけに「神の手」、作者の思惑や意図が見えやすくなることが多い。
復活編~太陽編の諸作品は、主人公やストーリーに没入して読むというよりも、私の場合、作者(手塚治虫)の語りをどう聞くか みたいな面白みが増えてきた感じがあった。
その中では、太陽編 火の鳥と犬上の語り、宗教がなぜ人の世から無くならないのか という問答が面白かった。

 


「ぼくはマンガ家」というエッセイの巻末に、シラーの詩が引用されている。

「時」の歩みは三重である。
未来はためらいつつ近づき、
現在は矢のようにはやく飛び去り、
過去は永久に静かに立っている。


「マンガの描き方」のあとがきで、マンガの本質をズバリ一言でいうとなんでしょう?との質問への答が、「風刺ですよ」。


上の2つは、読んでてカッコいいなあと思う言葉で、
マンガの描き方では、手塚治虫は自分のマンガを教科書的とも述べており、(このあとがき自体が、手塚自身による一人二役のQ&Aと思われるが、)シニカルなユーモアが面白いなあ と思う。

 

 

ーーそして、火の鳥手塚治虫から翻ってジョジョを眺めてみると、
いちばんに思いつくのは、ジョジョ6部の、いわゆる壮大な世界観、セカイ系(?というか、時代や設定を大きく股にかける感じ)が、火の鳥未来編とよく似ている。

人間の生き死に、時代を通じた人間たちのありさまを描くのは、人間賛歌をテーマにかかげるジョジョ火の鳥にも共通するが、
いわゆる大河ドラマ、歴史や時代、大きな枠組みの物語を描くと、おのずとそうしたテーマ、モチーフが組み込まれるものなのではないか と思う。

 

手塚治虫荒木飛呂彦で資質が異なるな と思うのは、
手塚治虫は、(自身が「マンガの描き方」で述べるところの)ラクガキ精神の発揮、ユーモアやギャグ、ラクガキの奔放さをマンガづくりに組み込んできたのに対し、
荒木飛呂彦はいわゆる劇画派で、リアリティと重厚さを基底にした作品作りで、ユーモアやギャグのおちゃらけ、コマ割りや作劇の舞台をひっくり返すような逸脱は好まないところ。

2人の作家に共通しているのは、やはり、映画が大好きで、映画をモチーフにマンガをつくり、
手塚治虫はクラシックが好きで、荒木飛呂彦はロックが好きで、マンガ以外の様々なところから使えるモチーフをマンガに持ち込んでいるところにあると思う。


ジョジョ火の鳥も、時間が過去から未来に向かって進んでいく話で、ページをめくるにつれ、物語は前から後ろに進む。
未来編のラストで、火の鳥(≒手塚治虫自身)が諭しているように、人類の未来は、無益な繰り返しではなく、らせん階段を上がるように、グルグル同じところを回りながらちょびっとずつ、少しずつの進歩を積み重ね、期待されているものでもある。

ジョジョ火の鳥も、主人公が死んだり、悲劇的な結末に終わることが多いマンガだが、読後感が悪い、後味が悪くなるものは少ない。
残酷な結末となっていても、不思議とさわやかな気持ちになるのは、人生の底を見据えたことに残るほの明るさがたしかにあり、どこかにしっかり希望というものが描かれているからだろう。

 

荒木先生は自著「漫画術」で、夢オチは最低なオチのつけかただ という旨を述べていたが、それも当然で、
マンガはそもそもが夢、作者の妄想、(手塚治虫が1971年、望郷編開始直前に描いたエッセイ「休憩」(火の鳥別巻収録)で述べた通り)こどもだましのくだらない妄想から始まっているのだから、
だからこそ、夢が夢のまま、くだらないものがくだらないままで終わってしまうのではなく、もう少し何ものかまともなもの、何がしか意味があり作者や読者、時代に爪痕を残るものにしてやりたい。
そういう親心を持って作品を描くのがマンガ家というもので、手塚治虫荒木飛呂彦も、ベースは真面目な人なんじゃないか と思う。

作者の思惑

日曜日の昼間 ゆったりした時間を活用して、キン肉マン王位争奪編(24~36巻)を一気に読み終わった。

王位争奪編は、昔 ジャンプの連載で読んでいたよりも大分面白かった。
毎週ごとの連載を読むのではなく、コミックスで一気に通して読んだからだと思う。
キン肉マンソルジャー、フェニックスの魅力が子どものときはよく分からなかったが、今読むとよく分かった。
サタンクロス、オメガマンあたりの試合は子どものときも詰まらなくて、そのときの印象と変わらなかった。

新シリーズ(38巻以降の始祖編)も、さわりだけを読んで、シルバーマンが出てきて以降の連載は、毎週ネットで読んでいるので、
これで大方、キン肉マン オメガマンとソルジャーが戦っている現在のくだりまで、自分の中で作品が繋がって嬉しい。
キン肉マン2世はまだ全然知らないが、パラレルワールドとして、老後の楽しみに取っておこうかな?と思う。グルマンくんあたりのマイナー作品も、ヒマがあったら見てみたい。

1~66巻までの全巻セットを持っているので、オメガマン編(61巻~)の巻末Q&Aコーナーも目を通したが、
65巻 50代を迎えて人生にすこしくたびれた読者に、ゆで先生が自らの仕事観を語るくだりがあり、読んでてグッとした。

36巻 スグルとフェニックスが自らの出自を語り合い、最終回の大団円にもグッときたが、
これまでの積み重ね、1巻 ダメ超人からの成長・努力があるので、ハッピーエンドに説得力が出ているのだ と思う。

ゆで先生の巻末Q&Aを読んでいて、ハッとなったのが、
メガマン編の最初 カナディアンマンやベンキマンなど「弱い超人」を出していたのは、
ロビンマスクラーメンマンなど評価・キャラ付の固まった人気キャラではなく、
人気沸騰前のキャラを使って、(読者人気の定まっていない)自由な、肩の力を抜いたところで新展開を描いてみたい という意図があったらしいことだった。

カレクックやウルフマンの活躍が、読者の好評を得たのかどうかというと微妙なところかもしれないが、
ゆで先生はいろんなことを考えて、(当たり前だが)作者の思惑をもって、日々 マンガを描いてるのだな と思った。


荒木先生のジョジョリオンも、直近の投稿で、今月号の話(ホリーさんが突如復活して、定助を助けた話)に辛辣な感想を書いたが、
これは多分、ホリーさんと院長のエピソードを、手っ取り早く片づけて、定助たちキャラクターのベクトルを、東方家に揃えたくなったのだと思う。

私の憶測に過ぎないが、次回の話からは、東方家に集まるキャラクターたち、三者三様のロカカカ争奪が描かれるのではないか。

ジョジョリオンキン肉マンも、連載を展開していく中で、細かい設定の変更、辻褄が合わなくなることがあるが、
コミックで通して読んでると、大きな話の流れを追っていくので、細かい辻褄を無視して、結末までのページめくりを、ダーッと進めていく感じがある。

そもそも、ふだんの生活、日常の仕事や人間関係において、そうそう緻密な論理性、破綻の無い整合性というものは発揮されないもので、
マンガの展開や落ち、ストーリーのまとめかたというのは、終わりよければすべてよし、面白さが全て というのが、私の思うところである。

ジョジョリオンのラストへの展開で、見落とさないでほしい(忘れられるかもしれない)と思うのは、吉良の妹の扱い、シャボン玉のスタンドが超ひも理論にあることで、
東方家の相克、主人公の行方というのは、メインテーマとして、これからしっかり行く末を描かれるだろう。

スタンドバトルのスカッとした逆転劇を見てみたいけど、シンプルに解釈・応用しづらい能力が多く、さてどうだろうか という心境である。

評論することのおかしみ

この11月、仕事の合間にお休みを貰ったり、自宅で本を買い込んで読むという生活をしていて、amazonで本を注文して読んだり、紀伊国屋書店ジュンク堂書店を訪ねて本を買い込んだりしたことが随分あった。

10~11月の2か月間で、あたらしく本を買うのに20万円くらいのお金を費やした。(キン肉マン66巻セットもその一部)
あたらしく本を買うだけでなく、自宅の物置に無造作にしまい込んでいた蔵書を整理して、カテゴリー別、興味関心のジャンル別に整理して、段ボール箱ごとに入れ直した。

歴史、哲学、政治経済、自然科学、企業経営、実学(パソコンと英語)、自己啓発、趣味娯楽。

今月になってはじめてkindleのアカウントを作って、仕事の関係の電子本を2冊購入した。
電子本、PDF、htmlファイル、itunesに入れているmp3ファイル、gmailに書き留めているメモなんかもだが、
パソコン上に保管しているデータは、どこに何を入れたか、どのジャンルに何を入れていたか 整理することが後回しになってしまい、
だいたいのフォルダに放り込みっぱなし、詰め込みっぱなしになりがちである。

紙の本を今回、カテゴリーごと、自分の興味関心の方向性ごとに、絵巻物を並べるように、背表紙でタテて並べるとスッキリ整理されて良い。横積み、平積みではダメである。
ヨコ積みではダメで、タテに並べるのは良いというのは、単なる習慣的なもので、「この本は自分で読んだ、捉えた。やっつけた、自分の中に入れた」という支配感、達成感というものが、自分の場合、象徴的に、本をタテに置いて並べる、ということなのだろう。

パソコンのデータの場合、手元に置いて並べるという身体感覚、ドッグイヤーを付けて折り込む、線を引いてメモを書きこむみたいなことが、何となくしにくい。
パソコンで読んだテキストの場合、自分でコピーをとって抄録をまとめたり、自分が読んだ感想をまとめたり、何がしかの形で「書く、アウトプットする」がないと、
どうもテキストが自分のものにならない、データがデータとして在るだけで、自分の中に入ってこない そんな感じがする。

このあたり、個々人によって取り込みかたはそれぞれで、デジタル以前とデジタル以後でスタイルが変わっている、いわゆる「勉強法」に属するものだろう。


このブログは、私の趣味娯楽分野の履歴を、ジョジョを中心に書きまとめたものです。

自分自身のパソコンにテキストデータを書き溜めるのではなく、なぜブログを書いているのか? というと、
それは、ジョジョのことをもっと語りたい、自分だけの感想に留めるのではなく、世間にひろく伝えて、(ジョジョを知る)他の皆さんに読んでもらいたい という意図があるからです。

この記事の表題にあげた、評論することのおかしみ、というものを、自分自身 ブログを書いていて感じます。

一歩引いて冷静に見ると、私自身 なぜ、この記事を書いたり、ジョジョのことや亀の飼育、キン肉マンなり趣味の感想をあれこれ語らなければならないのか!? と思います。

ひとことで言うと、それは、私の中の、声にならない声を拾い上げたい、言葉として書き留めて、(読者となる)誰かに届けたい ということに尽きるのでしょう。
私自身が、後になって自分の書いたことを読み返すこともありますし、誰か他の方が、これを読んでいただくこともあります。

この2~3日 テレビやインターネットで見るだけでも、面白い、興味を引くニュースが沢山飛び込んできます。
香港の区議会選挙と民主化運動。壇蜜清野とおるの結婚、イモトと石崎ディレクターの結婚、などなど。

ひきあいにだして申し訳ないですが、イモトと石崎Dが結婚したというニュースで、yahooニュースのコメント欄に、ims*****さんが下記のコメントを投稿していた。

イモト結婚発表 石崎Dが演出 - Yahoo!ニュース

「最近の芸能人の結婚発表にはない、驚きと喜ばしさがあった。
 大事なのはこれからで、イッテQのレギュラーとそれを作るディレクターとして、そして家庭を両立することで芸人、ディレクター、番組の発展が得られると思う。」

amazon読書メーター食べログgoogleマップ、5ch、爆サイfanzaツイッター、職場の休憩室、家庭や居酒屋でのブッチャケ話、etc。

人間は井戸端会議が大好きで、皆が評論家になって、お互いを評論して、褒めたり悪口を言ったり、色んなことを言いあうのが大好きだと思う。

何でこんなことを、何の立場で、何のために言いまわる必要があるのか!? と思うことがあるけども、
つまるところ、人間はおしゃべりすることが大好きで、誰かから誰かに関わりたい、誰かと誰かで関わりたい。
コミュニケーションのずれかた、かみあわなさ、個性が滲み出してはみ出してるおかしさ。

映画を観ている観客のすがたを誰かがさらに見ているような、
プロ野球で金本にガンバレ!と絶叫する観客の姿をさらに別の観客が眺めているような、無限につながるおかしさがあると思う。

ゆでたまごと荒木飛呂彦 2人の作家の才能を比較する

キン肉マン 66巻の全巻セットを買ってしまい、少しずつ読んでいる。
9巻、10巻 2回目の超人オリンピックが終わって、悪魔超人との戦いが始まるあたりまでを読んだ。
10巻 各話の扉に、読者投稿の詩がいくつか載っていて、キン肉マンのやさしさ、強さを称える詩がつづられている。
強さの裏にあるのがやさしさ、ドジで間抜けなスーパーヒーロー。
私はテレビアニメをあまり見なかったが、キン肉マンの主題歌はよく覚えていて、読者投稿の詩のような、熱い歌詞だった。

キャメルクラッチやパロスペシャル、当時 プロレスの技を子ども同士でかけあって、ムチャをしすぎることも多かったが、
キン肉マンの内容はそれだけではなく、男の戦いや生きざま、大阪の人っぽいユーモア・ギャグ、読者投稿を活かす双方向の作品づくりと、
サービス精神、チャレンジ精神、スポーツ選手のような疾走ぶりが、力いっぱいに描かれている。
これはたしかに面白い。

キン肉マンジョジョ ゆでたまご荒木飛呂彦は、同い年生まれのマンガ家で、ともに少年ジャンプでしのぎをけずった人気マンガ家である。

キン肉マン ゆでたまご先生の個性は、何よりもまず、ふたりで描いてるコンビのマンガ家 というところにあると思う。
キン肉マンのドジで間抜けなヒーローぶり、
自分自身ではすぐにへたれるが、ラーメンマンテリーマンミートくん、怪獣に襲われる地球人ーーすなわち「他人」のためなら傷つくことをいとわず戦う姿。
これは、ゆでたまご先生が二人で一人のマンガ家であり、(プライベートは知らないが)友人同士が協同して描くマンガだからこそ、すんなり出てくるキャラクター、ストーリーだと思う。

荒木先生はホラー映画やサスペンス映画が好きで、恐怖や不安に襲われるとき、人は、基本的に孤独である。
そして、孤独に置かれた主人公は、他人の助けや超常的な奇跡に助けられるのではなく、自分自身の意思と力で、状況を乗り越えなければならない。
バオー来訪者であったり、ジョナサン以降のジョジョシリーズであったり、荒木先生の描くマンガは、基本的に、主人公がひとりで戦い、自身の力で苦境を乗り越える。
それは、荒木先生が、(プライベートの交友関係はいざ知らず、)ひとりでマンガを描いている作家だからだと思う。

ゆでたまご先生と荒木先生 ふたりの作風の違いは、そのまま、ヒト、人間の生活のありようと重なる。

ジョジョリオンの定助は、吉良とジョセフミ、2人の対照的な産まれの人間が1つとなり、あたらしく産まれた姿である。
これは深読みかもしれないが、人間というのは、父親と母親 2人の異なる人間が交わり、1つとなってあたらしく子どもが産まれてくる。
定助が2人の人間が融合して産まれて、しかも生前の記憶を失っているというのは、人間の赤ちゃんが、産まれる前のことを覚えておらず、いつのまにか知らない世界に産まれ出てきたことと、重ね合わせているのかもしれない。

当たり前だが、どんな人間も、この世に産まれてきた瞬間から、ひとりぼっちではいられない。
よしにつけあしきにつけ、産まれたときから、人間は他人に囲まれ、何がしかの社会・環境下において育っていく。

ジョジョリオンの定助は、東日本大震災後の日本に産まれた「これから先の未来を生きる日本人」であり、
現実の社会、日本の世の中をどうやって生きていくのか? というところが、物語で描かれる、「呪いを解く方法」、ストーリーの向かうべきエンドになっているだろう と思う。

ゆでたまごであれば、「それは友情だよ!!」とひとことで言い放ってしまうのかもしれないが、
荒木飛呂彦の描く物語では、なかなか簡単に、すんなり真情をぶつけあって、お互いに和解する、という展開にならない。

往年のジャンプ少年マンガのノリでいけば、定助と常敏が戦った後 仲間になり、さらに強い敵を求めてパプアニューギニア(スーパーロカカカの原産地)を転戦したり、これまでの主人公たちが出てきて最後に共闘したりする。
ジョジョのシリーズは、基本、失われたものは元には戻らない、死んだ人は生き返らない という価値観を定めて、旧世界から新世界への作り直しも実行している。

ゆでたまご先生と荒木先生 どちらが優れている、と評点をつけて争うものではなく、どちらかにマンガ家新人大賞を与えて優勝劣敗を定めねばならぬ、というものではない。
激しい週刊誌の生存競争を生き残ったという意味で、お二人はまぎれもなく天才であり、どちらの作家も、それぞれの世界観を発揮し、作品世界を構築した、ふたりともに称えられるべき英雄である。

キン肉真弓と委員長の昔懐かしいプロレスが、「近代プロレス」を望むモダンなファンからこきおろされるギャグがあったが、読者(観客)の視点は厳しい。
お二方とも、まだ引退は先のことのようであるが、キン肉マンジョジョ、現行作を描き上げてほしいものだ と切に願う。

ジョジョリオン 定助がホリーさんに助けられた話に、ガックリ来た感想

身の回りがバタバタして、慌ただしい日常を過ごしている。
去年は父が、今年は母が相次いで病院に入院し、幸い 二人とも無事で退院できる見込みなのだが、お迎えが迫りつつあることを感じる。

XTC Wake upという曲を聴きたいテンションになり、クルマの中でかけていたが、
ミックスがしつこく聴きづらいこの曲を聴きながら、テンションを高め、気持ちをまとめていた。

ウルトラジャンプ2019年12月号 定助がホリーさんに助けられる話で、たまたまの偶然だが、病院に集まる母と子の話しだった。
私の家族はマンガほどドラマチックな状況下には無いのだが、
母が子を想う気持ち、子どもが母を助けようとする意思を持つことは、誰にも頷ける普遍的な情緒であり、私も納得した。

インターネットでのジョジョリオンの感想を散見していると、
今回の話は良かった、主人公が母を助ける決意を得られたこと、ついにアイデンティティーを獲得できたことに感動した と、(通常比で)良かったという感想、肯定的な評価をする方が多いようだった。

マンガの感想を述べることは自由であり、良かったよ という方の感想・意見を尊重すべきことは当然なのですが、
私自身の感想としては、今回の話は、正直なところ、ここ最近で抜きん出て良く無かった。

今回の話 (ウルトラジャンプ連載時)「危険な追跡」と題された4か月分の連載は、
定助がアイデンティティーを獲得するという着地点がまずあって、そこに到らせるまでに、主人公やキャラクターたちをどう動かすか、というところが物語上の肝だったと思う。

雨の中 パトカーが集まり、定助が自分の孤独を告白し、雨粒の中に飛び込んでいく件がある。
その後に、病室に担ぎ込まれてホリーさんに助けられる流れになっているので、今月号の話の流れは、ある程度 事前に組み立てられていたのかもしれない。

ホリーさんが昏倒してベッドに縛られていた描写が以前にあって、そこから急に意識を戻して、理路整然と、母の慈愛を発揮して主人公を助けるというのは、
意外な展開のサプライズというよりは、ちょっとムチャクチャなのではないか というのが、最初の印象だった。
ホワイトスネイクが幻想を見せてきたときのような、微妙に辻褄の合わない描写で、これはどうやって収拾をつけるんだろう…? と、半歩引きながら読み進めていくと、
「これは果たして幻覚なのか、本当なのか!?」と主人公のメタ的なセリフが入りつつも、そのまま、最後まで終わってしまって、エッ!?となってしまったのが本当のところだった。

ジョジョシリーズを読み続けてきて、ページをめくりつつ気持ちが離れていく、というのはあまり無い経験で、
(熱心に読みはじめた3部以降でいうと)カメオ戦の後 アヴドゥルが生きていたことを、ポルナレフが知らされず隠されていたと発覚したくだり。
ジョルノが刑務所を訪問すると、ポルポが自分の指を食い始めたあたり、アナスイがカエルの脳にスタンドをつないでヨーヨーマッを倒したくだりなどである。

要するに、作中の展開についていけなくなって、気持ちがページから離れてしまう。しらけてしまう、という瞬間である。

今月号の話にて、やや強引には感じるが、ホリーさんと岩人間の因縁、主人公がホリーさんを助けることの意思の強調、アイデンティティーの確認。
そして、岩人間の院長の野望のありさまがピークに達するところを描いているのだと思う。

ダラダラとしたグチになってしまうが、明負院長が講演をするくだりも、司会のアクションやセリフがややわざとらしいというところから始まり、
そもそも、秘密下で研究しているロカカカの技術を、このようなかたちで講演・公開するだろうかという疑問や、
医療技術の肝であるところの等価交換が「謎」のままで、厚労省が認可をしたり、医療業界や患者さんたちが納得し受け入れるだろうか?
マンガで描かれた院長の講演を聞くかぎりでは、あやしい健康食品の通販番組と、同じくらいの説得力しか感じられなかった。

定助とホリーさんの絆を描きたい意図は分かるし、院長を中心とした再生医療の陰謀を描きたい意図は分かるのだが、
これまでに積み上げた描写との整合性、現実的なリアリティに基づく説得力が欠けている と感じられ、自分には、今回の話は、エンターテイメントとして受け入れられず、心に響かなかった。

アナスイがどうやってヨーヨーマッを倒したとか、アヴドゥルが生きてたことをポルナレフに隠す動機がそこまであったのかなど、
よく分からないくだりは時々あるものだったが、お話全体の基盤を揺るがすものではなく、アヴドゥルの父にアヴドゥルが変装していたとするなど、いかにも週刊連載らしい、その場の思い付きで話を変えたんだろうなという感じで苦笑したものだった。
今回の話は、8部の中心となるエピソード、話の重要な折り返し点になるものだろうと思うので、あまり面白くなかったのは残念だったが、仕方が無い。


メタ的な観点で見ると、主人公の左上半身にロカカカの影響で、岩が食い込んで、ジョースターの星のアザを含めて、7つの形が浮かび上がってるのが、
北斗の拳の北斗七星を意識しているのだろうか?と思って、ちょっと面白かった。

正直に言うと、ジョジョリオンの連載は、1巻~10巻くらいまでは冷ややかに、あまり面白くない…と思って、距離をおきつつ見ていて、
モカンが登場したくらいから面白さを感じ、これからの盛り上がりを期待して読んできたのだが、
オージローがせっかく再登場しつつも、あまり登場の意図がよく分からないまま倒されてしまい、
危険な追跡のエピソードが、院長のスタンド能力が何でもありで恣意的な解釈・逆転技(どこまでが追跡の意思を持つとし、どこからが追いかけさせるのか など、判断・判定の基準が主観的で、作者のサジ加減が見えてしまいやすい)になっていきそうで、
うーん、期待しつつ毎月の展開を読んできたけども、ジョジョリオンのこれからの畳み方には、あまり期待できないかな… と、半分 諦めを抱いたのが、今月号の話だった。

(このブログを見に来る方は、ジョジョリオンジョジョシリーズに関心がある、ファンだと言う方が主だと思います。)
あまりポジティブな感想ではないところが申し訳ないですが、正直なところ、ぶっちゃけたところの感想が以上のところだった。

あと1年くらいで、だいたい完結までの道筋が見えてくるのでは? と思いますが、愚かな読者の一人である私の期待を裏切って、面白くまとめてくれたら嬉しい。

でも、たとえ荒木先生がこのブログを読んでいたり、荒木先生が私と対面する機会を持てたり、(ありえないことですが)荒木先生が私の父母であって両親をディスることは親不孝だとしても、
良くないものは良くないし、面白くなかったのだからしかたがない。

ジョジョリオンにはもう1本の柱、東方家を中心に、家族のありかたをめぐる物語が残されている。
定助(=吉良家とジョセフミ)をめぐる家族のありかたと、東方家のありかたを対比しつつ、物語のクライマックスが描かれると思われる。

多分、なんとなくホリーさん、岩人間、吉良家をめぐるエピソードや設定はこれ以上 あまり盛り込まれないような気がするので、
残るところ、東方家のお家騒動、家族の幸せのありかた、というところに描写が割かれていく気がする。
こちらに期待して読んでいこうと思う。

ゆでたまご先生の天才性を語る キン肉マン1~4巻の感想

ドラえもんクレヨンしんちゃんミュージックステーション 金曜夜のTV2時間枠が解体され、ニチアサキッズ(スーパー戦隊からプリキュアまでの90分)が解体されて久しい。
世の中の移り変わりを感じる事例だが、息子に聞いたところ、今の子どもはyoutubeの無料動画で音楽をまず聴いて、気にいったものを購入・入手する音楽習慣に変わっているのだ という。
FMラジオを聴いたり、ミュージックステーションを見たり、カセットテープやVHSテープにお気に入りを録音録画した時代とは異なっている。
勿論、それが悪いという訳ではなく、技術革新、新たな視点の商品やサービスが開発されることで、音楽を楽しむ習慣にイノベーションが起こり、世の中が新しく変わっていくのは選択肢が豊かになり、良いことだと思う。

同様に、プレイボーイのサイトで毎週 キン肉マンの更新を読んでいて、
自分はキン肉マンしか読まない、超人さま、セックス依存症になりましたは読まない、あくまでわずかな慰安とヒマつぶしに読んでいるだけだ… とうそぶいていたが、
毎週毎週 オメガマンたちと運命の五王子たちの戦いを読んでいる内に、つまらないと思いつつも読み続けていて、いつの間にか渇望心が刷り込まれ、
勢い余って、キン肉マン 1巻~66巻の全巻セットを購入してしまった。

「ウェブの無料版でとりあえず読ませる、幅広く色んな人に知らしめる → 興味を持った人間を食いつかせ、全巻セットで購入させる 」という、
集英社と漫画全巻ドットコム、アマゾンの連携プレー、マーケティングに、まんまと引っかかって、乗っかってしまった。

電車の中吊り広告はめっきり見なくなり、街中や電車でマンガ・文庫本・新聞を読む人はめっきり減り、ケータイ電話をひっきりなしに眺める人たちが増えた。
何が良い、悪いということはさておき、マーケティングや商売のかたち、コミュニケーションのありかたというものはどんどん、スタイル、やりかたが変わっていくな と実感する一幕だった。


  ***


本記事の本題、キン肉マン全巻セットを買ってしまい、買った以上は仕方なく、1巻から順番に読みはじめた。

1巻~4巻まで読み終わり、キン肉マンがカメハメと出逢って、ジェシーメイビアと試合する直前のあたりまで読み終わった。

キン肉マンを読みながら思ったのは、幼児教育、擦りこみの効果はこわいな というもので、
子どもの頃 実家で兄が買っていたキン肉マンを読みふけったものだが、1~4巻のそこかしこのシーン、1巻と4巻は兄が持っていた記憶があり、
読み進めるごとに、このコマは見たことがある、このコマは印象深い、一方 こんなシーンはあったかな…?こんな話は全く覚えていない、と、
3~6才くらいの幼児のときに読んだ記憶と、大人になり知識や経験を得てから読んだ現在とで、さまざまな重ね合わせが出来たことだった。

自分は教育業界に勤めているが、名作絵本・児童文学として、中川李枝子の「ぐりとぐら」「いやいやえん」を奨める声は根強い。
大人になってからこれらを読んだのだが、私にとってはしっくりこず、つまらなくはないが、自分の感性や心中には響かず、芸術的な感動というものもあまり湧かなかった。

ぐりとぐら いやいやえん の二作は、「子どもの心中をそのままに描いた」「子どもの世界を率直に、素朴で純粋な明るさでもって描き出した」という観点で評価されることが多い。
それはそれで頷けるのだが、私にとって、芯のところで、この書評は響かない。

なぜならば、私にとって、正直なところ 絵本でいえば「かいじゅうたちのいるところ」「おしいれのぼうけん」のほうが前者より面白く、心に迫る感動が大きくあったし、
そもそものところ 未就学児だった当時 私は絵本で大きく感動した思い出は、絵画制作の題材となった「スイミー」を置いて他に記憶が無く、
スイミーよりもその他(当時に数多く触れていたはずの)名作絵本よりも、ドクタースランプキン肉マン、少年ジャンプで連載されていたマンガのほうがはるかに大好きで、心に刻まれる存在だったからである。


キン肉マン 1~4巻を読んでいて、恐ろしかったのは、子どものとき そこまで熱心に読みこんだつもりは無かったのに、
コミックスのそこかしこで、心に焼き付いたシチュエーション、場面場面のあったことである。

スグルがブタと間違えて宇宙船から放り出された一コマ、
テリーマンがスグルの家にやってきて、ここはまるでウサギ小屋だな とつぶやく一コマ。
キン肉マンが、日本人の朝食はごはんとみそしるに決まっておるだろうが とつぶやくコマ。
ナチグロンが大いびきをかいて眠り、キン肉マンが迷惑しているオチのコマ。

ナチグロンがどういじめられて、キン肉マンがどう彼を救ったか ストーリーのあらすじは全く覚えていなかったのだが、
キン肉マンがナチグロンをかばった、落ちこぼれだって、弱いいじめられっ子だって頑張って生きているんだ というメッセージは、子どものとき、はっきり心に刻まれたことを再読しつつ思い出した。

超人オリンピックが閉幕し、チャンピオンベルトの裏面を見て、チャンピオンの重みに気づいた一コマ。

超人オリンピック ロビンマスクとの戦い、テリーマンと怪獣退治するくだり、マリさんや女性新聞記者のくだりなどは全く覚えていなかった。

キン骨マンとイワオ 今見るとデザインが洗練されていて結構かっこいいが、こどものときはギャグ編がまだるっこしく、これらのキャラにも魅力を感じていなかった。


1~3巻まではギャグマンガのテイストが強く、当時の作者が興味を持ったものを存分に盛り込んでいる。
直接的には、すすめ!パイレーツなど当時流行っていたギャグマンガのノリ、作者の身の回りにあったもの、興味関心、楽屋受けみたいなものを盛り込んでいるのだが、
残念ながら、ゆでたまごが狙って描いたギャグで笑えるものはほとんど無かった。

2巻 アデランスの中野さんが、底なし星人の胃液に呑みこまれ、骨だけの姿になって浮かび上がる。
キン肉マンたちが、ああ…と嘆き、星人に怒りを発揮するくだりが、いわゆるシリアスな笑いとなっていて、おかしかった。

キャラクターのセリフに流れるような勢いがあること、キン肉マンやミート、子どもたちの描画がかわいく、流れるような滑らかさ、温かみがあること。
自分が子どものとき 絵を描くと、いっつも太い描線でグイーッと輪郭を描くクセがあったのだが、キン肉マンの作画から影響を受けたのだな と、つくづく思った。

野グソをしている女の子が居て、背後からカエル怪獣が登場するという話があるのだが、「女の子が野グソをする」というシチュエーションが物語の冒頭に違和感なく描かれるあたり、世相の差を感じる。
1960~70年代の絵本を読むと、保育園で悪さをした子どもが押し入れに閉じ込められるシーンがそこかしこに登場するが、これと同じく、世相の差、世の中の移り変わりを感じる一幕である。


あくまで個人的独断であるが、
ゆでたまご先生のすごさはギャグマンガ家としてのギャグセンスではなく、子どもの心を持ったままプロでマンガを描きはじめたそのすごさ、天才性に尽きると思う。

子どもの頃 兄はキン肉マンを読んで「絵が下手だ」と言い、
当時の西村編集長(?)が「ゆでたまごは絵も話も下手だったけど、キン消し含めて、彼らには稼がせてもらったよ」とうそぶいたという、兄から聞いた、まことしやかな伝聞に、子どもながら心を痛めていた。

ゆでたまごは、絵が下手なのではない。
デッサン的な意味でいえば、19~20歳で描きはじめた連載当初よりも、始祖編~オメガ編を描いている現在のほうが上達し整っているが、
ゆでたまごの絵のすごさ、ゆでたまごのマンガのすごさは、子どもの心 そのままに絵と話を考え、
小学生の落書きからスタートしたキャラをそのまま使い、小学校の友だち2人が協同作業でマンガを描き、そのままプロの連載作品として、描かれはじめてしまった、そのところにある。

キン肉マンは、超人オリンピックの開催からテイストを変え、5巻の作者はしがきにあるように、
主人公のスグルがドジで間抜けなヒーローから、少しずつ強くなり、たくましく成長する姿、正義超人たちと友情を深めつつ切磋琢磨する男の生きかたを描く物語に変貌していく。

超人オリンピック テリーマンラーメンマンロビンマスクのキャラクターの立ちかたは出色で、
(結末をすっかり忘れていたが、)キン肉マンロビンマスクの戦い 野生の本能=火事場のクソ力により逆転、勝利を収める筋立ては鮮やかであり、素晴らしい。

キン肉マンギャグマンガとして始まり、ウルトラマン、プロレス、プロ野球や特撮番組、当時のTVCMなど、ゆでたまごの好きなものを盛り込んだドタバタギャグでスタートした。
キン肉マンの顔は不細工だが、ブサイクだからこそかっこいい と、ロビンマスクとの戦いに到るまでに、私自身 思わされてしまった。

これはとんでもない筆力で、当時の読者だった子どもたちを魅了したストーリー展開に納得させられてしまったし、
何と言っても、後のシリーズに続く、キン肉マンを中心とした、ヒーローのありかた、ライバルや悪漢との戦い、男たちのドラマというものが、その原型が、短いページ数で作り込まれている。

ゆで先生が中野編集との対談で述べたとおり、1回めの超人オリンピックは一世一代の大仕事であり、この賭けに勝ち、キン肉マンと共に大きく成長を果たしたことで、
現在に至る、ゆでたまごキン肉マンの成長と成功への道のりが描かれた。重要な位置づけを占めるシリーズだったと思う。

(興味を持たれた方は、2019年春のプレイボーイ スグルとアタルが表紙のキン肉マン特集号に載っていた、ゆで先生と中野編集の対談など、読んでみてください。)


保育所保育指針、学習指導要領など 国が定める教育のキーワードとして、「たくましく生き抜く力」「生きる力」を育む、というものがある。

文科省厚労省が定める大綱的文書に異論は無いのだが、ふと思うのは、
キン肉マンが野生の本能、火事場のクソ力を発揮してロビンマスクに勝利をおさめたくだり、
ゆでたまご自身がキン肉マンと一緒に成長して、ドジで間抜けなヒーローからほんとうに強いプロレスチャンピオンへの階段を登り始める成長と友情の物語は、
まさに、現在の日本国が子どもたちに身に付けさせようとしている、「たくましく、これからの社会を生き抜く力」に他ならないのではないか ということだ。

(繰り言めいて申し訳ないですが、)中川先生の「ぐりとぐら」が保育園に設置し繰り返し読まれることはあっても、
キン肉マン」や「ドクタースランプ」が、保育園や小学校の本棚に並べられることは無い。
多くの保育園幼稚園において、絵本以外のメディアは存在を黙殺され、テレビやマンガ、ゲームやインターネットは無かったほうがよいもの として扱われている。

教育論はさておくとして、ひとつ確かなこととして、
どこに「その子にとっての真実」「世の中、世界を知り始めるきっかけ」が潜んでいるかは分からない。

教育業界の端くれとして、「子どもたちの自主性・主体性」を尊重する保育、(小中学校以降の)教育を行っていくのであれば、
いま 学校なり保育園にあるもの全てが、子どもたちにとっての全てではない。

学校教育は、ひろく社会をかたちづくる環境構成の一つでしかなく、よくもわるくもこの世はもっと広い世界であり、
未就学児~小中高校生くらいまでの、まだまだ経験や見聞が少なく未熟な子どもたちに関わるときに、子どもたちに敬意を持つからこそ、彼らの興味・主体性、彼や彼女の意思や可能性を損なってはいけないのだ と反省している。


最後に、ジョジョとすこし絡めた話題でいうと、
キン肉マンのキャラクターデザインは読者応募のパクリばかり、ジョジョは映画や洋楽、ファッションイラストからのパクリがひどい みたいな論調がある。

それは事実で、キン肉マンをいま読むと分かるが、すすめパイレーツなどのギャグマンガ梶原一騎の劇画からの影響。
(無許可のパクリではなく、雑誌企画として応募を呼びかけ、投稿作をアレンジしたというかたちで、)読者原案を基にした、さまざまな正義超人たちの姿がある。

コミックスに掲載された読者投稿のイラストを見ると、ラーメンマンロビンマスクなんかは、読者投稿のデザインをほとんどそのまま、マンガのキャラクターたちとして採用、作中に登場している。
著作権管理・パクリ指摘に厳しい昨今だと、読者投稿のそのまんまのパクリ、(民法上の規定はクリアしているとしても)あまりにもオリジナリティが無い。
ゆでたまごは、当時の読者のネタを吸い取って、編集部のマーケティングに乗っかっただけで、少年ジャンプの剛腕が凄かっただけで、ゆでに実力はないじゃないか みたいな意見がある。

子どもだった当時 私の兄も、キン肉マンを、タッグトーナメント編終了までほぼ全巻 買い揃えながら、同様の感想を述べていた。
(キン肉星王位争奪編からは、兄も飽きたのか、小学校5~6年生くらいになったのでコミックスを買わなくなった)

しかし、これらの指摘、非難はいささか思慮が浅い と言わざるを得ない。

では、ラーメンマンロビンマスクの読者投稿イラストを見て、誰か、ゆでたまご以外に、鎧の超人、辮髪の超人をつかって、あのようなキャラクター立て、ストーリー展開を描けたのだろうか? ということである。

ラーメンマンロビンマスクの投稿者は、(現今のディズニー、円谷プロ、あるいはJASRACのように)ビジネスとして、しっかりはっきり著作権を主張できる契約を当初に結んでおけば、
今頃 キン肉マンシリーズからのロイヤリティで大儲け、サラリーマンの副業収入以上の富を、一枚のイラストハガキから得ることが出来たのではないか とゲスな想像をしないでもない。

それは愚かな考えというもので、投稿作採用時の規定(誰に著作権が発生し、保有するかの決まり。集英社が抜かりなく、ビジネス上の規約を盛り込んだのだろう)はともかくとして、
マンガという作品制作において、付加価値の創造として、
一枚のイラストハガキから、小学校のノートへの落書きから、小学生2人の落書きごっこから、
誰が果たして、ゆでたまご以外に、あのようなかたちで、キン肉マンと仲間たち、ライバルたち、敵役たちの物語を紡ぎ出し得たか ということなのである。


キン肉マン 1~4巻を読んで、カメハメが出てきたあたりでもういいかな、と思ったのは、一通りのエピソードを読みきった満足感もあるし、
ここから先は、シリアス路線のプロレスに転向して同じ路線の拡大拡張になっていった印象がある、
(記憶に薄い)王位争奪編、まだ読んだことが無い37巻以降の新編を読むまで、コミックを順繰りに読むのがダルい、巻数が多過ぎる… という事情がある。

満腹感というか、もうお腹いっぱいだ という感覚はあって、
ここから先の展開 読んでいけば新たな発見があり、昔を思い出す懐かしさもあって、読めばたぶん、きっと面白いシリーズ展開が待っているのだろう。

私はマンガを一気読みするタイプではなく、じっくり読んで楽しんでいきたいタイプである。
ビジネス書、仕事における実用書は飛ばし読みをするし、自分に役に立つかどうか、自身の考えや興味関心と重なるかどうか、効率を考えて読む(作業する、仕事する)節がある。

マンガ、絵本といったものは仕事とは別で、創作の世界にじっくりと浸りたい。すぐに全部読んでしまうのは勿体無くて、じっくりその世界に浸って楽しみ続けたい。
贅沢な楽しみであると思っている。

当ブログのアクセス解析、インターネットで記事を書くことの反省

このブログを開設させて頂き、沢山の方がアクセス、記事を読んでいただきありがたいことだと思う。
ときどきコメントを頂くことがあって、コメント投稿いただく記事の種類は、アクセス割合に比例している。

当ブログの人気記事、アクセスの多いベスト3は下記の通り。

1位 ジョジョリオン53話 過去編が完結し、「無かったことにされるだろう伏線」を整理する

2位 MOTHER3 「END?」でそのまま終わってほしかったクソゲー

3位 ジョジョは、なぜ気持ち悪いのか?


アクセス割合は、インターネットで検索をする方、当ブログ(の記事、情報、キーワード)で何に興味を持ったかの割合であり、
おおげさに言えば、自分と他人 筆者と読者のコミュニケーションを探る行為であり、興味深い。

ジョジョリオンの伏線や設定の整理、また、ジョジョが気持ち悪いことの論考というのは、
(自筆記事のクオリティは別として、)皆が興味を持つことであり、自分自身も、他の方が同テーマで書いた記事があったら是非読んでみたい。


意外だったのは、ゲームレビューの記事を書いていて、MOTHER3が詰まらなかったという感想が多くのアクセスを集めたことだった。
当時 レトロゲームを懐古しつつやりこんでいて、その感想を書き留めたもので、耳目を集める期待は持っていなかった。

この記事が注目を集めたのは、記事の内容の「過激さ」であり、ネガティブなワードを含むダメ出しの直截さが読んだ人の感情を刺激しやすく、
また、インターネット検索で注目を集めやすい内容だったのだと思う。

MOTHER3ディスる記事を書いて、同シリーズの熱心なファンの方は、気分を害された方もあるようで、その点は申し訳なかったと思う。
コメント欄に、匿名でひとこと「死ね」と書く方もあって、驚き、そのコメントは削除させて頂いたのですが、
動機がなければ行動をしない訳で、私の記事に「死ね」と書きこみたくなるほど、その方を情緒的に揺れ動かす切っ掛けが自分の記事にあったのかも、と反省しつつ複雑な思いがする。
ただし、この記事を削除することはせず、そのまま載せておこうと思います。(理由は、同記事とコメント欄にて述べた通りです)


このブログを始めるときに、ブログ、SNSというものは「公共の場」における発言なので、
なるべくネガティブな発言、誰かを攻撃する物言い、無責任な放言はしないでおこうと思って、
自分なりに思うところの感想や意見、一貫した自分なりの考えを述べていこう と思って書きはじめました。

ただのおべんちゃら、ひいきの引き倒しは退屈だし、アクセス数を稼ぐための薄っぺらい情報広告は巷に氾濫していますが、そういうものではなく、
1対1の感想、著者と読者のシンプルな関係、対話的な感想、意見、批評というものを、(ジョジョファンである自分自身が)もっと読みたい と思ったからです。


糸井重里さんの仕事について補足すると、私自身は、MOTHERシリーズに限らず、糸井さんのキャッチコピー、広告業界における作品や仕事をある程度は知っています。
ほぼ日手帳を欲しいと思ったことはありませんが、世間一般の平均値と較べると、糸井重里のファンであり、興味を持っている と言えるでしょう。

昭和の終わり頃 井上陽水が出ていたTVCMで、「くうねるあそぶ」というキャッチコピーがあり、後に、糸井さんの作であることを知りました。
くうねるあそぶ は良く出来たキャッチコピーで、現在までに一般化し、
著作権上の許諾を得ているのかどうか定かではありませんが、)幼稚園や保育園の保育指針、NHK Eテレにて「くうねるあそぶ」のキーワードが、概念としてそのまま使われたりしています。

下記の記事で、糸井さんがこのコピーを考えたときの経緯が語られています。

糸井重里が語る「食う」「寝る」ともうひとつの大切なこと 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

日産自動車のためにつくったコピーで、「くうねるあそぶ。」があります。
落語の前座噺である「寿限無」に、「くうねるところにすむところ」があって、そこから発想を得たものです。
ぼくは、「くうねる」に「あそぶ」を入れないと納得がいかなかったんです。


このブログを書くことも、くうねるあそぶの3つめ、「遊び」に該当する行為で、人類の生存にとって何の意味も無い、必要のない行為とも言える。

「男の品格 気高く、そして潔く」川北 義則さんによる本があり、
さる企業経営者の方が、男のありかた、生きかたや遊びを再確認させてくれる本、という書評を述べていた。
率直なところ、奥さんに隠れて夜遊びすることを許してくださいね という意味なのだが、正妻たる奥さんに向けたメッセージと捉えると、
(公共の場である)書評でこのようなことを述べた経営者 Aさんの潔さ、図太さ、あるいは開き直りというものは、呆れ半分で器が大きい と認めざるを得ない。

夜遊びがいけない とされるのは、夜遊びによって傷つく人間が居る。そのことを省みない男のワガママさ、いい加減さが批判されるのだと思う。

インターネットにおける炎上騒動、政治家の先生がターゲットになることが多い「不適切な発言、言動」も似たところがあって、
自分自身がブログを書いていくにあたっても、この記事を読んでくださる誰かへの配慮、読者への配慮というものを忘れず、気をつけていこう と反省した次第です。