ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

キン肉マンシリーズの概観 正→反→合の弁証法で、テーマやストーリーのつながりを読む

(ほとんどジョジョと関係無い記事になり、すみません。キン肉マンシリーズについて語っている記事です)


キン肉マン1~36巻、37巻~現在までのコミックを揃えて読んでいるが、
キン肉マン2世については、まだ読んだことが無い。

何となく、「2世もの」という発想が好きでは無くて手が伸びないのだが、
この前 ふと思いついて、キン肉マン2世のあらすじをネットで調べて読んでいた。

弁護士でキン肉マンファンの方が居り、悪行超人の血統(ヒカルド、アシュラマンの一家、時間超人)に触れたものがある。
誠実な筆致、ひかえめな文章から覗くお人柄に、弁護士として仕事を依頼したいと思わせる方だった。

熱心なゆでたまごファンの方々には申し訳ないのですが、キン肉マン2世のあらすじを読んで、コミックを読んでみたいな とあまり思うことは無かった。

実物を読んでいないのに感想や批評を語ることはできないものですが、
あくまで現時点の、大まかな考えの整理ということで、お許し頂きたいと思います。


 ***


キン肉マンの旧作(1~36巻) → キン肉マン2世 → キン肉マンの新作(37巻~の展開)

キン肉マンには、大きく分けて3つのシリーズがある。

時系列上は、キン肉マンの後にキン肉マン2世が続くことになっているが、
シリーズ間の辻褄が合わなくなってきており、2世と始祖編はパラレルワールドなのだろうか、あるいはどちらかを黒歴史として抹消しようか という意見もある。

設定上の辻褄はともかく、作者 ゆでたまごの意図として、どちらかを黒歴史として無かったことにするなんてヒドイことは有り得ない。

作家の執筆活動の必然として、キン肉マン→2世→キン肉マン 新作は繋がっている。

キン肉マン→2世→キン肉マン 新作の展開は、正→反→合の弁証法にそっている。

ーーそんなことを、キン肉マン2世のあらすじを読みつつ考えていました。

 

キン肉マン2世のあらすじ、悪役超人たちのエピソードをたどっていくと、
人間には覆せない壁があり、出自や育ちによって正義と悪人が決まるのかどうか みたいな話が描かれていることを知りました。

アシュラマンの家族 息子のシバは、サカキバラ事件から着想を得ていると思しく、
あらすじを読むだけで来るものがあるというか、キン肉マンでそれを描くのか!?という嫌悪感があった。

少年漫画家だったゆでたまごにとって、サカキバラ=シバを描くのは、かなりのタブーを、あえて犯す気で描いたはずだと思う。

時間超人 2人組の出自も、少年誌でこういうキャラクターは書かないかもな、という感じがある。

キン肉マンは王位争奪編のラストで、いちど完結した作品である。
なので、初代キン肉マンのアンチテーゼとして、2世を描いた節がある。

ただし、2世の次世代超人たちが、前作を越えることを目標としていたとは思いますが、
そこまで描ききれない とどこかで見切りを付けて、タッグトーナメントの話を切り上げ、
心機一転 初代の続編に原点回帰することになったのではないか と思う。


38巻より再開した、キン肉マンの新作は、楽観的な世界観を、意識して取り戻した節がある。

3つの派閥 それぞれに主張があり、それぞれに正しさがある。

これは、正義と悪が2つに分かれて、悪には救いが無い と言わんばかりの、
2世で描いたテーマとストーリー、その反省から成り立つものだろう。


キン肉マン2世のあらすじをたどりつつ、キン肉マン→2世→現行作の、内的な必然性、作品のテーマやストーリーの繋がりというものを考えていました。

キン肉マン 新作が、いわゆる大人向けのキン肉マンとなっているのは、
やっぱり、ゆでたまご先生が年を経て、20代の若者から大人になって、いろんなことを経験して、その深みが作品に投影されているからだと思います。

2世のシリーズも、10年以上に渡って長期連載されたもので、
読んでみると、ゆでたまごの年令的な成熟、老い、反骨心みたいなものが反映されて面白いんじゃないかな? という気もするんですが、
今 2世の全巻を読むまでのヒマが持てそうにないのと、いわゆる青年誌向けのエログロ路線はあまりスキでなく、何となく手が伸びないというところです。


正→反→合。
無邪気で朗らかな少年 → 世間の厳しさに直面する → 大人になる というリンクになぞらえてみると、
キン肉マン2世のテイストは、(ゆで卵だけに)ハードボイルドすぎたのかも というのが、あらすじを見た時点の印象です。

自分の場合は、小学生前後の小さなときにキン肉マンを読んでいたので、
この作品の世界観や絵のタッチは、小さな子どもの朗らかさ、前向きな明るさを持っていてほしい という価値観がある。
悪行超人たちのキャラクター付け、ストーリー展開で訴えたいところは分かるのですが、キン肉マンの絵と話で読みたいのはそこじゃないんだよな…という違和感、ズレを感じる。

かつてジョジョ5部で、フーゴが離脱した後 敵にするかしないかの葛藤が荒木先生にあったという。
最終的には、
「かつて仲間だったフーゴが裏切り者で、敵として出てきたら、読者もイヤな気持ちになるんじゃないか」
少年マンガの読者には、正義や希望を伝えることが大切ではないか」
との判断にて、フーゴヴェネツィアで別れたまま物語からフェードアウトすることになった。

キン肉マン2世に感じるジレンマ、近づきたいような近づきたくないような感じは、これに似たものがあると思う。


 ***


今日 ついさっきのことであるが、キン肉マンのweb連載が更新され、
ジャスティスマンが登場し、サタンに対峙。オメガマンに教えを諭す話」を読むことができた。

ジャスティスマンがオメガマンに述べたセリフで、「罪人の子孫は罪人ではない」。

ここから先は私の予想・憶測ですが、
ジャスティスマンのセリフは、2世で描いた悪行超人の問いを、作者があらたに問い直したものだと思う。

メガマンが出てからの話は、何を描こうとしているのか テーマやストーリーが見切り発車でグラグラ揺れ、固まっていない感が強かったのですが、
アタルがオメガマンに勝ったくらいから急展開で、今後の筋道が見えてきた。

作者はオメガマンに思い入れがあり、けっこう自己投影をしている感じがあり、もう1人のキン肉マンとしてこのシリーズで成長を描いていきたい。
そういうストーリーで、今後の方向性が、嶋田先生たちの中で固まってきたのだと思う。

時間超人 2人組が報われない悪役のまま死んでいったのも、その時期のゆでたまごであれば、
今描きつつあるオメガマンたちの一団で、時間超人の描き直しをしようとしているのではないか。
そんな気がする。


キン肉マンの展開で、今後 どうやって物語を見せていくのだろう? と思うのは、
「神」よりも「悪魔」は弱いに決まっているだろう ということがある。

キン肉マンは王位争奪編でいちど完結している。
物語の最後で「王」=神に認められた存在となり、ヒーローを極めた。

本来ならば、その先は無かったはず。

このあたりは、ドラゴンボール 神と神以降の展開に似ている。
映画上映前後 鳥山先生にて、悟空たちが成長して強くなりすぎてしまったので、
あたらしい敵(≒主人公のライバル、目標値)としてネコの神さまを設定した という旨を述べていた。


(ゆで先生にとっては、全くのお節介だが)キン肉マンの新作で悩ましいのは、
先に、神であるザ・マン、神の弟子である完璧超人始祖のエピソードを、かなり見事に、二度と描けないくらいの高みで描いてしまったことだと思う。

神のあとに、神に劣る悪魔を出しても、物語は二番煎じとなり、同じことの繰り返しで、前作を超える盛り上がりが得られる筈が無い。

キン肉マンの後にゆうれい小僧がやってきた、キックボクサーマモルでプロレス的展開をやって、人気が出なかった。
聖闘士聖矢のあとのサイレントナイト翔、北斗の拳のあとのサイバーブルー。

原哲夫先生が、サイバーブルーのあとに花の慶次で息を吹き返したように、
ジョジョが1~3部でDIOとの宿命を描き切った後に、4部で仙台の日常話に軸足を移したように。

キン肉マンで、始祖編のあとに、異なるあたらしいシリーズを描くのであれば、
なにか物語の軸足、座標軸や向かうところを他にズラす必要があるのではないか というのが、私自身 僭越ながら思う次第である。


キン肉マン なぜ新作を描くのか?」の答は、作者自身でないとわからない。

このあたりの問いは、人間はなぜ生きるのか? ひとつの目標を達した人間は何に向かって生きるのか? 余生が訪れたら人間は何をするのか? みたいな問いである。

ゆで先生が新作を描きたければ描く。
読者はそれを読みたかったら読む。
何を受け取るかは読者しだい というところだろう。

「強さとは何か」 ブルースリーの燃えよドラゴンを観る

お正月休みに、映画「燃えよドラゴン」をはじめて観て、あわせて、手元にあった手塚治虫「マンガの描き方」を読み返し、ゆでたまご「生たまご」を読んだ。

 

東洋と西洋の違い、肉体と精神の調和みたいなテーマを求めて、アマゾンプライムではじめてレンタルした映画が「燃えよドラゴン」。これがドンピシャに面白く、今更ながら観て、見終わった後も興奮して、身体の震えが止まらないほどだった。

 

私は映画をほとんど見ない人間で、ダーティーハリーも数年前にようやくはじめて観たし、燃えよドラゴンも先日にはじめて観た。

子どものとき読んだドクタースランプには、イーストウッドを模した散髪屋さん、ブルースリーやジャッキーチェンから着想を得たカンフーヒーローが登場していたのだが、最近になってようやく、元ネタとなる映画を観た訳である。

 

ブルースリー燃えよドラゴンは、「強さとは何か」を追求し、表現した映画である。

北斗の拳ドラゴンボールキン肉マン 1980年代に少年ジャンプで描かれた少年マンガは、明らかに、ブルースリー燃えよドラゴンを源流として、作者ごとのそれぞれの物語、男のカッコ良さを描いてきたことに今更ながら気づいた。

 

鳥山先生が描く孫悟空のキャラクター、ひょうひょうとして自由なところ、浮世離れて達観したところは、ブルースリーが持つ二面性、武闘家と哲学者のあたりからもインスパイアされていたのだ と知った。

ブルースリーが早くに亡くなり、燃えよドラゴンで描かれた理想的人物像を継承発展させたのがドラゴンボールの悟空だと言ったら、ひいきの引き倒しになるだろうが、そんな感じもする。

 

荒木飛呂彦のマンガに、直接、ブルースリー的なカッコ良さを感じさせる節はあまり無い。

ジョジョ荒木飛呂彦のマンガは西洋的なムードが強く、シャーロックホームズ、ヒッチコック、近年のモダンホラー映画・サスペンス映画から範を取ったものが多い。承太郎のイメージソースであるイーストウッドも、ハリウッド映画の人脈にある人である。

ジョジョで、いわゆる東洋思想的なエッセンスが入り込んだのは第6部、ジョリーンが陰陽道のバックルを身に付けて脱獄し、キリスト教原理主義の神父を打倒しつつ、世界が一巡し、第7部であらたな輪廻に入ったあたりである。

7部の中で、イエスさまが「ものごとは円」と述べたくだりがあるが、このあたりも、西洋から見た東洋思想を、もう一回 東洋人である荒木先生が取り込んで、自らのエピソードとして描き出したような、そんな面白さがある。

 

ーー描きながら気づいたが、ジョジョシリーズの主人公は武器を使わず、己の肉体で戦う。

ジョナサンはツェペリから教えを受けた波紋法で戦い、波紋が変形・拡張発展したアイデアがスタンド(幽波紋)だった。

呼吸をベースに腹で気を練る波紋法は、明らかに東洋武術であり、キャラクターたちが己の肉体と精神を駆使して戦う様は、武闘家のそれにならっているともいえる。

 

キン肉マンで、キャラクターたちがプロレスリングで全ての決着をつけるのはヘン みたいな突っ込みがある。

同じく、ジョジョスタンド使いたちが、基本 一対一で戦い、刺客たちが一斉に襲い掛かってこないのはヘンだという突っ込みがある。

いくつか理由はつけられるのだが、根本的には、荒木先生もゆでたまごも、男と男の戦いは一対一であるべきもの、強さとは何かを求めるときに、他人の余計なジャマ立ては要らない。

そう考えるからこそ、承太郎対DIOは一対一の戦いとなったし、ゴールドマンとザマンの戦いも余人が入るスキは無い。ジャマする者は殺されるしかない という緊迫感が周囲を圧倒したのだと思う。

 

冒頭に挙げた、年末年始に読んだ本や映画の感想を語りだせばキリが無く、ひとつひとつを詳細に述べることはとてもできない。

最後にひとつ、手塚治虫「マンガの描き方」を読むと、驚くほど、荒木飛呂彦「漫画術」の記載と一致する。

荒木先生が前掲書を読みこんだかどうかは分からないが、手塚治虫、手塚マンガとその構造や背景を知らないということはありえず、何かしらのかたちで影響を受け、学んで、自らのマンガに活かしたことは間違いない。

 

ジョジョのルーツを探る というカテゴリーで、いくつかの映画や本などを紹介してきているが、

手塚治虫「マンガの描き方」、ブルースリー燃えよドラゴン」 

これらが、荒木飛呂彦ジョジョ、1980年代ジャンプの少年マンガに多大な影響を与えていることは疑いない。

ジョジョシリーズや荒木マンガが好きで、これらに触れたことが無い方があれば、いちど手にとってご覧いただければ面白いのではないか と思う。

2019年の振り返り

2019年の暮れが押し迫って、今年のマンガ読書を振り返ると、ジョジョリオンはあまり面白くなかった。院長先生とのチェイスが延々と続いていた感じだった。

キン肉マン オメガ編の連載も読んでいるが、最近に読んだ1巻~60巻のインパクトが強い。

手塚治虫 火の鳥も、黎明編から太陽編までを読み返して、あらためて面白さに感動した。

 

マンガを読んでいて良かったな と思うのは、人生で何かしら大きな決断をしたり、何か困ったことが起きたとき、判断や意思決定をするときに、マンガのイメージやシーンが浮かぶことがある。

意識してマンガを思い出す、というのではなくて、何とはなしに頭に思い浮かんで、判断や決断を助けることがある。

マンガに限らず、文字の本もそうだし、誰かと話したこと、自分自身で体験したことなどが総合して、自分の中の「判断基準」を形作ってるのだと思うが、マンガは絵とストーリーが付いているので、頭に浮かびやすいのかもしれない。

 

今日 仕事と生活において、不正を隠すか隠さないか、正しくないことを見過ごすか見過ごさないか みたいな判断を迫られることがあった。

自分の中で違和感・嫌悪感が湧き上がって、ジャイロが馬上のルーシーに説教しているシーン、ジャスティスマンが「ギルティーッ!」と叫んで相手をマットに叩き落としている場面が浮かんで、正しくないことはやっぱり止めよう と思い到ったのだった。

 

今日はクリスマスイブで、クリスマスは本当はイエスキリストが産まれた日では無い とかいろいろ曰くがあるらしいのだが、

北半球においては、冬至を過ぎて、冬から春に向かい始める日頃であることは間違い無い。

あぶさん 南海からダイエーに身売りしたくらいの時期、カコが主役のエピソードで、

長年の片思いが終焉にいたり、ひとり涙をこぼした後、「冬来たりなば春遠からじ」とつぶやく話がある。(カコのセリフ、本当は口語調のやわらかい言い回しだったのですが、思い出せずすみません)

 

今年1年を振り返って、色々なことがあったなあ という気がするが、冬来たりなば春遠からじ というのが、今の心境である。

ブログ読者の皆様にとって、来年一年がよい年になりますように。

火の鳥 全巻読了のメモ、手塚治虫と荒木飛呂彦の比較

手塚治虫の「火の鳥」を、黎明編から太陽編まで、ついでに別巻(角川文庫の第14巻。資料集的なもの)をあわせて読んだ。

火の鳥は小学5~6年生のときに読んだことがあり、印象的なコマやシーンが節々にあり、思い返しつつ読んだ。
今回 読んで面白かった、面白いというより凄みを感じ、感動したのは未来編と鳳凰編。
未来編と鳳凰編は、はじめて読んだときもとても面白かった印象があり、40を過ぎて読んだ今も同じだった。

子どものときと較べて、知識や経験が増えているので、火の鳥のストーリーやテーマ、ドラマを通じて作者が何を描いているか というのは、大人のときのほうがよく分かる。
太陽編など、子どものときは何を描こうとしている話なのかよく分からなかったが、宗教や歴史の知識を頭に入れて読むと、何のことかよく分かった。

有名な話であるが、火の鳥は、過去と未来を行き来しつつ現在に向かって描かれた未完の物語である。

手塚先生は1989年冒頭に亡くなってしまったが、死の直前に描かれた太陽編は、結果的に、火の鳥の完結をしめくくるべき作品となったのではないか と思う。
過去と未来を行き来しつつ物語が進んで、自由になった男女が愛と希望に駈け出すさまが、まさに、現実を生きる人間そのものだからである。

近代日本を舞台にした話、鉄腕アトムなど手塚キャラが大挙出演する「火の鳥」が、太陽編の後に描かれた可能性もあったらしいのだが、
鉄腕アトムブラックジャックはそもそもすでに成立した作品だし、火の鳥以外の手塚マンガは近現代を舞台にしたものが多い。
生と死、人間の生きざまを探るという手塚マンガの骨子は多くの作品に共通しており、
手塚マンガ≒火の鳥≒その他手塚マンガと言ってもよく?、とにかく、沢山のマンガを描き続けてきたんだな という感想しか出てこない。

 

火の鳥の連載を時系列に見ていくと、1967年~70年 黎明編~未来編~ヤマト編~宇宙編~鳳凰編を描いている。
よくこれだけのものを雑誌連載でつづけさまに描いたものだと思うが、その後 復活編以降の諸作品はちょっとパワーダウンを感じる。

まったくの個人的独断、偏見だが、
火の鳥 鳳凰編を描き上げ、がちゃぼい一代記を発表した1970年くらいまでが、手塚治虫の創造力・筆力のひとつのピークで、
その後 年令、経済的状況、社会の動向とのリンクなど、さまざまな要因があったと思うが、
1970年代前半に描かれた火の鳥復活編、アラバスタ―など(自分が最近に読んだ諸作品を見る限りでも)、どうも気力が落ちているというか、迷い道に入り込んだ感じがあって、読んでて暗い気持ちになったり、ストーリーに継ぎはぎ感が出てくる。
「マンガの描き方」という本のあとがきで、手塚治虫は、20代のころは無我夢中になってマンガを描き、30代にはプロ意識をもって描き、40代にはマンガ世代の心理を模索しながら描いた と述べている。
手塚治虫は1928年生まれで、40代にさしかかった1970年代は、少年マンガ家から出てきた自分がこの先 何を、誰に向かって描いていくか、距離感をはかりつつ模索していたのだろう と思う。

 

手塚治虫はストーリーを組み立てるのがとても上手い作家なので、それだけに「神の手」、作者の思惑や意図が見えやすくなることが多い。
復活編~太陽編の諸作品は、主人公やストーリーに没入して読むというよりも、私の場合、作者(手塚治虫)の語りをどう聞くか みたいな面白みが増えてきた感じがあった。
その中では、太陽編 火の鳥と犬上の語り、宗教がなぜ人の世から無くならないのか という問答が面白かった。

 


「ぼくはマンガ家」というエッセイの巻末に、シラーの詩が引用されている。

「時」の歩みは三重である。
未来はためらいつつ近づき、
現在は矢のようにはやく飛び去り、
過去は永久に静かに立っている。


「マンガの描き方」のあとがきで、マンガの本質をズバリ一言でいうとなんでしょう?との質問への答が、「風刺ですよ」。


上の2つは、読んでてカッコいいなあと思う言葉で、
マンガの描き方では、手塚治虫は自分のマンガを教科書的とも述べており、(このあとがき自体が、手塚自身による一人二役のQ&Aと思われるが、)シニカルなユーモアが面白いなあ と思う。

 

 

ーーそして、火の鳥手塚治虫から翻ってジョジョを眺めてみると、
いちばんに思いつくのは、ジョジョ6部の、いわゆる壮大な世界観、セカイ系(?というか、時代や設定を大きく股にかける感じ)が、火の鳥未来編とよく似ている。

人間の生き死に、時代を通じた人間たちのありさまを描くのは、人間賛歌をテーマにかかげるジョジョ火の鳥にも共通するが、
いわゆる大河ドラマ、歴史や時代、大きな枠組みの物語を描くと、おのずとそうしたテーマ、モチーフが組み込まれるものなのではないか と思う。

 

手塚治虫荒木飛呂彦で資質が異なるな と思うのは、
手塚治虫は、(自身が「マンガの描き方」で述べるところの)ラクガキ精神の発揮、ユーモアやギャグ、ラクガキの奔放さをマンガづくりに組み込んできたのに対し、
荒木飛呂彦はいわゆる劇画派で、リアリティと重厚さを基底にした作品作りで、ユーモアやギャグのおちゃらけ、コマ割りや作劇の舞台をひっくり返すような逸脱は好まないところ。

2人の作家に共通しているのは、やはり、映画が大好きで、映画をモチーフにマンガをつくり、
手塚治虫はクラシックが好きで、荒木飛呂彦はロックが好きで、マンガ以外の様々なところから使えるモチーフをマンガに持ち込んでいるところにあると思う。


ジョジョ火の鳥も、時間が過去から未来に向かって進んでいく話で、ページをめくるにつれ、物語は前から後ろに進む。
未来編のラストで、火の鳥(≒手塚治虫自身)が諭しているように、人類の未来は、無益な繰り返しではなく、らせん階段を上がるように、グルグル同じところを回りながらちょびっとずつ、少しずつの進歩を積み重ね、期待されているものでもある。

ジョジョ火の鳥も、主人公が死んだり、悲劇的な結末に終わることが多いマンガだが、読後感が悪い、後味が悪くなるものは少ない。
残酷な結末となっていても、不思議とさわやかな気持ちになるのは、人生の底を見据えたことに残るほの明るさがたしかにあり、どこかにしっかり希望というものが描かれているからだろう。

 

荒木先生は自著「漫画術」で、夢オチは最低なオチのつけかただ という旨を述べていたが、それも当然で、
マンガはそもそもが夢、作者の妄想、(手塚治虫が1971年、望郷編開始直前に描いたエッセイ「休憩」(火の鳥別巻収録)で述べた通り)こどもだましのくだらない妄想から始まっているのだから、
だからこそ、夢が夢のまま、くだらないものがくだらないままで終わってしまうのではなく、もう少し何ものかまともなもの、何がしか意味があり作者や読者、時代に爪痕を残るものにしてやりたい。
そういう親心を持って作品を描くのがマンガ家というもので、手塚治虫荒木飛呂彦も、ベースは真面目な人なんじゃないか と思う。

作者の思惑

日曜日の昼間 ゆったりした時間を活用して、キン肉マン王位争奪編(24~36巻)を一気に読み終わった。

王位争奪編は、昔 ジャンプの連載で読んでいたよりも大分面白かった。
毎週ごとの連載を読むのではなく、コミックスで一気に通して読んだからだと思う。
キン肉マンソルジャー、フェニックスの魅力が子どものときはよく分からなかったが、今読むとよく分かった。
サタンクロス、オメガマンあたりの試合は子どものときも詰まらなくて、そのときの印象と変わらなかった。

新シリーズ(38巻以降の始祖編)も、さわりだけを読んで、シルバーマンが出てきて以降の連載は、毎週ネットで読んでいるので、
これで大方、キン肉マン オメガマンとソルジャーが戦っている現在のくだりまで、自分の中で作品が繋がって嬉しい。
キン肉マン2世はまだ全然知らないが、パラレルワールドとして、老後の楽しみに取っておこうかな?と思う。グルマンくんあたりのマイナー作品も、ヒマがあったら見てみたい。

1~66巻までの全巻セットを持っているので、オメガマン編(61巻~)の巻末Q&Aコーナーも目を通したが、
65巻 50代を迎えて人生にすこしくたびれた読者に、ゆで先生が自らの仕事観を語るくだりがあり、読んでてグッとした。

36巻 スグルとフェニックスが自らの出自を語り合い、最終回の大団円にもグッときたが、
これまでの積み重ね、1巻 ダメ超人からの成長・努力があるので、ハッピーエンドに説得力が出ているのだ と思う。

ゆで先生の巻末Q&Aを読んでいて、ハッとなったのが、
メガマン編の最初 カナディアンマンやベンキマンなど「弱い超人」を出していたのは、
ロビンマスクラーメンマンなど評価・キャラ付の固まった人気キャラではなく、
人気沸騰前のキャラを使って、(読者人気の定まっていない)自由な、肩の力を抜いたところで新展開を描いてみたい という意図があったらしいことだった。

カレクックやウルフマンの活躍が、読者の好評を得たのかどうかというと微妙なところかもしれないが、
ゆで先生はいろんなことを考えて、(当たり前だが)作者の思惑をもって、日々 マンガを描いてるのだな と思った。


荒木先生のジョジョリオンも、直近の投稿で、今月号の話(ホリーさんが突如復活して、定助を助けた話)に辛辣な感想を書いたが、
これは多分、ホリーさんと院長のエピソードを、手っ取り早く片づけて、定助たちキャラクターのベクトルを、東方家に揃えたくなったのだと思う。

私の憶測に過ぎないが、次回の話からは、東方家に集まるキャラクターたち、三者三様のロカカカ争奪が描かれるのではないか。

ジョジョリオンキン肉マンも、連載を展開していく中で、細かい設定の変更、辻褄が合わなくなることがあるが、
コミックで通して読んでると、大きな話の流れを追っていくので、細かい辻褄を無視して、結末までのページめくりを、ダーッと進めていく感じがある。

そもそも、ふだんの生活、日常の仕事や人間関係において、そうそう緻密な論理性、破綻の無い整合性というものは発揮されないもので、
マンガの展開や落ち、ストーリーのまとめかたというのは、終わりよければすべてよし、面白さが全て というのが、私の思うところである。

ジョジョリオンのラストへの展開で、見落とさないでほしい(忘れられるかもしれない)と思うのは、吉良の妹の扱い、シャボン玉のスタンドが超ひも理論にあることで、
東方家の相克、主人公の行方というのは、メインテーマとして、これからしっかり行く末を描かれるだろう。

スタンドバトルのスカッとした逆転劇を見てみたいけど、シンプルに解釈・応用しづらい能力が多く、さてどうだろうか という心境である。

評論することのおかしみ

この11月、仕事の合間にお休みを貰ったり、自宅で本を買い込んで読むという生活をしていて、amazonで本を注文して読んだり、紀伊国屋書店ジュンク堂書店を訪ねて本を買い込んだりしたことが随分あった。

10~11月の2か月間で、あたらしく本を買うのに20万円くらいのお金を費やした。(キン肉マン66巻セットもその一部)
あたらしく本を買うだけでなく、自宅の物置に無造作にしまい込んでいた蔵書を整理して、カテゴリー別、興味関心のジャンル別に整理して、段ボール箱ごとに入れ直した。

歴史、哲学、政治経済、自然科学、企業経営、実学(パソコンと英語)、自己啓発、趣味娯楽。

今月になってはじめてkindleのアカウントを作って、仕事の関係の電子本を2冊購入した。
電子本、PDF、htmlファイル、itunesに入れているmp3ファイル、gmailに書き留めているメモなんかもだが、
パソコン上に保管しているデータは、どこに何を入れたか、どのジャンルに何を入れていたか 整理することが後回しになってしまい、
だいたいのフォルダに放り込みっぱなし、詰め込みっぱなしになりがちである。

紙の本を今回、カテゴリーごと、自分の興味関心の方向性ごとに、絵巻物を並べるように、背表紙でタテて並べるとスッキリ整理されて良い。横積み、平積みではダメである。
ヨコ積みではダメで、タテに並べるのは良いというのは、単なる習慣的なもので、「この本は自分で読んだ、捉えた。やっつけた、自分の中に入れた」という支配感、達成感というものが、自分の場合、象徴的に、本をタテに置いて並べる、ということなのだろう。

パソコンのデータの場合、手元に置いて並べるという身体感覚、ドッグイヤーを付けて折り込む、線を引いてメモを書きこむみたいなことが、何となくしにくい。
パソコンで読んだテキストの場合、自分でコピーをとって抄録をまとめたり、自分が読んだ感想をまとめたり、何がしかの形で「書く、アウトプットする」がないと、
どうもテキストが自分のものにならない、データがデータとして在るだけで、自分の中に入ってこない そんな感じがする。

このあたり、個々人によって取り込みかたはそれぞれで、デジタル以前とデジタル以後でスタイルが変わっている、いわゆる「勉強法」に属するものだろう。


このブログは、私の趣味娯楽分野の履歴を、ジョジョを中心に書きまとめたものです。

自分自身のパソコンにテキストデータを書き溜めるのではなく、なぜブログを書いているのか? というと、
それは、ジョジョのことをもっと語りたい、自分だけの感想に留めるのではなく、世間にひろく伝えて、(ジョジョを知る)他の皆さんに読んでもらいたい という意図があるからです。

この記事の表題にあげた、評論することのおかしみ、というものを、自分自身 ブログを書いていて感じます。

一歩引いて冷静に見ると、私自身 なぜ、この記事を書いたり、ジョジョのことや亀の飼育、キン肉マンなり趣味の感想をあれこれ語らなければならないのか!? と思います。

ひとことで言うと、それは、私の中の、声にならない声を拾い上げたい、言葉として書き留めて、(読者となる)誰かに届けたい ということに尽きるのでしょう。
私自身が、後になって自分の書いたことを読み返すこともありますし、誰か他の方が、これを読んでいただくこともあります。

この2~3日 テレビやインターネットで見るだけでも、面白い、興味を引くニュースが沢山飛び込んできます。
香港の区議会選挙と民主化運動。壇蜜清野とおるの結婚、イモトと石崎ディレクターの結婚、などなど。

ひきあいにだして申し訳ないですが、イモトと石崎Dが結婚したというニュースで、yahooニュースのコメント欄に、ims*****さんが下記のコメントを投稿していた。

イモト結婚発表 石崎Dが演出 - Yahoo!ニュース

「最近の芸能人の結婚発表にはない、驚きと喜ばしさがあった。
 大事なのはこれからで、イッテQのレギュラーとそれを作るディレクターとして、そして家庭を両立することで芸人、ディレクター、番組の発展が得られると思う。」

amazon読書メーター食べログgoogleマップ、5ch、爆サイfanzaツイッター、職場の休憩室、家庭や居酒屋でのブッチャケ話、etc。

人間は井戸端会議が大好きで、皆が評論家になって、お互いを評論して、褒めたり悪口を言ったり、色んなことを言いあうのが大好きだと思う。

何でこんなことを、何の立場で、何のために言いまわる必要があるのか!? と思うことがあるけども、
つまるところ、人間はおしゃべりすることが大好きで、誰かから誰かに関わりたい、誰かと誰かで関わりたい。
コミュニケーションのずれかた、かみあわなさ、個性が滲み出してはみ出してるおかしさ。

映画を観ている観客のすがたを誰かがさらに見ているような、
プロ野球で金本にガンバレ!と絶叫する観客の姿をさらに別の観客が眺めているような、無限につながるおかしさがあると思う。

ゆでたまごと荒木飛呂彦 2人の作家の才能を比較する

キン肉マン 66巻の全巻セットを買ってしまい、少しずつ読んでいる。
9巻、10巻 2回目の超人オリンピックが終わって、悪魔超人との戦いが始まるあたりまでを読んだ。
10巻 各話の扉に、読者投稿の詩がいくつか載っていて、キン肉マンのやさしさ、強さを称える詩がつづられている。
強さの裏にあるのがやさしさ、ドジで間抜けなスーパーヒーロー。
私はテレビアニメをあまり見なかったが、キン肉マンの主題歌はよく覚えていて、読者投稿の詩のような、熱い歌詞だった。

キャメルクラッチやパロスペシャル、当時 プロレスの技を子ども同士でかけあって、ムチャをしすぎることも多かったが、
キン肉マンの内容はそれだけではなく、男の戦いや生きざま、大阪の人っぽいユーモア・ギャグ、読者投稿を活かす双方向の作品づくりと、
サービス精神、チャレンジ精神、スポーツ選手のような疾走ぶりが、力いっぱいに描かれている。
これはたしかに面白い。

キン肉マンジョジョ ゆでたまご荒木飛呂彦は、同い年生まれのマンガ家で、ともに少年ジャンプでしのぎをけずった人気マンガ家である。

キン肉マン ゆでたまご先生の個性は、何よりもまず、ふたりで描いてるコンビのマンガ家 というところにあると思う。
キン肉マンのドジで間抜けなヒーローぶり、
自分自身ではすぐにへたれるが、ラーメンマンテリーマンミートくん、怪獣に襲われる地球人ーーすなわち「他人」のためなら傷つくことをいとわず戦う姿。
これは、ゆでたまご先生が二人で一人のマンガ家であり、(プライベートは知らないが)友人同士が協同して描くマンガだからこそ、すんなり出てくるキャラクター、ストーリーだと思う。

荒木先生はホラー映画やサスペンス映画が好きで、恐怖や不安に襲われるとき、人は、基本的に孤独である。
そして、孤独に置かれた主人公は、他人の助けや超常的な奇跡に助けられるのではなく、自分自身の意思と力で、状況を乗り越えなければならない。
バオー来訪者であったり、ジョナサン以降のジョジョシリーズであったり、荒木先生の描くマンガは、基本的に、主人公がひとりで戦い、自身の力で苦境を乗り越える。
それは、荒木先生が、(プライベートの交友関係はいざ知らず、)ひとりでマンガを描いている作家だからだと思う。

ゆでたまご先生と荒木先生 ふたりの作風の違いは、そのまま、ヒト、人間の生活のありようと重なる。

ジョジョリオンの定助は、吉良とジョセフミ、2人の対照的な産まれの人間が1つとなり、あたらしく産まれた姿である。
これは深読みかもしれないが、人間というのは、父親と母親 2人の異なる人間が交わり、1つとなってあたらしく子どもが産まれてくる。
定助が2人の人間が融合して産まれて、しかも生前の記憶を失っているというのは、人間の赤ちゃんが、産まれる前のことを覚えておらず、いつのまにか知らない世界に産まれ出てきたことと、重ね合わせているのかもしれない。

当たり前だが、どんな人間も、この世に産まれてきた瞬間から、ひとりぼっちではいられない。
よしにつけあしきにつけ、産まれたときから、人間は他人に囲まれ、何がしかの社会・環境下において育っていく。

ジョジョリオンの定助は、東日本大震災後の日本に産まれた「これから先の未来を生きる日本人」であり、
現実の社会、日本の世の中をどうやって生きていくのか? というところが、物語で描かれる、「呪いを解く方法」、ストーリーの向かうべきエンドになっているだろう と思う。

ゆでたまごであれば、「それは友情だよ!!」とひとことで言い放ってしまうのかもしれないが、
荒木飛呂彦の描く物語では、なかなか簡単に、すんなり真情をぶつけあって、お互いに和解する、という展開にならない。

往年のジャンプ少年マンガのノリでいけば、定助と常敏が戦った後 仲間になり、さらに強い敵を求めてパプアニューギニア(スーパーロカカカの原産地)を転戦したり、これまでの主人公たちが出てきて最後に共闘したりする。
ジョジョのシリーズは、基本、失われたものは元には戻らない、死んだ人は生き返らない という価値観を定めて、旧世界から新世界への作り直しも実行している。

ゆでたまご先生と荒木先生 どちらが優れている、と評点をつけて争うものではなく、どちらかにマンガ家新人大賞を与えて優勝劣敗を定めねばならぬ、というものではない。
激しい週刊誌の生存競争を生き残ったという意味で、お二人はまぎれもなく天才であり、どちらの作家も、それぞれの世界観を発揮し、作品世界を構築した、ふたりともに称えられるべき英雄である。

キン肉真弓と委員長の昔懐かしいプロレスが、「近代プロレス」を望むモダンなファンからこきおろされるギャグがあったが、読者(観客)の視点は厳しい。
お二方とも、まだ引退は先のことのようであるが、キン肉マンジョジョ、現行作を描き上げてほしいものだ と切に願う。