ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

キャラクターは作者自身の投影である 独断と想像のメモ

マンガに描かれるキャラクターは作者自身の投影である。
荒木先生の「漫画術」 キャラクターづくりの章で、そんなことが述べられていた。

理髪店に行ってヒゲソリをしてもらっていたところ、アヌビス神にとりつかれた散髪屋さんとポルナレフのやりとりが目に浮かび、
アゴの下だな ポルナレフッ!」と叫んだ次のコマは、擬音がトドドドドとなっていたなと思い出しつつ、ふと頭に考えが浮かんだ。

作者 荒木先生の人格がどのように分解されて、キャラクターの骨格を作り、肉付けされているのか?
客観的な根拠は全く無く、私自身の独断と想像 メモを記します。


・作者自身の、素の性格(静かな、大人しいところ)  

花京院

花京院をもっと悪く、すごくした発展形がディオ、吉良吉影


・作者自身の、素の性格(明るいところ)  

仗助

仗助をもっとヒーロー風に飛躍・強調させた発展形がジョセフ


・倫理、規範 (世間、他人が定める理想像)から作ったキャラ  

ジョナサン、ジョルノ


・憧れ(自分の中にある、情感を伴った理想像)から作ったキャラ  

承太郎、露伴ブチャラティ


・他人の観察から生まれたキャラ  

ジャイロとジョニィの兄弟的コンビ

康穂などの女性キャラクター

ポルナレフに始まるお調子者系のキャラ

プッチ神父、大統領、院長 社会的地位や役職を得ているキャラ

 


ーー思いつくところ、ざっとこんな感じでした。

当然のことながら、上記の類推、憶測に客観的根拠は何も無く、ただの想像の遊びです。

作者自身のプライバシーをストーキングしたいというよりは、
作品のベースにある作家性、暴れ回る孫悟空を手の平に納めるおシャカさま、おシャカさまの人柄を知ればより西遊記の物語を楽しめる(?) そんな趣で、以上のメモを作成してみました。

ジョジョリオン ラストバトルの構図

ウルトラジャンプ2020年7月号、レッドツェッペリン「CODA」風のフォントがカッコいい表紙の回を読んだ。

今月号 作者の絵を描くテンションがとみに上がってきていて、ロングの小さな人物でもジャガイモのような顔の崩れた表情が無く、ピシッと絵が決まっている。
2~3部 20~30代の作者が描いていた頃の、筆圧の高い感じを思わせる絵になっており、ハイボルテージ、描くテンションが高まっているのを感じる。

ジョジョリオンはいよいよラストバトルの様相が固まってきて、
病院での戦いと東方邸での戦い、この2つが1つにまとまり、定助の戦いが終わるところで、新ロカカカ 収穫の時を迎えそうな感じである。

今月号の話(病院のラボで、院長のスタンドと定助たちが対峙した時点)からあと2時間ほどで、ロカカカ収穫の時がやってくる。
コミック21巻 ザ・ワンダー・オブ・ユー の冒頭で、常秀たちが一家団欒する裏で、つるぎが秘密裏に行動しているシーンが、収穫の10分ほど前。

8部前半 コミック1~10巻くらいの展開では、エピソードごと、あるいは毎月の連載ごとに設定や伏線が二転三転する印象のあった今作だが、
コミック21巻以降の展開は、作者もおおまかな構想を練ったうえで、キャラクターの行く末を見据えて、伏線を回収しつつ描いている筈である。

ロカカカ収穫 10分前の場面まで、今月までに描かれた荒れた事態からどうやって繋がっていくのか、「謎解き」の腕の見せどころである。


ジョジョシリーズのラストバトル、クライマックス 最後をどう盛り上げるかについては、1部、2部… シリーズごとに、意識的に趣向を変えてきている節がある。

8部 ジョジョリオンの場合、ラストバトルの構図として、「謎解き」をテーマに、今の展開を描いているように思う。

ジョジョリオンは、マンションの一室でのトリックバトルから始まり、二玉の主人公の出生と記憶の謎を探るところからストーリーが始まり、
東方家の家族模様と病気(生死)をめぐる展開で話を膨らませつつ、ロカカカと岩人間の設定を投入。
主人公の設定を中盤で明らかにした後、ロカカカ争奪戦に話をスライドさせ、現在に至る。


ジョジョリオンのラストバトルは、いくつかの「謎解き」を並行して疾走させつつ、話の興味を引っ張っている。

ザ・ワンダー・オブ・ユーの冒頭 一家団欒の裏で憲助さんが瀕死になっている、この場面にどうやって話が繋がるのか

・ロカカカの実を手に入れるのは誰なのか

・院長と透龍は何者なのか

・院長のスタンド能力に弱点はあるのか。どうやって倒すのか

・院長を倒し、ロカカカの実を手に入れた後 誰を治療するのか


吉良家の人々(ホリーさん、吉彰の妹)、東方 花都さんの出番が巡ってこなさそうな気がするが、
院長とのラストバトルが終わった後、エピローグ的なエピソードの中で、吉良家、東方家の人たちの出番が回ってくるかもしれない。


今月号まで読んでいて、予想がつかないのが院長と透龍、2人の正体。

私の予想では、ラスボスはあくまで院長であり、院長は実在する人間。
スタンドや幻影ではなく、再生医療の講演を行ったり、記者と対峙したのは、実在する岩人間の院長。

スタンドバトルとして、遠隔自動攻撃のスタンドを襲わせつつも、院長本体がどこに居るか分からない。院長の正体が何か分からない? というところで、ラストバトルの筋を引っ張っているのだと思う。

一方、透龍は康穂の元カレであり、なんらかの術によって院長に体を操られ、ロカカカ収奪のために利用されている。
透龍が岩人間の黒幕というのはちょっと不自然な気がする。
いかにも怪しいと思わせる登場をして、実際に黒幕かという言動をし始めて、最後にはただの利用された元カレだったということが分かる。そんな展開ではないかと思う。

院長と透龍の描写を見ていると、遠隔通信している、一心同体、院長の魂(の一部?)が透龍に乗り移って操っている? みたいなイメージ、予想が湧く。
5部の終盤でキングクリムゾンがトリッシュにとりついたり、4部で吉良が川尻と入れ替わる展開があった。
過去作と同じアイデアの焼き直しは避けるのでは と思うが、なんらかの形で、院長の正体が別のところにあって、それを最後に突き止めるところで、バトルの決着が付くのだろう。


今月号 羽先生のラボでひとり椅子に座って動かない定助は、3部の承太郎のようなクールさがあり、凄みを感じさせる絵力があった。
豆ずくさんは「驚き汗」をかきつつ、解説役に回っている。

今月号のラスト 大きな見せゴマでなく、小さなコマの会話のやりとりで最終ページが終わるパターンは珍しく、演出、展開が切れている感じがある。

あと半年、1年経つまでにジョジョリオンは連載完結するのではないか と思うが、さてどうなるか。ここからの展開が楽しみである。

ジョジョリオン 2020年4月号の感想

ジョジョリオン 2020年4月号、「終わりなき厄災 その1」を読んだ。

2019年の年明け、密葉とつるぎの親子が学校でいじめられる話(コミック21巻、冒頭の一話)から話がつながって、
今月号でひとつの節目を迎えた感じだった。

東方家の対立、康穂たちとの緊張関係が表面化して、盛り上がってきた。
常敏が運命に翻弄される哀しい男、
終わりなき厄災を仕掛ける物語上の黒幕が院長ということで、話の筋が収斂し、引き締まってきて面白い。

終わりなき厄災、何とも意味深なタイトルであるが、
ジョジョリオンの時代設定を考えると、東日本大震災以降 日本に現れてきたさまざまな厄災、禍、不幸。さまざまなものを象徴している と見てよいだろう。


コミック21巻 冒頭のエピソードからのつながりを見ると、
・つるぎはどうやってスタンドの暴走(体の折り紙化)から回復して、普通の体調に戻ったのか
・常秀たちが呑気な一家団らんの雰囲気に戻っているのはなぜか
が、依然 謎である。

私個人の予想では、次男たちの一家団らんは、つるぎのスタンド能力で幻覚を見せている。
これまで東方家の家族たちが団らんする様子を描いてきたが、最後のところで、偽りの団らん風景を演じる。
家族関係への皮肉を描いているのではないか。

ロカカカ収穫の前に、つるぎが果実を食べて健康を回復しているとは考えづらい。
冒頭の一話 つるぎがゴソゴソ死体(?)を隠そうとしているが、
実際にはつるぎではなく、(ペーパームーンの幻覚で、つるぎに擬態した)常敏だった とか、何らかの仕掛けがあるのだろうか。


家族関係のドラマでいえば、
密葉さんが康穂をトイレに流そうとしたとき、夫の言うままに彼女を殺そうとしたのか、それとも下水道に流して助けようとしたのか。
どちらともとれるような、曖昧な描かれかたをしている。

密葉さんからみて、夫と息子、家族以外の人(康穂たち) どちらを取るかは微妙な選択で、
密葉がどちらを選択したのかは、どちらとも取れるように、曖昧な描きかたをされている気がする。

物語の最後 常敏は死んでしまう気がするが、密葉さんのお腹にやどっている第二子が、東方家の未来への希望となって、これから先に引き継がれていくのではないか と思う。


展開の都合上 カレラ、虹村さんはもう出てこない気がする。

もしかすると、定助が小包を送った先が、吉良家の屋敷で、虹村さんがそれを受け取ったところに、院長が攻めてくる。そうした展開でないかぎり、ちょっともう、虹村さんが出てくる予感がしない。
でも、オージローが突然 再登場して、今月の話で意図をもって登場の筋がまとめられたので、
吉良家の人々のありかたも、これから先、筋をもってまとめられていく気もする。


常敏を中心とする東方家の騒動 残るキーパーソンは花都さん。

院長とホリーさん一族の戦いで、残るキーパーソンは透龍くんのような気がする。

院長がもたらす厄災に手繰り寄せられつつ、吉良家と東方家の騒動がひとつにまとまり、ロカカカが実り誰に用いられるかで、物語がクライマックスを迎える按配である。


ついでに細かく気付いたところを言うと、今月号の話くらいから、院長の後ろ頭 髪型がパンチパーマ、東大寺の大仏のようなブツブツ頭になっていた。

ジョジョ展 長崎でみたキャラクター設定書では、羽先生の頭を「パンチパーマなのに直毛」と記していた。羽先生の髪型に院長を揃えてきた気がするが、
エセ仏教(?)的な宗教の虚妄へのディス、人間が死生を司ろうとすることへの自戒を込めて、ブツブツ頭の螺髪が設定されている --と言ったら、いかにも深読みが過ぎるのだろう。

 


連載期間であと1年くらい、コミック25~26巻くらいでジョジョリオンが完結するペースだろうか。
コミックでまとめて読むと、1~13巻で定助の過去が判明するまでの前半、14巻がインターバルで、15巻以降が新ロカカカの実を争奪する、これから先の未来を探るための後半 となるのだろうか。

14巻 ミラグロマンのお金の呪いで、常秀が主役のエピソードがあった。
とても現代的な、矮小な日本人、リアルな若者(私自身を含めて、身近な人たち)の話を描いていて、箸休め的な立ち位置で、面白いエピソードだった。

今月号の話で、生死ギリギリの康穂を救ったのは間違い無く常秀で、これから先、東方家の人たちのドラマが楽しみになる展開だった。

キン肉マンシリーズの概観 正→反→合の弁証法で、テーマやストーリーのつながりを読む

(ほとんどジョジョと関係無い記事になり、すみません。キン肉マンシリーズについて語っている記事です)


キン肉マン1~36巻、37巻~現在までのコミックを揃えて読んでいるが、
キン肉マン2世については、まだ読んだことが無い。

何となく、「2世もの」という発想が好きでは無くて手が伸びないのだが、
この前 ふと思いついて、キン肉マン2世のあらすじをネットで調べて読んでいた。

弁護士でキン肉マンファンの方が居り、悪行超人の血統(ヒカルド、アシュラマンの一家、時間超人)に触れたものがある。
誠実な筆致、ひかえめな文章から覗くお人柄に、弁護士として仕事を依頼したいと思わせる方だった。

熱心なゆでたまごファンの方々には申し訳ないのですが、キン肉マン2世のあらすじを読んで、コミックを読んでみたいな とあまり思うことは無かった。

実物を読んでいないのに感想や批評を語ることはできないものですが、
あくまで現時点の、大まかな考えの整理ということで、お許し頂きたいと思います。


 ***


キン肉マンの旧作(1~36巻) → キン肉マン2世 → キン肉マンの新作(37巻~の展開)

キン肉マンには、大きく分けて3つのシリーズがある。

時系列上は、キン肉マンの後にキン肉マン2世が続くことになっているが、
シリーズ間の辻褄が合わなくなってきており、2世と始祖編はパラレルワールドなのだろうか、あるいはどちらかを黒歴史として抹消しようか という意見もある。

設定上の辻褄はともかく、作者 ゆでたまごの意図として、どちらかを黒歴史として無かったことにするなんてヒドイことは有り得ない。

作家の執筆活動の必然として、キン肉マン→2世→キン肉マン 新作は繋がっている。

キン肉マン→2世→キン肉マン 新作の展開は、正→反→合の弁証法にそっている。

ーーそんなことを、キン肉マン2世のあらすじを読みつつ考えていました。

 

キン肉マン2世のあらすじ、悪役超人たちのエピソードをたどっていくと、
人間には覆せない壁があり、出自や育ちによって正義と悪人が決まるのかどうか みたいな話が描かれていることを知りました。

アシュラマンの家族 息子のシバは、サカキバラ事件から着想を得ていると思しく、
あらすじを読むだけで来るものがあるというか、キン肉マンでそれを描くのか!?という嫌悪感があった。

少年漫画家だったゆでたまごにとって、サカキバラ=シバを描くのは、かなりのタブーを、あえて犯す気で描いたはずだと思う。

時間超人 2人組の出自も、少年誌でこういうキャラクターは書かないかもな、という感じがある。

キン肉マンは王位争奪編のラストで、いちど完結した作品である。
なので、初代キン肉マンのアンチテーゼとして、2世を描いた節がある。

ただし、2世の次世代超人たちが、前作を越えることを目標としていたとは思いますが、
そこまで描ききれない とどこかで見切りを付けて、タッグトーナメントの話を切り上げ、
心機一転 初代の続編に原点回帰することになったのではないか と思う。


38巻より再開した、キン肉マンの新作は、楽観的な世界観を、意識して取り戻した節がある。

3つの派閥 それぞれに主張があり、それぞれに正しさがある。

これは、正義と悪が2つに分かれて、悪には救いが無い と言わんばかりの、
2世で描いたテーマとストーリー、その反省から成り立つものだろう。


キン肉マン2世のあらすじをたどりつつ、キン肉マン→2世→現行作の、内的な必然性、作品のテーマやストーリーの繋がりというものを考えていました。

キン肉マン 新作が、いわゆる大人向けのキン肉マンとなっているのは、
やっぱり、ゆでたまご先生が年を経て、20代の若者から大人になって、いろんなことを経験して、その深みが作品に投影されているからだと思います。

2世のシリーズも、10年以上に渡って長期連載されたもので、
読んでみると、ゆでたまごの年令的な成熟、老い、反骨心みたいなものが反映されて面白いんじゃないかな? という気もするんですが、
今 2世の全巻を読むまでのヒマが持てそうにないのと、いわゆる青年誌向けのエログロ路線はあまりスキでなく、何となく手が伸びないというところです。


正→反→合。
無邪気で朗らかな少年 → 世間の厳しさに直面する → 大人になる というリンクになぞらえてみると、
キン肉マン2世のテイストは、(ゆで卵だけに)ハードボイルドすぎたのかも というのが、あらすじを見た時点の印象です。

自分の場合は、小学生前後の小さなときにキン肉マンを読んでいたので、
この作品の世界観や絵のタッチは、小さな子どもの朗らかさ、前向きな明るさを持っていてほしい という価値観がある。
悪行超人たちのキャラクター付け、ストーリー展開で訴えたいところは分かるのですが、キン肉マンの絵と話で読みたいのはそこじゃないんだよな…という違和感、ズレを感じる。

かつてジョジョ5部で、フーゴが離脱した後 敵にするかしないかの葛藤が荒木先生にあったという。
最終的には、
「かつて仲間だったフーゴが裏切り者で、敵として出てきたら、読者もイヤな気持ちになるんじゃないか」
少年マンガの読者には、正義や希望を伝えることが大切ではないか」
との判断にて、フーゴヴェネツィアで別れたまま物語からフェードアウトすることになった。

キン肉マン2世に感じるジレンマ、近づきたいような近づきたくないような感じは、これに似たものがあると思う。


 ***


今日 ついさっきのことであるが、キン肉マンのweb連載が更新され、
ジャスティスマンが登場し、サタンに対峙。オメガマンに教えを諭す話」を読むことができた。

ジャスティスマンがオメガマンに述べたセリフで、「罪人の子孫は罪人ではない」。

ここから先は私の予想・憶測ですが、
ジャスティスマンのセリフは、2世で描いた悪行超人の問いを、作者があらたに問い直したものだと思う。

メガマンが出てからの話は、何を描こうとしているのか テーマやストーリーが見切り発車でグラグラ揺れ、固まっていない感が強かったのですが、
アタルがオメガマンに勝ったくらいから急展開で、今後の筋道が見えてきた。

作者はオメガマンに思い入れがあり、けっこう自己投影をしている感じがあり、もう1人のキン肉マンとしてこのシリーズで成長を描いていきたい。
そういうストーリーで、今後の方向性が、嶋田先生たちの中で固まってきたのだと思う。

時間超人 2人組が報われない悪役のまま死んでいったのも、その時期のゆでたまごであれば、
今描きつつあるオメガマンたちの一団で、時間超人の描き直しをしようとしているのではないか。
そんな気がする。


キン肉マンの展開で、今後 どうやって物語を見せていくのだろう? と思うのは、
「神」よりも「悪魔」は弱いに決まっているだろう ということがある。

キン肉マンは王位争奪編でいちど完結している。
物語の最後で「王」=神に認められた存在となり、ヒーローを極めた。

本来ならば、その先は無かったはず。

このあたりは、ドラゴンボール 神と神以降の展開に似ている。
映画上映前後 鳥山先生にて、悟空たちが成長して強くなりすぎてしまったので、
あたらしい敵(≒主人公のライバル、目標値)としてネコの神さまを設定した という旨を述べていた。


(ゆで先生にとっては、全くのお節介だが)キン肉マンの新作で悩ましいのは、
先に、神であるザ・マン、神の弟子である完璧超人始祖のエピソードを、かなり見事に、二度と描けないくらいの高みで描いてしまったことだと思う。

神のあとに、神に劣る悪魔を出しても、物語は二番煎じとなり、同じことの繰り返しで、前作を超える盛り上がりが得られる筈が無い。

キン肉マンの後にゆうれい小僧がやってきた、キックボクサーマモルでプロレス的展開をやって、人気が出なかった。
聖闘士聖矢のあとのサイレントナイト翔、北斗の拳のあとのサイバーブルー。

原哲夫先生が、サイバーブルーのあとに花の慶次で息を吹き返したように、
ジョジョが1~3部でDIOとの宿命を描き切った後に、4部で仙台の日常話に軸足を移したように。

キン肉マンで、始祖編のあとに、異なるあたらしいシリーズを描くのであれば、
なにか物語の軸足、座標軸や向かうところを他にズラす必要があるのではないか というのが、私自身 僭越ながら思う次第である。


キン肉マン なぜ新作を描くのか?」の答は、作者自身でないとわからない。

このあたりの問いは、人間はなぜ生きるのか? ひとつの目標を達した人間は何に向かって生きるのか? 余生が訪れたら人間は何をするのか? みたいな問いである。

ゆで先生が新作を描きたければ描く。
読者はそれを読みたかったら読む。
何を受け取るかは読者しだい というところだろう。

「強さとは何か」 ブルースリーの燃えよドラゴンを観る

お正月休みに、映画「燃えよドラゴン」をはじめて観て、あわせて、手元にあった手塚治虫「マンガの描き方」を読み返し、ゆでたまご「生たまご」を読んだ。

 

東洋と西洋の違い、肉体と精神の調和みたいなテーマを求めて、アマゾンプライムではじめてレンタルした映画が「燃えよドラゴン」。これがドンピシャに面白く、今更ながら観て、見終わった後も興奮して、身体の震えが止まらないほどだった。

 

私は映画をほとんど見ない人間で、ダーティーハリーも数年前にようやくはじめて観たし、燃えよドラゴンも先日にはじめて観た。

子どものとき読んだドクタースランプには、イーストウッドを模した散髪屋さん、ブルースリーやジャッキーチェンから着想を得たカンフーヒーローが登場していたのだが、最近になってようやく、元ネタとなる映画を観た訳である。

 

ブルースリー燃えよドラゴンは、「強さとは何か」を追求し、表現した映画である。

北斗の拳ドラゴンボールキン肉マン 1980年代に少年ジャンプで描かれた少年マンガは、明らかに、ブルースリー燃えよドラゴンを源流として、作者ごとのそれぞれの物語、男のカッコ良さを描いてきたことに今更ながら気づいた。

 

鳥山先生が描く孫悟空のキャラクター、ひょうひょうとして自由なところ、浮世離れて達観したところは、ブルースリーが持つ二面性、武闘家と哲学者のあたりからもインスパイアされていたのだ と知った。

ブルースリーが早くに亡くなり、燃えよドラゴンで描かれた理想的人物像を継承発展させたのがドラゴンボールの悟空だと言ったら、ひいきの引き倒しになるだろうが、そんな感じもする。

 

荒木飛呂彦のマンガに、直接、ブルースリー的なカッコ良さを感じさせる節はあまり無い。

ジョジョ荒木飛呂彦のマンガは西洋的なムードが強く、シャーロックホームズ、ヒッチコック、近年のモダンホラー映画・サスペンス映画から範を取ったものが多い。承太郎のイメージソースであるイーストウッドも、ハリウッド映画の人脈にある人である。

ジョジョで、いわゆる東洋思想的なエッセンスが入り込んだのは第6部、ジョリーンが陰陽道のバックルを身に付けて脱獄し、キリスト教原理主義の神父を打倒しつつ、世界が一巡し、第7部であらたな輪廻に入ったあたりである。

7部の中で、イエスさまが「ものごとは円」と述べたくだりがあるが、このあたりも、西洋から見た東洋思想を、もう一回 東洋人である荒木先生が取り込んで、自らのエピソードとして描き出したような、そんな面白さがある。

 

ーー描きながら気づいたが、ジョジョシリーズの主人公は武器を使わず、己の肉体で戦う。

ジョナサンはツェペリから教えを受けた波紋法で戦い、波紋が変形・拡張発展したアイデアがスタンド(幽波紋)だった。

呼吸をベースに腹で気を練る波紋法は、明らかに東洋武術であり、キャラクターたちが己の肉体と精神を駆使して戦う様は、武闘家のそれにならっているともいえる。

 

キン肉マンで、キャラクターたちがプロレスリングで全ての決着をつけるのはヘン みたいな突っ込みがある。

同じく、ジョジョスタンド使いたちが、基本 一対一で戦い、刺客たちが一斉に襲い掛かってこないのはヘンだという突っ込みがある。

いくつか理由はつけられるのだが、根本的には、荒木先生もゆでたまごも、男と男の戦いは一対一であるべきもの、強さとは何かを求めるときに、他人の余計なジャマ立ては要らない。

そう考えるからこそ、承太郎対DIOは一対一の戦いとなったし、ゴールドマンとザマンの戦いも余人が入るスキは無い。ジャマする者は殺されるしかない という緊迫感が周囲を圧倒したのだと思う。

 

冒頭に挙げた、年末年始に読んだ本や映画の感想を語りだせばキリが無く、ひとつひとつを詳細に述べることはとてもできない。

最後にひとつ、手塚治虫「マンガの描き方」を読むと、驚くほど、荒木飛呂彦「漫画術」の記載と一致する。

荒木先生が前掲書を読みこんだかどうかは分からないが、手塚治虫、手塚マンガとその構造や背景を知らないということはありえず、何かしらのかたちで影響を受け、学んで、自らのマンガに活かしたことは間違いない。

 

ジョジョのルーツを探る というカテゴリーで、いくつかの映画や本などを紹介してきているが、

手塚治虫「マンガの描き方」、ブルースリー燃えよドラゴン」 

これらが、荒木飛呂彦ジョジョ、1980年代ジャンプの少年マンガに多大な影響を与えていることは疑いない。

ジョジョシリーズや荒木マンガが好きで、これらに触れたことが無い方があれば、いちど手にとってご覧いただければ面白いのではないか と思う。

2019年の振り返り

2019年の暮れが押し迫って、今年のマンガ読書を振り返ると、ジョジョリオンはあまり面白くなかった。院長先生とのチェイスが延々と続いていた感じだった。

キン肉マン オメガ編の連載も読んでいるが、最近に読んだ1巻~60巻のインパクトが強い。

手塚治虫 火の鳥も、黎明編から太陽編までを読み返して、あらためて面白さに感動した。

 

マンガを読んでいて良かったな と思うのは、人生で何かしら大きな決断をしたり、何か困ったことが起きたとき、判断や意思決定をするときに、マンガのイメージやシーンが浮かぶことがある。

意識してマンガを思い出す、というのではなくて、何とはなしに頭に思い浮かんで、判断や決断を助けることがある。

マンガに限らず、文字の本もそうだし、誰かと話したこと、自分自身で体験したことなどが総合して、自分の中の「判断基準」を形作ってるのだと思うが、マンガは絵とストーリーが付いているので、頭に浮かびやすいのかもしれない。

 

今日 仕事と生活において、不正を隠すか隠さないか、正しくないことを見過ごすか見過ごさないか みたいな判断を迫られることがあった。

自分の中で違和感・嫌悪感が湧き上がって、ジャイロが馬上のルーシーに説教しているシーン、ジャスティスマンが「ギルティーッ!」と叫んで相手をマットに叩き落としている場面が浮かんで、正しくないことはやっぱり止めよう と思い到ったのだった。

 

今日はクリスマスイブで、クリスマスは本当はイエスキリストが産まれた日では無い とかいろいろ曰くがあるらしいのだが、

北半球においては、冬至を過ぎて、冬から春に向かい始める日頃であることは間違い無い。

あぶさん 南海からダイエーに身売りしたくらいの時期、カコが主役のエピソードで、

長年の片思いが終焉にいたり、ひとり涙をこぼした後、「冬来たりなば春遠からじ」とつぶやく話がある。(カコのセリフ、本当は口語調のやわらかい言い回しだったのですが、思い出せずすみません)

 

今年1年を振り返って、色々なことがあったなあ という気がするが、冬来たりなば春遠からじ というのが、今の心境である。

ブログ読者の皆様にとって、来年一年がよい年になりますように。

火の鳥 全巻読了のメモ、手塚治虫と荒木飛呂彦の比較

手塚治虫の「火の鳥」を、黎明編から太陽編まで、ついでに別巻(角川文庫の第14巻。資料集的なもの)をあわせて読んだ。

火の鳥は小学5~6年生のときに読んだことがあり、印象的なコマやシーンが節々にあり、思い返しつつ読んだ。
今回 読んで面白かった、面白いというより凄みを感じ、感動したのは未来編と鳳凰編。
未来編と鳳凰編は、はじめて読んだときもとても面白かった印象があり、40を過ぎて読んだ今も同じだった。

子どものときと較べて、知識や経験が増えているので、火の鳥のストーリーやテーマ、ドラマを通じて作者が何を描いているか というのは、大人のときのほうがよく分かる。
太陽編など、子どものときは何を描こうとしている話なのかよく分からなかったが、宗教や歴史の知識を頭に入れて読むと、何のことかよく分かった。

有名な話であるが、火の鳥は、過去と未来を行き来しつつ現在に向かって描かれた未完の物語である。

手塚先生は1989年冒頭に亡くなってしまったが、死の直前に描かれた太陽編は、結果的に、火の鳥の完結をしめくくるべき作品となったのではないか と思う。
過去と未来を行き来しつつ物語が進んで、自由になった男女が愛と希望に駈け出すさまが、まさに、現実を生きる人間そのものだからである。

近代日本を舞台にした話、鉄腕アトムなど手塚キャラが大挙出演する「火の鳥」が、太陽編の後に描かれた可能性もあったらしいのだが、
鉄腕アトムブラックジャックはそもそもすでに成立した作品だし、火の鳥以外の手塚マンガは近現代を舞台にしたものが多い。
生と死、人間の生きざまを探るという手塚マンガの骨子は多くの作品に共通しており、
手塚マンガ≒火の鳥≒その他手塚マンガと言ってもよく?、とにかく、沢山のマンガを描き続けてきたんだな という感想しか出てこない。

 

火の鳥の連載を時系列に見ていくと、1967年~70年 黎明編~未来編~ヤマト編~宇宙編~鳳凰編を描いている。
よくこれだけのものを雑誌連載でつづけさまに描いたものだと思うが、その後 復活編以降の諸作品はちょっとパワーダウンを感じる。

まったくの個人的独断、偏見だが、
火の鳥 鳳凰編を描き上げ、がちゃぼい一代記を発表した1970年くらいまでが、手塚治虫の創造力・筆力のひとつのピークで、
その後 年令、経済的状況、社会の動向とのリンクなど、さまざまな要因があったと思うが、
1970年代前半に描かれた火の鳥復活編、アラバスタ―など(自分が最近に読んだ諸作品を見る限りでも)、どうも気力が落ちているというか、迷い道に入り込んだ感じがあって、読んでて暗い気持ちになったり、ストーリーに継ぎはぎ感が出てくる。
「マンガの描き方」という本のあとがきで、手塚治虫は、20代のころは無我夢中になってマンガを描き、30代にはプロ意識をもって描き、40代にはマンガ世代の心理を模索しながら描いた と述べている。
手塚治虫は1928年生まれで、40代にさしかかった1970年代は、少年マンガ家から出てきた自分がこの先 何を、誰に向かって描いていくか、距離感をはかりつつ模索していたのだろう と思う。

 

手塚治虫はストーリーを組み立てるのがとても上手い作家なので、それだけに「神の手」、作者の思惑や意図が見えやすくなることが多い。
復活編~太陽編の諸作品は、主人公やストーリーに没入して読むというよりも、私の場合、作者(手塚治虫)の語りをどう聞くか みたいな面白みが増えてきた感じがあった。
その中では、太陽編 火の鳥と犬上の語り、宗教がなぜ人の世から無くならないのか という問答が面白かった。

 


「ぼくはマンガ家」というエッセイの巻末に、シラーの詩が引用されている。

「時」の歩みは三重である。
未来はためらいつつ近づき、
現在は矢のようにはやく飛び去り、
過去は永久に静かに立っている。


「マンガの描き方」のあとがきで、マンガの本質をズバリ一言でいうとなんでしょう?との質問への答が、「風刺ですよ」。


上の2つは、読んでてカッコいいなあと思う言葉で、
マンガの描き方では、手塚治虫は自分のマンガを教科書的とも述べており、(このあとがき自体が、手塚自身による一人二役のQ&Aと思われるが、)シニカルなユーモアが面白いなあ と思う。

 

 

ーーそして、火の鳥手塚治虫から翻ってジョジョを眺めてみると、
いちばんに思いつくのは、ジョジョ6部の、いわゆる壮大な世界観、セカイ系(?というか、時代や設定を大きく股にかける感じ)が、火の鳥未来編とよく似ている。

人間の生き死に、時代を通じた人間たちのありさまを描くのは、人間賛歌をテーマにかかげるジョジョ火の鳥にも共通するが、
いわゆる大河ドラマ、歴史や時代、大きな枠組みの物語を描くと、おのずとそうしたテーマ、モチーフが組み込まれるものなのではないか と思う。

 

手塚治虫荒木飛呂彦で資質が異なるな と思うのは、
手塚治虫は、(自身が「マンガの描き方」で述べるところの)ラクガキ精神の発揮、ユーモアやギャグ、ラクガキの奔放さをマンガづくりに組み込んできたのに対し、
荒木飛呂彦はいわゆる劇画派で、リアリティと重厚さを基底にした作品作りで、ユーモアやギャグのおちゃらけ、コマ割りや作劇の舞台をひっくり返すような逸脱は好まないところ。

2人の作家に共通しているのは、やはり、映画が大好きで、映画をモチーフにマンガをつくり、
手塚治虫はクラシックが好きで、荒木飛呂彦はロックが好きで、マンガ以外の様々なところから使えるモチーフをマンガに持ち込んでいるところにあると思う。


ジョジョ火の鳥も、時間が過去から未来に向かって進んでいく話で、ページをめくるにつれ、物語は前から後ろに進む。
未来編のラストで、火の鳥(≒手塚治虫自身)が諭しているように、人類の未来は、無益な繰り返しではなく、らせん階段を上がるように、グルグル同じところを回りながらちょびっとずつ、少しずつの進歩を積み重ね、期待されているものでもある。

ジョジョ火の鳥も、主人公が死んだり、悲劇的な結末に終わることが多いマンガだが、読後感が悪い、後味が悪くなるものは少ない。
残酷な結末となっていても、不思議とさわやかな気持ちになるのは、人生の底を見据えたことに残るほの明るさがたしかにあり、どこかにしっかり希望というものが描かれているからだろう。

 

荒木先生は自著「漫画術」で、夢オチは最低なオチのつけかただ という旨を述べていたが、それも当然で、
マンガはそもそもが夢、作者の妄想、(手塚治虫が1971年、望郷編開始直前に描いたエッセイ「休憩」(火の鳥別巻収録)で述べた通り)こどもだましのくだらない妄想から始まっているのだから、
だからこそ、夢が夢のまま、くだらないものがくだらないままで終わってしまうのではなく、もう少し何ものかまともなもの、何がしか意味があり作者や読者、時代に爪痕を残るものにしてやりたい。
そういう親心を持って作品を描くのがマンガ家というもので、手塚治虫荒木飛呂彦も、ベースは真面目な人なんじゃないか と思う。