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ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

物語の大きさ、小ささ

ジョジョリオン

気に入ってるファンの方には申し訳ないんですが、ジョジョリオンはこれまでの所面白くない。

スタンドバトルがいよいよマンネリに過ぎることや、設定・ストーリーがやや強引・説明不足でありながら魅せる力に欠けていること、いくつか原因を挙げられるのだけども、これらは5~7部にも見られた欠点だった。

8部だけに挙げられる欠点として、「物語が小さくなった」ことがある。

 

話を進める前に、特撮ーーウルトラマンや仮面ライダーの話をすると、昭和の特撮と平成の特撮には、どうにもフィーリングの違いを感じてしょうがない。

自分が幼少期に触れていたのは昭和の特撮ドラマ・キャラクターだったんだけども、今 平成の特撮を見ていると、やはり物語が小さくなり、キャラクターの視座が小さく狭くなっているのが気になってしまう。

例えば、平成仮面ライダーの歌を聴いていると、こんなニュアンスの歌詞が目立つ。

「真実は世界には無い。心の中の自分を探せ」「自分を知れば、誰にも負けはしない」

極め付け2点↓

「僕の心の中に弱さが住み着いてた。大人になって、弱さが強くなる」

「その背比べ並んだって、意味無くない?一抜けしよう HOO! 大丈夫、みんなと違ってもいい」

仮面ライダー1号だと、ショッカーが町に迫り、皆をおびやかす悪をライダーが倒す。バイクに乗ってライダーは行く。ウルトラセブンウルトラマンレオも同じで、ヒーローは黙って戦うものであって、自分の内面をクドクド説明はしない。

エヴァンゲリオンなどとは違って、特撮ドラマは幼児・子供に向けたものなのだから、もっとスカッと、単純明快に正義をうたうドラマが良いと思うのだが、どうも無駄にひねくったような、スッキリしないものが最近のには多い。

ウルトラ怪獣は日本神話の怪物、あるいは高度経済成長時代の歪み、文明社会に圧迫されつつある自然、さまざまなものに例えられるけど、これらのテーマが昭和から平成に移って消滅・問題解決したわけではない。しかし、平成の特撮にこれらテーマが取り上げられずどうも「物語が小さく」なってしまっているのは、作り手の経験・知識・感受性の違いによるものではないだろうか。

 

昭和のウルトラマン・仮面ライダーの作り手は、太平洋戦争をくぐりぬけた世代であるし、子供時代の教育環境も違っていた。明治大正の頑固な大人たちに影響を受けて、この世代の子供達は育っている。

一方、平成特撮の作り手は、比較的平和な時代、環境に育っている。ライダーやウルトラなど既発の作品に幼少期から囲まれて育ち、そのまま作り手に回るので、どうしても物語が先発のコピーとなり、小さくなってしまうのだろう。

 

 

脱線してしまったが、ジョジョリオンが、なぜ「物語が小さくなった」かについてである。

直接には、7部 SBRで、大きな物語を描いた反動によるのだろう。イエスキリストの遺体、アメリカ大統領の政治、アメリカ大陸横断、1~3部で描いたストーリーのリメイク、

全てを充分に描ききったかは作者にしか分からないだろうが、7部はスケールの大きな物語だった。その反動で、隣の(不気味な)我が家であるような8部が、スケールの小さな物語になることは致し方ないかもしれない。

ただ、定助が自分探しをしてはいるものの、正義もなく大望もなく、世界の危機が訪れているわけでもない(これまでの)8部の物語には、どうしても面白み、スケール感を感じることができない。

 

主人公が自分のために生きているのみで、他人のために生きていないのだ。

他人のために生きているのが大人で、自分のためだけに生きていてはいけないことを知るのが思春期~青年期(大人と子供の狭間)、自分のために生きているのが子供だ  自分的にはそう捉えている。

 

7部のジョニィも自分のためだけに遺体を探し、飢えている男だったが、ジャイロとの旅を通じて他人のために戦う男に成長した。ラストは、死んだ友人(他人)を祖国に送り返すための旅に出る。

物語が進んでいく中で、定助が他人や街のために戦い、生きる男に成長していくのかもしれない。しかし、どうも今までの1~7部に連なるストーリーと較べると矮小感が否めない。

康一くんや間田たちが、ワイワイと放課後を過ごしたり仲間内の悪さを自己解決したりしてるくらいの、物語の大きさにしか感じれらないのが残念だ。