ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョとドラクエ 創作の目指す高み

ジョジョとドラゴンクエストが似ている、という言説がある。自分も、そう思うところがある。

 

ジョジョとドラクエが似ているのは、1~3までが3部作として連なって成立しており、また1~3によって、その後のシリーズの基盤が出来上がったところだろう。

ジョジョもドラクエも、1ではまだシステム・ストーリー・物語の組み立てがまだ未熟なところがあるが、

シリーズを重ねるごとにシステムが整備され、3で現在まで続く基盤が出来上がるに到った。

 

ジョジョもドラクエも、4~ 以降のシリーズは、3までで築いた基盤に基づきながら、

細かなシステム変更を打ち出したり、物語のテーマ・内容で勝負するなど、細かなところで変化を重ねてシリーズを積み重ねていった。

 

ドラクエを実際にプレイしたのは5までだが、8,9,10 シリーズを重ねるにつれて、大きな曲がり角を迎えているようである。

ジョジョの曲がり角は6,7,8 7で大きく舵を切りなおしたが、ドラクエはどうだろう。個人的に、8はプレイしてみたいと思ったが9,10には食指が動かない。

ドラクエの場合は、ジョジョのような個人製作のマンガとは違い、大人数のチームでつくるプロジェクトになっているので、誰か一人の力で舵を切ったりはしにくくなっているのかもしれない。

 

 

ドラクエ1~9を概説した本を買ったのですが、1~9 物語を貫く基本パターンがあり、一本のリニアテキストをプレイヤーが読みながら、体感し、体験する。RPGとは、そのような構造になっているのだ、「体験する本」である と気づかされる。

ジョジョも、いうまでもなく(作者の手による)一本のライナーテキストである。

これらのライナーテキストを読み、道筋をたどることは受動的な、創造性のない趣味なのだろうか。

 

というのは、90年代はじめ、小林よしのりゴーマニズム宣言でドラクエを取り上げたとき、こんな批評をしていたからだ。

ーーいわく、ドラクエをプレイしてみたが、面白くない。勇者の冒険とうたっているが、わしなら(1の冒頭で)いきなり王様に呼びつけられて、怪物を倒せだの命令されるのが気にくわない。わしだったら、王様をその場で切り殺して国を乗っ取る。そして、わしの好きなような国を運営していきたい。

 なのに、現実のゲームでは、王様の指令に「はいorいいえ」で回答するしかなく、ゲームシナリオの定めるとおりバトルやら貯金やらを進めていくしかない。受験勉強のような、押し着せられたルーチンワークをこなすのが「冒険」とは、子供たちにとっても悲しいことだ。ーー

 

小林よしのりの描くマンガも、一本のライナーテキストであることに変わりはない。

この批評を読んで当時ひっかかったのは、

おぼっちゃまくんを描き、自分が面白いマンガ(物語)をつくることで子供たちを引き付けてきた作者が、

同業他社であるようなTVゲームを攻撃することで、自らの自尊心を満足させるようになったのか。

作家として作品で勝負するのではなく、批評家の立場に回ってしまったのか それが残念に感じて、よく印象に残っている。

 

上記の批評が、名の無いゲームライターやエッセイストの記事であれば、記憶にも残らなかっただろう。前項のマシリトにせよ、小林よしのりにせよ、一定以上の実力があり評価される人物だからこそ、その失言が記憶に留まるのだろうが、

願わくば作家は、作品を描くことで主張を顕してほしい。

ジョジョもドラクエも、当時の世相や流行にそってつくられたものであるが、技術的限界も超え、名作として普及し、今も生き残る部分が多々ある。

それが、創作の目指す高みであると思う。