ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

大・どんでん返し!

今は昔、とんねるずが20代で最も勢いのあった頃、
石橋が「大・どんでん返し!」とよく叫んでいた。

ねるとん紅鯨団で、男が手を挙げて告白しようとするときに、別の男が手を挙げて割り込んできたときとかに、
石橋の「大・どんでん返し!」がカットインしていたと思う。
(ちなみに、恋愛にまつわる人間観察という点では、島田紳助 人間マンダラの「モテナイ君」は、ねるとんの更に上をいくものであった。モテナイ君の気持ち悪さ、哀愁は身に沁みる切なさだった)


どんでん返しというフレーズは、
物語が終盤で大逆転してひっくり返ったとき、物事が意外な展開に転んだときに使う。

ジョジョにどんでん返しの例を見ると、
1部 ジョナサンがディオに勝ったと思ったら、相打ちとなって最後は死んでしまう。
2部 ジョセフもジョナサンと同じく死んでしまうと思ったら、生きて帰ってきた。
3部 海の底に沈んだはずのディオが、魔人となって蘇り襲ってきた。

どんでん返しの良い例としては、
物事がひっくり返って爽快感があったり、安心感があったり、
読者(受け手)がよい印象を受けないとダメだと思う。

ジョジョ6部 主人公たちが全て死んで、プッチとエンポリオだけが新世界に移動する。
7部 ジョニィが大統領を倒したと思ったのも束の間、異次元のDioがザ・ワールドを引き連れて来襲する。

上記2点は、個人的には、あまり良くなかったどんでん返しで、意外感はあったが、その後の展開に爽快感が無かった。
主役が悪役を倒して終わる、という定石を外してきたので、その分しっくり、満足しきれなかったのかもしれない。


あまり良くなかったどんでん返しの例としては、マンガ「弥次喜多 in Deep」もそうだった。

しりあがり寿は発想の豊かな作家で、どんどん色々な想像・驚きをマンガの中に詰め込んでくる。
in Deepの前作「真夜中の弥次さん喜多さん」、初期短編集「エレキな春」には、異様な面白さがある。
一筆書きのような勢いある筆致と相まって、作者が何か思いついた瞬間を、同時に追いかけていくような迫力がある。

しかし、弥次喜多 in Deepは気負いすぎたのか、鳥人間(?)が出てきて国家を建設する辺りから、
大風呂敷を広げて、畳んで、また広げて…の繰り返しのように思えてきてしまい、「意外な展開」が頻出するもかえって白けてしまった。
例えは悪いが、エログロ映像を長時間見続けると感覚が麻痺してくるようなもので、どんでん返しに慣れてしまってはいけないのだろう。


自分が体験した、いちばん爽快などんでん返しは、ドラクエ3のアレフガルドだった。
魔王バラモスを倒す旅に出て、魔王を倒し、さらにまだ物語に続きがあった。
十字ボタンで水平移動してきたフィールドの底に、もう一つの世界があり、真の魔王がいた…という展開は驚きだった。
そして、3の物語が最後、最初に遊んだ1に繋がるのだから、相当感心したものだった。

物理学を例にとると、
ニュートン物理学が成立して、アインシュタイン相対性理論を発表して、
さらに宇宙にはまだその存在を知られていないダーク・マターが存在し、4つの力による基本相互作用はまだまだ謎に包まれていて…と、
これから先、物理法則の発見においても、どんなどんでん返しが起こり得るのか、想像もつかない。


トランプの「大富豪」は、2~4枚のカードで役をつくり、手札を全て使い切った人が勝つというゲームである。
大富豪には「革命」という技があって、同じ数字のカードを4枚揃えて出せば、カードの強さ序列が全くひっくり返ってしまう。
革命をしかけて、序列を逆転させ、混乱の中でいかに素早く手札を出し切るか。
大富豪はそんなゲームだったのだが、現実世界で、このようなどんでん返しが頻発してほしいわけでもない。

これまで積み上げた価値観、序列、お金、信用、経験etcが、一夜でひっくり返り、あべこべになることがあっては大変である。
長い人生の中で、何回かはそのような苦難に出会わざるを得ないような気もするが、
革命と革命返しを繰り返し続ける世界は、あまりにも刺激が強すぎ、困難が大きすぎる。

All or Nothing、Win or Loseの思想ではなく、
なだらかに富が分配され、およそ皆が満足できる世界が平和で良いと思う。