1970年代末 デビュー前の荒木先生は、
スターウォーズの素晴らしさを認めつつも、それよりも更に、キャリーに深く感動していたという。
荒木先生の新書を読んで、たびたびキャリーが挙げられるので、
この週末にDVDを借りて、はじめて観ることができました。
私自身は映画をあまり見ない人間なのですが、それでも、
ブライアン・デ・パルマ監督の演出の素晴らしさ、スティーブン・キングの原作の素晴らしさは、映画を一目見て分かりました。
ラストシーンまで観終わって、大変に感動した映画でした。
この記事では、映画「キャリー」とジョジョの関わりについて述べていきます。
映画の前半で、
自らの超能力に気づいた主人公(キャリー)が、図書館で超能力に関する書物を見つける場面があります。
キャリーが見つけた本には、
「テレキネシスは、意思の力(force of the mind)により発動する」との記述がありました。
このシーンを見て、SBR1巻 ジャイロがジョニィに鉄球の秘密を語り掛けるシーン、スタンドの定義が、ピンと頭に浮かびました。
映画ではその後、キャリーと母親の異常な相克、プロム開催に到るまでの高校生活が描かれます。
キリスト教のゆがんだ狂信者である母親からの抑圧、高校生ならではの偏見とイジメ。
キャリー自身の弱い臆病な心と、性的欲求の自然な発露、まっとうに自由に生きていきたい心情の葛藤。
それらがない交ぜになって、最後 プロムの表彰台で、キャリーの怒りは爆発してしまいます。
プロムの参加者を皆殺しにし、
自らを抑圧し続けた母親を、(正当防衛ではありますが)ナイフなど刃物を投げつけ殺します。
結局、キャリーは自らの呪いに打ち勝つことができず、母親と共に悲しい死を選んでしまいます。
ラスト キャリーがお墓から復活するシーンがあるのですが、
これはディオがジョースター邸の焼け跡から復活する場面を思い起こさせますし、
母親を聖セバスチャンよろしく刺し殺すシーンは、DIOのナイフ投げを連想させます。
映画の演出・いくつかの描写で、ジョジョの元ネタと思しき箇所があったというだけではなく、
もっと深い所で、キャリーとジョジョの繋がりを見てとることができます。
キャリーは、クライマックスのホラーシーンがあまりにも見事ではありますが、
基盤にあるのは、孤独な少女が超能力に目覚め、成長しようとする青春物語です。
これは、ジョジョの基盤にあるビルドゥングスロマンと合致します。
キャリーが自らの中に発見したテレキネシスは、意思の力によるもので、
自らの意思・精神の集中によって、はじめて操ることができるものでした。
これは、まさに、スタンド能力の根本的な定義と合致します。
荒木先生のインタビューによれば
「スタンドは、超能力の可視化」であり、
童夢やAKIRAの超能力表現を、「目に見える形で描けるよう」アラキ流に推し進めたものであると言います。
巷では、スタンド能力は、つのだじろう作・うしろの百太郎に描かれた守護霊から発想されたとも言われています。
スティーブンキングのザ・スタンド、スタンドバイミー辺りから、ネーミングを拝借したとの説もあります。
しかし、映画「キャリー」を観たばかりで興奮している私の個人的独断で言わせてもらえば、
スタンド能力の根本的なルーツは、映画「キャリー」にあるのではないかと思うのです。
母親と同級生からイジメられ、社会的に行き場のない、孤独な高校生の少女。
自らの意思の力として、初潮をきっかけに強い超能力を得るが、結局は使いこなせず、人生を破綻して終えてしまう。
あまりにも悲しすぎる物語で、(どちらかと言えばイジメられっ子だった自分には)身につまされ、キャリーの行く末がとても同情して感じられたのでした。
キャリーは友達を見つけられなかったスタンド使いで、
「友達を見つけられたスタンド使い」が、ジョナサンであり承太郎であり花京院であり、後に描かれるジョジョワールドの主人公たちであると思う。
そのように、深く「キャリー」をオマージュする形で、
同作をルーツの一つとして、ジョジョの物語は描かれてきたのではないかと思っています。