ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

「面白ければ、それでいい」  ヒッチコック・トリュフォーの映画術

前回のブログ記事を書いた後、4本の映画を観た。
ジョーズ」「北北西に進路を取れ」「めまい」「鳥」

そして、いかにもニワカ的な行動で恐縮ですが、
ヒッチコックトリュフォーの対談「映画術」を(自分が観た映画の箇所を中心に)読みました。
(今更ながら、荒木飛呂彦の漫画術というタイトルは、「映画術」のパロディであることに気付きました)


サスペンス映画の大家、モダンホラー映画の開祖というべきヒッチコック監督の映画を、
荒木先生がいかに学び、とりいれ、ジョジョをはじめとする諸作品にいかに活かしていったのか?

映像技術に詳しい人で、ヒッチコック作品を全て鑑賞し分析できる方であれば、
ヒッチコックジョジョの比較研究について、とても興味深い分析・評論を書かれるのではないかと思う。(そんな本があるなら、ぜひ読んでみたい。)
残念ながら私は、ヒッチコックの映画は「サイコ」「北北西」「めまい」「鳥」の4本を観ただけの超ニワカで、映画の技術や文法を詳しく語ることもできない。

しかしながら一つだけ、映画術の中でこれはと思う箇所があり、ご紹介したい。
ヒッチコック監督が、自らの映画に対する矜持を打ち明けた場面であり、ジョジョの創作姿勢とも深くつながっているように思われました。
すこし長い引用となりますが、ご容赦ください。


「映画術」1966年初版 13章より、抜粋。

(サイコの演出や技法、解釈について一通り語った後で)

トリュフォー(以下、T) サイコは実験映画だと言っていいでしょうか。

ヒッチコック(以下、H) そうだな。そう言えるかもしれないな。
しかし、わたしの最大の満足は、この映画が観客にすばらしくうけたことだ。それがわたしにはいちばん大事なことだ。
主題なんか、どうでもいい。演技なんか、どうでもいい。
大事なことは、映画のさまざまなディティールが、映像が、音響が、純粋に技術的な要素のすべてが、観客に悲鳴をあげさせるに至ったということだ。

大衆のエモーションを生み出すために映画技術を駆使することこそ、わたしたちの最大の歓びだ。
観客をほんとうに感動させるのは、メッセージなんかではない。俳優たちの名演技でもない。原作小説のおもしろさでもない。
観客の心をうつのは、純粋に映画そのものなのだ。

T そのとおりです。

H だからこそ、わたしは、サイコが、わたしの他のどの作品よりも、フィルムメーカーたちの映画であること、きみやわたしの映画であることが誇りだ。
こんなふうに、いまわたしたちが語り合っているみたいに、この映画が論じられたり評価されたりすることは、これからもないだろうな。
「ひどい映画だ。そもそもこんな映画を撮るのがまちがいだ。主題はおぞましいし、出てくる人間は魅力がなくて、人物らしい人物もいない」と言われるのが関の山だろう。
しかし、このストーリーに、その構成や語り口に、世界中の観客がエモーショナルに反応してくれたこともたしかなんだよ。

T そうです。エモーショナルに……肉体的に。

H エモーショナルに。立派な映画にみえようが、小さなくだらない映画にみえようが、そんなことはどうでもいい。
わたしは最初から偉大な映画をつくろうなんて意図を持って取り組んだのではない。
ただ、こういう主題とこういうシチュエーションで映画をつくったら面白いだろうと思っただけだ。

(中略)

H (サイコが、制作費80万ドルに対し収益1300万ドルを挙げたことを語った後に)
きみもそういう映画を1本はつくるべきだ。世界中で大ヒットして、何百万ドルという収益を上げる映画をね!
映画の内容つまりシナリオよりも、映画そのもののテクニック(表現技術)に歓びを見いだす映画づくりの分野があることがよく分かるだろうと思う。

その種の映画では、いちばん重要なのはキャメラだ。映像だ。
当然ながら、批評家の評価は得られないだろう。批評家というのは映画の主題やストーリーにしか興味を持たないものだからだ。
しかし、映画というものは、シェイクスピアの芝居と同じように、「観客のために」つくられるべきなんだよ。


ーーその後 インタビューはさらに続く。
サイコが世界的に大ヒットしたのは半ばサイレント映画(映像だけで半ば成立している)からではないか、吹き替えや字幕も作りやすかったのではないか、とトリュフォーの指摘が入る。
ヒッチコックが、タイでは吹き替えも字幕スーパーも無く、スクリーンわきに立つ弁士が、いろいろな声を使って、あらゆる役を演じてみせるのだよ、と紹介して終わる。


「映画術」のインタビューで感動したのは、「面白ければ、それでいい」というヒッチコックの矜持である。
(自分が「サイコ」「北北西」「めまい」まで観終えたときの、ヒッチコックに対する感想でもある)

ヒッチコックの上記発言は、作家なら普通 表に出さない種類のもので、
トリュフォーがインタビュアーであったからこそ引き出せた、ここぞの本音だったのだろう。


荒木先生は、ジョジョ4部 岸部露伴が初登場の話で、露伴の姿を借りて、これに近いセリフを言わせている。
「ぼくは「読んでもらう」ためにマンガを描いている!」

字面だけを読むとトートロジーのようで意味を為さない感じだが、
意味合いは、ヒッチコックが「サイコ」に寄せた一言と同じだと思う。

宅八郎が、かつて「漫画家が、自作に漫画家を登場させるのは、作者の精神状態がヤバイ時」と荒木先生との対談で述べていたが、
上記執筆時の荒木先生は、クラフトワークのthe hall of mirrosのごとき内省的空間で、創作と人生を見つめ直していたんじゃないだろうか。
ジョジョは本来 初期構想でいえば1~3部までで終わっていたのであるが、
その後「何を描いていくのか? なぜ漫画を描いているのか?」の問いに対する答を、荒木先生自身が求めていたのではないだろうかと思う。


上記引用の他にも、映画術では、とても面白い議論が交わされている。
サスペンスとサプライズの違い、サスペンスとは何か。文学と映画の違い。人はなぜ、怖いものを観たがるのか?
そしてもちろん、ヒッチコックの映画と創作についてめくるめく議論、あふれ出るほどの言葉のやりとりが飛び出している。

ーー自分がヒッチコック映画にもっと詳しければ、ヒッチコックジョジョの比較分析をぜひ行ってみたいのだが、
まずはヒッチコック監督の映画を観て、ヒッチコック以降のホラー・サスペンス映画を観ていかないことには、意味のある分析・評論は出来ないだろう。

これからの人生 余暇の楽しみとして、ホラー・サスペンス映画の鑑賞を行っていきたいと思う。
ウルトラマン第1期シリーズを、全巻通し視聴する」「チャーチルのように、旅先で絵を描く」に続く、老後の楽しみが増えた。


追伸:
極個人的な、ヒッチコック映画鑑賞のメモ
(ここから先は、ジョジョには全く関係ありません。悪しからずご了承ください)

・サイコ→鳥→北北西→めまい の順番で、面白い。

・サイコは殺人鬼、鳥はゾンビと、現在に到るモダンホラーの原型となっている。

・サイコと鳥は、今 観ても古さをあまり感じない。
60年代 時代が下品になり、大衆の活気が溢れる中で、ロックな雰囲気を、60歳のヒッチコックが取り入れた。その創作意欲。
50年代映画の完成型(文化、階級の表現を含む)から、テレビドラマ・ドキュメンタリー寄りの現在型へとスイッチしていると思われる。
50年代映画の主人公は背広を着て、リアルな人格を感じさせないが、サイコ・鳥の主人公たちは年若く、人格も未成熟である。

ヒッチコックは冗談交じりに、映画の未来形として、
「オルガンを演奏するように、観客の感情を操れれば面白い」(観客の体に電極を取り付けて、鍵盤のハーモニーごとに違うエモーションを引き起こす)と語っていたという。

鳥 カラスやカモメの鳴き声・羽ばたきは、当時最先端の電子楽器(トラウトニウム)で生成されたもの。画面合成についても、できるだけ不自然な違和感が出ないよう、細心の努力をしている。
円谷英二ゴジラウルトラマンシリーズを連想させる。

・北北西 ラシュモア山の別荘は、ジョジョリオンの東方邸。サイコ ベイツ邸は、4部 虹村邸のモデルと思しい。いずれもセット。

・美術、音楽、タイトルデザイン、カメラ、俳優etc… 素晴らしいスタッフに恵まれるのも、監督の努力・人格の賜物。


・めまい 後半部分は、実在に起こった事件とも、主人公が精神病に苦しむ中で見た夢・幻想とも受け取れる作りになっている。
自分は後者の解釈、主人公が夢の中で過去を追体験して、マデリンの幻想に「めまい」を起こし続けてるのだと思った。
ヒッチコックは、配給筋の圧力で、(前者の解釈で)より分かりやすいラストシーンを作成してもいる。
結局 そのシーンを付け足さなかったのは、説明し過ぎてダサくなるし、映画の幻想的な雰囲気をぶち壊したくないと思ったからだろう)


・めまい 死んだはずのマデリンを、生きた人間に重ねていく妄執は、はっきり言って異常であり、共感・感動できるものではない。
ストーカー的な妄想にとりつかれた主人公が、最後に罰を受ける、あるいはハッキリと苦しみの中で悶えていることを明示するシーンがあれば納得できたのだが。
ヒッチコックは、感情移入できる対象として、めまいの主人公を設定・描写しているようだが、自分には無理だった。
これは、1950年代(映画製作時)の倫理観・価値観と、2015年現在には半世紀もの開きがあり、この50年間 女性の社会進出が相当に進んだことを示しているのだろう。


・文学的感受性豊かな批評家たちが、映画公開当時に「めまい」や「サイコ」を高く評価せず、
2000年を越えた今頃あたりになって「ヒッチコックの最高傑作、いや、これまでの全ての映画で、ベストワンは「めまい」だ!」と言い始めてるのは、いかにも陳腐で鼻白む。
「サイコ」が公開当時 批評家たちにこき下ろされたのは、公開前 (ネタバレを防ぐため)批評家向け試写会を実施しなかったのが、批評家たちの機嫌を損ねた為でもあるらしい。呆れたものだ。


・鳥 主演女優は、1999年製作のメイキングではヒッチコック監督への敬意と感謝を示し、2012年の単行本では監督のセクシャルハラスメントを暴露した。
過去のハラスメントについて、心情的に打ち明けざるを得なかったのだろうと思うし、ヒッチコックであろうと誰であろうと、暴力を犯してはならないことに変わりはない。
ただし、1999年のメイキングで主演女優は、主演決定時にヒッチコックから贈られたという「鳥のブローチ」を、大切に左胸に付けていた。
生臭い裏話は聞いて楽しいものではないが、最後によい映画が出来たことは、主演女優含む皆にとって良かったと思う。

ヒッチコックはブロンドヘアーの清楚で知的なかんじの美人が(多分)好みで、鳥のティッピ・へドレンに熱を上げたのは分かる気がする。
めまいのキム・ノヴァクは全然好きじゃなくて、サイコのヴェラ・マイルズが(目論見通り)同作に出演できてたら、3割増しくらいでよい映画になったんじゃないか?と思う。


ヒッチコックは露悪的な描写を好まず、上品でユーモアある描写、洗練されたサスペンス、美しい画面を作りたかった。

・ロケ撮影は太陽光や雑音が入るので好まず、セット撮影を好んだ。

ヒッチコックは几帳面で、映画作りにおいて準備に最も時間を割き、絵コンテを頭の中に叩き込んでから撮影に臨んだ。

ヒッチコックは基本的に怖がりだったから、他人を怖がらせる映画を作れたのだと思う。

ヒッチコックが鳥を「怖いもの」として描いたのは、自身が鶏肉と青果の卸売店に生まれたからだと思う。

ヒッチコックが出演する予告編は、自身がしゃべり始める瞬間の「間」がうまく、それだけで笑わせようとしている。


・日本漫画における手塚治虫、日本特撮における円谷英二、そしてサスペンス・ホラー映画におけるヒッチコック
ものすごく今更すぎる指摘であるが、
三者のオリジナリティー、パイオニアスピリッツ、そして創作に打ち込む職人としての努力は、とても凄まじいものがあると思う。

彼らの作品は、時代背景の描写は古くなり、製作技術は50年前当時のものであったりするが、そのような表面的・部分的な描写を超えて、
人間の生活、人間や社会のありさまというものを、本質を捉えているから面白く、時を超えてスタンダードであり続けているのだと思う。