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ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

豊饒の海 幻の第五巻と、ジョジョの奇妙な冒険

年に1度のキャンプを終えて、楽しい旅行から自宅に帰った日の夜、
三島由紀夫の生首写真を閲覧していた自分がいた。

三島由紀夫横尾忠則美輪明宏のことなどがつらつらと心に浮かび、
軍服を着た自決事件のことが頭に浮かんだので、google検索した所、生首写真がヒットしたわけである。
(1980年代の写真週刊誌が創刊号で、警察のお蔵入り写真を公開したものらしいが、何とも悪趣味なものである)

三島由紀夫には、かねてよりジョジョとの超個人的繋がりがあって、
10年ほど前 文学に詳しい友人の発言で、頭に残っていたものがあった。
ジョジョのサーガと、三島由紀夫の「豊饒の海」は似ている」
ジョジョ1~3部は、豊饒の海より面白い。(これは、相当ほめている)」
「4部以降は、以前よりはどうしても落ちる。4部で、日常の街を描いているという面白さ・同化したい親しみやすさはあるが…」

三島由紀夫の、あまりに無残な生首写真を見て、横尾忠則の殉教者のごときタブローも思い出し、
三島事件三島由紀夫の論評や著作を読み始めている。


私は三島由紀夫の著作をほとんど読んだことがなく、
中学生のときに仮面の告白金閣寺を何となく読んで、難しい耽美的な話だなという印象を持ったのと、
大学生の時に小沢健二が薦めていたという理由で、不道徳教育講座というエッセイを読んだくらいで、
私に三島由紀夫を語る資格は無い。

これから、三島由紀夫の著作をゆっくり読む機会があったとして、
ジョジョとの繋がりを発見するに到ったならば、当ブログで報告していこうと思う。


この記事では、「豊饒の海」とジョジョの繋がりについて、10年前の友人の証言を検証したい。

豊饒の海は、「脇腹に三つのホクロをもつ主人公」が輪廻転生を繰り返し、
近代(1900年代~1975年)を駆け抜ける物語である。

4部作として発表され、貴族編・右翼編・インド編・未来編の4編から成り立っている。(4編の名前は、私が勝手につけた愛称)

豊饒の海は、手塚治虫火の鳥ともよく似ており、
キャラクターが輪廻転生を繰りかえす点、時代や国家を超えて壮大な物語が紡がれることで、人間世界の全体を描こうとしている。

実際、豊饒の海を元ネタに構想された「クラウドアトラス」という映画(小説)があり、その映画は、火の鳥ジョジョとも似た雰囲気を持つ作品らしい。

「漫画術」によれば、ジョジョは、
直接にはエデンの東やルーツなど、世代を超えて受け継がれる人間たちの物語を描きたいと構想され、
(後から思えば)ジョジョ開始前後に、作者のおじいさんが無くなったこともあり、人間の意思が世代を超えていく人間賛歌を描きたいと考えたのだという。

ジョジョ豊饒の海火の鳥も、大きな物語、
世代や時代、国家や社会を越えて受け継がれていく大きなストーリーを描こうとすると、おのずと様相が重なってきてしまうのだと思う。


ついでのように申し上げると、
上に書いたとおり、ジョジョ豊饒の海で、皮相的に似通ったポイントとしては、
豊饒の海で、三つのホクロを持つ主人公が輪廻転生するのが、ジョジョで、ジョースター一族に星のアザが受け継がれる点が似通っている。

(こういうトリビアを発見して、ジョジョは○○のパクリ、某五輪エンブレムは○○のパクリと指摘することは正しいが、あまり高級な思考・創造的行動とは言えないと思う。
著作権の侵害は親告罪であるし、そもそも個人的には、
創作活動そのものが大きくは先代のパクリ、過去からの歴史の積み上げに成り立っているものだから、
誰か一人だけが独創的な発想・発明をして、自分だけが特許権の利益を独占する、ということ自体があまり起こりえない、不自然な発想だと思うのだ)


豊饒の海は、(作品世界の設定で)1975年に完結する。
相前後して、私のような団塊ジュニア世代が生まれ、1980年代末にジョジョの連載がスタートする。

豊饒の海は、創作ノートによれば当初全5巻で構想されており、実現されなかった第五巻の構想がある。
第五巻は〈転生と同時存在と二重人格とドッペルゲンゲルの物語――人類の普遍的相、人間性の相対主義、人間性の仮装舞踏会〉であったという。

個人的には、三島由紀夫は現実世界の右翼活動に奔走するのではなく、
この幻の5巻を含めた、豊饒の海を執筆することに集中したほうが、三島由紀夫自身にも、日本の文芸のためにもずっと幸福だったのではないかと思う。
豊饒の海のあらすじを読んだだけの現時点でも、
1巻→2巻と続くテンションの高さは異様に面白く、3巻で変化球的な展開となり、ラストでどう締めるか?という所で、
4巻は、戦後民主主義の現代人のショボサを皮肉るような小さな世界の話となり、老人がさびしく人生を終えるようにして物語全体も終わってしまう。

第5巻の構想は、上記の一行を読んだだけなのですが、血沸き肉躍るスペクタルがあるというか、
明治末~戦後までの物語の展開を踏まえて、人間どもの全てを描きつくし、作品世界と現実の世界を全て呑みこむような、そんな壮大なラストを描きたいと考えていたんじゃないかと思うのだ。


三島由紀夫の熱心な読者の方が、このブログを読んでいたら、とても怒られるのではないかと思う。すみません。
ただし、これだけは思ったのは、豊饒の海 幻の第五巻 物語とテーマは(そして三島事件を起こしたことの意義も)、はからずも後世の作家たち、現実世界の人間たちにゆだねられることになった。

転生・二重人格・ドッペルゲンゲルーーこれは、「驚異の二重人格者 ジョジョ」、あるいはジョナサン一族とディオの白と黒の物語に重なりはしまいか。
人類の普遍的相とは、ジョジョがうたう人間賛歌そのものであるし、
人間性の相対主義とは、「人間、しょせん死ぬときは死ぬんだからさ」という諦観を含んだホラー映画的世界観であろう。
人間性の仮装舞踏会とは、ジョジョのコミック100巻で延々と描かれてきた、正義と悪の戦いに他ならないのではないかと思う。


三島由紀夫豊饒の海で描こうとした世界と、ジョジョで現在進行形で描かれている世界は、
そのようにどこか似通った、通底したものがあると思う。
そして、それらの物語を原語で読めて、時代背景のニュアンスも体感的に理解できる、同時代の日本人に生まれてラッキーだったと思う。