ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

豊饒の海 解題(あるいは個人的感想文の続き)

豊饒の海の解題、あるいは個人的感想文の続きです。


豊饒の海というタイトルは月面の盆地「月の海」のことで、
何も無い、生命体も存在しない大きな穴ぼこが太陽の光を受け、青く光り輝くという意味で、
「豊かの海(豊饒の海)」という名前が与えられている。

何もない所に豊かな何かがある、というパラドックス、意地悪めいた皮肉を含んだネーミングで、
文字通りの豊かな生命あふれる海をも内容したイメージで、三島由紀夫はタイトルを付けたに違いない。

井上隆史、橋本治 両氏の評論を読み、自分も同意したのですが、
豊饒の海というタイトルは、ハッピーエンドかバッドエンドか、幸せにたどり着くのか虚無に陥ってしまうのか、
作者自身が世界に挑戦状を叩きつけて、伸るか反るかの大勝負をかけて書き始められた作品であることは間違いないと思う。


豊饒の海 1巻と2巻は、平安貴族の恋物語と、源平合戦以降の武士の生き様の物語に相似している。
三島由紀夫自身の、文芸好きの祖母に育てられた生い立ちと、思春期の肉体から湧き出たヒロイズムに、それぞれ対応した物語である。
手塚治虫火の鳥(鳳凰編や乱世編)、橋本治の一連の古典翻訳物を連想してしまう)

1巻と2巻は、女の世界と男の世界をそれぞれ描いた物語といってもよく、
3巻で仏教の唯識論に物語が移ったのは、作者自身が、
この「男と女の、それぞれの世界」「戦前から戦中、そして戦後に続く現実世界」をどうまとめ、解釈すればよいのか、
発想のヒントを唯識論に求めたためではないかと考えている。


三島由紀夫という人の胸の内を慮り、楯の会などの政治活動を含めて詳細に語ることは私にはできないが、
創作上の行き詰まりと、戦後社会にイラつきながらも思うように立ち行かない焦りや絶望がない交ぜになって、
天人五衰のニヒルなラストと、楯の会の無謀な決起行動に到ってしまったのではないかと思われる。
(今から言ってもどうにもならないし余計なお世話なのだが、とても気の毒な死に方をしてしまったように思われる)


井上隆史氏「もうひとつの豊饒の海」39ページに、創作ノートの一部が引用されている。
第4巻の構想中、3人の偽の転生者が本多の前に現れるという展開を考えるが、そのプランをご破算にしてしまった時の書きこみである。

「もっと大きな、ドラマティックな展開、神と悪魔の大闘争のようなものがないと、4巻のラストとしての重みが無い。
この重みのため、「大対立」が必要。
この大対立は、本多と若者の対立だけではなく、別なところの、愛と死、政治と運命の大対立であるべきだ。
そこでは、行動者と記述者、存在と行為、肉体と精神等の人間の最重要の対立あるべきなり。

(三人の転生者が現れるという展開は)単なるお話の羅列で全体的必然性なし」

そしてこの、全体的必然性をもって人間世界をまとめあげようと構想していた詩的断片が、
第五巻のキーワード〈転生と同時存在と二重人格とドッペルゲンゲルの物語――人類の普遍的相、人間性の相対主義、人間性の仮装舞踏会〉であったのだと思う。


転生とは、過去から未来への時間軸の中で、同じ人間がふたたび現れること。
同時存在とは、ある一つの空間に、二人の人間が同時に存在すること。二重人格やドッペルゲンゲルは、その具体的アイデアだろう。
つまり、時間を超えて、空間を越えて、「私」が異なる顔を持って現れ、
その「私」はさまざまな顔を持ち、普遍的な正しさ美しさだけではなく、相対的なさまざまな諸要素をもった群れとして現れ、
仮面を被りつつその下に素顔を持っているような、どちらが真実でどちらが虚か分からないような、そんな人間たちがダンスパーティーを踊り続けているのが、
この人間の生きている世界ではないのかーー。

三島由紀夫は、豊饒の海で、そんな肯定的な、豊かな世界像を描いて、
そして作者自身だけでなく、読者も日本人も全人類をも含めた大きな視点で、全てを肯定する結末を描きたかったのではないかと思う。


手塚治虫のマンガは、火の鳥だけでなく、さまざまなマンガで、
時間や空間、物語の枠を超えて、キャラクターたちがさまざまな役回りを持って登場してくる。

手塚治虫のマンガの描き方」によれば、手塚漫画のキャラクターは自分自身の(経験や記憶の)投影であり、
ストーリーやテーマは、宝塚で生まれ、戦争を体験し、漫画描きとして生きてきた自分自身の心や人生の反映であったという。
つまるところ、手塚治虫のマンガは、繰り返し繰り返し、自分自身を語ってきたというわけである。


ジョジョもそんなところがある。
ジョジョは、豊饒の海をはじめとする全体小説の系譜に連なるマンガであるが、
ジョナサンとディオは、作者の人格を形成する二つの人格の投影であろうし、わが子を産み出すようにして8人の主人公を創造してきたそうである。
ジョジョのラスボスは作者の実年齢と近かったり、ジョースター一族の主人公たちに孤独の陰が濃いのも、作者自身の人生が映し出されているからに他ならない。
7部からの新世界では、文字通り時間と空間を巻き戻して(あるいは塗り替えて)、転生と同時存在の物語を描き続けている。


火の鳥ジョジョと較べて、気の毒に思うのは、
三島由紀夫という人があまりに優秀で、生真面目で、いろいろなものを背負って、生き急いでしまったように見えて仕方ないことだ。

手塚治虫荒木飛呂彦が不真面目で、世間の期待を背負っていない、泡沫の作家だという意味では無いのだが、
もう少し自由な立場で、自らをユーモアの対象にして笑い飛ばすたくましさがあって、大衆受けを厭わないふてぶてしさがあれば、
豊饒の海は、もっと違う結末を迎えられていたような気がする。
(しかし、ヒッチコック監督のようなスタンスとユーモアセンスを持ち合わせた三島由紀夫は、もう、それまでの三島由紀夫とは別物になってしまっている気がする)


三島由紀夫という人を知っているわけでもなく、作品をしっかり読み込んでもいないのに、
こんな知ったかぶりの文字の行列を書きこみしたくなるのは、やはり、三島由紀夫という人と作品の力のなせる業だと思う。

そして、私の亡くなったじいさんが、三島由紀夫と近い世代で、
軍隊に参加しながら、病気のため、同僚と共に戦地に赴く事ができず、仲間たちと死に別れて、戦後に生き残った。
じいさんは軍服を着て日本刀を振り回したりはしなかったが、
後年「戦争は良くない、みんな死ぬ」と言い、戦争で死んでいった仲間たちのことを想い、涙を流していたようだった。

そんなことが身の回りにあったので、
三島由紀夫の生真面目さ、
文学に忠実に生きようとしながら(おそらく満足に)豊饒の海を仕上げきれなかっただろう無念さを感じて、
2つのブログ記事を書いてきました。


豊饒の海」というタイトルはダブルミーニングのとても詩的なタイトルで、
全4巻に文字の列として描かれた、三島由紀夫が実際に描き込んだ物語と、
そしてもう一つ、三島由紀夫の作品を読んだ読者の、地球に生きる人間たちの現実の物語をも内包していると思う。

私にはまだ、この世が虚無で、生きるに値しない何物もないところだとは思えないので、
しばらくは楽しいことを見つけながら、周りの人に役に立つようなことをして、体と頭が動く限り生きていくつもりである。

でも、70歳くらいになって耄碌したら、周りに迷惑をかけて現世に居座るよりは、
さっさときれいに死んでしまえたら、そのほうがずっとよいとも思っている。

何も無い、きれいな虚無の中に落ち込むのはもう少し先だが、
それが夢に落ちる瞬間のように、幸せや安らぎ、好きな物に包まれるようにあったら、何よりありがたいと思う。