ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

「総員玉砕せよ!」 女郎の歌と、生きるための戦い



水木しげるの「総員玉砕せよ!」を読んだ。

ペーソスあふれる太平洋戦記で、作者によれば90%が実話であり、かつ、自身がいちばん気にいっている作品であるという。


登場人物が急に出てきて死んだり、妙にリアルな似顔の登場人物が出てきて、
おそらく、実際に作者の身のまわりにいた戦友たちを描いただろうことが伺える。

太平洋戦争を評して「竹槍で爆撃機に立ち向かうようなものだ」と聞いたことがあるが、
この、パプアニューギニア諸島 ラバウルの戦記もまさしくで、丸山(水木しげる)の所属する部隊は陣地構築もままならず、ノンビリ、少しずつ人が死んでいく。
「こんなことで日本軍は勝てるわけがない」と思っていると、果たして本当に、そのまま日本軍の前線部隊は全滅してしまう。

丸山はじめ、物語に登場する日本軍の面々は、ほんとうに普通の、現代の若者・オッサンたちである。
週刊プレイボーイキン肉マンを読んだり、高崎聖子のグラビアに唸ったり、東京スポーツ 愛甲猛が語る野球賭博の打ち明け話に胸を痛めているような人間が、
軍服を着て、銃剣を身にまとい、軍隊の位階に連なりながら、前線突撃の指令を淡々と待っているのだ。

「わたしは なんでこのような つらいつとめを せにゃならぬ」
悲しさと明るさが混ざり合いながら、最後はただ涙を流して、兵士たちは女郎の歌をうたう。
まったく平凡な人たちが兵士となり、全く勝ち目のない前線に出て死んでいった現実があり、
「なぜ、つらいつとめをしなければならないのか?」との問いに正面きって答えられなければ、戦争の指揮官を務める資格は無いのだろう。


大楠公の幻影を追う大隊長と、材木屋の中隊長が、玉砕の是非を問答する場面がある。
中隊長は、はっきりと「前線突撃しての玉砕は、喜劇だ」と言う。

淡々とした、明るく悲しいような軍隊生活の日常が、玉砕指示を境目に暗転し、
兵士たちが死ぬために戦い、死んでいく様は、痛ましいとしかいいようがない。

同年代 ヒッチコックが「疑惑の影」を撮り、ディズニーが「ファンタジア」を作り上げた、「テキさん」の豊かさは圧倒的で、勝てるはずがない。
手塚治虫はこの頃、短編アニメ映画「桃太郎 海の神兵」を観て涙したというが、涙の味は複雑であったに違いなく、彼我の差はあまりにも大きすぎた。

物語の最後 丸山(水木しげる)が半死半生の姿で現れ、
女郎の歌をうたい、誰にも看取られないまま死んでいく。

これはとりも直さず、水木しげる自身の、前線で死んでいった仲間たちへの鎮魂であり、生き残ったことの詫びと、やりようもない怒りの表明である。
ほんとうに、なぜ彼らは死ななければならなかったのか?--誰にも答えることができない。


水木しげるが、一番気に入っている作品だというのは道理で、ストーリーの展開が素晴らしく、登場人物の行く末に目を放すことができない。
欧米軍は「ジャップ」としか言わず、終始 リアルタッチの描きこみで背景と共に登場するが、
日本軍の兵隊たちは、間の抜けてのんびりした、しかし生き生きとした描線で描かれ、彼らの息遣いは、実際にそこにあったものだとしか思えない。

白と黒の画面のコントラスト、生き生きした人物と緻密な背景画のバランスも素晴らしく、
まさに一大傑作と呼ぶべき作品である。


ーー1976年生まれの私にとって、このマンガは、
戦争体験を「読ませていただく」という姿勢で、老翁の説話を拝聴するような面持ちだった。

ラバウルの戦い、太平洋戦争を含めて、人類の歴史は戦争と共にあったと言ってよい。
これからの未来においても、戦争は、「戦い」は避けられないのだろうか?



 ***



「戦い」は避けられないのか?

「総員玉砕せよ!」のあとがきによれば、兵隊と靴下は消耗品。
序列において、将校、下士官、馬、兵隊ーー兵隊は馬以下であり、「人間」ではなかったという。

大航海時代 南米大陸を発見したスペイン人・ポルトガル人たちは、
南米原住民を「人間」とは思っておらず、虫を駆除するように虐殺を行ったという。

人間を人間と認める。対話を尊ぶ。平等と博愛を大切にする。
プリンスの One of Us は誰の耳にも喜ばれるだろうメッセージソングだが、たとえこの歌を鳴り響かせても、戦争を止めることはできないだろう。

美しい観念はたしかにあり、愛や正義の大切さは、世界中の誰もが認めるだろうが、
それぞれの立場があり、欲求・欲望があり、これまでの積み重なったいきさつがあり、
誰かと誰かが譲り合えない争いをしてしまえば、規模の大小こそあれ、それはもう「戦争」であり「修羅場」だ。

毎日の生活で、浴びるほど争いの種はあり、争いを避けるように穏便に生きようとしても、
行きついた先に「敵」がいれば、自分の身を守るため戦わざるを得ない。

せいぜい、自分自身に課せられるリアルな選択肢としては、
「総員玉砕せよ!」の中隊長にならって、土壇場の修羅場で、卑怯な選択肢を取らない、ということだ。

ジョナサン・ジョースタースピードワゴンを蹴り殺さなかったように、
大柳賢が露伴の洗脳を嫌ってトラックに飛び込んだように、
ギリギリの土壇場で、自分の正義を曲げず、自分と近しい人のために働く。

節を曲げずに、己を貫くということが、修羅場でこそ求められるのだと思う。



 ***



ジョジョは、「戦いのマンガ」である。

ジョジョの物語から、もし戦いが無くなったら、とてもつまらない顛末が目の裏に浮かぶ。
広瀬康一くんが学校に通って、犬の散歩をして、自転車を買い替える。
ジョナサンがエリナと結婚して、イギリスの地主として幸せに暮らす。

戦いがなくなった日常風景は、物語としてとてもつまらない。それだけは、ハッキリしている。


ジョジョの主人公の成長は、戦いによって描かれる。
善と悪の、主人公と敵役のぶつかり合いは、
お互いが人生を「前に」進もうとするがために発生し、戦いを乗り越えた先に成長がある。

荒木先生は、ジョジョにおいて「精神的なバトル」を描いている節がある。
ジョジョ ASBガイドブックのインタビューでも、ゲームグラフィックやモーションの美しさを称賛し、
「精神的なバトルの領域に入っていけますね」と発言している。


人類の歴史は戦争の歴史であったが、
争い、競争、対立があってこそ、世の中は進歩してきたとも言える。

右翼と左翼、戦争と平和、支配と平等の争いは、単純に対立するものではない。
世の中の営みの、矛盾する2つの相であり、何かがどちらかに極端に触れたとき、戦争や革命が起こる。

平和は、何一つ波風が起こらない静かな風景ではなく、緊張のほどけた隙間。
ライオンが獲物を仕留めて満腹し、次の狩に赴くまでの「昼寝のひと時」が、人間にとって求め得る、現実的な平和なのだろうと思う。

願わくば、戦争や革命、事件・事故といった極端かつドラマチックな展開によってではなく、
平々凡々の、五右衛門風呂でオナラをこいて、砂浜に座ってハナクソを食うような呑気な日常の積み重ねから、進歩と平和を維持向上させたいものだ。


水木、手塚 両先生とおよそ同年代で、アンパンマンやなせたかし先生は、
戦争を体験し、空腹の辛い思いからアンパンマンを産み出した。
アンパンマンは、スーパーマンのようにパワフルではないが、困った人に自分の顔を分け与える優しい男だった。

後のテレビアニメで、
そのアンパンマンが、バイキンマンと果てしないバトルを毎週繰りかえすことを、
意外にもやなせ先生は肯定していた。

人間の社会、生物の自然の営みにおいて、戦いは常にあるもの。
パンにバイキンは湧くものだから、その戦いを、2人のキャラクターに当てはめていたのだという。


ジョジョ7部 スティールボールランのクライマックスで、大統領がジョニィに、自らを窮地から蘇らせるため演説を打つ場面がある。
大統領の説く愛国主義・防衛論は、90%は正しいと思う。
大国アメリカのリーダーであれば、軍隊を率いて自他を統率させねばならない立場なら、誰もが彼のように考えるであろう。

ジョニィを説得するにあたり、最後にほころびが出て、大統領の起死回生策は失敗に終わってしまう。
ジョニィは泣き、大統領は死んで、聖人の遺体は只 黙ってルーシーのそばに横たわっている。

SBRの参加者たちは、いったい何を求めて、何を手に入れて死んでいったのか?
「わたしは なんでこのような つらいつとめを せにゃならぬ」とは、人生を生きる誰の胸にも鳴り響く哀歌なのかもしれない。



「女郎の歌」 作者不詳


私は くるわに散る花よ

ひるはしおれて 夜にさく

いやなお客もきらはれず

鬼の主人のきげんとり

私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ

これもぜひない親のため



私は くるわに散る花よ

ひるはしおれて 夜にさく

いやな敵さんもきらはれず

鬼の古兵のきげんとり

私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ

これもぜひない国のため