読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

イーストウッドの「ダーティーハリー」

遅まきながら、クリント・イーストウッド主演「ダーティーハリー」を観た。

「悪は倒すのは悪」という記事の末尾で引用させていただいた通り、
イーストウッドのダーティーハリーは、承太郎をはじめ、荒木作品のヒーローの原像となっているとのこと。

承太郎は、ジョジョの中で最もお気に入りの主人公であったのですが、
ダーティーハリーは自分が生まれるより前の映画ということで、なんとなく古い感じがして、これまで観ずに過ごしていました。

映画を観てみて、温故知新というか、自分が知らない事柄を探って、知っていくことは大事なのだ、とまず反省した次第です。


ハリー・キャラハン刑事は、承太郎を実写化したらさもありなん、というキャラクターで、
二人の立ち姿、背筋のピンと張った、つま先まで緊張感の漲った出で立ちはまさに生き写しである。

ハリーが殺人犯を追い詰めていくストーリーはアクション/サスペンス映画の王道で、
タフでクールなヒーロー像は、普遍的なカッコ良さを漂わせている。

スタジアムに追い詰められたスコルピオが「I have the right for a lawyer!」と叫び、
'Dirty' Harryが有無を言わさぬ迫力で、射殺一歩手前の所まで追い詰める。
「映画の掟」で荒木先生が述べた、はみだし者のハリーのカッコ良さが、象徴的に発揮された名場面であった。


1971年に製作された映画ということであるが、
映画全編を貫くタイトなストーリー展開、直線的でシャープな映像のフォルム、BGMのジャジーな盛り上げ方など、
全体にとてもモダンな映画で、後に続く、さまざまな映像作品の模範になったであろうことが伺える。

イーストウッド映画は、ずっと前に「許されざる者」を観たことがあったのだが、
主人公がおじいさんだったという印象が強く、正直 そのときは、この映画と俳優の魅力はよく分からなかった。

ダーティーハリーを今 はじめて観て、承太郎のモデルであることは勿論のこと、
ドクタースランプのタロウのパパ、あぶない刑事舘ひろしなど、
70~80年代の男のカッコ良さの最先端のモデルとなったことが理解できた。

サンフランシスコの夜景でのチェイスは、3部OVAで描かれた、カイロの夜の空気感をどこか思わせるところがあった。
共に、70~80年代の世界の街並みを伝える映像資料であり、
OVAスタッフが実際の街並みを取材して画面を作り、実写映画が持つ空気感を表現できていた証左なのだろう。


トリビア的なところで、3つ。
ハリーが医務室でズボンを裁断されるのを断る場面、
「なぜ家族を失い、生死の危険をつねに冒して刑事の仕事を続けるのか」の問いにハリーが「分からん」と答える場面は、
明らかに承太郎の初期エピソードに組み込まれており、作者のオマージュと遊び心を示したものだろう。

それと、あまり作劇上の意味は薄いけども、
冒頭 白昼の銃撃シーンで、消火栓が破裂し、水しぶきが湧き上がる中をハリーが悠然と歩いていく。
消火栓が壊れて水しぶきが吹き上がる場面は、アヌビス神との戦いで、消火栓が破壊され噴水するシーンに似てる感じがした。


スコルピオは一旦 ハリーに倒される(捕まる)ものの、
法律と社会規範のために保釈され、ハリーは再び彼を追う。

法律に従うべき刑事という仕事の枠組みを超え、逸脱しながら、
ハリーは高架で待ち伏せし、スコルピオのバスにダイブ、ついには彼を射殺し、倒す。

サンフランシスコ警察のバッジを池に放り投げて、ハリーが踵を返したところで映画は終わる。
このときの、スコルピオとの決着の池からズームアウトして、採石場・高架・湾岸の街並みまでが俯瞰されるシーンは、
SBR ジョニィと大統領の戦いが決着したラストシーンを思い起こさせる。

荒木飛呂彦イーストウッドからどれだけ影響を受けたんだと、同作品のストレートなカッコ良さに唸らざるを得なかったのでした。