ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

「幻の湖」 失敗の研究

(本記事は、ほぼ全くジョジョと関係がなく、すみません。
荒木先生の生まれた日本、同じ国の先輩作家・橋本忍の「幻の湖」についての記事です。)


橋本忍 原作・脚本・監督の映画「幻の湖」を観た。
近所のお店でレンタルできないので、2000円弱のDVDを購入し視聴。

インターネットで「バカ映画」と評された面白半分のネタバレを観た後だったので、初見時のインパクトは低かった。
予め設定・あらすじを知っていたということもあって、展開の飛躍に振り落されることなく、集中してラストまで観終えた。

駒沢公園でのマラソンシーン、日夏がペースをアップし、お市を振り切ってしまった所。
マンションから日夏が飛び出してきて、屈伸運動の後 走り出したのをお市が目で追うシーンは、やはり笑ってしまった。

しかし、DVDを観たいと思った当初は「バカ映画で、思いっきり笑いたい!」と思っていたのだが、
観だすと真面目につくってあり、ソープ嬢の交流や琵琶湖探索の情景など、よいシーンが結構あった。

私は滋賀県出身の人間で、沖島のことも、海津大崎周辺の絶景も、雄琴のソープ嬢の暮らしぶりのことも知っている。
その意味で、ご当地紹介的な故郷のイメージ映像から始まり、
社会の「底辺」で孤独に生きてきた筈のソープ嬢が、銀行員と出会い、アメリカ人のスパイソープ嬢と親友になり、
石仏や観音像に心洗われ、沖島の東西のありように孤独の極みと夢幻の境目を見、長命寺の石段で生きる決意をするという展開は、頷けるものがあった。

琵琶湖の南湖と北湖は、現代と古代の象徴であり、
琵琶湖の西岸は自分が孤独に住むクズのような現実で、東岸は、他人と共に暮らす幸せな未来の幻。

江戸の敵を長崎で討つかのごとく、東京の敵を雄琴で討つなど、対比や比喩の使い方がうまい。

ひとり、犬以外に頼る者なく生きてきたお市が、「現実」を手に入れ、形見の黒髪をローザ経由でNASAに贈るシーンがある。

主人公のお市の行く末は、ハッピーエンドでは無いものの、
雄琴のソープ嬢(=現代日本で、水商売に生きる女性)はいかに生きるべきか? ひとつの回答を示しており、
かつて雄琴のソープ嬢にお世話になったことのある私としては、--水商売の女性と出会い、関わった世の男性は皆同じだと思うがーー彼女たちの幸せを祈らずにはいられなくなる。


お市が、現代の象徴たる琵琶湖大橋の上で、日夏に止めを刺したとき、
過去と現代と未来がオーバーラップすることを象徴するように、スペースシャトルの打ち上げ映像にカットが変わる。
過去→現代→未来を繋ぐ壮大な永遠、世界の全体を描き出そうとした、壮大な創作意欲は素晴らしいと思う。

しかし、この映画で根本的にヘンだなと思うのは、
「主人公が、なぜマラソンにこだわるのか?」「主人公だけでなく、なぜ日夏もマラソン勝負を受け、同じ土俵で戦うのか?」である。

お市と日夏がスタンド使い同士で、余人には分からない超常的な戦い(魂を賭けたマラソンレース?)に巻き込まれているとか、
観客にヘンだな?と思わせないシチュエーションを設定してくれないと、やっぱりガクッと、真面目に観る意欲が失せてしまう。

お市やローザが、なぜソープで働かねばならないのか?など、主人公たちの行動の動機がほとんど示されず、
なんのために主人公が生きているのか分かりづらくなっているのもマイナスポイントだろう。


ただし、このあたりの作劇の分かりづらさ、キャラクターやシチュエーションの突飛さは、橋本忍自身が狙ったところで、
あえて訳の分からない話づくりに取り組んだようである。

幻の湖」1980年初版の原作小説 後書きから引用するとーー

「全体の長さの内の現実が70%、その中に少しずつ散りばめるが、仏像とLSIのからみはラストの三章の30%。
しかし、その関連づけや説明は一切しない。
自分の犬を殺した男に復讐していく女の姿から、なにか不可解で未知な永遠なもの……
それだけを読者に感じてもらえばと思っていたが、それさえ可能かどうか自分には自信がない」

この原作小説を書き上げた後、橋本監督は映画の撮影に入り、かの作品が出来上がったわけであるが、
私としては、ひとえにバカ映画・カルト映画と呼称して、後ろ指指して笑うだけが能だとは思わない。


「いいところもあれば、悪いところもある」
「人間、成功した人でも、ときにはとんでもない大失敗をする」
「前向きに倒れた人間の死に様は、無残であるが、美しくもある」

私としては、「幻の湖」の鑑賞後、突っ込み所の多さに半笑いながらも、不思議な安堵感・安心感に浸ってもいた。

SF・科学の描写にいい加減なところがあり、この辺りがしっかり考証され、
戦国編/現代編/宇宙編を繋ぐ6時間くらいの映画として、
橋本氏(脚本家)以外の適任者が監督を務めれば、もしかして、もっとよい作品に仕上がっていたかもしれない。

(地球上空 200km弱の高度で、果たして笛が静止軌道に入るのか?など、科学的考証がズサンな点はマイナスポイント。
ちなみに、宇宙パルサーという造語は、原作小説で宇宙航空士の長尾がニュートリノを研究し、素粒子物理学から宗教的な永遠を着想するくだりがあり、ここらあたりから連想した造語のようである。

幻の湖」というタイトルも、ラストで長尾が少しだけ触れているが、琵琶湖は年間数cmずつ北上し続けているという学説があり、これに基づいて、数百万年・数億年の後、琵琶湖は日本海に抜け、幻の湖になると述べられている。

しかし、この映画はとにかくシーンごとの繋ぎが粗く、描写の意味が分かりやすく解説されないので、バカ映画と批評されてしまうのもムリは無い。)


……文章量だけがやたら長くなってしまいましたが、
それだけ、幻の湖は奥が深く、語りたくなる内容を持っている作品だと言えるのかもしれません。

DVDレンタル料金ぶんの満足をもたらせるかは保証できませんが、
良し悪しを別にして、観た人の頭に生き残る引っかかりがあることは確かだと思います。

ジョジョリオンで新たな境地を描きつつある荒木先生ですが、同時に、ひとりよがりの偏り、構想力の衰えも見えています。
橋本忍氏が、黒澤明・小國英雄氏らと語り合い、ともに脚本を創作したように、
荒木先生の「間違い」を指摘できる同輩がいれば、もっとジョジョリオンは面白くなるのに……と思わないでもありません。


  ***


以下、「幻の湖」原作小説の後書き、橋本忍氏の自叙伝「複眼の映像」からの抜書きです。
当映画をご覧の方には、作品を補完するものとして、興味深くお読みいただけるのではないかと思います。よろしければご参照ください。


●「幻の湖」1980年 後書ーー創作ノート より


映画「八甲田山」の撮影中、橋本氏は、
八甲田山に独り立つブナの古木に、言いようのない孤独感・死の影を感じた時、死ぬまでにもう1本映画を撮ってみたいと思った。

「そのときに動く絵が浮かび上がったが、カラーではなく白黒だった。
日本髪を振り乱した若い女が、出刃包丁を構え体ごと男へぶつかっている。
5,6年前から企画に上がっていた、
縄文期から、過去、現在、未来に渡り、生まれ変わり生き変わる若い一人の女の徳川時代の幕切れの一コマである」


八甲田山が完成してから半年後、橋本氏は、琵琶湖の北岸 渡岸寺で、十一面観音の菩薩像に巡り合う。
「この顔はどれもこれもが生きた人間の顔をしている。
五十六億七千万年後に、生き変わり生まれ変わり、未来永劫を生き続ける菩薩像ーーそれが琵琶湖の畔にあるのを発見し、
衝撃と興奮のあまりしばらくはものもいえなかった」のだという。


「出刃包丁の若い女と、LSIだけではだめだが、仏像を基本におけばなんとか話は成り立つ。
出刃包丁を構えて男にぶつかっていく、日本髪を振り乱した黒い紋服の女ーーこれを徳川期ではなく現代にもってくる。
左には人間が創り出した全知全能ともいうべき科学の粋のLSI。
右には善も悪も包含し未来永劫まで生き続ける十一面観音の菩薩像。
この3つを組み合わせれば話は展開する。

いや、この女はLSIと仏像の中間にいる。
仏像から漂うものと、LSIのコンピューターから発するものがぶつかりこの女が生まれるが、それがドラマの中心であり、たとえ死んでも違う女に生き変わり生まれ変わる。」




●「複眼の映像ーー私と黒澤明」2006年 より

「「七人の侍」の時のことだが、仕事が終わったある日の夜、水割りのコップをテーブルの上に置いた小國旦那が突然に、
「橋本よ……死んだ万作に代わり、お前に言う」
私はドキッとして居住まいを正した。師匠の名前の一言で電気のようなものが五体を走る。

「いいか、シナリオライターには三種類ある。鉛筆を指先に挟み、指先だけでスラスラ書く奴、掌全体の力で書く奴、ほとんどがこの二種類だが…お前は肘で書く、腕力で書く」
「……」
「その腕力の強さじゃ、お前にかなう者は日本には誰もいないよ。
しかし、腕っぷしが強すぎるから、無理なシチュエーションや、不自然なシチュエーションを作る。
成功すれば拍手喝采だが……これは失敗する可能性のほうが高いし遥かに大きいよ」

小國旦那は入歯の下あごをガクガクさせ言葉を〆くくる。
「シナリオはな、冬があって、春がきて、夏がきて、秋がくる……こんなふうに書くんだよ」


(中略)


この小國旦那の言葉が、私の胸を痛恨で疼かせたことがある。

橋本プロ製作の「砂の器」「八甲田山」が成功したが、続く「幻の湖」が失敗した。

幻の湖」の企画の動機は単純だった。
砂の器」は親子の旅で、親子二人の歩き、「八甲田山」は青森の連隊と弘前の連隊の雪の中の歩きーー
人の歩く映画が二本続いたので、次は人が走る映画を作ってみたい。

走るのは女の子にする、これはいい。
職業は雄琴のソープ嬢にする、これもいい。
犬と一緒に湖畔を走る、これも絵になっていい。
ところが、その犬が殺され、こともあろうに、自分の犬を殺した男が、客として目の前に現れたのでカーッとなり、
犬が殺された時の出刃包丁で、男を刺そうとし、慌てて逃げ出す男を追いかける。

琵琶湖畔を逃げる男を女の子が追いかける。
男も普段から走りにはトレーニングを重ね足には自信があり、女の子が死にもの狂いで追いかけるが追いつけない。
しかし、琵琶湖大橋でついに男が走れなくなり、
追ってきて走り勝ちした女の子が、出刃包丁でひと突きに男を殺してしまい、犬の敵討ちになるがーー
ドラマの流れの勢いとはいえ殺しにまで至るのは、テーマの走りの限界を超え、明らかに不条理である。

その上、この女の子には、現実的な恋人の他に、強く心を惹かれる人があり、それが宇宙航空士、
しかも、その経緯には戦国期の時代劇の因縁が絡み、
ラストは宇宙航空士が地上75キロ(原文ママ)の宇宙空間からーー
犬を殺した男を殺害し、女の子が飛び込み自殺したと思える琵琶湖大橋の上に、二人を結びつけた戦国期以来の横笛を置き、
それが三日月形の琵琶湖に交差しあたかも十字架のように見える。

地球の自転と共に永遠に琵琶湖上空にあるその横笛には、美濃紙の付箋が付いており、墨で女の子の源氏名が書いてある。
雄琴お市のために」ーー。

話としてはなんとか強引にまとめているが、不条理すぎるし、シチュエーションにも不自然と無理が重なり合っている。

私はこの脚本には自信が持てないので野村芳太郎さんに読んでもらた。
野村さんが大丈夫といえばスタートするし、ホンには無理が多く、失敗の可能性が強いといえば、考え直し中止にしてもいいと思っていた。
ところが野村さんの意見は、
「ドラマの質がこれまでにはない、全く新しいもので、従来の映画の感覚や理論では判断の余地が無く、
正直にいって自分にもよく分からない。
このホンの善し悪しは出来あがった映画を見ないと、誰にも分からないのではなかろうか」

私は困惑した。その私に小國旦那の言葉が蘇ってくる。
無理なシチュエーションや、不自然なシチュエーションでも、ホンは腕力で書きこなせるし、現場もそのまま通過する。
しかし、最後の仕上げでフィルムが全部繋がると、根本的な大きな欠陥と失敗が間違いなく露呈してくる。
この脚本にはそれらが二重三重にも絡んで重なり合っているのだ。

「いっそ小國旦那に読んでもらおうか」
しかし、小國旦那は即座に、猛烈に反対するのが目に見えている。
あれこれ悩んでいるうちに制作の諸準備も進み、つい後へ引けなくなりスタートしたが、
結果としては脚本の無理がたたり、作品の出来はもう一つ、興業的にも惨敗し手痛い目にあった。」


ーーこのあと、本書は、筆者が小國旦那の廟を訪れるたび、ふっと連想される奇妙な光景で〆くくられる。


「もし、黒澤さんが私の立っているこの廟の前に立ち、小國旦那に向かい合えば、何と言うだろう。
意外にもそれは小國旦那への私の呟きに似た言葉かもれない。
「小國よ……御免……「乱」も「影武者も、ちょっと無理だったのかな、シチュエーションが強引すぎてな」