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ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

複眼の映像ーー私と黒澤明

ジョジョのルーツを探る

橋本忍氏の著書「複眼と映像ーー私と黒澤明」の記事です。

ただし、私は黒澤明監督の映画を「七人の侍」「わが青春に悔いなし」しか観たことが無く、
しかも「わが青春~」は祖父の家にあったホームビデオを借りてたまたま観ただけという、全くのニワカです。

橋本忍の映画も「幻の湖」を先日観たばかり、「砂の器」の小説は読んだが映画を観たかどうか定かではない…というニワカなので、
両氏の作品をまっとうに批評することはとてもできません。

時間と興味が湧けば、両氏が脚本・製作に関わった映画を、これからじっくり観ていきたいと思うのですが、
まず、この記事では「複眼の映像」の読書メモ、幻の湖の補足、ジョジョとの関わりを述べます。


 ***


橋本忍は脚本家である。
伊丹万作の弟子で、黒澤明と「羅生門」「生きる」「七人の侍」の脚本を共同製作し、
牡丹と薔薇」で近年有名な中島丈博の師匠でもある。

橋本忍のてがけた脚本は「八つ墓村」「日本沈没」「私は貝になりたい」「八甲田山」「砂の器」など名作が目白押しで、
キャリアの晩年にてがけた鬼っ子が「幻の湖」である。

黒澤映画がスピルバーグはじめ海外の映画作家に大きな影響を及ぼしたこと、
横溝正史作品(犬神家の一族八つ墓村などの金田一耕助シリーズ)はジョジョリオンのイメージモチーフの一つであることなどから、
橋本忍の脚本作品は、遠く、ジョジョのルーツの一つと位置付けてもよかろうと思われる。


 ***


「複眼の映像」は、橋本忍氏が自身のキャリアを振り返った自叙伝であり、
黒澤明らとの「脚本の共同製作」について、そのノウハウと記憶を存分に語った書物である。

荒木先生が「荒木飛呂彦の漫画術」を書いたように、
橋本忍が、自らの脚本/映画づくりのノウハウ、黒澤組の映画づくりを述べたもので、とても価値のある内容が述べられている。

テーマ、ストーリー、キャラクター 基本要素を設定することの大切さ。
「大箱」(起承転結の四段構造)に基づく長編映画と、1時間前後の中編~短編映画の違い。
上映2時間前後の一律な映画興行を脱して、国立映画製作所・国立映画館を設立し、多種多様な映画(映像作品)を創り出そうとした芸術運動の顛末などーー。

映画、マンガに通じる「作品づくりの王道」が述べられており、映像作家をめざす人、映画やマンガが好きな人はぜひ読んで損が無い内容だと思う。


本書中で述べられているのは、橋本忍氏 個人の経験則・体験、個人の価値観に基づく映画批評である。
橋本氏のほかに野村芳太郎氏、小國英雄氏、そして黒澤明氏、伊丹万作氏の作品批評、芸術観が随所に記されるが、
いずれも一級品の鋭さで、私のブログや「みんなの映画レビュー」など、凡百の井戸端話を遥かに超える切れ味がある。

橋本忍「乱」と「影武者」を失敗作と論じるなら、それはそれでしょうがない。
野村芳太郎が「ジョーズ」は傑作だが、それゆえに、以降のスピルバーグ映画は観る必要が無い、と言われればもう従うしか無い。
瞬間 そう思わせるような、野生のトラに睨まれたような、そんな迫力と含蓄を持ち合わせている。

映画、世に残る名作というものは、達人同士の斬り合い、命をかけたぶつかり合いで生まれてきたのだ、と改めて納得させられる。

江頭2:50がかつて、「例え、どんなにつまらない映画があったとしても、 批評するオレよりも映画のほうが上だ! もし、映画がウンコでも、オレはそれをエサにしてしか生きていけないハエなんだ。 批評することは簡単だけど、創ることは難しいぜ!」と述べ、
伊良部秀輝が、わけも分からず群がるマスコミに「あんたらは稲田に群がるイナゴや!」と声を荒立てた。

全くその通りで、
演歌歌手が「お客さまは神様です」と、神に通じる祈りを込めて舞台で歌い上げることも真実なのだろうと思うが、
一方で、「神が作った世界」に入らせていただく気持ちで、作家の作品世界に敬意と謙虚をもって接することも真実なのだろう。
つまり、人間はそれぞれが「神」であり、主体と客体のいずれもが、双方に敬意をもって働きかける関係が理想の美しさであると思われる。


***


ーー話がずいぶん拡がってしまいましたが、
「複眼の映像」からいくつかの興味深い記事、触りだけを触れていきます。

(原文を引用するととても長大になるため、図書館や本屋さんで、原書に触れていただけましたら幸いです)


幻の湖 マラソン構想の背景

本書P156 黒澤明にはシナリオについての哲学がある、と述べるくだりがある。
「仕事は一日も休んではいけない」。
彼にいわせればシナリオを書く作業は、42.195kmを走るマラソン競争に似ているという。……

また、黒澤明は能が好きで、いつも話題にするのが世阿弥であったという。
その世阿弥がある日、川船に乗り川を渡っていると、中程で向うから渡し船がやって来て、船頭がお互いに声を掛けあう。
 おう、いい天気だな。 ああ、いい天気でありがたいが、今日は体がしんどいよ。 しんどい?どうしてだ? 昨日は仕事を休んだからな。
世阿弥は思わず膝を叩く。
 これだ!これがコツだ、休めば逆に体が疲れる。稽古事には一日も体を休ませてはいけないのだ。


前回の記事で、幻の湖は、なぜお市と日夏のマラソン勝負を根本に据えたのか、その理由が分からないと述べました。
作家 橋本忍氏の回答が、上記の引用の中に含まれている。

黒澤明に追いつき追い越せ、少なくとも黒澤明に離されず、一本立ちの脚本家として人生を走り切れ……
そのような、人生への願いを込めて、お市とシロ、お市と日夏のマラソン構想が着想されたものと思われる。

また、琵琶湖の西岸と東岸 南岸と北岸の重ね合わせ、過去→現代→未来をオーバーラップさせる物語の構想は、
世阿弥が能舞台で表現したという「夢幻」の映像化と思われ、
幻の湖は、橋本氏自身は、決してフザけたカルト映画を作ろうとしたのではなく、自身の芸術観・人生観を叩きこむつもりで真剣につくった映画であることが窺える。

(そもそも、橋本氏自身が「複眼の映像」で幻の湖の分析・批判を行っているのは、前回記事の引用の通りである。

映画秘宝あたりの、同映画をバカ映画/カルト映画としての面白がり方には、半分同意、半分納得できない、という気持ちである。
死者に鞭打つような、弱った犬に石を投げて喜ぶような、思いやりのない楽しみ方はどうかと思う。
江波杏子が、同映画の上映時 大声で笑って同映画を観ていたという書きこみが「みんなの映画レビュー」にあったが、
江波杏子の豪快さ、気風の良さだけは認めざるを得ない……そんな複雑な心境だ)



●映画≒音楽 共同製作方式の、脚本づくりとは

本書P175からの引用。

「黒澤さんは映画についての法則や理論を好まず、一切口にしない。
その彼が珍しく、「映画評論」に寄稿した一文があり、
映画は他の芸術の何に似ているかで、彼は一番よく似ているものは音楽だという。

音楽は感覚を聴衆に伝えるだけで、何かを説明することができない。
映画も同じで、説明しなきゃいけないことを説明しても、観客には分からず、説明は一切不可能であり、
その本質的な部分で、両者はひどく似通った共通なものがあるという。

私(橋本氏)もこれには大賛成で、誰かにシナリオに一番よく似ているものはと訊かれた場合には、
躊いなく音楽の楽譜の譜面だと答える。

楽譜の譜面は演奏者に対し音楽を立ち上げる命令書、
シナリオは監督以下の映画のスタッフに対し絵と音を仕上げる命令書だが、
両者は単に命令書としての一致だけでなく、内容的に重要なものが共通している。

私たちの書くシナリオに最も重要なものは、文字の並びや配列が生み出す抑揚……テンポとリズムだが、
一方楽譜の譜面は、すべてがテンポとリズムそのものである。
私にとってシナリオを書くことは、小説や戯曲の類とはおよそ世界の異なるものーー交響曲を作曲しているような気がしないでもない。

黒澤組で用意ドン! 同じシーンをスタートする。
語り口は人それぞれに違うが、誰にしてもこのシーンが快調な二拍子か、それとも正常な順押しの四拍子、または嘆きや詠嘆の三拍子かは、大まかに分かっている。
だから出来上がったものから、音楽の場合にはフレーズごとの交換が容易なように、
シナリオでも、このフレーズ単位での交換や差し替えが、意外なまでに簡単なのだ。

(中略)

こうして同じシーンを(複数の人間が、同時に)書き揃えることで、それらからはどのような編集でも可能になり、
内容の充実した、イキのいい新鮮な脚本を作りだすのだ。

黒澤組の共同脚本とは、同一のシーンを複数の人間がそれぞれの眼(複眼)で書き、それらを編集し、
混声合唱の質感の脚本を作り上げるーーそれが黒澤作品の最大の特質なのである」


ーー長大な引用となってしまいましたが、
これを読んだ瞬間、「自分の意見・感性が同じで嬉しい!」と思いましたし、
小さな事柄ですが、ジョジョのテレビアニメが根本的にどのようにおかしいのか、改めて納得した次第でした。



●定規とコンパス

本書P51 「羅生門」と「藪の中」の折衷に苦しむ橋本忍氏が、「シナリオは映画の設計書か……」と心中呟く。

橋本氏が軍需工場の経理部員を務めていたとき、設計の仲間が話していたことを思い出す。

工場で生産される製品はすべて工作部の設計課で設計される。
海軍から送られてきた原図を元に各パートが図面を引き、現場ではその図面ひとつなしには何一つ製作できない。

設計課の技師が立ったまま、やや傾斜した大きな図面台に向かい、
馴れた手付きで定規とコンパスを使い、烏口でテキパキと書き上げる。
その様子に感心した橋本氏が、ある日、大学を卒業したばかりの一人の青年技師に話しかけた。

「ここで引く図面は簡単だが……零戦のエンジンともなると大変だろうね」
「そんなものは同じですよ」
「え?」
白面の青年技師はニコリともしなかった。

「物の大小とか、複雑とかは関係ない。
空を飛ぶ飛行機であれ戦艦大和であれ、また顕微鏡の必要な百分の一ミリ単位の小物であれ、なんだって、線を引くのはみんな同じ……
定規とコンパスさえあればね」


ーーついつい引用を繰りかえしてしまっていますが、
本書には他にも、黒澤明が脚本合宿の夜 秋田民謡を歌いあげる話など、面白い話が数多詰まっています。
橋本氏の筆ーーテンポとリズムに乗せられて、つい引用をしたくなってしまうのも、氏の力のなせる業でしょう。

黒澤映画のファンの方だけでなく、映画やマンガ、芸術が好きな方は、ぜひお読みになることをおススメいたします。



追伸:

「複眼の映像」というタイトルの由来は、橋本氏自身が、上記で述べた通りです。

橋本治が、かつて糸井重里との対談で「ひとりで主観、ふたりで客観」と述べたが、同じ意味を指すものだと思う。

どうでもいい情報ですが、
私のハンドルネーム sougan=双眼は、よいところも悪いところも共に見ようとするニュアンス、
肯定と否定・正常と異常など、二項対立の間のところを幅広く拾って見ていこう、というニュアンスで付けました。

このブログは、基本的に、著者(私)ひとりの見解・意見を延々と述べているものですが、
ブログ記事へのご意見・反論・抜け落ちの指摘など、何かありましたら、コメント欄にご意見をお寄せ頂けましたら幸いです。
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