ジョナサン・ジョースターは1868年、明治元年の生まれである。
「荒木飛呂彦の漫画術」p92によれば、ジョナサンとディオの1部は1888年、ジョセフの2部が1938年、そして第3部が1988年の話と、50年刻みで100年の時を駆ける3部作が描かれているとのこと。
最近、自分自身の足元の振り返りを兼ねて、福沢諭吉の「福翁自伝」、「学問のすすめ」を読み返している。
「学問のすすめ」は全17編から成り、青空文庫というwebサイトで無料で読むことができます。けっこう過激な物言いもあって面白く、よかったら初編だけでも読んでみてください。(下記 リンクを張っています)
第3篇を読んでいたところ、ジョジョの1部を連想させるくだりがあり、面白かったので下記のとおり 引用いたします。
「貧弱!」「貧弱ゥ!」というディオの叫び声は、荒唐無稽なばかりではなく、19世紀末の近代における帝国主義の争い、「人類を超越し、支配しようとした」DIOの在り様を端的に象徴していたのかもしれない……そんなイメージを重ね合わせています。
福沢諭吉 学問のすすめ
(第三篇)
およそ人とさえ名あれば、富めるも貧しきも、強きも弱きも、人民も政府も、その権義において異なるなしとのことは、第二編に記せり〔二編にある権理通義の四字を略して、ここにはただ権義と記したり。いずれも英語のライト、right という字に当たる〕。今この義を拡めて国と国との間柄を論ぜん。国とは人の集まりたるものにて、日本国は日本人の集まりたるものなり、英国は英国人の集まりたるものなり。日本人も英国人も等しく天地の間の人なれば、互いにその権義を妨ぐるの理なし。一人が一人に向かいて害を加うるの理なくば、二人が二人に向かいて害を加うるの理もなかるべし。百万人も千万人も同様のわけにて、物事の道理は人数の多少によりて変ずべからず。今、世界中を見渡すに、文明開化とて文学も武備も盛んにして富強なる国あり、あるいは蛮野未開とて文武ともに不行届きにして貧弱なる国あり。一般にヨーロッパ・アメリカの諸国は富んで強く、アジヤ・アフリカの諸国は貧にして弱し。されどもこの貧富・強弱は国の有様なれば、もとより同じかるべからず。しかるにいま、自国の富強なる勢いをもって貧弱なる国へ無理を加えんとするは、いわゆる力士が腕の力をもって病人の腕を握り折るに異ならず、国の権義において許すべからざることなり。
近くはわが日本国にても、今日の有様にては西洋諸国の富強に及ばざるところあれども、一国の権義においては厘毛の軽重あることなし。道理に戻りて曲を蒙るの日に至りては、世界中を敵にするも恐るるに足らず。初編第六葉にも言えるごとく、「日本国中の人民一人も残らず命を棄てて国の威光を落とさず」とはこの場合なり。しかのみならず、貧富・強弱の有様は天然の約束にあらず、人の勉と不勉とによりて移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべし。古今その例少なからず。わが日本国人も今より学問に志し気力を慥かにして、まず一身の独立を謀り、したがって一国の富強を致すことあらば、なんぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこのことなり。