スティールボールラン 文庫本16巻が発売されていることを知り、荒木先生のあとがき目当てに、買って読んだ。
連載中のジョジョリオンを含めて、物語をどう終わらせるかについての作者の考え、スティールボールランのラストに触れた内容だった。
作者の思い入れの深さ(描いていて泣いてしまった場面)を含めて、原著にあたっていただけましたら幸いです。
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表題の件 ジョジョのラストバトル、ボスのスタンドをAV機器の操作になぞらえる意見がある。
一時停止、巻き戻し、CMスキップ、最初から再生し直し…。
ディオに始まりプッチ神父まで、時間を操る超能力があまた登場している。
映画監督の黒澤明氏に、こんな言葉がある。(土屋嘉男 著「クロサワさーん!」P87より引用)
「映画は時間の芸術である。
そして時とは事物の運動に外ならない。運動するものが存在せねば、時はないのである」
ディアボロが時を飛ばしたとき、ヴェネツィアでブチャラティが見た「自己の姿」。
ゴールドエクスペリエンスレクイエムが発動したとき、ディアボロが見た、無限に振り向き続ける自己。
5部で描かれた2つのシーンは、悪夢的で、時間と意識の流れを象徴的に描いていると思う。
客観性というのは無限に続くタマネギの皮むきのようで、
生きている限り、時間が流れるかぎり、人間の意識は流れ続け、つねに「自分を見ている自分」が居る。
新約聖書より、イエスキリストはこう言ったという。
「明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その一日だけで十分である」
2007年頃 1部が劇場映画になったときのムック(または青マルジャンプのインタビュー)で、荒木先生も似たようなことを言っていて、
キャラクターが居ればマンガ(≒ストーリーの流れ)は出来ていくもので、日常生活で明日どうなるか分からないけど、明日になればその日を生きているようなものですよ と。
社会、現実というものは、もちろん、一人の人間の意識の流れだけでは出来ていない。
人間社会に焦点を絞ると、あまた居る人間の意識の流れ、生物の活動が織りなすタペストリーに例えられるのかもしれない。