ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ゆでたまご先生の天才性を語る キン肉マン1~4巻の感想

ドラえもんクレヨンしんちゃんミュージックステーション 金曜夜のTV2時間枠が解体され、ニチアサキッズ(スーパー戦隊からプリキュアまでの90分)が解体されて久しい。
世の中の移り変わりを感じる事例だが、息子に聞いたところ、今の子どもはyoutubeの無料動画で音楽をまず聴いて、気にいったものを購入・入手する音楽習慣に変わっているのだ という。
FMラジオを聴いたり、ミュージックステーションを見たり、カセットテープやVHSテープにお気に入りを録音録画した時代とは異なっている。
勿論、それが悪いという訳ではなく、技術革新、新たな視点の商品やサービスが開発されることで、音楽を楽しむ習慣にイノベーションが起こり、世の中が新しく変わっていくのは選択肢が豊かになり、良いことだと思う。

同様に、プレイボーイのサイトで毎週 キン肉マンの更新を読んでいて、
自分はキン肉マンしか読まない、超人さま、セックス依存症になりましたは読まない、あくまでわずかな慰安とヒマつぶしに読んでいるだけだ… とうそぶいていたが、
毎週毎週 オメガマンたちと運命の五王子たちの戦いを読んでいる内に、つまらないと思いつつも読み続けていて、いつの間にか渇望心が刷り込まれ、
勢い余って、キン肉マン 1巻~66巻の全巻セットを購入してしまった。

「ウェブの無料版でとりあえず読ませる、幅広く色んな人に知らしめる → 興味を持った人間を食いつかせ、全巻セットで購入させる 」という、
集英社と漫画全巻ドットコム、アマゾンの連携プレー、マーケティングに、まんまと引っかかって、乗っかってしまった。

電車の中吊り広告はめっきり見なくなり、街中や電車でマンガ・文庫本・新聞を読む人はめっきり減り、ケータイ電話をひっきりなしに眺める人たちが増えた。
何が良い、悪いということはさておき、マーケティングや商売のかたち、コミュニケーションのありかたというものはどんどん、スタイル、やりかたが変わっていくな と実感する一幕だった。


  ***


本記事の本題、キン肉マン全巻セットを買ってしまい、買った以上は仕方なく、1巻から順番に読みはじめた。

1巻~4巻まで読み終わり、キン肉マンがカメハメと出逢って、ジェシーメイビアと試合する直前のあたりまで読み終わった。

キン肉マンを読みながら思ったのは、幼児教育、擦りこみの効果はこわいな というもので、
子どもの頃 実家で兄が買っていたキン肉マンを読みふけったものだが、1~4巻のそこかしこのシーン、1巻と4巻は兄が持っていた記憶があり、
読み進めるごとに、このコマは見たことがある、このコマは印象深い、一方 こんなシーンはあったかな…?こんな話は全く覚えていない、と、
3~6才くらいの幼児のときに読んだ記憶と、大人になり知識や経験を得てから読んだ現在とで、さまざまな重ね合わせが出来たことだった。

自分は教育業界に勤めているが、名作絵本・児童文学として、中川李枝子の「ぐりとぐら」「いやいやえん」を奨める声は根強い。
大人になってからこれらを読んだのだが、私にとってはしっくりこず、つまらなくはないが、自分の感性や心中には響かず、芸術的な感動というものもあまり湧かなかった。

ぐりとぐら いやいやえん の二作は、「子どもの心中をそのままに描いた」「子どもの世界を率直に、素朴で純粋な明るさでもって描き出した」という観点で評価されることが多い。
それはそれで頷けるのだが、私にとって、芯のところで、この書評は響かない。

なぜならば、私にとって、正直なところ 絵本でいえば「かいじゅうたちのいるところ」「おしいれのぼうけん」のほうが前者より面白く、心に迫る感動が大きくあったし、
そもそものところ 未就学児だった当時 私は絵本で大きく感動した思い出は、絵画制作の題材となった「スイミー」を置いて他に記憶が無く、
スイミーよりもその他(当時に数多く触れていたはずの)名作絵本よりも、ドクタースランプキン肉マン、少年ジャンプで連載されていたマンガのほうがはるかに大好きで、心に刻まれる存在だったからである。


キン肉マン 1~4巻を読んでいて、恐ろしかったのは、子どものとき そこまで熱心に読みこんだつもりは無かったのに、
コミックスのそこかしこで、心に焼き付いたシチュエーション、場面場面のあったことである。

スグルがブタと間違えて宇宙船から放り出された一コマ、
テリーマンがスグルの家にやってきて、ここはまるでウサギ小屋だな とつぶやく一コマ。
キン肉マンが、日本人の朝食はごはんとみそしるに決まっておるだろうが とつぶやくコマ。
ナチグロンが大いびきをかいて眠り、キン肉マンが迷惑しているオチのコマ。

ナチグロンがどういじめられて、キン肉マンがどう彼を救ったか ストーリーのあらすじは全く覚えていなかったのだが、
キン肉マンがナチグロンをかばった、落ちこぼれだって、弱いいじめられっ子だって頑張って生きているんだ というメッセージは、子どものとき、はっきり心に刻まれたことを再読しつつ思い出した。

超人オリンピックが閉幕し、チャンピオンベルトの裏面を見て、チャンピオンの重みに気づいた一コマ。

超人オリンピック ロビンマスクとの戦い、テリーマンと怪獣退治するくだり、マリさんや女性新聞記者のくだりなどは全く覚えていなかった。

キン骨マンとイワオ 今見るとデザインが洗練されていて結構かっこいいが、こどものときはギャグ編がまだるっこしく、これらのキャラにも魅力を感じていなかった。


1~3巻まではギャグマンガのテイストが強く、当時の作者が興味を持ったものを存分に盛り込んでいる。
直接的には、すすめ!パイレーツなど当時流行っていたギャグマンガのノリ、作者の身の回りにあったもの、興味関心、楽屋受けみたいなものを盛り込んでいるのだが、
残念ながら、ゆでたまごが狙って描いたギャグで笑えるものはほとんど無かった。

2巻 アデランスの中野さんが、底なし星人の胃液に呑みこまれ、骨だけの姿になって浮かび上がる。
キン肉マンたちが、ああ…と嘆き、星人に怒りを発揮するくだりが、いわゆるシリアスな笑いとなっていて、おかしかった。

キャラクターのセリフに流れるような勢いがあること、キン肉マンやミート、子どもたちの描画がかわいく、流れるような滑らかさ、温かみがあること。
自分が子どものとき 絵を描くと、いっつも太い描線でグイーッと輪郭を描くクセがあったのだが、キン肉マンの作画から影響を受けたのだな と、つくづく思った。

野グソをしている女の子が居て、背後からカエル怪獣が登場するという話があるのだが、「女の子が野グソをする」というシチュエーションが物語の冒頭に違和感なく描かれるあたり、世相の差を感じる。
1960~70年代の絵本を読むと、保育園で悪さをした子どもが押し入れに閉じ込められるシーンがそこかしこに登場するが、これと同じく、世相の差、世の中の移り変わりを感じる一幕である。


あくまで個人的独断であるが、
ゆでたまご先生のすごさはギャグマンガ家としてのギャグセンスではなく、子どもの心を持ったままプロでマンガを描きはじめたそのすごさ、天才性に尽きると思う。

子どもの頃 兄はキン肉マンを読んで「絵が下手だ」と言い、
当時の西村編集長(?)が「ゆでたまごは絵も話も下手だったけど、キン消し含めて、彼らには稼がせてもらったよ」とうそぶいたという、兄から聞いた、まことしやかな伝聞に、子どもながら心を痛めていた。

ゆでたまごは、絵が下手なのではない。
デッサン的な意味でいえば、19~20歳で描きはじめた連載当初よりも、始祖編~オメガ編を描いている現在のほうが上達し整っているが、
ゆでたまごの絵のすごさ、ゆでたまごのマンガのすごさは、子どもの心 そのままに絵と話を考え、
小学生の落書きからスタートしたキャラをそのまま使い、小学校の友だち2人が協同作業でマンガを描き、そのままプロの連載作品として、描かれはじめてしまった、そのところにある。

キン肉マンは、超人オリンピックの開催からテイストを変え、5巻の作者はしがきにあるように、
主人公のスグルがドジで間抜けなヒーローから、少しずつ強くなり、たくましく成長する姿、正義超人たちと友情を深めつつ切磋琢磨する男の生きかたを描く物語に変貌していく。

超人オリンピック テリーマンラーメンマンロビンマスクのキャラクターの立ちかたは出色で、
(結末をすっかり忘れていたが、)キン肉マンロビンマスクの戦い 野生の本能=火事場のクソ力により逆転、勝利を収める筋立ては鮮やかであり、素晴らしい。

キン肉マンギャグマンガとして始まり、ウルトラマン、プロレス、プロ野球や特撮番組、当時のTVCMなど、ゆでたまごの好きなものを盛り込んだドタバタギャグでスタートした。
キン肉マンの顔は不細工だが、ブサイクだからこそかっこいい と、ロビンマスクとの戦いに到るまでに、私自身 思わされてしまった。

これはとんでもない筆力で、当時の読者だった子どもたちを魅了したストーリー展開に納得させられてしまったし、
何と言っても、後のシリーズに続く、キン肉マンを中心とした、ヒーローのありかた、ライバルや悪漢との戦い、男たちのドラマというものが、その原型が、短いページ数で作り込まれている。

ゆで先生が中野編集との対談で述べたとおり、1回めの超人オリンピックは一世一代の大仕事であり、この賭けに勝ち、キン肉マンと共に大きく成長を果たしたことで、
現在に至る、ゆでたまごキン肉マンの成長と成功への道のりが描かれた。重要な位置づけを占めるシリーズだったと思う。

(興味を持たれた方は、2019年春のプレイボーイ スグルとアタルが表紙のキン肉マン特集号に載っていた、ゆで先生と中野編集の対談など、読んでみてください。)


保育所保育指針、学習指導要領など 国が定める教育のキーワードとして、「たくましく生き抜く力」「生きる力」を育む、というものがある。

文科省厚労省が定める大綱的文書に異論は無いのだが、ふと思うのは、
キン肉マンが野生の本能、火事場のクソ力を発揮してロビンマスクに勝利をおさめたくだり、
ゆでたまご自身がキン肉マンと一緒に成長して、ドジで間抜けなヒーローからほんとうに強いプロレスチャンピオンへの階段を登り始める成長と友情の物語は、
まさに、現在の日本国が子どもたちに身に付けさせようとしている、「たくましく、これからの社会を生き抜く力」に他ならないのではないか ということだ。

(繰り言めいて申し訳ないですが、)中川先生の「ぐりとぐら」が保育園に設置し繰り返し読まれることはあっても、
キン肉マン」や「ドクタースランプ」が、保育園や小学校の本棚に並べられることは無い。
多くの保育園幼稚園において、絵本以外のメディアは存在を黙殺され、テレビやマンガ、ゲームやインターネットは無かったほうがよいもの として扱われている。

教育論はさておくとして、ひとつ確かなこととして、
どこに「その子にとっての真実」「世の中、世界を知り始めるきっかけ」が潜んでいるかは分からない。

教育業界の端くれとして、「子どもたちの自主性・主体性」を尊重する保育、(小中学校以降の)教育を行っていくのであれば、
いま 学校なり保育園にあるもの全てが、子どもたちにとっての全てではない。

学校教育は、ひろく社会をかたちづくる環境構成の一つでしかなく、よくもわるくもこの世はもっと広い世界であり、
未就学児~小中高校生くらいまでの、まだまだ経験や見聞が少なく未熟な子どもたちに関わるときに、子どもたちに敬意を持つからこそ、彼らの興味・主体性、彼や彼女の意思や可能性を損なってはいけないのだ と反省している。


最後に、ジョジョとすこし絡めた話題でいうと、
キン肉マンのキャラクターデザインは読者応募のパクリばかり、ジョジョは映画や洋楽、ファッションイラストからのパクリがひどい みたいな論調がある。

それは事実で、キン肉マンをいま読むと分かるが、すすめパイレーツなどのギャグマンガ梶原一騎の劇画からの影響。
(無許可のパクリではなく、雑誌企画として応募を呼びかけ、投稿作をアレンジしたというかたちで、)読者原案を基にした、さまざまな正義超人たちの姿がある。

コミックスに掲載された読者投稿のイラストを見ると、ラーメンマンロビンマスクなんかは、読者投稿のデザインをほとんどそのまま、マンガのキャラクターたちとして採用、作中に登場している。
著作権管理・パクリ指摘に厳しい昨今だと、読者投稿のそのまんまのパクリ、(民法上の規定はクリアしているとしても)あまりにもオリジナリティが無い。
ゆでたまごは、当時の読者のネタを吸い取って、編集部のマーケティングに乗っかっただけで、少年ジャンプの剛腕が凄かっただけで、ゆでに実力はないじゃないか みたいな意見がある。

子どもだった当時 私の兄も、キン肉マンを、タッグトーナメント編終了までほぼ全巻 買い揃えながら、同様の感想を述べていた。
(キン肉星王位争奪編からは、兄も飽きたのか、小学校5~6年生くらいになったのでコミックスを買わなくなった)

しかし、これらの指摘、非難はいささか思慮が浅い と言わざるを得ない。

では、ラーメンマンロビンマスクの読者投稿イラストを見て、誰か、ゆでたまご以外に、鎧の超人、辮髪の超人をつかって、あのようなキャラクター立て、ストーリー展開を描けたのだろうか? ということである。

ラーメンマンロビンマスクの投稿者は、(現今のディズニー、円谷プロ、あるいはJASRACのように)ビジネスとして、しっかりはっきり著作権を主張できる契約を当初に結んでおけば、
今頃 キン肉マンシリーズからのロイヤリティで大儲け、サラリーマンの副業収入以上の富を、一枚のイラストハガキから得ることが出来たのではないか とゲスな想像をしないでもない。

それは愚かな考えというもので、投稿作採用時の規定(誰に著作権が発生し、保有するかの決まり。集英社が抜かりなく、ビジネス上の規約を盛り込んだのだろう)はともかくとして、
マンガという作品制作において、付加価値の創造として、
一枚のイラストハガキから、小学校のノートへの落書きから、小学生2人の落書きごっこから、
誰が果たして、ゆでたまご以外に、あのようなかたちで、キン肉マンと仲間たち、ライバルたち、敵役たちの物語を紡ぎ出し得たか ということなのである。


キン肉マン 1~4巻を読んで、カメハメが出てきたあたりでもういいかな、と思ったのは、一通りのエピソードを読みきった満足感もあるし、
ここから先は、シリアス路線のプロレスに転向して同じ路線の拡大拡張になっていった印象がある、
(記憶に薄い)王位争奪編、まだ読んだことが無い37巻以降の新編を読むまで、コミックを順繰りに読むのがダルい、巻数が多過ぎる… という事情がある。

満腹感というか、もうお腹いっぱいだ という感覚はあって、
ここから先の展開 読んでいけば新たな発見があり、昔を思い出す懐かしさもあって、読めばたぶん、きっと面白いシリーズ展開が待っているのだろう。

私はマンガを一気読みするタイプではなく、じっくり読んで楽しんでいきたいタイプである。
ビジネス書、仕事における実用書は飛ばし読みをするし、自分に役に立つかどうか、自身の考えや興味関心と重なるかどうか、効率を考えて読む(作業する、仕事する)節がある。

マンガ、絵本といったものは仕事とは別で、創作の世界にじっくりと浸りたい。すぐに全部読んでしまうのは勿体無くて、じっくりその世界に浸って楽しみ続けたい。
贅沢な楽しみであると思っている。