ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

火の鳥 全巻読了のメモ、手塚治虫と荒木飛呂彦の比較

手塚治虫の「火の鳥」を、黎明編から太陽編まで、ついでに別巻(角川文庫の第14巻。資料集的なもの)をあわせて読んだ。

火の鳥は小学5~6年生のときに読んだことがあり、印象的なコマやシーンが節々にあり、思い返しつつ読んだ。
今回 読んで面白かった、面白いというより凄みを感じ、感動したのは未来編と鳳凰編。
未来編と鳳凰編は、はじめて読んだときもとても面白かった印象があり、40を過ぎて読んだ今も同じだった。

子どものときと較べて、知識や経験が増えているので、火の鳥のストーリーやテーマ、ドラマを通じて作者が何を描いているか というのは、大人のときのほうがよく分かる。
太陽編など、子どものときは何を描こうとしている話なのかよく分からなかったが、宗教や歴史の知識を頭に入れて読むと、何のことかよく分かった。

有名な話であるが、火の鳥は、過去と未来を行き来しつつ現在に向かって描かれた未完の物語である。

手塚先生は1989年冒頭に亡くなってしまったが、死の直前に描かれた太陽編は、結果的に、火の鳥の完結をしめくくるべき作品となったのではないか と思う。
過去と未来を行き来しつつ物語が進んで、自由になった男女が愛と希望に駈け出すさまが、まさに、現実を生きる人間そのものだからである。

近代日本を舞台にした話、鉄腕アトムなど手塚キャラが大挙出演する「火の鳥」が、太陽編の後に描かれた可能性もあったらしいのだが、
鉄腕アトムブラックジャックはそもそもすでに成立した作品だし、火の鳥以外の手塚マンガは近現代を舞台にしたものが多い。
生と死、人間の生きざまを探るという手塚マンガの骨子は多くの作品に共通しており、
手塚マンガ≒火の鳥≒その他手塚マンガと言ってもよく?、とにかく、沢山のマンガを描き続けてきたんだな という感想しか出てこない。

 

火の鳥の連載を時系列に見ていくと、1967年~70年 黎明編~未来編~ヤマト編~宇宙編~鳳凰編を描いている。
よくこれだけのものを雑誌連載でつづけさまに描いたものだと思うが、その後 復活編以降の諸作品はちょっとパワーダウンを感じる。

まったくの個人的独断、偏見だが、
火の鳥 鳳凰編を描き上げ、がちゃぼい一代記を発表した1970年くらいまでが、手塚治虫の創造力・筆力のひとつのピークで、
その後 年令、経済的状況、社会の動向とのリンクなど、さまざまな要因があったと思うが、
1970年代前半に描かれた火の鳥復活編、アラバスタ―など(自分が最近に読んだ諸作品を見る限りでも)、どうも気力が落ちているというか、迷い道に入り込んだ感じがあって、読んでて暗い気持ちになったり、ストーリーに継ぎはぎ感が出てくる。
「マンガの描き方」という本のあとがきで、手塚治虫は、20代のころは無我夢中になってマンガを描き、30代にはプロ意識をもって描き、40代にはマンガ世代の心理を模索しながら描いた と述べている。
手塚治虫は1928年生まれで、40代にさしかかった1970年代は、少年マンガ家から出てきた自分がこの先 何を、誰に向かって描いていくか、距離感をはかりつつ模索していたのだろう と思う。

 

手塚治虫はストーリーを組み立てるのがとても上手い作家なので、それだけに「神の手」、作者の思惑や意図が見えやすくなることが多い。
復活編~太陽編の諸作品は、主人公やストーリーに没入して読むというよりも、私の場合、作者(手塚治虫)の語りをどう聞くか みたいな面白みが増えてきた感じがあった。
その中では、太陽編 火の鳥と犬上の語り、宗教がなぜ人の世から無くならないのか という問答が面白かった。

 


「ぼくはマンガ家」というエッセイの巻末に、シラーの詩が引用されている。

「時」の歩みは三重である。
未来はためらいつつ近づき、
現在は矢のようにはやく飛び去り、
過去は永久に静かに立っている。


「マンガの描き方」のあとがきで、マンガの本質をズバリ一言でいうとなんでしょう?との質問への答が、「風刺ですよ」。


上の2つは、読んでてカッコいいなあと思う言葉で、
マンガの描き方では、手塚治虫は自分のマンガを教科書的とも述べており、(このあとがき自体が、手塚自身による一人二役のQ&Aと思われるが、)シニカルなユーモアが面白いなあ と思う。

 

 

ーーそして、火の鳥手塚治虫から翻ってジョジョを眺めてみると、
いちばんに思いつくのは、ジョジョ6部の、いわゆる壮大な世界観、セカイ系(?というか、時代や設定を大きく股にかける感じ)が、火の鳥未来編とよく似ている。

人間の生き死に、時代を通じた人間たちのありさまを描くのは、人間賛歌をテーマにかかげるジョジョ火の鳥にも共通するが、
いわゆる大河ドラマ、歴史や時代、大きな枠組みの物語を描くと、おのずとそうしたテーマ、モチーフが組み込まれるものなのではないか と思う。

 

手塚治虫荒木飛呂彦で資質が異なるな と思うのは、
手塚治虫は、(自身が「マンガの描き方」で述べるところの)ラクガキ精神の発揮、ユーモアやギャグ、ラクガキの奔放さをマンガづくりに組み込んできたのに対し、
荒木飛呂彦はいわゆる劇画派で、リアリティと重厚さを基底にした作品作りで、ユーモアやギャグのおちゃらけ、コマ割りや作劇の舞台をひっくり返すような逸脱は好まないところ。

2人の作家に共通しているのは、やはり、映画が大好きで、映画をモチーフにマンガをつくり、
手塚治虫はクラシックが好きで、荒木飛呂彦はロックが好きで、マンガ以外の様々なところから使えるモチーフをマンガに持ち込んでいるところにあると思う。


ジョジョ火の鳥も、時間が過去から未来に向かって進んでいく話で、ページをめくるにつれ、物語は前から後ろに進む。
未来編のラストで、火の鳥(≒手塚治虫自身)が諭しているように、人類の未来は、無益な繰り返しではなく、らせん階段を上がるように、グルグル同じところを回りながらちょびっとずつ、少しずつの進歩を積み重ね、期待されているものでもある。

ジョジョ火の鳥も、主人公が死んだり、悲劇的な結末に終わることが多いマンガだが、読後感が悪い、後味が悪くなるものは少ない。
残酷な結末となっていても、不思議とさわやかな気持ちになるのは、人生の底を見据えたことに残るほの明るさがたしかにあり、どこかにしっかり希望というものが描かれているからだろう。

 

荒木先生は自著「漫画術」で、夢オチは最低なオチのつけかただ という旨を述べていたが、それも当然で、
マンガはそもそもが夢、作者の妄想、(手塚治虫が1971年、望郷編開始直前に描いたエッセイ「休憩」(火の鳥別巻収録)で述べた通り)こどもだましのくだらない妄想から始まっているのだから、
だからこそ、夢が夢のまま、くだらないものがくだらないままで終わってしまうのではなく、もう少し何ものかまともなもの、何がしか意味があり作者や読者、時代に爪痕を残るものにしてやりたい。
そういう親心を持って作品を描くのがマンガ家というもので、手塚治虫荒木飛呂彦も、ベースは真面目な人なんじゃないか と思う。