ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョリオン105話 見えないしゃぼん玉 の感想

2月19日発売 ウルトラジャンプ最新号、ジョジョリオンの最新話を読んだ。

終わりなき厄災というタイトルが終わって、あたらしいタイトルの話に移った。いよいよ院長ー透龍との戦いが最終局面に入ったことをうかがわせるタイトルだった。
透龍くんにしゃぼん玉がヒットするかというところで話が終わって、次回掲載は2か月後、あと2話くらいでジョジョリオンは完結しそうである。

あたらしいしゃぼん玉、見えないしゃぼん玉の秘密は、
定助がジョセフミと吉良が融合して産まれた「新しい人間」であるというところにある。
吉良の爆発能力とジョセフミの奪うしゃぼん玉が融合して、無限ゼロの極小に細い線が回転しているため、この世に存在していない。爆発的な回転がそこにあるだけだ --ということらしい。

分かったような分からない気になるが、宇宙の始まり ビッグバンと爆発的な回転が掛かっている?、無限ゼロの極小を追求していくと、存在と非存在、物質と運動の境目 極限に到る?
物理学素人の自分にとって、にわか知識っぽいかんじでは、何となくすごそうな能力が発現したんだ というスゴそうな感じは伝わった。


ーーここまでのストーリーの流れにおいて、ひとり 孤独に生きてきた透龍くんというキャラクターに対して、定助 豆ずくさん 康穂 3人の連帯、キズナの力で相手を倒す。

最後 定助の見えないしゃぼん玉がペイズリーパークのほうに流れて、康穂のスタンド(お腹?)を通して、ペイズリーパークから産まれて、ケータイの先にある透龍に向かう。

常秀のトチ狂いぶり、最後につぶやく「オレが君を守る」の力無さが切なかったが、ジョジョリオンはエロスをテーマに、若者の性や愛、人間関係の機微みたいなものを描きたかったのだろう。


敵キャラクターに目を移すと、89才院長の老獪な煽り、動かないのに強いところ。口の悪い老人と無機質でやたら強い昆虫、透龍くんの透明感と静かさの対比も面白かった。

ここ数話 定助のしゃぼん玉シュートは、あきらかにジョニィジャイロと重ね合わせるように描かれていて、ギャルギャルギャルギャルの擬音が懐かしい。
7部 ジャイロとジョニィのふたりの要素も、定助のなかで、2人を1つに重ねて描かれているのかもしれない。


東日本大震災の余震が続く2021年の日本であるが、(偶然ながら)そんなときに、ジョジョリオンの最終盤は描かれつつある。
今回の冒頭でふたたび描かれたように、本作の主人公 定助は、新ロカカカと壁の目 融合の力で産まれた奇跡であり、ある意味で、地震によって(岩人間たちの追撃から逃れ、生き延び)産まれた存在である。

フィクションのように物事はうまくいかず、奇跡も起こらないのが現実であるが、
東日本大震災が起きて、その後の時代に、あたらしい命、奇跡が産まれることがありうる と言いたいのが、定助という存在なのだろう。

定助というキャラクターが生きて産まれたこと自体が、ジョジョであることの奇跡 ジョジョリオンという福音なのですよ という締めくくりを、(勝手ながら)今回の話から受け取った。


もちろん、ジョジョリオンの連載はいまだ終わっておらず、あと2~3話くらい、戦いの決着、東方家のその後を含めたエピローグが描かれると思う。

バトルの最後 スマートフォンを使った連携プレーで相手を倒すというのが何ともミニマムだが、
透龍くんがワイヤレス充電の発明を思いついて世間に笑われたように、
本作はあえてミニマムな、しょぼい世界観で、若者たちの身近な日常を描きたかったのだ と思われる。

連載期間が10年に渡り、コミック巻数もだいぶ多くなった(昔よりコミックが薄くなったので、巻数が増えやすくなった)ので大長編のようになったが、ミニマム、コンパクトにまとめたかった話なのではないか と思う。

ここ1~2話 定助が院長を撃つか撃たないか 一発を撃つまでのギリギリの攻防がめちゃくちゃに引き延ばされて、
このあたりは、7部終盤 ジャイロとジョニィがいかに敵を撃つか、一発の鉄球をいかに当てるか、無限回転の爪をいかに当てるか と重ね合わせる場面描写だった。

今月号の話 ページをめくっていくのが惜しくて、ページをめくりとばしたり、ウルトラジャンプを雑にめくって話の途中から読んだりしないように気をつけながらページを手繰った。

 

さいご 繰り言のように細かいことを言うと、今回の冒頭 ジョセフミと吉良が壁の目に飲みこまれていく4ページで、ふたりのカオを描くのにコピーを使いまくっていたのが意外だった。

荒木先生は描く手間を惜しんでラクをする方ではなく、ほかのページでは、キャラクターたちの全身、いろんな小物、効果線もアラキタッチでこと細かに描いている。

ジョセフミと吉良 ふたりのカオをやたらコピーから使っていたのは、過去編のあのニュアンス、思い高まったふたりのテンションは、作者自身にも、あのひとときにしか描けなかった と諦観し、コピーを採用したのではないだろうか。

(もしかすると、ゆうれい小僧がやってきた!の頃のゆでたまごのように、作画が面倒臭くなって、コピー機操作を覚えた中学生よろしくコピーしまくっていただけかもしれません。真相は闇、あくまで単なる憶測、深読みです)


ジョジョリオンを振り返ると、1巻~10巻くらいまでの前半 話の構想が練れていなくて、伏線と展開が二転三転したのが勿体なかった。

8部が完結した後 荒木先生は9部、新作を描く気がたぶん間違いなくあると思う。

どんな執筆形態になるのか分かりませんが、新作を楽しみにしたい と思っています。