ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

文学的に面白かったマンガ アシュラ、捨てがたき人々、罪と罰

むかしのジャンプマンガ、少年マンガを紹介するYouTubeがあって、ときどき観ている。
そこから興味を持って読んだマンガがいくつかあって、デビルマン魁!男塾、ルリドラゴン、そしてジョージ秋山の諸作品を最近に読んだ。

ジョージ秋山先生のマンガでいちばんさいしょに見たのは、海人ゴンズイ。異様な絵柄と、得体の知れない気持ち悪さがあって、印象に残っていた。
情報によると、アラレちゃんの連載が終わってゴンズイが始まり、ゴンズイが終わった次週から、ドラ本ボールの連載が始まったらしい。
そういわれると、なんとなく、ゴンズイの連載が終わって、また鳥山先生のマンガが始まるのか、と小学校低学年の当時 思った記憶があるような…。
ジャンプの巻末予告に、龍が中国風の傘を指して珠に載っている、ドラゴンボールの予告が載っていたのは、覚えている。
荒木先生のバオー来訪者が始まるときも、巻末予告におどろおどろしいイラストが載っていて、鬼才と紹介されていたような、そんな印象がある。

ゴンズイ、バオー、ゴージャスアイリン。 こどものときに読んで、ストーリーや設定の詳細は覚えていないが、絵、場面場面のインパクトを覚えていたり、キャラクターの哀愁、骨格を覚えていたりする。


ジョージ秋山先生のマンガを、kindleの電子本にて、アシュラ、銭ゲバ、告白、捨てがたき人々、浮浪雲の順番で読んでいった。

はじめ 描写のドギつさ、ネガティブなテーマや雰囲気にひかれて読んだが、描写のうまさ、語り口のうまさに魅きこまれて、どんどん読んでいった。

たとえば、銭ゲバ水俣病の患者さんの顔を、見開きでいきなり載せたりするところがあって、アシュラの冒頭もそうだが、いわゆる露悪的な描写、インパクトの強い描写は、読者を選ぶ。
小学生2~3年生の頃にアシュラや銭ゲバを読んでいたら、たぶん、受け入れなかったと思う。
いまは大人になっているので、こういう残酷描写、セックスとバイオレンス、社会のあれこれの描写について、意味、リアリティを理解しながら読むことができる。

アシュラ、銭ゲバ、告白、捨てがたき人々を読んだなかで、いちばん面白かったのはアシュラ。
完結編までを含めて読んで、物語の後味がいちばん良かった、ハッピーエンドに終わったのが、アシュラである。
浮浪雲 1巻は、アシュラ本編から完結編にいたるまでのミッシングリンク、作者の心境の変遷をたどる補足資料として読んだ。)

はぐれ雲1巻1話 安直なハッピーエンドというわけではなく、ポジとネガが合い混ぜになって、そのなかを、達観した主人公が生きている という体裁になっている。
若いカップルの男女が出てきて、ふたりのなれそめにウソがあり、真実が合い混ざっている。男をねらうヤクザが、アシュラの父親と同じ風体をしていて、主人公の雲に、これは悪として、切り殺される。
(アシュラにつなげて、こじつけ、深読みをするのは間違っているかもしれないが、)はぐれ雲の主人公 雲は、作者の分身、理想的な人格像であり、雲が太夫を成敗したところで、アシュラ本編の落とし前をつけた節もあったのかもしれない と思う。

はぐれ雲はたしかに面白く、主人公の人物像が練り込まれていて、主人公がしだいしだいに動きだし、生き生きした人物になっていくのが、1巻を読んでいてよく分かる。
全部を読むと100巻超で、あぶさんと同じくらいある。エッセイ的な趣があり、終りがないマンガで、全巻を読むのはウルトラマンシリーズ全視聴と同じくらい大変だ… という心境である。


アシュラは完結編を含めて、一個のお話としてまとまった感じで、アシュラと七郎が坊主になって旅立っていくラスト、最後の2ページの描写が良い。
(電子本におまけとして付いていた)アシュラ外伝 2ページの小品で、いつに描かれたものか分からないが、作者がアシュラちゃん呼びしているところからも、愛着がうかがえる。

アシュラは、貧困や飢饉、生き抜くことの厳しさを描いているだけでなく、父と母、親と子の根源的な人間関係を描いている。
愛情を与えられなかったこどもがいかにして人となるか という物語を描いており、令和の現代 きわめて現代的な話でもある。

後年の作品 捨てがたき人々 でスゴイと思ったのは、京子と町工場のオッサンに助けられた主人公が、涙を流して感動しながら、その後、めだって更生するわけではなく、人が変わったようにまじめに働くわけでもない。
奥さんとにこやかに食卓を囲むこともありつつ、ふつうに、それまでと同じようにクズなふるまいをして、そのまま罰せられることもなく、父と同じ過ちを犯し、なお、そのままで生きていく…。
主人公をクズと言ってしまうことは簡単だが、やはり、身につまされるところがある。

アシュラ、捨てがたき人々 いずれも尻切れトンボのように物語が終わり、宗教家になっていくのか?、夫婦で一生を添い遂げていくのか? と思わせつつ、肩透かしのように終わって、理想的なハッピーエンドには至らない。
しかし、キャラクターの造形にリアリティがあり、作者の分身であるような、血肉が籠っているので、マンガのストーリーは終わっても、キャラクターはまだそこにいる。 そんなマンガになっているのだろう。


わたし個人として、ジョージ秋山のマンガは、やっぱり、いわゆるこども向きではなく、PTAの人たちが薦めるマンガには思われない。
ゴンズイもアシュラも、やっぱり気持ち悪さがあるのだが、しかし、アシュラは何とも言えないかわいさ、けなげさ、ノラネコのような可愛らしさがある。

いま 中庭にノラネコがやってきていて、カメのエサの食べ残しを食べあさる。水槽の中に腕をつっこみ、にぼしをかき集め、食べ尽くす。
何をやっているのか となるのだが、冷静に考えれば、ノラネコに邪気は無い。ただ、目の前にある食べ物を食べ、生きようとしているだけである。
ノラネコと飼いネコの違いは何か、ネコとその他の生き物の違いは何か。人間が生きているのは、どのていどの意味でネコと、カメと違うのか… そんなことを考えざるを得ない。

アシュラ、捨てがたき人々、その他のジョージ作品には、そんなことを考えさせる深みがある。
作中で描かれる説法を鵜呑みにはしないが、文学、哲学、宗教のエッセンスが入っていて、とても面白いマンガだった。


ちなみに、わたしのkindle 電子本の本棚には、ジョージ秋山マンガの他に、女子プロ野球マンガ カリンのマウンド、漫画太郎先生 罪と罰 が入っている。
カリンのマウンドは、巨漢の女子高生チームと戦う話あたりで、続きを読むのがしんどくなり、続巻を買っていない。
画太郎 罪と罰も、ドストエフスキー原作のエッセンスのみを抽出したようなマンガで、メチャクチャな節もあるが、面白い。主人公の女性が女力士に説教するシーンがクライマックスなのだが、素直に感動した。

アシュラ、罪と罰の2冊は、落ち込んだとき、人生の深淵を見つめ直したいときに読むと良い一冊だと思う。 暗さの中に元気をもらえる、そんな作品である。

ジョジョの奇妙な冒険はどんなマンガなのか どんな敵が強いのか、何と戦っているのか を概観する

ジョジョの奇妙な冒険は、バトルの積み重ねを通じて主人公たちの成長を描く少年マンガである。

かならずしも広い世界を旅して回る冒険ストーリーとはなっていないが、主人公たちが困難に出会い、難局に打ち克っていく姿を通して成長していくストーリーは、1部から9部まで一貫している。
危険を冒し、強くなっていく という意味で、冒険ストーリーを40年近く描き続けている。

各部で描かれたバトルがどんなものだったか、いわゆるラスボス、最後の強敵はどんな敵だったのか 1~9部を通して概観した。

 


1部 
強い生き物。人間ではない。 弱肉強食の強者。美形の魔少年、頭が切れ、カリスマ性とハングリーさ(ゲスさ)を持つ
吸血鬼にはルールがある

2部 
究極生物。1部より、さらに強い生き物


1部2部で肉体の究極を極めた後、3部からは、知力、精神力、人間性(凄み、哲学)を競うスタンドバトル。 

北斗の拳的な絵柄を脱し、少年ジャンプのインフレバトルと違う基軸を得て、荒木飛呂彦の作品世界を開花させていく。


3部 
100年前の先祖からの因縁。 時を止める能力は、世界を支配する能力。

心を読む能力、空間を操る能力、時間を操る能力。 DIOの館以降の戦いで、特殊能力の究極3選 を扱っている。

3部の時点で、ある意味、スタンド能力は究極に行きついている。物語のテーマも終わっている。
4部は、3部でこぼれおちたモチーフ、描き切れなかったアイデアを描く番外編として構想された。

 


4部 
町に潜む影。人の心の弱さが表れたもの。 
犯罪の証拠を隠すために爆破する、時を戻す。 内面の弱さの正当化が、悪事の正当化に転じる


5部 
運命を操作するギャングのボス。主人公たちに立ちふさがるカベ。時間能力の概念としては、こじつけっぽく複雑。 
チャリオッツレクイエムは、天変地異。物語の終盤、スタンド能力のさらにその先、もっとスゴイ何かを見せたかった

6部 
キリスト教とディオ(悪魔)。2つの教えを背負うことで、神父が世界を書き換えることに説得力を持たせようとしている。 
ホワイトスネイク 魂(DISC)を操る白ヘビ。神のような能力を持つ神父が、物語を通じて、3段階でパワーアップしていく。 
時を進める能力で、1部から続く物語を崩壊、再生、総決算した


5部の後半、6部全編を通じて、物語が観念的になり、スタンド能力がややこしくなる。 
特殊なシチュエーションに主人公たちが放り込まれ、運命論を語りつつ、難局から脱出するエピソードの連続になってくる。
炎vs剣、水vs拳 3部の頃のシンプルさから、ずいぶん遠いところに来た。

7部からは新世界となり、ディオとジョナサンの因縁は無くなって、旧世界のモチーフを踏襲しつつ、いま、作者の描きたい物語を描いている。

人間賛歌、スタンドバトルという2つの骨子 アラキマンガの大黒柱はそのままであり、ジョジョのタイトルを引き続き名乗っている。

 


7部
大統領は、祖国を守るため自ら戦う。 聖人の遺体を得ることで、世界を支配し、因果を操る能力に説得力を持たせている。
SBRレースを通じて遺体のパーツを集め続け、エピソードの積み重ねと共に遺体が集まっている。展開と伏線の積み重ねが、ラブトレインのトンでもない強さに説得力を与えている

D4C はじめ 空間を操る能力の発展形、次元を操作する能力として登場したが、壮大すぎて扱いきれず、次元を行き来する能力に変更された


8部
東日本大震災、新型コロナウィルス。紛争、戦争。身の回りの人たちが亡くなる不幸。 因果がもたらす不条理を、厄災として、取り扱う。
透龍くんは、厄災の流れを都合よく扱っているが、厄災そのものを生み出している訳ではない。大きな流れの渦に寄り添う泡沫の存在、フリーライダー


9部
社会の不条理。 主人公は大富豪になり、反社会性パーソナリティー障害とされる自分自身に基づきつつ、生きる道を切り開いていきたい。 
主人公たちに立ちふさがるカベが、社会の不条理。

キャラクターの彫塑、強さの理由(行動原理) 箇条書きの一覧

荒木飛呂彦の漫画術、定期刊行のジョジョマガジンにて、履歴書にもとづくキャラクターづくり、具体的な手法が紹介されている。
ジョジョマガジン3号では、きのこを愛する少年のつくりかたが紹介、
(同雑誌には)履歴書と、キャラクターのつくりかたが文章で記されていたが、これにデザイン画がつけば、そのまま マンガのリアリティだった。

履歴書づくり は キャラづくり で、マンガの根本。キャラクターが居れば、物語はおのずと動き出す と、荒木先生は述べている。

バオー、ビーティージョジョシリーズの主人公たちについて、
キャラクターの彫塑、強さの理由(行動原理) 思いつくところを、箇条書きで記してみた。

 


ビーティー 
特徴 知性、プライド
強さの理由 「ぼくは精神的貴族に属する。そこらのブタとは違うんだっ!」


バオー
特徴 オーバーテクノロジーによる肉体改造
強さの理由 スミレへの思いやり、やさしさ

 


ジョナサン
特徴 家族の誇り
強さの理由 父との絆


ジョセフ
特徴 家族の誇り
強さの理由 ひとずき、知性


承太郎
特徴 家族の誇り
強さの理由 最強である自信。 「俺が、この物語を終わらせる」


仗助
特徴 ふつうの日常に生きる高校生
強さの理由 やさしさ、知性


ジョルノ
特徴 夢を信じる心
強さの理由 凄み


徐倫
特徴 家族の誇り
強さの理由 父との絆 「あたしが、この物語を終わらせる」

 


ジャイロ
特徴 家業の誇りと、近代人の自我
強さの理由 「オレは納得したいだけだ」


ジョニィ
特徴 自立したい。自分の足で歩きたい
強さの理由 「ぼくはまだ、マイナスなんだっ!」


定助
特徴 自分が誰か分からない。アイデンティティー、行き場所が無い
強さの理由 「オレはいったい誰なんだ?」


ジョディオ
特徴 大富豪になりたい。メカニズムの王
強さの理由 自信と覚悟

 


ーーそして、これら12人の主人公たちを生み出してきた荒木先生の、(マンガ家としての)強さの理由は、「好奇心」「幅広い人間性」だと思う。

ウルトラジャンプの巻末コメントやジョジョランズ2巻のコメントで、
「自宅から職場への通勤路 道を歩いていると、近所の方に野菜や食べ物をもらったりします」
「ある日の路上にて、警察官に職務質問された」

作者は、60歳をすぎているのに、警察に職務質問されるとは… と嘆いていたが、
警察官にとっては、道ばたを歩く荒木先生を見て、なにか質問をして確かめたい、得体の知れない何かを感じたのだろう。

ふつうの市井の良い人、ただの凡人では納まらない何ものかがあり、日々の執筆と努力によって凄みがにじみ出しているのが、荒木先生なのだろう。

ジョジョシリーズ 主人公たちの人間関係、位置づけ一覧、ジョセフ・ジョースターの作劇的成功

ジョジョランズ 好評連載中、パコが岩人間(?)と戦い始めた最新話まで読んでいるが、絵が引き締まり、キャラクターの掛け合いに生気があって良い。
シンプルなストーリー展開、シンプルなキャラクターの設定に回帰したことで、作品全体が若返った感じがある。
また、もともとが「クズ」の主人公を設定することで、良い子ではない、魔少年ビーティー以来のアウトサイダーを描く原点回帰をしており、つまりは、アラキマンガの原点に返って描かれ始めたマンガが、ジョジョランズではないか と思う。

 


年末年始に思いつき、ジョジョシリーズの全体を概観した。

主人公チームの人間関係の変遷、キャラクターたちの位置づけの分類を、下記のとおり 一覧表に定めた。
そこから何が見えてくるか、というと、何も見えてこないかもしれないが…、見る人しだいかもしれない。

 

ひとつひとつの部を詳細に語り始めるとキリが無いが、ひとつだけ、ジョセフ・ジョースターの登場と存在は、シリーズ全体にとって、誠に大きなものだったと思う。

 

週刊少年ジャンプ連載当時 ジョジョの1部は、けっして人気作では無かった。ジャンプの後半、後ろのほうに載っていた。
個人的独断に基づき、ぶっちゃけると、
不人気の理由は、主人公のジョナサンがいい子ちゃんすぎる偉人伝のような人物で、小中学生読者の支持を集める人物では無かったこと。
北斗の拳カンフー映画の影響を受けたっぽい波紋法が今一つ地味で、北斗、男塾など競合マンガがひしめく中で、アンケート票を集めるインパクトは、そこまで無かったことだ。

ジョナサンが死んで1部が終わり、まだ続きがある と知ったとき、ほんとに2部まで続けられるのか??、途中で打ち切りになるんじゃないか? と、兄弟で話しあったものだった。

ジョセフが登場し、2部が始まる。
ジョセフは型破りな主人公で、明るく豪快、繊細さも持っている。
ジョナサンが型にはまった主人公だったからこそ、ジョースター家の家訓を背負った初代主人公だったからこそ、ジョセフの対照、型破りの明るさが際立った。

ジョセフはスタローン張りのマッチョだけでなく、トリックバトルを戦いこなす知能を持ち合わせ、ここで、北斗・男塾に負けない、バトルマンガの個性が加わった。
主人公が活きることで、まわりの役者たちも活き、立ち位置と役付けがやりやすくなっていったのではないか。

明るく豪快、少年ジャンプ的な主人公が現れることで、小中学生読者に受け、ジャンプの前のほうに載るようになり、巻頭カラーも増えだした。
荒木先生いわく ジョセフの2部で、ジョジョシリーズは「エンジンがかかった」。

2部の作劇的成功、マンガ的成功を基に、3部以降のさまざまな物語、主人公チームたちのバリエーションが描かれていったのではないか と、わたし自身は思っている。

 


主人公のキャラクターの変遷、主人公チームの配置の変遷は、一律ではない、何ともいいがたい、さまざまな広がりがある。

ジョナサン→ジョセフ→承太郎 が、いずれも性格の違う、立ち位置の違う役者たちであったように、
仗助以降の主人公も、それぞれ、前の部とは変えて、前とは違う物語を演じる役者たちである。

1部~9部までのラインアップで、どんな物語、どんなお芝居が作れるのか? 考えてみるのも楽しいかもしれない。

 

 

1部
[ 主人公 ] ジョナサン

[ 父親 ] ジョナサンの父

[ 恋人 ] エリナ

[ 仲間 ] スピードワゴン

[ 師匠 ] ツェペリ

 


2部
[ 主人公 ] ジョセフ

[ 親戚 ] エリナ、スピードワゴン

[ 相棒 ] シーザー

[ 師匠 ] リサリサ

[ 仲間 ] シュトロハイム

 


3部
[ 主人公 ] 承太郎

[ チームのリーダー、祖父 ] ジョセフ

[ チームの参謀 ] アヴドゥル

[ もの静かな親友 ] 花京院

[ 騒がしい親友 ] ポルナレフ

[ 犬 ] イギー

 


4部
[ 主人公 ] 仗助

[ 相棒 ] 億泰

[ 友人 ] 康一

[ 先輩 ] 承太郎

[ 仲の悪い隣人 ] 露伴

 


5部
[ 主人公 ] ジョルノ

[ チームのリーダー ] ブチャラティ

[ チームの先輩 ] アバッキオ

[ チームメイト ] ナランチャ

[ チームメイト ] ミスタ

[ チームメイト ] フーゴ

[ チームの後輩 ] トリッシュ

 


6部
[ 主人公 ] 徐倫

[ 父親 ] 承太郎

[ 仲間 ] エルメェス

[ 仲間 ] F.F

[ 仲間 ] ウェザーリポート

[ 仲間 ] アナスイ

[ 仲間 ] エンポリオ

 


7部
[ 主人公であり、お互いの相棒 ] ジャイロ

[ 主人公であり、お互いの相棒 ] ジョニィ

[ レースのライバルであり、仲間 ] サンドマン

[ レースのライバルであり、仲間 ] ホットパンツ

[ レースの主催者であり、仲間 ] スティール夫妻

 


8部
[ 主人公 ] 定助

[ 相棒、恋人 ] 康穂 

[ 正体不明の支援者 ] 憲助 

[ 正体不明の隣人 ] 東方家の人たち

[ 師匠 ] 豆銑さん

[ 支援者、家族 ] ホリーさん   

 


9部
[ 主人公 ] ジョディオ

[ チームの仲間、家族 ] ドラゴナ

[ チームの仲間 ] パコ

[ チームの仲間 ] ウサギ

魁!!男塾 硬派な男のカッコ良さとバカバカしさ、リアリティとファンタジーの境目、はざま

魁!!男塾 34巻セットを中古本で購入、三連休に読み終えた。

小学生のころ 週刊少年ジャンプで読んでいたときは、荒くれ者の不良が暴れ回る怖いマンガ、延々と続くバトルものの印象があり、一押しの漫画では無かった。
兄がボギーthe greatの単行本を持っていて、暴漢が女性をひんむく映画をボギーが見ている、というシーンがあり、宮下あきらにバイオレンスの匂いを強く感じ、避けていた節もあった。

子どものときは、秀麻呂が鉄板焼きの上で跳ね回るイジメを受けたり、暴力、イジメを連想させるシーンが苦手で、子どもながらに、身近にひそむイジメの恐怖におびえていた。
去年かおととしの冬 酒屋の店頭で江田島平八の焼酎を見かけて買ってみたり、男塾のYouTubeまとめ動画などを観ているうちに、男塾への興味が再燃。
34巻をとおして読み返したわけだが、大人になった今では、不良やヤクザにびびることなく、おおむね面白く読み終えた。
以下 男塾を通し読みした感想を語っていきたい。


  ***


子どものときは、男塾のあらくれぶり、不良ぶりがどうしても苦手。北斗の拳も同様の理由で苦手だった(はじめて読んだジャンプがキバ一族の話で、絵が気持ち悪かったのを覚えている)

いま読むと、宮下先生のバンカラごのみ、豪傑、男へのあこがれ。Wikipediaにも述べられている「硬派な男のかっこよさと、ばかばかしさ。その両面を描いていきたい」という作者の意図が、よく分かる。
なので、男塾のごっつさ、豪快さ、ばかばかしさを、受けとめ、楽しみながら、1巻より読み進めることができた。

読み通して思うのは、(大多数の男塾ファンの方には申し訳ないのですが)自分の好みはいささかナンパより、軟弱で、
バトルものの面白さかっこよさもさることながら、日常話、学園ものの男塾に、より面白さを感じる ということだった。

個人的に男塾で面白かったのは、1巻2巻、油風呂や秀麻呂、富樫がバーさんの厄介ごとに巻き込まれる日常話。4~5巻 関東豪学連との命を懸けた男の勝負。34巻 風雲羅漢塾とのエピローグだった。

秀麻呂と椿山の話は子どもながらに印象に残っていて、今回 読み直しても、そのときの印象は同じだった。
最初 イヤな奴だった秀麻呂が、桃太郎たち仲間のために300kgの旗を持ち上げる。
松尾と田沢、鬼ヒゲのやりとり、人情話。
椿山が小鳥を大事にしているエピソードに始まり、全編を通して、宮下先生は動物好きだなあ という印象があり、雷電がサルを大切にかわいがっているエピソードなども印象深い。

自分が宮下マンガをもっとも面白いと感じるのは、硬派な男のかっこよさと、ばかばかしさ。リアリティとファンタジーの境目、はざまにある。
その意味で、藤堂兵衛との戦いを通じてバトルの極限、この世の勝負、スポーツ、ありとあらゆる戦いの全てを描き尽くした、出し尽くしたのではないかと思われた男塾が、
最後、地元の商店街に帰って、暴力団事務所への殴り込みで貫目と団結心を競う、リアリティ寄りの展開に戻ってきたのは嬉しく、何ともいえない読後感の良さがあるエピローグだった。

男塾1巻の1ページめを開くと、「死ねい貴様ら!死んで祖国の御盾となるのじゃーーっ!」の鬼ヒゲの絶叫から物語が始まる。
文部省の役人が撮影した男塾の授業風景で、1980年代の現代でこんなばかばかしい、時代がかったスパルタしごきをしている奴らがいるんですよ… というところから物語が始まる。

宮下あきらは、いわゆる軍国主義者ではない。戦争や暴力、力による支配を肯定しているわけではないが、ないがしかし、男の生きざま死にざま、硬派の生きかたというものは厳として求めており、
1980年代中盤 好景気の平和な日本において、いかに男のいきざまを求めうるのか? 作者の問いかけと共に、男塾の物語は始まる。

江田島平八が文部省の鼻の穴に指をつっこみつつ、「男塾の学生は落ちこぼれなんかじゃねえ。こいつらこそ、政治文化経済、これからの日本の中枢をしょって立つ若者たちよ」と宣言する。
その伏線は風雲羅漢塾とのエピローグで回収され、熊田と江田島が自らの教え子たちを讃えあい、地元の飲み屋にふたり肩を組んで消えていく というところで、男塾の物語は終わる。


リアリティとファンタジーの境目、はざまとは、ユーモアをどこに入れるか、という問題でもある。
宮下あきらに限らず、すぐれたマンガ家はすべからく、ギャグ、ユーモアの名手である。
原哲夫ゆでたまご荒木飛呂彦鳥山明手塚治虫… 枚挙にいとまがない。

マンガを描く、創作するという行為は、(素人である自分がおこがましく、噴飯ものの憶測ですが)
つくりての中で自己対話を重ね、時間軸の流れの中で他者との対話を重ね、主観客観、さまざまな視点や意見、考えの中で練りこまれるものではないか と思われる。

そして、自己内対話、自己と他人の対話を繰り返す中で、客観性の発揮として、ギャグ、ユーモアが練りこまれる… 創作とはそんなものではないか と、個人的には捉えています。

 

男塾 1話、大日本帝国陸軍を模した突撃訓練をツカミに、江田島塾長と文科省の対決、直進行軍のとんでもないドタバタで物語が始まる。
男塾の猛者たちはどう見てもふつうの高校生ではなく、これはふつうの人たちではないですよ…という体裁をとりながら、ときに、小中学生の琴線に触れる人情話をやり、ドタバタをやり、カッコいいバトルものをやり… と、エピソードを積み重ねていく。

バトルものとしての男塾、その後のストーリー展開の基盤は、伊達たちとの戦い、コミック5巻までで出来上がっている と、私は見ている。
「お、おまえらはーーっ!」ではじまるキャラクターたちの復活から始まり、次の敵へ、次の敵へ、もっとすごい戦い、もっと面白い戦いを見せる。このキャラクターはもっとこんな魅力が描けるのではないか という試行錯誤を積み重ね、激しいバトルが描かれ続けていく。

バトルものの描写が限界に達し、読者からの人気の維持が一定ラインを下回り、連載の打ち切り、終了が決まる。
そこから10週、連載を終え物語を締めくくるにあたり、宮下先生は超人的な戦いを終え(キャラクターの超人拳法を封印し)、男塾に戻る。
風雲羅漢塾との対抗戦を通じて、男塾とは何ぞやを総括し、そして卒業式を迎え、主人公たちと読者を、リアリティーーマンガの外へと送り出す。

 


ギャグマンガでもなく、バトルマンガでもない。複雑微妙、多種多様な側面を持つ男塾というマンガを、ひとことで語りつくすことは難しい。
長文を書きつらねてきたが、なかなかうまくまとまりません。

独眼鉄が「男とはなんぞや、人生とはなんぞや」と問いかけた、問答の答えは、作品の中に散りばめられています。

キャラクターたちの設定や言動に矛盾、食い違いがあったりしますが、そんな細かいことはどうでもいい。
宮下あきらが男を描きたいと思って描きはじめて、男の根幹はブラさず、ひとつの幹を、男のいきざまを描ききった。
それが男塾というマンガであり、そのときどきで宮下あきらが最大の読者サービス、面白いと思う戦いをふるまい続けた、その結果が、全34巻に展開された、バトル、エピソードの数々なのだと思います。


男塾を読んで、1つだけ引っかかるところがあります。
美形キャラ、ベルサイユのばらっぽい男装の麗人キャラが出てきたときに、富樫と虎丸が「オカマに負けてどうするんじゃ~~っ!」と煽る。しかし、やわな見た目と裏腹に男気が強く… というパターンがあります。
30年くらい前の連載なので仕方ないですが、2020年の現代ではちょっと、問題になりかねない。
男と女のジェンダーについて、ちょっと古臭い、現代的ではないところもあります。

家族に男塾を薦めていたのですが、妻、子ともに男塾を読みたがる節はありません。
「男を磨け!!」
「女の中にも男はある。男を磨け!!」

悦に入って、江田島塾長ばりに声を張り上げるものの、何をバカなことを言っているのか…と笑われるのが、わたしの家族まわりのリアリティであるようです。

映画 SANDLANDの感想と思い出

ジョジョランズ 1巻が発売され、シャムネコ軍団と決着がつく最新話までをウルトラジャンプで読んだが、ジョジョランズにはあまり語りたいことが無い。
ネコの描写がうまくなっていて、陰でデッサンを積んだのだろうか と思わされたのと、ウルトラジャンプ最新号の表紙 4人組のカラーリングが良く、描いてて楽しそうだなあ という感じがある。
今月の話で4人組がひとまずまとまって、メリルメイチーも単なる悪人ではなさそうで、序盤は終了。次回の話からいよいよ、ジョディオが大富豪になる話、火山の溶岩をめぐるミステリーが本格的に始まっていきそうである。

 

夏休みの後半 鳥山明原作の映画 SAND LANDが公開され、息子と共に観に行った。
高校生になる息子と映画を観にいくのは、これから先 もうあまり何度も無いと思うので、貴重な体験だった。

夏空に湧く入道雲がすごい日で、写真を撮る。映画館から見る街並みの景色も写真に収めた。

SAND LANDの映画を観る前に思い出していたのだが、鳥山明原作の絵本 てんしのトッチオという本があり、
子どもが生まれて絵本を見るようになった頃、アンパンマンずかん、かいじゅうたちのいるところ等と共に、てんしのトッチオも、絵本の棚に忍び込ませていた。
だがしかし、てんしのトッチオは幼児にとってパンチが弱く、印象に残らない凡作だったようで、あまりこの本を読み返すことは無かった。
アンパンマンスーパー戦隊のほうがおそらく、子どもの記憶に残っているはずである。

SAND LANDの漫画本も我が家にあるのだが、子どもいわく 漫画本を読んだことは無く、きょう はじめて、SANDLANDを映画で観て、ストーリーに触れたらしい。
ドラゴンボールは(大人が言わずとも、勧めずとも、こども本人にて)ストーリーを知り、キャラクターに親しみ、マンガやアニメ、カードダスの細かな設定、ドラゴンボールGTのキャラクターとストーリーまで事細かに把握していた。
ドラゴンボールという作品の持つパワーは、やはりすごいものらしい。

こどもいわく SANDLANDの映画は、ふつうに面白かったらしい。
4DXの演出付きで観たので、座席が揺れたり、水が噴き出したりする演出を、あわせて楽しむことができた。

映画は、原作漫画を忠実に再現していた。
アクションシーンやセリフのやりとり 細かなところが原作漫画から違っていた気もするが、違和感を感じることはなく、ああ、こんな話だったなあ…と思い返しつつ、すなおに映画を楽しんだ。

ひとつだけ、映画と原作漫画で違いを感じたセリフ、場面の有無があった。
映画になかったシーンで、原作漫画にあった、印象的なやりとりがある。

たしか、アレ将軍だったか誰かが、国を救う活躍を見せたシバ将軍(ラオ)に、国の中枢に戻ること、世の中にふたたび戻ってきてください と語りかける。
ラオはこれを断り、笑みを浮かべながら「わたしはジジイだ。ゆっくり休みたいんだ」と答える。

このやりとりが、映画には無かった。なぜか?
(真相は知らないので、わたしの推測だが)脚本家や映画監督の独断ではなく、原作者 鳥山先生の意向によって、映画のエンディング、テイストをちょっと変えたい という意向が働いたのではなかろうか。

コミックカバー 作者コメントより、
原作漫画は、もともと ジジイと戦車の話を描きたいというところから始まって、あとから(週刊少年ジャンプに掲載する都合、物語的なバランスをとることも考えて)悪魔の王子、魔物たちの設定を追加して、物語を膨らませていった と記憶している。

執筆当時 老境に入りつつあった鳥山先生のつぶやき、心境、連載漫画の戦いを終えた老人の気持ちを投影したキャラクターが、ラオだった。

今回の映画で、そこをあまり強調せずに、悪魔の王子と老人の旅の話、戦車で夏の砂漠を駆け回る冒険譚に仕立て直したのは、
やはり、夏休みに家族連れで映画を観にくるお客さまへの配慮、Vジャンプ最強ジャンプを見て映画館にやってくる子どもたちへの配慮で、あまり、老人の心境をにじみ出させる映画にしたくなかった。
そんな鳥山先生のプロフェッショナリズム、子どもたちへのやさしさが現れたものだと睨んでいるが、どうだろうか。

ドラゴンボールが終わったあとの鳥山マンガでいちばん好きなのが、COWA!である。
SANDLANDがヒットしたら、映画化第2弾でCOWA!がスクリーンに上映する可能性もあるのだろうか、無いだろうか。
映画化されることがあれば、ぜひ、楽しみに観に行きたい。

宮崎駿監督の遺作 「君たちはどう生きるか」

かつてスティールボールラン 夜の雨の死闘で、ブラックモアはこんなことを言った。
「人には使命がある…肉体的な小さな命なぞを超越した、大いなる使命が!」

宮崎駿さんの使命は「きれいなもの」「ふしぎなもの」「動くもの」を描くこと。
以前 イバラード井上直久氏とのインタビューで、星が生まれて跳ね回る、そんなふしぎできれいなシーン、きれいな動きをアニメートしてみたい と、若い時から考え、取り組み続けている と話していたことがあった。

ーー宮崎駿監督の「遺作」といえる、「君たちはどう生きるか」は、そんな宮崎監督の使命、生涯の集大成、宮崎駿さんはどう生きてきたか を思い起こさせる、とても熱い映画だった。

 

ひとことでいえば、この映画は、少年版の「千と千尋の神隠し」、あるいは千と千尋の20年後の続編である。

ストーリー、展開は王道。

少年の心、成長。

生と死、火と水。

夢オチ。少年の見た夢

リアルとファンタジー

人はなぜ夢を見るのか。起きて見る「夢」


千尋、眞人。
病床から起き上がり、水差しの水をのみ、クッと、画面左を見据える。 眞人の力強い横顔は、神隠しから帰還した千尋とかさなる、「未来」を見据えたまなざしだった。

 


映画の描写は速く、過剰な説明をせず、夢と夢をつなぐようにどんどん進む。
こまかな描写に謎、違和感が生まれると、次のシーンか次の次のシーン、(映画を観てる時間で)2~3分以内に回収されるので、スジが分かりにくい、分からなくなる ということは無い。

しいていえば、主人公が大叔父と面会した後、いきなり、インコに捕まって捉えられているのが、漫画太郎的なギャグに感じ、はじめ戸惑った。
(大叔父から積み木を託された後、積み木の一つをつかって描いたのが、インコ軍団と戦う眞人の物語。少年漫画的なヒーローものになりそうでならない、ショボい結末になったのが、宮崎駿の意地悪さだろう)

宮崎駿は、マンガや映画をつくるとき、さいしょの一コマをまず描いて、次のコマを描いて、シークエンスを書きつらねていきながら、描きながら、終りを考えていくのだ という。
この映画は、まさにそんなつくりかたをしている。
いわゆる起承転結、ハリウッド的なエンタメ映画のつくりかたは踏襲していないので、テンプレートから外れているという意味で、たしかに分かりにくい。
3才~8才くらいの幼児が話す(大人からみれば)脈絡のないつくりばなし、眠っているときに見る、脈絡のないふしぎな夢。そんなものを思い起こしていただければ、ストーリーの流れかたに納得いただけるのではないか と思う。

 


宮崎駿のサービス精神によるものか、映画の節々でジブリっぽい動き、飛びかた、アクション、定番のキャラクター描写が出てくる。
この描写を新規で見るのはこれで最後か、と思うと、ちょっと感慨深いものがあった。

映画を観ていて、泣けたシーンが3つほどあった。
・眞人が、母から託された「君たちはどう生きるか」を読むシーン
・わらわらが浮き上がり、夜の空に浮き上がって、飛び立っていくシーン
・ジャムトーストを(想像の中の)母がつくり、眞人がほおばるシーン

 

大叔父さんと面会、積み木で世界は一日くらいは持つだろう… のシーンくらいからは、作者のメッセージが強く出てきて、映画を畳みにかかった。
このあとどうやって終わるのかな… どういうつじつまで夢から醒め、現実に帰るのか。どうやって継母と折り合いをつけ、生きる力を得て、現実に帰っていくのか…? だったが、
インコの王さまがしょぼい失敗をして世界が崩壊、すべてがくずれて現実に帰る、しょぼいラストだった。

幼児が語るほら話は唐突な、あっけない終わりかたをするもので、宮崎駿の語る夢も、あっけなく終わった。
この映画を観ている自分も、(たぶん、上映時間100分くらいをすぎた、上記シーンのあたりから)トイレに行きたくなり、映画への集中力が途切れてきていたので、
インコが失敗して、世界がくずれて夢から帰るとき、ああ、やっと終わったか… というかんじだった。


戦争が終わって、父と母、弟、家族みなで疎開先から東京に帰ることになる。
玄関先で家族から「眞人、いくぞー」と呼びかけられ、「はーい」と主人公が部屋を出る、あっさりとしたカットで、唐突に映画が終わる。

リアルとファンタジーの境目はそんなものだろうし、あれだけのファンタジーを描いた、生み出した子ども部屋はひっそりしずまりかえり、次の主を待つ。
夢を生み出すのはリアルであり、夢、ファンタジーこそが、人の生きる力である。

映画のエンディング、スタッフロールはとてもしずかで、全てのシーンが終わった以上、何の演出、何の飾りも無い。
歌がながれるのにあわせて、スタッフロールが延々と流れていくのみである。
スタジオジブリの往年のスタッフの名前が見え、(おそらく、宮崎駿の弟子であったり、後輩、仕事仲間であっただろう)協力会社、アニメスタジオの名前がズラッと出てくる。

スタッフロールの最後に出てくるのは、原作・脚本・監督 宮崎駿

騒がしくなく、しずかに映画がおわったのがとても良かった。


映画を観たあと、お医者さんへ、検診を受けにいった。
コンピュータのモニターに「年令:46歳」とあるのをみて、まだまだ若い!と思った。

君たちはどう生きるか を改めて問われる映画であったし、生きる力とは何か。宮崎監督からとんでもない傑作、とんでもない映画体験、感動をいただいた。
そんな土曜日の映画体験だった。