先週末にかけて、「ドラゴンボール 神と神」の映画をテレビで見て、「荒木飛呂彦の漫画術」を読んだ。
20年~30年前の両作品について、今 原作者自らが補完したり、自作品を解説することに、感慨深い趣がある。
本記事では主に、ドラゴンボール 神と神について触れる。
鳥山明先生は、同映画のインタビューで「テーマが無いのが、テーマ」と述べ、
自分の作品は娯楽に徹して、読者に説教したくないと発言していた。
しかしながら、鳥山先生は、(荒木飛呂彦の漫画術によれば)
漫画家として天才中の天才であり、絵だけでなく、ストーリーやテーマにも一流たる所以が隠されているはずである。
神と神のテーマを深読みしてみる。
神と神 作品の裏側には、「神様とは何か?」というテーマがあると思う。
スーパーサイヤ人ゴッドは、正しい心を持ったサイヤ人だけが到達できる。
髪の毛が赤くなって、少し痩せる。戦闘力が表面に出てくるようではいけない。
それら見た目だけの変化でなく、本質的に、
「神様は、他人のために戦う」というテーマがあると思う。
ブルマら家族を守るため、ビンゴダンスを踊ったべジータ。
不本意ながらも、5人のサイヤ人から力を受けて、ゴッドになり戦った悟空。
ベジータや悟空は、(もっと強くなりたい、ナンバーワンでありたいという)自分のためだけでなく、
他人のために戦うことで、神様の領域までたどり着く事ができた。
ドラゴンボールの世界観が、中国・東洋の武術家を原型にするためか、
悟空やベジータのたどり着いた境地は、ブッダの言動を思わせる。
(あるいは、鳥山先生の価値観、哲学の根底に、ブッダの教えが流れているためであろう)
対して、荒木先生の根本にはキリスト教がある。
漫画術によれば、イエスキリストは理想のヒーローの一人であり、
承太郎をはじめとする主人公たちは、自分が信じる真実のために、孤独に戦う。
両先生が描くヒーロー像に共通するのは、「他人のために戦う」その誇り高さにあるのだろう。