ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョとドラクエ 三部作の凄みを語る

ドラゴンクエスト2に続き、ドラゴンクエスト1、ドラゴンクエスト3をクリアするまで遊んだ。

ジョジョとゲーム」というカテゴリで、たびたびドラクエに触れてきたのですが、
ジョジョドラクエは、三部作で一つのサーガが完結するという共通点があるし、
1980年代の末 ほぼ同じ時期にシリーズがスタートして、今に到るまで連作を重ねてきている。

この記事では、ドラクエ ロト三部作の再プレイの感想を中心にしながら、
ジョジョドラクエ 三部作の持つ凄みについて語っていきたい。


***


ドラクエ ロト三部作、そしてMOTHER1~3も最近に遊んでみて、
RPGの面白さは、以下の順番に箇条書きできると思う。


・物語の主人公となり、世界に入り込む。「もうひとつの人生」を体験する
・ミッションをクリアする。行動範囲を広げていく楽しみ
・敵とのバトル。戦いに勝ち、キャラクターを強くしていく楽しみ
・アイテムの収集
(個人的に、サブゲーム、隠しダンジョンの類は不要)


荒木飛呂彦の漫画術」によれば、少年漫画の王道はプラス、プラス、プラスのストーリーづくりにあるという。

ドラクエはプラス、プラス、プラスのゲームづくりを徹底していて、初心者にも優しい、国民的RPGと言われる所以である。
パーティーが全滅しても経験値は減らないし、アイテムを奪われることも無い。
レベルを上げて、根気よくプレイすれば(普通は)クリアできるように作られていて、
魔王討伐までのストーリーだけではなく、レベルを上げてどんどん強くなっていくゲームの仕組みが、プラスの積み重ねになっている。

マンガの要素になぞらえてゲームを語るならば、自分の場合、
ドラクエのキャラクターデザインが鳥山明によるものでなければ、ここまでハマらなかっただろうと思う。
丸っこいフォルムで描かれたドラクエ1~3 敵キャラクターのデザイン、パッケージイラストの魅力は他に替えがたい。

鳥山明は、ドラゴンボールドクタースランプ 2つのマンガしか描かなかった、手塚治虫にはなれなかった等と批評されることがあるが、
ドラゴンクエストは、鳥山明 3つめのヒットマンガであったかもしれない。
「原作:堀井雄二、作画:鳥山明チュンソフト」によるニュースタイルのマンガがドラゴンクエストだった、というところだろうか。


ドラクエ ロトの三部作を概観すると、
1はシンプル、中世ヨーロッパの薄暗い雰囲気と、ファミコンではじめて「物語」を描き出した衝撃が今も強く残る。
2は1の発展形で、個人的にはこれがベスト。ただし、人によっては難しすぎるクソゲー
3は2の普及版、1・2とのリンクを形作ったもので、ひとつの完成形を迎える。



ドラゴンクエスト2を今一度 振り返ると、スケールアップの魅力を強く感じる。
ジョジョ1→2→3のサーガと一致するが)初代から100年後の未来の物語であり、物語の時間軸が未来に向かって伸びた点。
そして、物語の舞台が、地理的に、横方向に大きく広がっている。1のアレフガルドの先に、(海を渡れなかったその先に)新しい舞台が拡がっている。

地下へ潜っていく洞窟に加えて、上に昇っていく塔が、あらたに登場している。
(1 竜王の城にも盛り込まれていた仕掛けだが)上へ上へ昇ったり、下へ下へ降ったり、最上階へ行ってまた下へ降りたり、とにかく歩かされる。
世界地図の端っこにザハンの島があったり、ルビスのほこらが1マスの大きさで、地下奥深くまで続く。ラダトームの城 太陽の石の仕掛けも、世界を隅々まで探索する仕掛けの一つだろう。

ドラクエ2 終盤において、邪神の像の洞窟では、下へ下へ、海底の奥深くへ降りていく。
ロンダルキア台地のふもとからは、上へ上へ、山中の厳しい洞窟を進み、白銀の台地に抜け出た後、空高く神官の住む神殿を目指し昇っていく。
最後は、邪神ーー神、人間の世界を超えた超常的な存在ーーとの戦いになる。

戦いの旅を共に過ごすのは家族であり、友達。身近な人たちと一緒になって、悪を倒す旅に出る物語である。


ドラクエ2をはじめてプレイしたのは小学4年生のときだが、アタマの中で思い描いていた、創作の「黒歴史ノート」がある。
王子王女たちがシドーとの決戦にどう挑むか?を想像したもので、シドーの猛攻に主人公たちは歯が立たない。
シドーのツメに引き裂かれ、サマルトリアの王子が倒れる。ツメがサマルトリアに食い込みながら剥がれ落ち、王子は死ぬ。
最後を看取ったローレシア王子が、シドーのツメを使って、サマルトリアの思いを継ぎ、シドーを倒すーーという展開だったと思う。

私は楽譜を読めないし、ピアノも弾けないのですが、
それでもシドーのテーマだけは、勘で鍵盤を弾き、およそ演奏できるようになったので、よほど印象が強かったのだと思う。


「さよならファミコン通信」「ドラゴンクエストエイジ」など、ドラクエ関係のインタビューが収録されたwebサイトによれば、
堀井氏はゲームデザイナー・シナリオライターであり、
プレイヤーが世界に入り込み、「もうひとつの人生」を体験するための手助けを、自らの仕事と定めていたようである。

プレイヤーごとに、各自の世界に入り込んでいって、楽しく遊び、物語を拡げる。
それが、ドラゴンクエストのシナリオでありストーリーであり、ゲームを遊んだ体験となる。

(その意味で、ドラゴンクエスト2は個人的にもっとも面白く、創作シナリオやピアノ演奏までを含めて、個人的なゲームプレイ体験であったのだろう)
 


ドラゴンクエスト3について。

2016年2月 ドラクエ3を再プレイする前後、清原和博覚せい剤所持容疑で逮捕され、愚かさと悲しさに胸を痛めていた。
ファミコンの中古本体を買い込み、マシンとソフトがちゃんと動くか、最初にテストプレイしたのはファミスタ 86年度版で、
きよはらが4番を打つLチームでプレイし、きよはらに右中間の見事なホームランを放たせてはいたが、胸の悲しみは癒えなかった。

若いころ 清原は「覚せい剤打たずに、ホームラン打とう」という警察の広告に出演していたらしいが、今となってはとんでもない皮肉である。

そこで(?)、ドラクエ3を再開するにあたっては、お気に入りのプロ野球選手で4人パーティーを組むことにした。
主人公はまえだ、武闘家のえのもと、僧侶のおちあい、遊び人のきよはら。
きよはらが男のピエロだと、なんだか生々しいので、女のバニーガールにした。

遊び人のきよはらが、Lv20で賢者に転職する。
遊んでばかりの役立たず、放蕩を極めた愚か者だけが賢者への悟りを開くことができるというギミックで、絶妙のセンスでありトリック、そして堀井氏の優しさと矜持が滲み出ていると思う。

まえだとえのもとは前田智徳榎本喜八、打撃を極める左打者で、
僧侶→賢者のおちあい(落合)は、きよはらの師匠格、後衛に並ぶ魔法使いたちは偉大な右のアーティスト。
そのようなパーティーバランスを考えていた。

しかし、ゲームの最期 女賢者2人が並ぶというのは絵面が悪く、まったく同じ能力のキャラばかりというのも面白味が無いので、
Lv38でザオリクを覚えたところで、きよはらを、賢者から戦士に転職させてしまった。
巨人移籍後の肉体改造を思わせるマッチョさで、まじんのオノを振り回すきよはらはガンガン成長し、
チームの4番目で「にっこり微笑んで」ばかりいたのが、最後にはチームで2番目に並び、敵からのダメージを引き受ける盾の役割まで果たすようになった。
ただし、きよはらはメガンテパルプンテは覚えておらず、MPは79で、呪文ではおちあいに叶わない。
あと一歩でレジェンドにはたどり着けない、生涯 打撃三冠を獲得することのなかった清原らしい、もどかしさと底知れぬ可能性を体現・追体験したのであった。

再生・更生の願いを込めつつ、思い入れを持って「きよはら」の物語をプレイしていったが、現実の清原和博は、はたして更生できるのだろうか。
ちなみに、スーの東 ニューヨークの村を建設させた商人の名前は、のりさん(中村紀洋)である。



ドラクエ3 ゲームのメインシナリオである「上の世界」の旅は、現実世界の地球をなぞる旅である。
船を手に入れる前 ユーラシア大陸の最果ての村に、父親の手掛かりが残されていて、それが只の「みずてっぽう」というエピソードが印象に残る。
商人 のりさんの尽力でニューヨークが勃興し、瞬く前に発展するが、共産主義革命(?)で打倒されるエピソードも面白かった。
逆に、ヒミコさまとおうじゃのけん(日本刀?)を取り上げたジパングのくだりは、中世ヨーロッパが基調の世界観に馴染まず、違和感を感じ、イマイチだった。


ドラクエ3は、さまざまな点で、「ドラクエ2の普及版」だと思わせる点がある。

万人に遊べる難易度に調整されたパーティーバトル・謎解き、ゲームバランスは言うまでもなく、
船を入手してから、世界に散らばるキーアイテムを集める展開。
ネクロゴンドの洞窟 毒の沼地と、十字架状の入口。山を登った先に、悪の巣窟がある所などは、2に狙って似せていると思われる節がある。

ドラクエ1→2で世界が4倍サイズに広がったが、3は、1→2の世界観をさらに包含し、全てを包み込もうと意識して製作されている。

アレフガルドや精霊ルビス・竜の女王の因縁は言うまでも無く、
アレフガルドのフィールド曲(「広野を行く」)が三部作それぞれ違ったアレンジで登場し、ゾーマ戦のメロディの大元にまで使われていて、制作者の気迫と作り込みに感心させられる。


ドラクエ3は「上の世界」(≒現実の地球)をメインステージに、世界一周の旅をやり切った後、「下の世界」 闇のアレフガルドを訪れる。
上の世界と下の世界の交差は、個人的には、「現実世界と、ゲームの世界(仮想の世界)がリンクする楽しみ」を暗喩しているように感じている。

現実世界のギアナの大穴から、ゲームの世界のアレフガルドに落ちていく感覚。
ドラクエ1・2をプレイして)かつて知っていた幻の大地に降りていく、顕在意識から無意識下の世界に降りていく、そんな感覚を狙っていると思う。
 
ゲームのラスト ギアガの大穴が閉じて、アレフガルドが太陽の光に充たされた世界となるのだが、
地下の世界=下の世界とするならば、穴が閉じた後、太陽の光で満たされるのは物理的にヘンな感じがする。
地球の地下にアレフガルドが存在するというよりは、現実世界の「意識の下」に、アレフガルドが隠されて存在していた、という解釈・感覚が、個人的にはピッタリ来る。

現実の地球を巡った物語の最後に、無意識の世界が発見され、認識され、最後 光の中に浮かび上がってくる。
ゲームの世界が、新たな世界が、現実のものとなって姿を現した瞬間である。ーーそのように、アレフガルドのはじまりの演出を認識している。



ドラクエ ロト三部作に共通する特徴として、
「主人公はキミだぜっ!」と言わんばかりの、物語に引き込むための徹底したガイダンス、
貴種流離譚の主人公になりきって、シンプルな成長物語を満喫できる楽しさがある。

1の主人公は、伝説の勇者ロトの子孫。
2の主人公は、1の主人公の100年後の子孫。親戚同士の王子と王女は、親近感が湧き、一体化しやすい。

3の主人公は、オルテガの子として生まれた若者で、最後 ラダトームの王から勇者ロトの称号を「授かる」。
生まれによってではなく、自分自身の努力と成果によって、勇者ロトの名前を得た、それが3の主人公であるーーという構図だ。
 
ドラゴンクエスト3は、現実の世界からゲームの世界が産み出されるまでを描いた物語。
「あなた」が主人公となり、伝説の勇者となって、アレフガルドを産み出すまでの話。

ドラクエ3--現実の地球、現実の世界が基になって、その後の1,2が産み出される。
だから、2がハッピーエンドになった以上、ドラクエの物語はもう無い。

現実の中から、ゲームという神話が生まれて、神話と現実が輪を描いて完結するまでを描いたのが1→2→3の三部作である。



  ***



ーードラクエの面白さを語る文章ばかり、あまりに長くなってしまいましたが、
ドラクエジョジョに共通する、三部作 連作ならではの凄みを、最後に語っていきたいと思います。


まず、ジョジョドラクエ 三部作に共通する強みは、
1つの作品だけで完結するのでは無く、3つの連作が揃うことによってはじめて成り立つ、作品の面白さと凄みを備えているということです。


ジョジョ1→2→3の三部作で、荒木先生は、エデンの東やルーツのような、時を超える大河ドラマを描きたかったと述べています。
ジョナサン(初代の主人公)がディオと戦い、ジョナサンの正義は子孫のジョセフに受け継がれ、そしてジョセフと承太郎が復活した悪の権化 DIOを倒す。
ジョナサンだけでもジョセフだけでも、承太郎だけでも描けなかった、3代居なかったら成り立たなかった物語を、荒木先生は描きたかったそうである。

ジョジョにおいては、1部で「白と黒の、2人の主人公」の対立と調和が描かれ、波紋法と吸血鬼のバトルが提示され、
2部で、ストーリーの展開においても、バトルのトリック・キャラクターのパワフルな魅力においても、前作を上回る加速した展開が描かれ、
そして3部で、1部の主題が再提示され、100年の時と、地球のすべてを駆け巡ったかのような旅の果てに、ジョースターとディオの戦いが決着を迎える。

ジョジョ1→2→3の三部作は、クラシックのソナタ形式に似た構造を持っていて、
主題の提示→展開→主題の再提示 3つの作品が、一本の音楽を奏でるように、スタートからラストまで、緩急持って突き進んでいく面白さがある。


ドラクエ1、2、そして3の三部作は、入れ子構造、円環、無限のループとなるような円環構造を持っている。
「王子の旅立ち→放浪の旅→帰還」という基本構造は、ドラクエ1、2、3に共通しており、
「旅の結果 何を得て、何を失い、最後 主人公はどこへ向かうのか」が、ドラクエで描き出される、主人公たちのドラマである。

ーー個人的に、ドラクエ3 ロトの勇者は、ゾーマを倒しアレフガルドの平和を確かめた後、上の世界に帰っていったのだと思う。

ドラクエ1 勇者とローラ姫が旅立つときの王宮のファンファーレ、2 ローレシア王宮の舞踏会、3 ロトの勇者を称える王宮のファンファーレは、
堀井氏が意識的に、似た構造のラストシーンを用意し持ってきていると思うが、象徴的な記号の使い方が本当にうまく、
ドット絵の使い方やヒントを集成し謎を解いていく積み重ねなど、ドラクエファミコン時代の、記号を定義し積み重ねるRPGならではの面白さが満ち溢れた作品だと感嘆する。


ちなみに、貴種流離譚となるようなゲーム・マンガは、ドラクエ以外にも数限りなくある。
貴種流離譚という概念自体が、折口信夫氏の定める民俗学・文学の用語であり、説話群を類型化するためのものであるから、該当例が多くあるのは当然かもしれない。
 物語の類型の一種を指し、若い神や英雄が他郷をさまよいながら試練を克服した結果、尊い存在となるとする説話群を指すという)

ゲームでは、本の世界に入り込んで、再び現実に戻ってくる「エスパードリーム」。
不思議の国のアリスのような雰囲気のゲームだが、本の世界の女の子・村長が、現実世界に遊びにやってきたラストシーンの多幸感がとてもいい。
3DSの「妖怪ウォッチ 1」も、主人公たちが妖怪と友達になり、ラストバトル 訳あってお別れをするものの、最後 また友達として戻ってくるという、幸福感あるエンディングが良い。
ドラえもん 単行本6巻で描かれた、のび太の成長、ドラえもんとの別離・旅立ちを描いた最終話も、とてもよいお話だったと思う。

ジョジョのシリーズでは、
半身不随の元騎手 ジョニィが、ジャイロと大陸横断の旅に出て、最後 聖人の遺体では無く、親友の遺体と思い出を故郷に持ち帰るSBRが、もっとも貴種流離譚の典型に当てはまるストーリーとなるだろう。


ジョジョドラクエ 三部作の凄みとして痛感するのは、
ゲームの「外」、マンガの紙面の「外」にある情報ーーすなわち、時間と空間の拡がりーーをリンクさせる面白さである。
 
部分が全体であり、全体が部分であるような、世界全体が一つにつながり、壮大なものを描き出せている、その感動。
現実の世界を旅しているようでいて、現実とは違う、「もう一つの世界」「もう一つの人生」を作り上げ、読者として体験できた感動が今でも強く残る。

ジョジョドラクエ 初期の三部作には、イキイキとした、新しい世界が生み出された瞬間に立ち会えた喜びがあると思う。
もし、今からこれらのマンガ・ゲームをはじめて体験するという方があれば、絶対に、発売順に、1→2→3の順番でプレイすることをお薦めしたい。
(このブログでは、三部作のストーリーや展開をネタバレしてしまっているが、そんなことは知らず、作者が筆を重ねた順番に、読者が一緒に追体験していくのがいちばん真っ当な、贅沢な作品の楽しみかただと思う)

 
最後になりますが、ドラクエ3 アレフガルドの終盤に入り、ゲームを終えてしまうのが寂しくてレベル上げを繰りかえしていた最中、
ドラクエ3が終わったら、4をやってもいいんじゃない?」「ピサロを見てみたいし」と助言してくれた私の子供に感謝したい。

ドラクエ4 8人の勇者たちと、ピサロとロザリーの悲劇の物語は、ドラクエムックを孫引きしながら、子供に物語って聞かせていた。
「流した涙が、宝石になる」エルフのロザリーは、人間の悪業に巻き込まれ死に、彼女を失った悲しみでピサロは悪に走り、進化の秘法で怪物となる。勇者たちはピサロに、戦いを止めるよう訴えるが、怪物となったピサロの耳には届かない。
やむを得ず勇者たちはピサロを倒し、遺骨をロザリーのそばに埋める。エルフのロザリーは死後 植物の種となってお墓に埋まっていたが、ピサロを迎え入れて芽が出て草が伸び、一瞬で大きな花が咲いたーーというラストだった)

また、ドラクエジョジョ、ゲームやマンガの好きな事を書いて楽しめる時間を持てるのも、
のんきに暮らしていられる日常があればこそなので、現実世界の平和と、人々の間に自分が存在できていることを感謝したいと思う。
 

 

追記:

ドラゴンクエスト3の余韻が冷めやらぬ内に、ドラクエ4(ファミコン版)をプレイし、クリアした。
1~5章の序盤で、低レベルからのレベル上げを繰りかえすのが辛かったこと、
(1~3までを通してプレイした直後のためか)バトル・謎解きがやや簡単すぎて歯ごたえが無かったのは難点だが、
概ね楽しく遊ぶことができた。

エンディングの演出は、キャラクターの織りなす寸劇がBGMと相まってとてもよく出来ていて、ファミコンゲームの一つの極みを見るようで感動した。
7人の仲間たちを一人ずつ見送って、独りになった勇者が故郷に帰るのだが、
私は、マスタードラゴンのご加護でシンシアが復活して、仲間たちと共に幸せなエンディングを迎えたのだと解釈している。
(勇者が最後 故郷の幻を見ながら死んでいったようにも見えて、曖昧にボカしている所がいい演出だと思う)

エンディングのシーンを観ていて、はじめて気づいたのは、
1章のスタート地点 バトランドの南の岩山を越えたすぐ先に、勇者の隠れ里が配置されていたことで、
1~5章の物語が同時進行で進み、エンドール(end:目的地)に向かって主人公たちが導かれるシナリオなど、盛り上がる展開で面白かった。

ドラクエ4は、ジョジョ 4部と似て、前作までの基盤を活かした番外編・新シリーズで、新機軸とマンネリ感が絡み合う微妙な面白さだった。


スーパーファミコン(中古本体)を買ってドラクエ5・6をプレイするか、3DS等で発売中の7~10をプレイするか迷っているが、
5~10までを通してプレイすることを考えると、膨大な時間と労力がかかりそうで、でも楽しそうで眩暈がする。

桝山寛氏の「テレビゲーム文化論」で読んだのだが、
ロジェ・カイヨワの「遊びと人間」によれば、「遊び」は4つの要素から成り立っており、それは「競争」「偶然」「模倣」「眩暈」であるという。

模倣とは、なりきり、ロールプレイのことを指し、眩暈はサプライズ、意外な展開や新鮮な驚き・感動のことだろうと思う。
4つの要素は、ジョジョにもドラクエにも当てはまるし、古今東西のさまざまな遊びにも当てはまると思う。

願わくば、野球選手は野球賭博に「競争」「偶然」「眩暈」を求めて遊ぶのではなく、
春からはじまる公式戦で、自らの誇りと技量をかけて、精一杯 真剣勝負で遊んでほしいと思った次第である。

プロ野球選手以外の仕事でも、人生や生活そのものが、何らかの形で「遊び」の4要素を含み、
スリルや興奮、事件と平和が相乱れるのが人間の生活であるように思う。