ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョ6部→7部・8部へと通底するテーマ 「自然に帰れ」と2011年問題

ジョジョシリーズを続けて読んできた方であれば、6部ラストの大きな「断絶」、7部以降への「転回」について、ひとこと語らずにはいられないものだと思う。
6部のラストが謎めいた解釈を残していることもあるし、
キャラクターや舞台設定に没入するタイプの読者であれば、全てのキャラクターを放り投げて捨てた(ようにも見える)ラストが不評なのも分からないでは無い。

6部ラストの解釈については、当ブログ「ストーンオーシャンを巡る連想、あれこれ」で書いたので、ここでは触れない。

6部から7部・8部へと続くテーマ、ジョジョリオンで描かれつつある「2011年問題」について、この記事で書いていきます。


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ジョジョ6部→7部への切り替わりを読むにあたり、原典たるコミックスを読むことはもちろん、
作者の意図・背景を知る資料として、ジョジョベラーのインタビュー本、7部連載開始当時の青マルジャンプのインタビューなどがある。

(てもとに原典が無いためうろ覚えの部分があり恐縮ですが、)これらの原典・資料を読んだ上で、私自身の解釈と意見を述べていきます。


ジョジョ6部→7部・8部へと続くテーマは、「自然に帰れ」である。

1部当時から描かれてきた「人間賛歌」、世代を越えた正義と悪の戦いの物語は6部で幕を降ろし、
勧善懲悪の戦いの物語から、人間と社会の未来のありよう、人為と自然の調和のありようを問う物語に、テーマの主軸が移ってきた。
ちょっと強引な決めつけかもしれないが、6部→7部・8部の展開で、そんな感じの感想を持っている。

少年ジャンプ時代のシンプルな勧善懲悪を脱し、青年誌向け・中年~初老の作者が描く「複雑でビターな勧善懲悪」、
そして「自然に帰れ」に象徴される社会批評が隠されたテーマとして描かれてきた。
そんな感じが、ウルトラジャンプ以降で描かれてきた、ここ10年ほどのジョジョだったと思う。


「自然に帰れ」は、ルソーが言ったと伝えられる言葉である。

6部の物語に見られる観念性、文明が進み(連載当時の2000年より11年先の)2011年 「未来の果て」の物語。
複雑になりすぎた血族と因縁、ネタ切れが近づいてややこしくなりすぎたスタンドバトル、見づらくなった絵柄とアクション。

6部 刑務所からの脱獄と、罪を清める物語は、
20世紀の終わりという時代と、ジョジョワールドの複雑化・長期連載の行き詰まりが招いた、いろんな意味で「世界の終り」を描いたマンガだった。

6部文庫本のあとがきによれば、6部でジョジョは完全に終わってしまう可能性もあったようだが、
作者の一念発起によりラストを変更、「自然に帰り、自然と戦い、道を切り開いていく主人公」の7部 SBRが構想されることになった。

7部の主人公 ジャイロのファッションが象徴的で、19世紀のアウトローでありながら、現代的なパンクの意匠を身にまとわせている。
マンガのコマ割りもシンプルになり、キャラクターの表情・アクションもリアル風に変わって、カッコ良く、美しい絵柄だと思う。

青マルジャンプのインタビューで、作者は、6部は網の目状で複雑になりすぎた、その反省から7部はストレート、真っ直ぐ迫る感じにしている と述べていた。
7部の物語は大統領の登場以降 複線化したが、最後のステージで一本化し、ジャイロとジョニィの物語として一つの船に全てを納めて終わった。
物語の途中で細かいアラは有ったが、一本のストレート、弾丸が転がり走り抜けた、そんな物語だったと思う。

 

7部における、物語世界 原点への回帰は、
プロテスタントが聖書(=イエスキリストが説いた言葉)に回帰したように、荒木先生も、創作上のはじめの時代に回帰したのだと思う。
既存の教会から離脱した人が、原始キリスト教を求める動きとも似ているかもしれない。

20世紀的社会観が行き詰って、21世紀を求めるときに、古典に立ち帰ろうとした兆候。
イタリア発のルネッサンス運動に範を取り、21世紀のネオルネッサンス(?)を荒木先生が志向したとも思しい。


7部 SBRのバトルで、サンドマンとの戦い、大統領との戦いなどで「黄金長方形の軌跡」、「無限の回転の秘密」が語られる。
黄金長方形の秘密とは、せんじ詰めれば、「自然に帰れ」、「自然に立ち帰り、自然と戦う中から我が物を得よ」ということである。

サンドマンとの戦いでジョニィが回転の秘密を会得し、(トラウマの象徴たる)ダニーの苦しみを克服するシーンがある。
このシーンは、美術のデッサンを学んでいたり、心理学の素養がある程度無いと分かりにくいかもしれないシーンだが、
自然を書き写し、自然や世界の美しさに驚いた経験や、心の苦しみを洗い出し融和・和解した経験のある方であれば、とてもドラマチックで、洗練された感動を味わえる名場面だったと思う。
(このブログの記述みたいに、いちいち言葉で解説するのは上手くなく、シーンの繋がりだけを見て、サラッとダイレクトに意趣を伝えるマンガのほうがオシャレであるが…)

ジャイロとジョニィが馬に乗りながら、黄金長方形の回転を会得する一連のシーン。
コミック10巻の巻末付録で、素粒子物理学の引用からスタンドを解説する学術的マンガ(?)など、節目節目で、自然と戦い、自然と融和する主人公たちの有り姿を見ていただけると思う。


8部 ジョジョリオンでも、「自然に帰れ」に象徴されるテーマの現れ、物語の展開が現れてきている。

植物鑑定人 豆銑礼の、人為と自然、職住一体の暮らし振り。
岩人間と岩動物(ペット?)の奇妙なコンビや、カエルやフライドチキンを食べながら池で暮らすドロミテ。

豆銑礼によれば、鉱物と生物が融和した岩人間の体質は、クリオコナイトのコロニーに見られるような、生物進化の起源を示すものかもしれない という。

東方家が襲われてきた「呪いの病(=石化病)」と、岩人間の岩体質は、ルーツでどこか、繋がる点があるのかもしれない。

「呪い」とは即ち、文明病の克服ではないか?
生命の根本(=自然)に立ち帰り、人間の営みを見つめ直すことを訴えているのか。
人間と自然の調和。社会のありかた、人生観のありようを問うているのではないか。

ーーそんなことを、(連載中の現時点での)感想・予想で思っています。

 

最後に、ジョジョの2011年問題とは、偶然の符号の一致かもしれませんが、

「6部と8部で、物語の舞台設定が同じ2011年であり、(現時点で)これ以上の未来の世界は、物語中で描かれていない」ということです。


ジョジョ6部 グリーンドルフィンストリート刑務所の物語が、2011年を舞台設定に描かれたものでした。
19世紀末に時間軸を戻したSBRが描かれて、その後、(連載開始当時の「現代」だった)2011年を舞台に、ジョジョリオンがスタート。

2011年 ジョジョリオンの連載開始直前に東日本大震災が起き、震災が起こった後の仙台を舞台として、ジョジョリオンは始まっています。
連載開始から6年ほどが経ち、現実世界の動きとリンクするように、ジョジョリオンの物語も少しずつ、ゆっくり前に進んできたように思います。

「2011年」という年は、今を生きる日本人にとって、大きな節目、生活や物事を考える分岐点の一つになっていると思います。
これから先を生きる未来の指針を探るため、社会の在りよう・幸せの在りようを探るシミュレーションの一つとして、ジョジョリオンの物語が描かれている節もあろうかと思います。


例えば「美味しんぼ」と違って、ジョジョで、政治/経済/社会の直接的な批判が語られることはありません。
「人間賛歌」というテーマも、シーザーの死の場面が最も顕著に、言葉で語っていたくらいで、あまり表に出して、説教臭く語る場面はなかったかと思います。

ロカカカの実を巡る争いに、キリスト教の神話からの重ね合わせ、現代日本への批判も込められているのでしょうが、
あくまでエンターテインメントとして、サスペンス/アクション/ホラーを表に出した、読んで楽しめるマンガとして表現されていると思います。

作者の意図として、テーマが表だって説教臭くなることは注意深く避けられていると思いますので、
当記事の趣旨は、あまりオシャレとは言えないものかもしれません、すみません。


ただし、ここ最近の7部・8部以降のジョジョは、バトルやアクションの痛快さ、駆け引きの巧みさもさることながら、
ストーリーやキャラクターのうねるような大きな「流れ」を捉えたり、
大所高所からの俯瞰的人生観を哲学的エッセイとして読んで、けっこう面白い感じがある。

メレンゲの造りかたみたいな俗な知識と、1万年前の農業の起源から始まる社会論・文明論のコントラストが面白い。

作者が年齢を重ねるのと同時に、読者の私(=41歳、天才バカボンのパパと同い年)も年を取りつつあるので、
ややもすると、そういう年よりじみた読み方になるのかもしれない。