ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

「お伽草紙」と「人間失格」  太宰治と吉良吉影のアント/シノ的二元論

(下記 ほとんどジョジョと関係ない記事であり、私の読書メモです。
 ジョジョリオンの連載は次号休載、つるぎと密葉の行方が気になりますが、幕間の暇つぶしとしてご覧ください)

 

仕事の参考に、ふと太宰治の「お伽草紙」を手にとって読んだところ、とても面白かった。
続いて、太宰治の暗いほうの話、「人間失格」を中学2年生のとき以来読み直した。

中学2年生ーー文字通りの中2病ーーのときに、人間失格というタイトルはインパクトがあってビビッと来て、
「ワザ、ワザ」と「二匹の動物がいました」の2フレーズに強いインパクトがあり、ネガティブな感じに嫌悪感を覚えつつ感動した。

その後、19才くらいのときにアンチ自殺論みたいな本(林田茂雄の「自殺論」)を読んで、たぶんその中に「自殺は良くない、エゴの象徴だ」みたいな太宰治批判に納得していた。
(ちなみに、高校生くらいのときに「だからたけしは嫌われる」という無名のライターが書いた黄表紙の書籍があり、当時 たけしに飽きていた自分は納得しつつ読んだ。
 自分の意見でものを述べるにはまだ到らず、他人の批判・言説を読んで、我が意を得たりと納得していたのだと思う。

19才になる同じころ、テリー伊藤が書いた「王さんに抱かれたい」を読んで感動していたのだから、青年の悩みは深刻だったのか朗らかだったのか、よく分からないところだった)

 

ーーそれからずいぶんと時間が経って、お伽草紙「浦島さん」から読み始めたところ、とても面白く、
同じ本(新潮文庫お伽草紙)に入っている「清貧譚」も面白く、次いで、反対方面(?)の人間失格を、青空文庫にて読んだ次第である。


人間失格は、荒木先生が「マンガ術」で述べたところ、マイナスの極致を追求する作品である。
少年マンガにおける黄金則 プラス、プラス、プラスのストーリー作りには当てはまらない。
キン肉マンのようなプラスプラスのストーリーづくりに飽きた読者(中2)が読むのに、おあつらえ向きだった訳である。

中2で読んだときは、「葉ちゃん」の幼少期のエピソードにグッと来て、自らと重ねつつ読んだものの、東京に出たくらいからストーリーがよく分からなくなった印象がある。
読者の私に、お酒や女性の経験が無く、人生の実体験に乏しかったためで、今回 読み直したときは、そこらの実体験を踏まえつつ読み進むことができた。


私の乏しい文学知識で述べると、夏目漱石芥川龍之介太宰治の3人は、間違い無く面白く、天才と呼んで差し支えないと思う。

太宰治が暗いのか明るいのか、どちらの作品がほんとうなのかみたいな議論があるが、どちらも本当だったと思う。
お伽草紙」と「人間失格」、作品の色合いは違うがそれぞれに面白く、作者の通底した視点、醒めたシニカルな物言いが面白い。

人間失格のあとがきは切ないしめくくりになっていて、
「私」(=若かったときの自分を振り返る、作者としての私)と「バーのマダム」が葉ちゃんを振り返り偲ぶ会話で物語が締めくくられる。
手記を読む内に、主人公と自分を重ねて読んできたのが、ここでパン!と仕掛けが解かれて、現実に引き戻される訳である。

「罪の対義語(アントニム)は何だろう?」という問いへの答が得られないままに手記が終わって、
バーのマダムが最後に、「あのひとのお父さんが悪いのですよ」「神様みたいないい子でした」と言う。

複雑な意味が込められてあって、ウラオモテがあり一口に言えないが、切れ味のいい言葉をアタマと〆に持ってくるのは、マンガと同じく物語作りの鉄則だと思う。
(ちなみに、今 私がキリスト教のにわか勉強をしていることもあって、人間失格のそこかしこに、ラストのマダムのフレーズを含めて、キリスト教的な愛に近づきつつそこに行きつけないとする、作者の思いを感じてしまう。誤解かもしれませんが…)


ーーすっかり長文になってしまいましたが、このブログ記事で書こうと思った本題は下記のところ、
吉良吉影太宰治に似ている、重なっているところがある(シノニムの関係にある)」です。

人間失格の中に、クロオの詩から、こんな一節が引用されています。


してその翌日も同じ事を繰返して、
昨日に異らぬ慣例に従えばよい。

即ち荒っぽい大きな歓楽を避けてさえいれば、
自然また大きな悲哀もやって来ないのだ。

ゆくてを塞ぐ邪魔な石を
蟾蜍は廻って通る。


私がこれを読んで浮かんだのが、吉良吉影が4部終盤でつぶやいたセリフです。
「激しい喜びはいらない…そのかわり深い絶望もない…… 植物の心のような人生を… そんな平穏な生活こそわたしの目標だったのに……」


太宰治が引用したクロオの詩 全文は、「上田敏訳 牧羊神」で読めます。下記 青空文庫にあります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000235/files/51173_42027.html

お読みいただくと分かりますが、元の詩はネガとポジを対比させるキリスト教賛歌になっていて、
太宰治は意図的に、この詩のネガな部分だけを切り取って、自分の物語として、もっとよい詩に作り直しているところが素晴らしい腕前だと思います。


最後に、完全な思い付きですが、4部吉良吉影のビジュアル上のモデルは、たぶん、デビッドボウイの若いときのイメージから幾分の着想を得ているかと思います。
(私を含めて、世間の読者たちから見て)吉良とデビッドボウイの顔姿がそっくり、印象も重なっているからです。

同様に、8部の吉良吉影 セーラー服を着た医者、黒髪のクセッ毛に特徴があり、シニカルな物言いと母親思いの真情に特徴があります。
8部の吉良吉影 ビジュアル上のモデルは、太宰治にあったかもしれない。
たぶん、荒木先生の胸中にそうした繋がりは無かっただろうと思いますが、個人的には、8部の吉良吉影と、太宰治(作家として作品に描かれた姿)は重なりました。

太宰治が頬杖をついた肖像写真、芥川龍之介を真似てポーズを取った写真、銀座のバーで織田作之助と歓談していたときの写真なんかを思い起こしていただければ、
吉良吉影太宰治は似ている!」と、ご納得いただけるのではないかと思います。