ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョシリーズ 「究極の肉体」と「究極の精神」描写の移り変わりと、5部~8部への辛めの評価

ジョジョ5部と6部のコミックスを、実家から取り寄せてひさしぶりに通読した。
(下記、私自身の率直な感想ではありますが、「過激」な意見も含み、万人向けではありません。あしからずご了承ください)


5部の中盤、イルーゾォの辺りからとみにバトルが分かりにくくなって、6部のバトルの殆どは読み飛ばしてしまった。
スタンド能力がムリ繰りになってきて、今迄に無いネタでよりすごく、よりすごくと「アイデアのインフレ」が悪い方向に出ていたんだと思う。

飛ばし読みをする中で、キャラクターの折に触れた決めゼリフ、場面場面の盛り上がりは有ったのだが、
何分 ページの大部分を占めるバトルがよく分からなくなっているので、残念ながら読み飛ばしてしまった。

5部、6部を読んでいて、だんだんストーリーとテーマが主導になって、キャラクターの活きた交流みたいなものがすり減っていったとも感じる。
いわゆる少年誌的な熱いキャラクターが減ったというだけでなく、登場人物の行動原理が分かりづらくなり、共感を持ちにくくなっていったのが残念だった。
5部では、ブチャラティらとフーゴが別れる場面の、それぞれの心情。6部では、自殺志願者マックィーンとエルメスのやりとり、プッチ神父の一貫した狂信的な行動原理は面白かった。

6部 プッチ神父とFFらの対比を通じて、彼が求める「天国」が何なのか、謎を追って物語が進んでいく。
ジョリーンたち主人公がアリ一匹の群れのように転生したのと、ミジンコの集合体であるFFが満足して成仏したのは、「人間らしい生き方」の象徴で、どことなく東洋思想的。
一方のプッチ神父が、キリスト教的なBody, Mind, Spiritsの三位一体を目指して、Spirits(精神、魂)の究極として、時を加速し運命を支配する能力、究極の精神(スタンド能力)を目指したのとは対照的である。
プッチ神父がヘビーウェザーの拳から運命的に窮地を逃れたが、結局はヘビーウェザーの能力に倒れたのは、東洋的な(?)因果応報のなせる業だったのかもしれない。
ケンゾー爺の暗殺風水が登場し、刑務所脱獄後に陰陽のタオバックルをジョリーンが身につけたのも、(プッチ神父の、歪んだ)キリスト教理解に対置して、東洋思想の触りを作者が持ち出してきたのだと思う。
ケンゾーのモデルとなったマンソンファミリー、KKKのネタを含めて、6部は何かと、宗教的なモチーフが散りばめられた話で、
この頃の作者コメントなどを見ても、オカルト的な小話が多く、「新宿には行くけど、銀座はイタリアよりも遠いよ!」と担当編集を一喝したエピソード(ジョジョベラーより)など、
作者自身が内向的になって、どんどんと宗教的観想を積み重ねていた時期だったのだと思う。


ジョジョのシリーズは、波紋法と超生物の戦いで始まった1部、2部は、「究極の肉体」を志向して描かれた節がある。

その後 第3部になって戦いの技法がスタンドに移り、「究極の精神」を志向して、正義と悪のバトルストーリーが紡がれていった。
3部~4部にかけてのスタンド能力、スタンドバトルは、頓智やトリック、人間同士の駆け引きや知力の応酬。
三位一体でいう、Mind 知性、知能、知力。明晰な精神、強い意思のぶつかり合いによって、勝敗の境目を描いてきた感じがある。

5部の中盤~終盤にかけて、スタンドバトルがどんどん観念的になっていった。
レクイエムの暴走によりキャラクターたちの「魂」が入れ替わる、魂のかたちと匂いを頼りにドッピオが偽装する、レクイエムが精神を支配する理屈。
知恵比べや駆け引きで勝負するのではなく、宗教的な領域へ、MindからSpiritsへと主眼が移っていった端境期だったと思う。

ーー5部のラスト 62~63巻で示された「スタンド能力の、その先の展開」は、6部の全編を通じて描かれた感がある。
なので、6部のスタンドバトルは読みづらく、何をどうやって勝ち負けがきまったのか、とても分かりづらい。
「究極の精神」を追求して、宗教・哲学の領域に踏みこんで「天国の時」を深く掘り下げ、その思索と結論の出し方は、とても面白かった。
しかしながら、(アラキマンガのマナーとして)裏に隠されるべきテーマが表に出て、滑らかで読みやすいストーリー展開、キャラクターたちの自然な有り姿はかなり省かれ描かれなかった。
エンターテインメントのマンガとしては、ちょっとバランスを欠いた問題作というのが、私の6部への評価である。


5部→6部に到って極大化した複雑さをほどいて、シンプルであらたな地平線に立ち帰ろうとしたのが、スティール・ボール・ラン 7部の新世界である。

ジャイロとジョニィ、サンドマンやディエゴたちを含めて、アメリカ大陸の大自然に挑む旅を続けたのは、
「肉体」の回復であり、「自然と共にある、人間のありかたのルネッサンス」である。

プッチ神父の妄執により極まった、観念的・偏執的すぎる人間理解からの揺り戻し。
作者が思う理想のところ、Body, Mind, Spirits 三位一体のほんとうの回復である。

マウンテン・ティム命名により、スタンド能力は「立ち向かうもの」としてあらたに定義された。
SBR10巻の巻末解説にて、(作中で公式に、)スタンド能力のありようがあらたに定義されてもいる。


つぎのジョジョリオンはまだ未完であるが、
大陸横断レースの反動から、狭い街に留まる構造のお話となり、
「レース選手たちが故郷に帰った後」の「家族のありよう」を描く話となった。

作者の実年齢とあいまって、ジョジョリオンは「老い」「病気」「生命と死」をモチーフに選び、
こまごまとした日本人の日常生活を選んで描いている感じがある。
常秀とブチャラティスタンド能力は似ているが、2人の性格は全く異なり、スタンドの使い方も、描かれる結果も異なる。

物語のしくみや構成に老いや衰えを感じるところもあるが、
8部のストーリーとキャラが、これまでに無かった展開を描こうとしていることも確かである。
岸部露伴やトニオさんなどの人気キャラは出てこないと思うが、今の作者が描く、現実社会の実相にあわせたリアリティ寄りの、もう1つの杜王町である。