ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョを野球選手に例える 8部編 (作成中)

ジョジョを野球選手に例える 8部、ジョジョリオン編。

ただし、ジョジョリオンはまだ連載中で物語のかたち・イメージが固まりきっていないため、
あくまで「作成中」の扱いです。

2014年~最近にかけて、オリックス・バファローズに注目してプロ野球を観ることが多いので、
オリックス関係の選手が多くなっています。


●8部

定助=糸井嘉男

康穂=小谷野栄一

カレラ=森脇浩司(監督)


ホリーさん=福良(監督)

吉良=金子千尋

ジョセフミ=吉田正尚

ジョセフミの母=栗山英樹(監督)



憲助=清原和博(引退後)

花都=桑田真澄(引退後)

常秀=中田翔

常敏=菅野智之

つるぎ=稲村亜美


ダモカン= (?)
ドロミテ= (?)
愛唱= (?)


岩切厚徳=田中将大


ーーざっと思いついたのは、こんなところです。

ダモカン、ドロミテらの岩人間について、本当は、プロ野球選手で当てはめることは可能です。
(安易な連想として、デブのイメージでドカベン香川、ハゲのイメージでピッカリ投法の佐野など)

しかし、杜王町における岩人間の位相、立ち位置を考えると、
「人間以外の存在」、「危険薬物の密売に手を染める犯罪者(ヤクザ)」であり、とてもヤバイ連想に繋がっていきました。

何名か、実在のプロ野球選手(OB含む)でピッタリ当てはまりそうな人がいたのですが、
ご本人の名誉を棄損する可能性もあり、実名は差し控えさせていただきます。
プロ野球の賭博、犯罪、トラブルなど「黒い歴史」に詳しい方は、当該人物をイメージして楽しんで頂けるかもしれません)

「ジャンプ流 荒木飛呂彦」の発売によせて、当ブログの記事を解題します。

2017年のお正月に、「ジャンプ流 荒木飛呂彦」が発売された。
荒木先生の仕事場の様子や、マンガを描くときの詳細な様子が動画で紹介されていて、記録映像としてとても興味深い。

自分は一度、「岸部露伴は動かない ルーブル編」の原画展を見に行ったことがあり、正直なところ 原画の迫力そのものにはあまり感動しなかったのだが、
今回の動画のような、どうやってマンガが描かれているかの工程、一瞬一瞬のペンの息遣いを観ることができるのはとても興味深い。

集英社はアニメや映画など、どうでも良いメディアミックスに荒木先生を駆り出すのではなく、
ジョジョ 8部以降の連載と、(時々で良いので)作者の執筆背景が分かる資料の作成に取り組んでくれたらありがたい。

ジャンプ流は、「荒木飛呂彦の漫画術」のビジュアル版のような趣で、
荒木マンガのファン、絵作りに興味のある方には、手にとって頂いて損はない一冊ではないかと思う。


ーー年明けにジャンプ流が発売されオメデたいこと、また、今回の記事が150本目の投稿となることを記念して、
当ブログの記事の解題を行ってみたいと思う。


カテゴリー

    あとがき (1)
    はじめに (5)
    ジョジョ3部 (16)
    ジョジョ4部 (13)
    ジョジョ6部 (2)
    ジョジョ7部 (13)
    ジョジョとゲーム (15)
    ジョジョと亀 (3)
    ジョジョと望月ミネタロウ作品 (3)
    ジョジョと特撮 (3)
    ジョジョと野球 (9)
    ジョジョと音楽 (9)
    ジョジョ鳥山明作品 (4)
    ジョジョのルーツを探る (15)
    ジョジョリオン (22)
    ジョジョ以外の荒木作品 (1)
    ジョジョ全体 (65)
    商売としてのジョジョ (19)


当ブログの執筆動機を振り返ると、
私(ブログ管理人)がジョジョを読んできたその感想、解釈、主観的なよもやまのことを広く整理し、書き残したいということがありました。

ブログは文章を綴るものなので、必然的に、ジョジョのストーリー、キャラクター、テーマの解釈などを語る文章が主になっています。
マンガの魅力の大きなものは「絵」、ビジュアルに有ると思いますが、ブログの形式上 ジョジョの絵の魅力については、殆ど触れることが出来ていません。

また、当ブログを書き始めた当初の裏の動機として、ジョジョのテレビアニメの出来があまりに酷く、メディアミックスのずさんな展開に腹が立ったので、
自分なりに思うところのジョジョの魅力を、世間に公開する形で書き残してみたいという気持ちもありました。


ブログのカテゴリーを整理すると、
ジョジョ3部~7部、ジョジョリオン」というカテゴリーが、それぞれのパートにスポットを当てた内容です。

「商売としてのジョジョ」というカテゴリーは、ジョジョのメディアミックス、売らんかな主義の雑な商品群を、批判的な目で眺めて書いた記事です。

このブログの文章は全般に長く、ジョジョとはあまり関係のない話題の記事が延々と続くことがあります。
ジョジョ全体」というカテゴリーは、ジョジョのストーリーやテーマ、世界観を包括的に語ろうとしている記事もあり、本来ならば「未分類」と呼ぶべき雑多な記事もあります。
ジョジョと●●」という記事は、すみません、ジョジョとは殆ど関係の無い記事が多く、プロ野球や音楽、亀、コンピュータゲームなど、私の個人的な趣味が主題になっています。

最後に、「ジョジョのルーツを探る」という記事は、荒木先生の映画エッセイに触発されてつくったカテゴリーです。
「映画の掟」と「ホラー映画論」、2冊の新書をガイドブックに、ホラー映画やサスペンス映画を観てみるとけっこう面白かったので、
それらの、ジョジョのルーツとなっているだろう作品群、映画やマンガ、小説など多彩な先達の作品を追いかけて書いた記事です。


近年、ジョジョの発行部数が1億部を突破したそうで、
少年ジャンプでは6作目、戦後マンガ全体の中でも有数のヒット作に登りつめたことは、(一読者に過ぎない私の視点からでも)何となく嬉しい。

大まかに考えれば、ジョジョコミックス100冊(1部~7部までの全巻セット)を100万人が購入している計算になり、
ジョジョを1部から7部、おそらく8部まで全部読み通している「濃いファン」が世界に100万人もおられるというのは、考えてみればスゴイスケールである。
日本人の1%が、ジョジョのあの紫色の背表紙のコミックスを1巻から100巻まで買い揃えたことがある訳で、4部から始まった背表紙の絵巻風イラストを、何人の日本人がこれまで本棚で眺めてきたんだろう……そんな感慨にふけってしまう。

私自身は、文章を書きだすと長くなってしまうタイプで、
コミックマーケットやSNSの集いに参加したい感じでもなく、一人でコツコツとブログを書くのが性に合っている。

ジョジョの原作者は荒木先生で、100万人の読者が100万通りに、さまざまに作品を受け取って楽しんでいるならば、それは素晴らしいことだと思う。
願わくば、ジョジョの原作のさまざまな解釈や読みどころの紹介、映画や音楽など元ネタの作品を(芸術鑑賞の意味合いで)紹介しているサイトがもっと増えれば嬉しい。
そんな気持ちで、私自身としてはこのブログを書いています。

ジョジョリオン14巻の感想 「金」と「病気」で語る現代社会

ジョジョリオン 14巻とウルトラジャンプ 1月号(60話の掲載号)を、買って読んだ。

ジョジョリオン 60話は、ゾンビ化した少年とおばさんが定助に襲い掛かってくる話で、
ゾンビがあげる奇声、何種類あるのかと思うほどのバリエーションの豊富さがいい感じである。
少年やおばさんの人体が、リアルな街角の中で破壊されていく描写も、気持ち悪さに興が乗っている感じがする。
(このパラグラフだけを取り出して読むと、なんて非道徳的な感想を公けにするのか…という感じだが、今回の話はそういう話だったので仕方が無い)


ジョジョリオン 14巻は、個人的に読みどころが多く、面白い4話の詰まった一冊だった。

ジョジョリオン 14巻の主なモチーフは「金」と「病気」で、
現代日本、社会の在りよう、(作者自身、読者たちをも含めた)身近な人々への風刺がなかなか鋭く描かれていたと思う。

定助がダモカンを倒すシーンの無関心な通行人たち、ミラグロマンを巡る一連の人々の在りよう、突如現れた母親に馴染めない東方家の人々など。

荒木先生がミラクルジャンプのインタビューにて、
「(4部とは違って)8部の杜王町では、「他人に無関心な、リアルな現代社会の人々の有りよう」を描きたい」という旨を述べていた。
14巻に出てくる登場人物たちは、皆が何かしら嫌なところを隠し持っていて、露わになったり隠したりしているが、そんなリアリティーの描写を楽しんで読んでいた。


話が逸れるようだが、最近 「稲村亜美」のグラビアを目当てに、はじめてビッグコミックスピリッツを買って読んだことがあった。
この一冊が驚くほど詰まらなくて、(スピリッツ掲載マンガのファンには申し訳ないですが)
どのマンガも物語性が薄く、つまるところ「セックス」と「暴力」の2つしかテーマが無く、あとは少年誌の延長のスポーツマンガしか載ってなくて、面白いマンガがほぼ皆無の有様だった。

(さらに話題を外れると、ウルトラジャンプジョジョリオン以外は美術部学生のエロマンガくらいしか載っておらず、同エロマンガもお金を払って読みたいかと言われると首を傾げる。
子供が読んでるコロコロコミックを読んでみると、でんぢゃらすじーさんは子供への愛が溢れていて面白いが、樫本マナヴの忍者マンガは露骨にDIOのスタンドをパクりながら読者の受けも悪い様子で見ていられない有り様だった)


ーー何の話かというと、ひいきの引き倒しのようで恐縮ですが、最近のマンガ雑誌には、ほとんどロクなマンガが載っておらず、面白くない。
でんぢゃらすじーさんとweb連載のキン肉マン、そしてジョジョリオンの三作品くらいしか、自分が知るところ、毎回 一定のクオリティを保ち、読者を楽しませようという作品は見当たらない感じだった。

ジョジョリオンは正直なところ、最初の3~4巻くらいが面白くなく、
ラーメンの小池さんやキン肉マンのパロディ、巨乳の女の子に鼻血を出す描写の辺りなど、「もう読むのを止めようか」と思うくらい詰まらなかった。

作者の事情は分からないが、ジョジョリオンはSBR完結から間を置かずに連載が始まっており、
最初の3~4巻くらいまで、SBRの反動か、「ゆるく、パロディ然とした雰囲気」が全編に漂っていたので、それが自分には合わなかったのだと思う。

夜露が死んで、常敏が現れた8~9巻、ロカカカの実の設定が登場した後から話が引き締まって変わっていったように思うが、
これから先 コミックス15~18巻くらいでジョジョリオンは完結するかと思うが、面白いエピソードを積み重ねてほしい。


最後に、ジョジョリオンの58話 定助がホリーさんの病院を訪れる場面で、いかにも日本人然とした風貌の医師と看護婦が登場、
激高する定助をノラリクラリと交わしながら、自分の仕事を淡々とこなし務めを果たしていた。

医師の彼らは決して悪い人ではなく、あんな感じで相手を気遣いつつ淡々と自らの務めをこなしていくのが、現実の大人の過半数であり、あるべき姿とも思う。

最近に、自分の家族に病気が発覚し、総合病院での検査に立会いつつも、どうにもならない、他愛のないことを逡巡していた。
「つまるところ、医師は他人。壁の目が近くにあれば、自分と家族の病気を移し替えてもらうのに…ロカカカの実があれば、聖なる遺体のご加護があれば助かるかもしれないのに…」
幸い、家族の病気はさほど深刻ではなく、しっかり治療していけば問題解決できそうなことが分かったのですが、
病気や家族、金のことは身につまされる問題で、人生の大きな問題の一つだと思わされた。

家族の病気にあたり、WELQやNAVERまとめを参照することは無かったのですが、ジョジョリオンの一節が頭に浮かぶことはあった。
生きて健康に暮らしているからこその幸せで、ビッグコミックスピリッツは下らなかったが、下らないマンガの愚痴を書き込んで楽しんでいる内が華かもしれない。
健康はありがたいものだと思った。

ジョジョリオン 59話の感想(メモ書き)

ウルトラジャンプ11月号掲載のジョジョリオン 59話、極簡単なメモ書きの感想です。

「池の辺に住む男 ①」というタイトルの話で、
神社のほとりに住む四肢欠損の男、岩人間の長老格の男(?)が登場した。
一目見た時、「乙武さん」がジョジョに現れたと思ってしまったのだが、何とも際どい存在で、
身体に障害を持っているだけでなく、岩人間の秘密、中世から続く(?)杜王町の闇の歴史など、様々なモノを背負って生きてきただろうことを伺わせる。

憲助さんが嘘をつくとき、「アゴの無精髭を触る」くせがあることが明かされたが、
この話では2回、花都さんに脅しをかけるときと、常敏と岩人間の繋がりの推理話を聞かされたときにも、アゴ髭を触っている。
憲助は純粋素朴なただの善人では無く、定助に何か隠し事をしており、
ロカカカの所在が明らかになった時点で、東方家と定助の最後の争い・利害の対立が巻き起こるのだろう。


8部 ジョジョリオンのお話は、ロカカカの枝を巡る争いでクライマックスを迎えつつある。
最近 康穂とカレラの出番が無いが、
今やってる話の次くらいで、定助の三角関係(ほのかな恋愛)が整理され、憲助夫婦の関係に変化が起こるような、男女の機微の話が描かれるのではないだろうか。

ジョジョ 3部~7部、そして8部の展開を振り返ると、
クライマックスに向けて、毎回 パターンを変えて、都度ごとに盛り上がる展開を組み込んで、最後 面白く読めるように工夫しているのを感じる。
一般に不評な5部のクライマックス(矢じりを巡って、ボスとジョルノたちが争奪戦を繰り広げる展開)も、3部や4部と被らないよう作者が考えた工夫を感じる。

今回の8部がどんなクライマックスになっていくのか、連載期間で1年~1年半くらいではないかと思うが、楽しみに読んでいきたいと思う。
来月号は休載なので、次回 その②を読めるのは12月発売の1月号だけども…気長に待ちたいと思う。

見えないものを可視化する  手塚治虫の「アラバスタ―」、「マンガの描き方」

荒木飛呂彦の漫画術」に、絵とは何か、荒木先生が自説を述べるくだりがある。


 ここで改めて、絵とは何か、という話をしたいと思います。
 絵の本質的な役割は、見えないものを可視化して伝えることだ、と考えています。
 描き手はいったい何を伝えたいのか、と言えば、それは愛や友情、正義など目に見えないものであり、見えないものを絵にしないといけないのです。

 音楽も目に見えませんが、それを可視化しているのが音符で、見た目が美しい楽譜はやはりいい音楽なのだそうです。
 見えるものと見えないものがつながっているのは興味深い。

 シンボル化の意味も見えないものを描くことにあるわけで、
 ドラえもんミッキーマウスアンパンマンなどのキャラクターは、親しみやすさ、やさしさといったものを絵で伝えていると言えるでしょう。
 また、ひとつの絵だけでなく、マンガ全体で見えないものを伝えることもできます。

(以上、荒木飛呂彦の漫画術 第5章 絵がすべてを表現する より引用)


ーー漫画術ではこの後、大友克洋童夢」の超能力描写に触れた後、波紋・スタンドの解説に話が拡がっていく。
アナログの手書きを極めんとする、ライブ感を大切にする、マンガの神様が降りてくる瞬間を待つなど、
いずれも「見えないものを形にする」、見えないもの=超常的なもの・神と繋がる瞬間を求めて努力する、荒木先生の芸術観が現れている。


「見えないものを可視化する」という一節を読んでいてハタと思い出したのが、手塚治虫「アラバスタ―」である。

元々2chで「4部 透明の赤ちゃんとネズミ狩り(球撃ち)は、手塚治虫のマンガが元ネタになっている」との指摘があり、
元ネタと思しきアラバスタ―を見つけて、読んでみたのだが、表面的に重なりが無くはないものの、ジョジョ4部とアラバスタ―はテーマもストーリーも全然異なるマンガだった。

アラバスタ―は、透明人間の少女 亜美を巡る男たちの物語で、怪人アラバスタ―、ゲン、カニ平、ロック、4者4様の男の生き様を描いたピカレスクロマンである。
(強いて言えば、日常に潜むミステリーを描いたジョジョ4部では無く、ヤクザの抗争と成り上がりを描いた5部に近い)

アラバスタ―のテーマは「見えないものを描く」、真・善・美とは何か。
差別や迫害に苦しんだ主人公たちが、社会から逸脱し、社会に敵対しつつも、最後に何を見つけて死ぬのか、
悪人の生き様(死に様)を通して「ほんとうに美しいもの」を映し出す、逆説的なストーリーとなっている。


手塚治虫によれば、アラバスタ―は江戸川乱歩のグロテスクで隠微なロマン物を描こうと思って描かれたとのことで、その手のホラー・SFが好きな方にはお薦めです。
作者自身は、ネガティブ・ニヒルな方向に傾きすぎたとして、同作を気に入らなかったそうですが、
私などはそうでもなく、10点満点中 7点くらいの、なかなか面白く、読みどころのある作品だと思う。

「見えないものをどう描くか」というところで、主人公の亜美が透明人間であり、透明であるがゆえの迫害・差別に苦しみ、同じ苦しみを持つ怪人(アラバスタ―)に出逢った彼女は、善と悪、美と醜の狭間で揺れ続けることになる。

ロック、ゲン、ゲンの子分、カニ平とその母親、そしてアラバスタ―と、それぞれのキャラクターに背景があり、
ストーリーの要所要所の見せ場が面白く、やや展開が強引・つなぎ目の粗い所もあるが、演劇的な舞台転換の鮮やかさ、キャラクターの哲学のぶつかり合いが迫力を生んでいる。

物語の冒頭 人種差別に苦しむ黒人(アラバスタ―)の前半生、公害や貧困に追い込まれるゲンの家族たちなど、時事的な要素を盛り込みつつも、
より普遍的な美と醜の議論、何が正しくて何が間違っているのか、真実は何か、人間の本当の美しさは何か…という問題が、ストーリーを通して描かれていく。


残念な点が2つあって、
1つは、週刊連載が短期終了となり、また手塚治虫の筆も今一つ乗らなかったためか、物語の中盤以降 展開が駆け足になって、テーマの描き込みに、もう少し具体的に描ける余地が有った感じがすること。
もう1つは、亜美が終始 守られる立場のかよわい少女のままで、透明であることが最後まで報われず、かわいそうな異端の少女のまま死んでしまったことである。

アラバスタ―の亜美が、もし、ジョジョ4部の静・ジョースターであったとしたら、
アラバスタ―に導かれ奇顔城の王女となった後、どこかの時点でスタンド能力(=透明になる能力)に目覚め、自発的な意思を持った超能力者として、自らの運命に戦いを挑む。
透明な身体は不遇では無く、自らに備わった能力であるとして、ロックやアラバスタ―とのトリックバトルに挑んでいるような気がする。
ーーほとんどトリッシュかジョリーンのような展開になってしまうのだけど、現代の読者の視点からすると、亜美の置かれたありようがちょっと古臭く、悲劇の型にハマりすぎてる感じがした。


手塚治虫のマンガが面白いのは、ジャンルやストーリーの種類を問わず、作者の世界観、テーマに一本 筋が通っており、読む価値の無いモノを作らないことである。
絵作り、キャラクター作りの魅力もさることながら、ストーリー展開のうまさ、テーマと世界観の押し出し方のうまさ、作者の見識・哲学の面白さ、文芸面の魅力が手塚マンガを唯一無二の存在に押し上げていると思う。

「学研まんが NEW世界の歴史」を最近 読んだのだけども、これと共通する面白さ、物語の厚みが手塚治虫のマンガにはある。
つまり、社会の歴史、人間の生活の厚み、国家や地理の時間の重なり、人間が幾世代に渡ってどのように生き延びてきたのか、何を求めて何を失ってきたのか、
時間と経験の厚みがストーリー・キャラクター・世界観・テーマに反映されているからこそ、単なる紙に描かれたインク染み以上の、単なるコマ送りの動く映像以上の、目に見えないものを可視化して読者に伝えることができるわけである。


アラバスタ―と同じく、手塚治虫マンガ全集収録作品で、「手塚治虫のマンガの描き方」という本がある。
荒木飛呂彦の漫画術」と似た立ち位置の本で、手塚治虫のファン、(手塚を基礎とする)戦後マンガのファンの方ならば、いちど手にとって読んでみることをお薦めします。

現代マンガの高度なデッサン・デフォルメ、CGを用いた画面づくり等は学べませんが、
表面的な視覚効果以外のマンガのほぼ全ての要素は、手塚治虫によって基礎がつくられ、現在までの規範(=教科書)となっていることが確認できると思います。

マンガの描き方では、あとがきにかえて、作者自身による作者へのインタビュー(という短文)が掲載されています。
マンガは「批評」ですよ、という一文で同書は締めくくられる。
文章の切れ味が鋭く落語調の面白さがあり、マンガの根本は絵と話、ビジュアルと言葉の両方にある、ということがよく分かります。地味ですが、おススメの一冊です。

The Rainbow Children 40歳の節目に抱いた、極個人的な感想



(下記 ジョジョとは殆ど関係のない記事となり、申し訳ありません。
プリンスのThe Rainbow Childrenを中心に、自らの思うところを述べた極個人的な記事です)


今年の夏 めでたく40歳を迎えることができた。
40歳という年齢は人生の折り返し地点を過ぎており、60歳まであと20年、意識と体力を高く保って働けるのはそれよりもさらに短いだろう。

40歳の節目を越えるにあたって、自分自身、どのような40代を送るべきか、
これまでと較べてどのような人生を送らねばならないか、ゴールから逆算して考える、想像することがままある。


映画を観るとき、1回目ではどんなストーリー、どんなラストになるかに気がそぞろでソワソワしていて、
一回 観終わった後、(後日)2回目を見返したときに、映画の全体像がよく分かり、作品の細部と全体をじっくり楽しめることがある。

映画でも小説、マンガでも同じだと思うが、作者の年齢、人生の歩みと呼応するように個々の作品は紡がれており、
ある作品を読むとき、読者(自分)の人生に重ねつつ読むことで、新たな発見が得られたり、感動・共感が深まることがある。


プリンスは2016年、58歳で亡くなったが、プリンスの死後 彼の人生が完結することで、作品像の全体が把握しやすくなり、
また、彼の年齢に読者(私)が近づくことで、これまで見えなかった彼の世界観が見え、理解が深まることがあった。

プリンスと私の出会いは1992~93年、私が高校生で、ジョジョ第4部の連載が始まった頃だった。
第4部の舞台設定がプリンスの1999に在ることを何かで知り、サイケなジャケットにも魅かれて、1999をレンタルしたのが始まりだった。
とても明るく拡がりのある世界観、キーボードのシンプルな和音が大好きで、カセットテープで繰り返し聴いたものだった。
(これより以前 パープルレインやバットダンスなど、TVでプリンスを聴く機会もあったのだが、自分からプリンスを求めて聴いたのは、1999が初めてだった)

1999を気に入って、その後 80年代の傑作群、元プリンスに改名してからのニューアルバムも買いこんでいったのだが、
プリンスの曲を聴いていて、どうも自己愛・自意識過剰が強すぎると思い、(近親憎悪のような)嫌悪感を抱きだしたのと、
マイテとの結婚がうまく行かなかったりしたニュースを聞いて「実生活に説得力がない!」と憤って、プリンスから離れることになった。
(その当時 自分はただのヒマな学生で、仕事もせず恋人もいなかったというのに、だからこそ?、プリンスに過剰に思い入れ、そして一方的に幻滅していたのだろう)

その後 大分時間が経って、今年になって、プリンスが死んだのをきっかけに、彼のアルバムを聴き返していた。
最近になって聴きなおしてみて、いちばん驚いたのは、1988年発表のLovesexyがとても素晴らしく、愛と人生をまっすぐに見つめた純粋な魂を表現しようとしている透明さだった。
学生当時に聴いたときは、件のカバージャケットはともかく、全曲が1トラックに結び付けられているのが我慢できず、ムダにせっかちな悪癖のある私は、「こんなワガママな1トラックの独り言を聴いてられるか」と思い、聴きこむ意欲が失せたものだった。

今はオッサンになって、ゆったり時間を過ごす方法、1時間くらいのあいだゆっくりアルバムを聴きこもうという余裕が持てるようになったので、
Lovesexyも、The Rainbow Childrenも、頭から最後まで、それなりに集中して聴いて楽しめるようになった。

ドルトムントコンサートを観、アルバムを聴き返して分かったのだが、
Lovesexyは、(プリンスらが扮する)天使たち、愛と真実の使い手たちが、地上に降り立って「愛を広めるコンサート」を行っているかのようなスタイルを採っている。
30歳前後のプリンスは音楽的才能の絶頂期で、体力・精神力の高まりもピークにあり、とてつもない切れ味でコンサートを取り仕切る。
Aiphabet St.からAnnna Stesiaに到る一連の流れが聴きどころで、1999の爆発的な高揚感からスタートして、Lovesexyで天を掴む、神の位置に限りなく近づこうとしているかのような、そんな幻を思わせるほどの迫力がある。

そして2001年発表のThe Rainbow Childrenは、Lovesexyに続く「神に捧げるゴスペルアルバム」である。
プリンスは40歳を越えており、結婚・離婚を経験し、子供との出会いと別れがあり、父母の老いを見、20年間の様々な音楽家のキャリアを経て、
色んなことが人生に起きて、そしてその人生が通り過ぎてしまう前に、波と波の間で、
今 在るところの、キリスト教の福音、自らの信じ、考えられるところの物語を綴り、一本のアルバムを書き起こした。そんなアルバムであったと思う。

The Rainbow ChildrenはLovesexyに較べると幾分地味で、落ち着いており、芸術家がピークにあるときの神がかった全能感と迫力は薄れている。
私はキリスト教の信者では無いが、他人の考えを知ることには興味があり、
プリンスが語るキリスト教の物語、彼が何を信じ、何を求めて人生を戦ってきたのか、これからどう生きていくのか、彼の宗教と哲学を知ることは興味深かった。

独断によるとThe Rainbow Childrenは、ラスト曲のLast Decemberに向けて全てが盛り上がっていくアルバムで、
1曲目から6曲目までの流れ、She Loves Me 4 Me辺りのタメを挟んで、キング牧師の演説からラスト曲までの異様な盛り上がりはとにかく素晴らしい。

アルバムの中で、The Rainbow Childrenを巡る、(プリンスの解釈による)聖書の新たな物語が紡がれていくが、
Family NameでThe Rainbow Childrenは現実の黒人(人種)の物語であり、永遠に在る今を語るEver Lasting Now、そしてLast Decemberが最後を締めくくる。

Last Decemberの歌詞は、プリンスが自分自身を鼓舞するように語りかけるでもあり、亡くなった我が子の魂に語りかけるようでもあり、そしてもちろん、聴き手のファンたちに語りかけるようでもある。
己の人生、これまでの道程を振り返った末に、僅かの静寂、沈みが有り、その後に爆発し畳みかけるのが、1999で聴いた、あのシンプルで華やかな、夜明けを告げるかのようなキーボードとギターの輝きであった。
「ここであの音が鳴るのか!」と感動し、胸が震えずにはいられなかったし、繰り返し聴いていても、やっぱりそう思う。
ーー私としては、高校生のときに1999に出逢って、そして今 40歳になってLast Decemberに出逢えて良かったとつくづく思った。


プリンスのアルバムで、最近によく聴くのはLovesexy、The Gold Experience、The Rainbow Childrenという辺りなのだけども、
今の自分にとっては、40歳を越えたプリンスの、ある種の達観、悟り、世間に期待しないが絶望もしないというような落ち着いた態度、
自意識や性欲の高ぶりが冷めて、しかしまだ熱い熱情が胸の中で燃えているような、そんな精神のありかたがとても気持ち良く、落ち着いてフィットする。


プリンスのアルバムは、特に2000年以降のモノはまだ聴けていないものが殆どで、これから先 新たな音源を発掘して聴き込んでいく楽しみがある。
ジョジョのシリーズは、1部開始以降 リアルタイムで読み続けているので、新たな作品を発掘する楽しみは少ないが、年代と共に読みどころ、作者の意図を新たに掘り起こす楽しみがある。
月並みな表現ですみませんが、「虎は死んで皮を残す。ヒトは死んで作品を残す」ということで、
プリンスやジョジョ、そして私自身も、死ぬまでにどんな作品を残せているのか、生きている間の足跡作りが全てなのだと理解、反省させられる。

最後になりますが、プリンスのLast December、この曲の歌詞を引用して記事を締めくくりたいと思います。
(興味のある方は、こちらのリンクから同曲を購入できると思います。ご参照ください)


"Last December"

If ur Last December came
What would u do?
Would anybody remember
2 remember u?

Did u stand tall?
Or did u fall?
Did u give ur all?

Did u ever find a reason
Y u had 2 die?
Or did u just plan on leaving
Without wondering y?

Was it everything it seemed?
Or did it feel like a dream?
Did u feel redeemed?

In the name of the Father
In the name of the Son
We need 2 come 2gether
Come 2gether as one

Did u love somebody
But got no love in return?
Did u understand the real meaning of love?
That it just is and never yearns?

When the truth arrives
Will u b lost on the other side?
Will u still b alive?

In the name of the Father
In the name of the Son
We need 2 come 2gether
Come 2gether as one

In ur life did u just give a little
Or did u give all that u had?
Were us just somewhere in the middle?
Not 2 good, not 2 bad?

In the name of the Father
In the name of the Son
We need 2 come 2gether
Come 2gether as ONE

 

 

1890年 スティール・ボール・ラン 記者会見

最近、仕事と趣味を兼ねて、にわかに世界史を勉強し出している。

宮崎正勝「スーパービジュアル版 早わかり世界史」という本が、最初に読んで面白かった本で、
暗記事項の詰め込みだと思い込んでいた世界史から、「理解して、歴史の動きを捉える」面白さに目覚めさせてくれた。

「マクニール世界史講義」(The Global Condition)という文庫本があり、
ヨーロッパ世界がいかにして拡大したか、フロンティアラインの発展が述べられていて面白い。

日本(国家)の行く末は勿論、官僚と市民の力関係、大企業とベンチャー企業の競争関係なども思い起こさせ、
さまざまな事象に当てはめ、物事の骨組を類推することができ、
「歴史をいかに活かすことができるか」は、これからの未来を生きるための、大切な勉強になると思う。


 ***


マクニール世界史講義 グレートフロンティアという論文で、
1890年 アメリカ国勢調査局が「フロンティアは消滅した」と発表した、と述べられている。

アメリカ大陸の西海岸まで、開拓の波が行き渡ったことを述べているのだが、
ジョジョにおける1890年とは、まさに、スティール・ボール・ランレースが開催された年である。

個人的な推測であるが、これは偶然の一致では無く、
荒木先生が「近代の始まり」「ジョジョの新たなシリーズの幕開け」を描くにあたり、意図を持って、1890年のアメリカを舞台に選んだのではないかと思っている。


アメリカの東海岸から始まった開拓の波が、西海岸にたどり着き、開拓の余地が無くなったとされた、国勢調査局の宣言。
ならば、今度は西海岸から東海岸へ逆ルートの旅を行い、「自分たちの開拓地」を見つけていこうとするのが、
スティール・ボール・ランレースのコンセプトだったのではないだろうか。

スティール・ボール・ランレースは、西→東にアメリカ大陸を横断する試みであり、
これは、(6部の)未来から19世紀への巻き戻しに一致する。

レースのゴールポイントには聖人(キリスト)の遺体があり、
すべての出発点、原点に立ち返り、自然と戦い、道を切り開く主人公たちを描いたのが、SBRの物語であったと思う。


ジョジョ1部の主人公 ジョナサン・ジョースターは、1868年生まれである。

日本では明治維新のあった年、明治元年で、荒木先生がどこまで意図したのかは分からないが、
「日本の、近代化の始まりの年」に、ジョジョの起点が置かれたことは興味深い。

ジョジョのこれまでのシリーズは、19世紀末~21世紀初頭までが物語の舞台に選ばれ、
未来の果ての物語や、古代や中世の秘密の歴史などが、主人公の舞台に選ばれたことは無い。

これは、荒木先生が「リアリティーあるサスペンス」を作品の基調とするために、作劇上 あまり日常(現代)とかけ離れた時代は描けないとインタビューで述べているし、
また、荒木先生の問題意識が「現代人(近代人)の在りかた」に向いているため、自ずと、近代に生きる人間たちが、描かれる対象として選ばれているのではないかと思う。


いわゆる名セリフ・名言の類をマンガに求めるのは、あまり個人的に好きではないのだが、
ジョジョを読んで燃えたメッセージの一つに、スティール・ボール・ラン 冒頭の、スティール氏の記者会見がある。

SBRレースが歴史上初の試みであり、アイデンティティーに開拓の精神があること。
そして、真の失敗とは興業が失敗することではなく、開拓の心を忘れ、困難に挑戦することに無縁のところにいる者たちを指すのだ、と。

このレースに失敗なんか存在しない、存在するのは「冒険者」だけだ!と叫んで、スティール氏の会見は締めくくられる。

冒険者の精神とは、まさに「ジョジョの奇妙な冒険」の物語の根幹であり、
近代のはじまりに立ち返った7部の冒頭で、スティール氏の口から、ジョジョのテーマの根幹が、改めて提示されたのだと思う。

SBRレースが始まった後は、スティール氏はほとんど活躍の機会が無く、
マジェントマジェントに銃撃された後は(連載期間で)2年以上も重傷のまま寝込み続けることになった。

しかし、スティール氏が列車のルーシーを連れ出しジャイロに託した時点から反撃の気運が盛り上がりを見せ始め、
レースの最後 無限の回転に崩れ落ち去ろうとしていたジョニィを助けたのは、かつて騎兵隊に加わった馬乗りのスティール氏であった。
ルーシーの活躍無くして、大統領の陰謀を食い止めることは出来なかったが、これもスティール氏という夫の存在があってこそで、
スティール氏こそは、7部の物語の陰の主役、物語の舞台と進行を裏で支える、基盤となる人物だったのだと思う。


サンドマンポコロコ、ホットパンツ、ジャイロの父も魅力的なキャラクターで、
可能であれば、彼らにスポットライトを当てた外伝話・短編を読んでみたい。

近年 岸部露伴を語り手にした短編が断続的に発表されているが、露伴だけでなく、
SBRのキャラクターのスピンアウト話、その他のキャラクターの外伝話も、できれば読んでみたい。

8部 ジョジョリオンが完結した後、荒木先生の気が変わって、そいういう外伝話・短編連作が発表されるようになったら嬉しい。)