ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョのテーマ、世界観 「人間中心主義」と「人間賛歌」

ジョジョの奇妙な名言集 上巻の巻末で、中条省平が、ジョジョ1部~7部までを概説するすぐれた小論文を書いている。
中条は、ジョジョ4部ラスト 吉良と早人たち主人公の対決を端緒に、5部以降のジョジョで「運命と自由意志の対立の主題」が描かれてきたと述べている。

名言集 下巻の巻末で、中条に呼応するように、荒木先生が、ジョジョ1部~7部までのテーマ、ストーリー、セリフが産まれたいきさつを語り下ろすすぐれたインタビューを発表している。

(名言集そのものは、マンガ単行本を二番煎じしただけの陳腐な、低コストが取り得の売らんかな企画。マンガのワンシーンに訳の分からないカラーフィルム?を被せ、文字は読みにくく、絵も見にくく、こんなひどい出来の構成物をよく売ろうと思ったなという代物だが、巻末の2本の記事には価値がある)


名言集より 荒木先生のことばを借りれば、5部~7部で描かれるテーマのひとつは、「生きている悲しみ」を描くこと。

運命や宿命。運命に立ち向かう人間たちを描くことが、生きている悲しみを描くことである。

ジョルノ、ジョリーン、ジャイロ… 主人公たちの活躍はもちろん、敵役にも、運命に立ち向かう、ひとりの人間の生きざまがある。
荒木先生は、例としてプッチ神父、ディオ、ヴァレンタイン大統領を挙げている。

 


名言集の荒木先生インタビュー 最後の節にて、ジョジョのテーマには、大きく2つあると述べられている。
ひとつは「人間中心主義」、もうひとつは「人間賛歌」である。


ジョジョの世界観として、神様は絶対ではない。
ルネッサンス思想(人間中心主義)より、人間が神様に支配されているのではなく、人間が幸せになるために神様がいる という発想、思想、価値観がある。
ジョジョ全編を通して、そうした価値観、セリフが貫かれている筈です と荒木先生は述べている。

先日 わたしのブログ記事で、「ジョジョ6~8部は宗教3部作。荒木先生と宗教の対峙を描いた3部作である」と述べていた。

ジョジョ6、7、8部は、宗教とは何か、宗教と作者の対峙を描いた3部作である - ジョジョ読者のブログ


そのあたりのことを、(さらに詳細に、明確な形で、作者本人である)荒木先生が述べている。

名言集は2012年4月発売の本であり、8部序盤の頃に本インタビューは執筆された。
(うろ覚えだが)ジョースター地蔵のエピソードが執筆される前後くらいの時期であり、ロカカカの実の争奪戦、透龍くんたち岩人間の構想は、おくびも作品に出てきていない。
8部完結後の今 振り返ると、「厄災」と戦う8部のラストバトルは、運命や宿命の必然と戦う主人公たちの、2011年現在のさらなる発展形だ。
東日本大震災の厄災、東方家に先祖代々伝わる呪いの病などは、正面からぶつかって打ち倒すことはできず、いかにかわし、生き延びて、状況に対応していくしかない とうところで、8部のラストバトル、最大最後の戦いは描かれた。

そして続く9部では、運命がもたらす「不条理」に怒り、静かに立ち上がり、戦いを挑む主人公たちが描かれている。
9部は第2幕連載中であるが、ジョディオたちが運命に立ち向かうことを忘れることだけは決してなく、生と死をわかつ結果を挟みつつ、運命との戦いが描かれていくのだろう。


荒木先生が述べるところ、人間賛歌の骨子。

連載開始当初 1部を描いていた頃からのテーマとして、「主人公が死んでも何かを伝え、残された者に受け継がれていく」ことを、荒木先生はジョジョで描いてきた。

ツェペリさんとジョナサン、ジョースター卿とジョナサンの関係。マリオとシーザー、シーザーとジョセフ。ジョナサン、ジョセフの戦いと、承太郎たちの戦い。アヴドゥル、イギーとポルナレフ。花京院とジョセフ、承太郎…。枚挙にいとまが無い。
5部のラスト ジョルノが「去ってしまった者たちから受け継いだものは、さらに前に進めなくてはならない!」と宣言したのは、まさにこのテーマの、教科書的集大成な演説だろう。

主人公が死んで何かを後継に託す。それは意志や血統であり、(そうした構成要素の登場、連鎖こそが)スタンドのアイディアよりも重要です、と荒木先生はハッキリ述べている。
ジョジョの神髄は、スタンドバトルの無限の連鎖のバトルフォーマットにあるのではなく、ストーリー、キャラクター、世界観やテーマの描き込みにあるのですよ、という訳だ。

勇気や人間が素晴らしいものであり、それを肯定する作品として、ジョジョを連綿と描き続けてきた。
「人間がとにかく一番」 人間が絶対に素晴らしいものであるという単純すぎる認識こそが、ジョジョのコアであり、人間賛歌の物語を描き続けてきました と荒木先生は述べている。


もはやわたしが贅言を付け加える術は無い。
斎藤環が述べたところ、ジョジョの「過剰な健康さ」の正体は、荒木先生の価値観、そのポジティビティーに有る。
正しいものを正しいと信じる、信じたいその朗らかさと、あふれでる生命力の輝きが、ときに過剰だったり、気持ち悪かったり、反モラルだったりする、荒木飛呂彦のジョジョ世界を描いてきたのだろう。
人間中心主義と人間賛歌が、ジョジョの根底のテーマ、世界観である。

ジョジョ5部は「番外編その2」から、いかにして一つの物語に脱し得たのか

このブログを書き始めた当初 「ジョジョをリアルタイムで読んだ記録」という記事で、こんなことを書いていた。

ジョジョをリアルタイムで読んだ記録 - ジョジョ読者のブログ

 4部の終わり 早人が猫草に祈りを捧げるあたりで、ジョジョを読むのは相当辛くなっていた。シリーズの終わりを感じたからだ。
 しかし、ここからの早人の巻き返し、ジョウスケと吉良の戦いには心動かされるものがあった。

 その後、まさか5部が始まるとは思わなかったが、今から番外編その2を描かされるのか、無事に完結できるのか?と不安が大きかった。


宅八郎も同様の感想を持っていて、ブブカ1997年8月号 荒木先生と宅八郎の対談で、こんなやりとりが記録されている。

 宅 ところで、今の第5部イタリア(ギャング)編って、一年以上やってるのにまだ導入感が強いんですよ。全体像が見えてこないでしょ、5部って。先が読めないんですよ。
 荒 読めない・・・・・・か、オレも読めないよ(笑)。まあ、正直まだ考えていないところもありますよ(笑)。ジョジョは3部で終わるはずだったから、本当は。でもテーマがあるから安心してよ。
 宅 最初は、主人公がボスを最終的にやっつけるって決意するじゃないですか。ただ、今はボスにとっての裏切り者を処刑しながら話進んでるじゃない。
 荒 そうですね。会社組織の中でもあると思うんです。こいつはいつか消さなきゃって思っていても、この計画のなかでは、今は嫌いな上司を支持しとくのが有利だから、嫌いな奴とも手を組んでおく、とか。
 宅 政治的判断(笑)。集団意志というか。
 荒 そうですね。5部でやりたいのは「正義とは何か!」って奴。たとえばヤクザの理屈ね。『ゴッドファーザー』みたいな。
 宅 ゴットファーザーは、何が正義か解らないもんね。メソメソしてないし。
 荒 メソメソじゃないよ!前向き。吉良も自分の論理に忠実に生きてる人間じゃないですか、前向きに。ウジウジされると嫌なんだよな、読者もそうだと思うよ。それと、とにかくキャラクターを一人一人描き込んで行こうかと。


また、ユリイカ1997年4月号 斎藤環先生による荒木先生へのインタビューで、こんな率直な発言もある。

 荒木 トーナメント方式は読者には受けるので、編集者がやっぱりやろうか、と言う時もあるんです。でもその時は「うーん。でもこの敵が終わったら、その時僕はどうすればいいんですか?」みたいなね。実は、第四部の杜王町の時に、これで終わりかな、と思ったことがあったんです。また違う漫画を描かなきゃいけないのかなぁと。
 ところが、編集部が「休みは駄目だよ」と言うから(笑)。それで仕方なく、無理やりキャラクターを作って始めましたが、でも描いているとキャラクターに情が移ってきて。
 ―― 広瀬康一がうまくバトンタッチをしたという感じで、読んでいるほうは何も違和感というか、本当に作為が感じられなかったですよ。
 荒木 あそこは結構作ったなと自分では思っています。でもだんだんキャラクターに入っていくところから、そういう感じがなくなるのかな。


1997年4月~8月 ジャンプの連載で言えば、ベイビイフェイスが登場し、ギアッチョとの戦いが描かれた辺りである。
「ボートに乗るのは!?」の話でボスたちを裏切る話が描かれる前、物語が大きくうねる転換点の直前で、物語の全体像が見えにくい時期だった。

3部、4部と毎週の連載をジャンプで読んでいた身としては、(ジャンプコミックで一気読みするのと較べて、一話ごとの進みは遅く、1週間ごとに続きを待たされるので)同じような展開が続くと、読むのがかったるくなる。
5部を連載で読んでいて、「また、3部のときからのフォーマットの、6週完結で1バトルの、延々と続くフォーマットを読まされるのか…」という感想があった。

ジョジョは本来3部で終わった作品(ひとつのテーマ、物語の流れを描ききった作品)で、4部が番外編として有り、そこから先、さらに何があり得る?というのが、5部連載当時 1995~1996年頃に抱いていた読書感だった。


ジョジョの奇妙な名言集 下巻に、荒木先生のインタビューが載っている。バトルのインフレを要請する少年ジャンプ編集部に対し、作者は一抹の不安を抱いていたと述べている。
インフレバトルを描き続けることで、マンガ家の創作意欲が破壊されてしまったら、一体どうしたらいいのだろう と。

1部映画のムック本 荒木先生のインタビューでも、「終わりたいのに終われないマンガ家さんは不幸だと思います」と述べている。


この記事でわたしは、少年ジャンプの編集方針に代表される、商業誌の人気第一主義が一概に悪いと言いたいのではない。
商業誌の要請とマンガの芸術性は二項対立として扱われやすい。たとえば週刊少年ジャンプとガロは対極の雑誌である。

わたしが思うのは、荒木先生はガロで描けば、あるいは今ならYouTubeでマンガを連載すれば、もっと自由に、荒木先生の本領を発揮できただろう ということでは無く。
椛島編集が「メジャーでマイナーをやるから面白いんだ」と荒木飛呂彦を励まし続けたように、商業誌の枠組みで、競争の中でジョジョを描き続けたからこそ、同作はたくましい人間賛歌のサーガを描けたのだ、という指摘である。


5部で物語の大きな転換点となったのは、ヴェネツィアでブチャラティがトリッシュを護り、ボスを裏切り死ぬ。
ジョルノのスタンドで蘇ったブチャラティが仲間たちに裏切りを告げ、フーゴを除く仲間たちがボートに乗り、自らの運命を選択していくくだりである。

ここから先、ジョルノたち主人公チームの「覚悟」が固まり、自分たちを取り囲む困難との戦いが、熱い息吹をもって描かれていく。
ヴェネツィアのボートに乗るのは!?の話をもって、5部は(3部から続くスタンドバトル短編を連鎖させるフォーマットを続けつつも、)テーマの面で成長・深化を遂げ、(3部フォーマットの)番外編その2から脱した、と言えるだろう。


ジョジョの奇妙な名言集で、5部のテーマとして、荒木先生がこんなことを述べている。以下要約。

 (時代や風潮に応じて、自分が描いていくことが変化していくという事例として、5部連載当時) 自分だけがよければいいという社会の風潮への反発があった。
  組織を飛び出して、自分を犠牲にする人間を描きたいと思いました。
  (中略)
  組織から離れ、利益のために生きない人間を描きたかった。
  自分を育ててくれた組織や今まで恩を受けた人間に、生きるか死ぬかの戦いを挑む。
  どうしたって腹をくくる必要が生じ、そこに「覚悟」が生まれる。

ジョジョメノンのインタビュー、また名言集のインタビューにて、荒木先生は、ジョジョは1~3部の初期構想があり、3部から自然に広がった派生形の4部を描き、ジョジョは4部でいちど終わったと述べている。
5部からはグッとテーマが深化し、5部のエピローグ 運命の奴隷のくだりには、ジョジョの神髄、人間賛歌の神髄が描かれている と自画自賛している。


一読者のわたしとしては、荒木先生のここまでの激賞に、ちょっとした違和感がある。

5部がひとつの物語として、3部、4部とはまた違うジョジョの物語を描いた、連載作品を描き切ったことは確かだ。
しかし、5部の後半~エピローグまで、ジョルノたちとボスの戦いは、スタンドバトルの展開、何がどうなってどう逆転し勝ったのかがイマイチ分かりにくい展開が多く、ポルナレフ再登場~ボス討伐までのくだりがジョジョの神髄か?と言われると首をひねるところがある。
ジョルノとブチャラティ、主人公チームのキャラクターは描かれていたが、対するディアボロのキャラクターが弱かった。
ジョルノたちとの対立軸が今一つ不明確で、「悪いことをしている、許されないギャングのボス」という以上のパーソナリティー、なぜボスがギャングになりなぜ麻薬密売や殺人に手を染めたかという動機、キャラクター形成が描かれなかったので、ジョルノたちとの対立軸が読み取れなかったのだと思う。
ドッピオとディアボロの二重性は面白かったが、ディアボロ自身の素性、人格が、謎と超常性が仄めかされ、それだけで終わってしまった印象だ。

ジョルノたち主人公チームの出生(物語への登場、初期設定値)、戦いを通じての成長、生と死を分かちつつもキャラクターたちがどこに至ったかの落着点を描ききった。
4部連載終了時、何のテーマもキャラクターも残っていなかったところに、商業誌の要請により連載を続けざるを得ず、何もないところからキャラクターを作り、物語の行く末を描きながら模索し、紡ぎ出していった苦心の作品。

わたしが5部に抱く感想は、以上のようなものである。
これはあくまでわたし個人のうがった解釈かもしれないが、名言集で述べた荒木先生の発言、組織を飛び出し自分を犠牲にし、利益のために生きない人間たちとは、ジョルノたちのことはもちろん、荒木先生自身を指すのではないかと思っている。

週刊少年ジャンプで連載を続け、椛島編集はすでに去り、作者ひとりで物語を描き続けなければならない状況が続いている。
商業誌のルールや制約条件を受けた商業作品を描きつつも、マンガ家としての創作の魂を曲げ、損ない、無くすことだけはしたくない。
ストーリーを描き進める中で、何もないところから生まれたジョルノ、ブチャラティたちが何を見つけ、何にたどりつくことが出来たのか?これを描いた苦闘こそが、5部 黄金の風で描かれたストーリー、テーマだったと思う。

ジョジョメノン インタビューでの作者の激賞、5部文庫本 巻末での、荒木先生からジョルノたち主人公へのお礼、「君たちは苦しいときにこそ吹く、黄金の風でした」との言葉は、そのような、作者の内的対話、連載の戦いの振り返りを描いていたのだと思う。

ジョジョの前史 編集者の語る2冊より、週刊少年ジャンプの歴史を振り返る

西村繁男 さらばわが青春の『少年ジャンプ』、 後藤広喜 「少年ジャンプ」黄金のキセキ という2冊の著書がある。
週刊少年ジャンプの編集者、のちに編集長を務めた2人が書いた本で、西村氏の本は編集者としての自分史、後藤氏の本は、編集者の視点からジャンプ作家と作品を語り直す本となっている。

いずれの本もとても面白く、当時の少年ジャンプがいかに作られたか、商品・事業としていかに拡大成長していったかの軌跡を知る貴重な資料となっている。
編集者の視点から、ジャンプ作家と作品をどう捉えているかを知る、マンガ批評としても読むことができる。

西村氏の本は、1990年代後半 わたしが20代の頃にも存在を知っていたが、
当時は私もひねくれた若者であり、「鳥山明を使いつぶした編集部の面々が、何を回顧面して青春語りしているんだッ!」と義憤を感じ、まともに読もうと思わなかった。
今読むと、西村氏の言動に好悪の両面を感じないでもないが、それはそれとして、集英社という出版社における商業誌の創刊と育成、当時のサラリーマンの働きぶりや煩悶、社会情勢時代情勢も加えて、とても面白い読み物だった。
後藤氏の本は西村氏に較べると読みごたえは薄いが、一個のマンガ作品を、編集者がいかに読むか、少年ジャンプ編集者・編集長(中の人)がこんな風に読んでいたのか という視点の共有が新鮮だった。

少年ジャンプをとりまく実像は、もちろん、西村、後藤氏の二人だけで描き、暴かれるものではない。視点の偏り、抜け落ちた情報も勿論あるだろう。
しかし、編集部の中の人の残した資料として、当時のマンガ作品の裏側、背景を知る資料となることは確かだ。

以下 2冊の本の読書メモを記しながら、荒木飛呂彦 ジョジョの奇妙な冒険との連関を、つらつらと記していく。


 ***


西村氏の著書(以下「西村」)を読んでいて、編集者たちの若さ、血気盛んさに、読み物として惹きこまれる。

西村を通して、繰り返し描写されるもの。それはスピードである。

 スピード

 ジャンプ

 創刊メンバー 長野氏が考えた、新雑誌「少年ジャンプ」のキャッチコピー 「ぜんぶ漫画、ぜんぶ読切、新しい漫画新幹線」


スピード。 

西村P95 
読者アンケートが1000通溜まったところで、無作為抽出によりハガキを取り出し結果を読み込む。しかし、「もう待てなくて」100通溜まったところから、ハガキを読み込んでいった。

月刊紙から隔週刊誌、そして週刊誌へ。 少年ブックから少年ジャンプへ、雑誌の展開。


西村P25 
昭和39年 第二次世界大戦を懐古的に振り返る、撃墜王を英雄あつかいする図解特集や漫画からの脱却。
東京都内の小学4~5年生を対象にしたアンケート調査。戦闘機等のメカニックに多大な関心を持ちつつ、戦争の悲惨さ、平和の大切さもよく理解していた。
同調査におけるイメージ調査で、 一番心あたたまることは 友情、一番大切に思うことは 努力、一番嬉しいことは 勝利 3つの言葉が選ばれた。長野は、この3つの言葉を少年ブックの編集方針に据えた。

後の少年ジャンプでは、3つの言葉の意味する要素を、必ず漫画の主題に据える。3つ全部が入らなくとも、1要素はなんとしても入れることが強力な編集方針となった。


後藤氏の本(以下「後藤」)より、少年ジャンプの編集方針が6つ挙げられている。

後藤P14
1、 毎号雑誌にとじ込まれた「愛読者アンケートハガキ」により、思い込みでなくデータに基づいた読者調査をすること
2、 メイン読者は、小学2、3年生から中学3年生に設定すること
3、 誌面は、漫画のみの掲載で構成すること
4、 新人漫画家の発掘と育成に努めること
5、 連載漫画家とは、年間執筆契約を結び専属にすること
6、 連載作品は、漫画家と担当編集者1名によるマンツーマン方式によって作ること


少年ジャンプ創刊メンバー(長野、中野、西村、加藤)による、スピード、スピード、スピード。猪突猛進の取り組み。
ジャンプ編集方針6か条の生成と具現化。
西村編集と本宮ひろ志の出会いを中心に物語が描かれていくが、本宮と西村の交流が目に見えて浮かび、鮮やかで面白い。
そのままで小説、ドラマ、漫画になりそうな、絵になる男たちのストーリーが描かれている。

本宮ひろ志に限らず、マンガは漫画家によるもので、文は人なり、作家による作家性が作品をつくり、ひいては雑誌の一時代を作っていたのだな とよく分かる。

車田正美のマンガはもっと速く、もっとすごく、と、ストーリーの展開、キャラクターの成長が右肩上がりに、爆発的に、とてつもないスピードで進化、拡大する。
聖闘士星矢 主人公たちがマッハを超えて、光速の拳を獲得するまでのくだり。ブロンズから黄金12宮へ、神々との戦いに進化していく、あのスピード感である。

ジョジョ9部 ジョディオの造形は、少年ジャンプの、男一匹ガキ大将~(男坂)~聖闘士星矢の系譜を継ぐ、ひとりの少年の物語である。
15歳のジョディオに与えられた課題 「上がっていけ」は、15歳の中学3年生が抱える普遍的なテーマである。


後藤P117
熱血漫画の基本とは何か。 後藤氏が、自らの考えを述べている。以下引用

熱血漫画の基本とはなんだろう。
主人公がなにをしたいのかハッキリしなかったり、戦って敗れてファイティングスピリッツを失ったり、ストーリーがどんよりして弾まなかったりした時、格闘技漫画やスポーツ漫画は人気が落ちる。
そのまま浮上できずう沈み込む漫画がある一方、ストーリー上の負の要因(ハンデや弱点の意味も含む)をはねのけ浮上する漫画もある。
簡単に言えば、浮上する姿を描く姿を描くのが熱血漫画である。

初めから負の要因を背負わない作品は、論外である。 
(略) 
負の要因を抱え、はねのけるところに熱血がある。
(略)
負を抱え正へ浮上するドラマにこそ熱血漫画が誕生する。
熱血漫画には、必ず地べたを這いずり回っている時期や状態を描く必要がある。そのときは人気も低迷するし、立ち上がれない場合もある。これが熱血漫画の難しさだと、わたしは思っている。

どんな時代になっても熱血漫画はすたれない。なぜなら人生とは平坦ではなく浮き沈みの激しいものだからである。
だれでも泣きたい、悔しいと思う時があり、うれしい時、楽しい時がある。これが人生の真実である。
生きている人間の真実を突いているのである。
新しいとか古いとかの問題ではない。熱血漫画は必ず読者の心を打ち、感動させるのだ。


ーー長大な引用になったが、滋味深い文章である。

また、後藤は、車田マンガは、戦う者の姿を美しく描く筆致は冴えに冴え渡ると褒める一方で、悪人を描くのがニガテで、ステレオタイプな描写に終始しがちだと指摘している。
北斗の拳以降の人気ストーリー漫画、ドラゴンボール、ジョジョ、ろくでなしブルースは、悪人や悪の描きかたがうまいというか、リアリティがある。その分、対決シーンにドラマとしての説得力があった と述べている。

リングにかけろの前編から後編への展開は、熱血から戦いの様式美へ、感動から美しさへの変容であった と、後藤は結論づけている。


ジョジョに絡めると、熱血漫画の基本構造の話は、荒木飛呂彦の漫画術で述べられた、プラスプラスプラスのストーリー作りとそのまま一致する。

後藤氏の本は2018年刊行、荒木の漫画術は2015年刊行であるが、両者の見解が一致しているのは、どちらがどちらをパクったとかではない。
少年ジャンプに息づいている熱血漫画、少年マンガの伝統を、荒木飛呂彦がすくいあげ、自らのマンガづくりの骨格、血肉としていたことの現れである。

ジョジョ9部作の主人公で言えば、マイナスからプラスへの主人公づくりで、主人公の共感、人気を得るのに苦労したと思われるのが、1部ジョナサン。
マイナスからプラスへ、ビルディングストーリーの王道を描ききったと思われるのが、7部ジョニィである。
そのような意味で、7部は1部のリメイク作品であるだろう。

 


後藤P114 漫画原作者賞を設立した経緯。 後藤氏の発言を引用。

戦後の漫画雑誌の急速な発展は、子ども向け小説や英雄豪傑物を内部に取り込み、少年小説や絵物語を壊滅的な状態に追い込んだ。
(略)
わたし(後藤氏)の頭の中には、マンガやアニメやテレビゲームの過度な一極集中は、漫画作品の質を落とすのではないかという危惧があった。
人は、「言葉」でものを考える、「言葉」で表現された表現物をおろそかにしてはいけないという考えもあった。


後藤P134 
(当時の新米編集だった)根岸は、(リングにかけろ当時)車田正美と話をする機会が増え、後に担当となった。執筆室にこもっていたゆでたまごともプロレスや対決漫画のアイデアについて雑談していた。
根岸は梶原一騎の原作漫画や横山光輝 伊賀の影丸をはじめとする少年漫画、山田風太郎の伝奇小説や忍者物を広く読んでいた。
対決漫画の展開方法をよく研究していたし、少年漫画雑誌ををやりたいために出版社へ入社した第1号ではないかと、後藤は思っていた。
後藤は、根岸編集の存在が、車田、ゆでの対決漫画に少なからず影響を与えた影響と考えている。

 


後藤P141
1980年頃の少年ジャンプは、(小学校)低学年読者を獲得できる漫画を作りたいとの課題を抱えていた。
ギャグ漫画、対決漫画の新規開拓。
後藤いわく 子どもの好きな漫画は、笑えるもの。低学年の読者は、一所懸命取り組むが、最後にズッコケるドジな主人公が好きである。一方、子どもは戦いが好きである。もっと言えば戦って勝ち進む主人公が好きなのである。
そして、これらの需要を充たした漫画がキン肉マンだった。

キン肉マンは、どんなに成長しても弱さ、頼りなさ、ダメさを最後までひきずっているヒーローであり、これがキン肉マンの不思議な魅力の正体である、と後藤は語っている。
また後藤は、リングにかけろを対決格闘技漫画の集大成と称しつつ、アストロ球団からリングにかけろ、キン肉マンと続く対決格闘技漫画の系譜を締めくくったのはキン肉マンだと断言している。

 


後藤P150
鳥山明のデビュー作 ワンダーアイランドは、後藤いわく、不思議すぎて分かりにくい漫画だった。

ドクタースランプは、アラレを主人公とするのかセンベエ博士を主人公とするのか、作者と編集者の相克?があったが、やがて同作はファミリー漫画に成長していった。
ファンタジー漫画の世界観を持ちつつ、作者の願いであろうファミリーを持ちたい、ファミリーとして平和に明るく楽しく暮らしたい願いを描いたファミリー漫画。
それがドクタースランプであろうと、後藤は述べている。

後藤氏の評論はひざを打つものがあり、子ども(4~6歳の未就学児)のときにアラレちゃんのコミックスを読んでいたわたしの実感、印象そのままである。

ドクタースランプは、わたしにとって「絵本」だった。


また、ドクタースランプは、少年ジャンプのカラーを変えた、エポックメイキングな作品でもあった。
後藤氏によると、本宮ひろ志以降の熱血硬派路線で、少年ジャンプのカラーが出来上がり、編集部が「男が男の子のために作る少年漫画誌」と同誌のキャッチフレーズを公言していた時代もあった。
(本宮ひろ志が少年ジャンプの大看板からは去り、江口寿史が登場するなど時代が変わりつつあったと、本ブログ著者は認識しているが… そんな環境下で)
ファミリー層の取り込み、ファミリー層からの認知、「お母さんから認められた漫画第1号」としてドクタースランプは人気を博し、漫画、アニメへと展開されていった とのことだった。

ドクタースランプの昔のコミックスを思い返すと、巻末にある他のマンガの広告、カバー袖に列挙されている連載マンガ群のタイトルを眺めていると、
異様に男臭い、暑苦しい、ともすればちょっとおっかない、そんなマンガが多かった。
ギャグマンガも、タイトルがアホとかトイレとかそっち方面のモノが多い。
それに比べて、ドクタースランプは洗練され、はるかに明るく、新しかった。
ウンコやエロを扱いながらも絵が上手く品があり、アラレちゃんたちのかわいらしさ、ファンタジックさは唯一無二だ と、こども心に思ったものだった。

 


西村P233 西村編集長が、腺病質な印象の鳥嶋編集に、真樹日佐夫の空手道場に通わせようとしたが、鳥嶋は逃げ切った。

西村P244 鳥嶋編集がドクタースランプのアニメ化にあたり、東映アニメーションと渡り合い、漫画家・出版社サイドが納得できるアニメづくりを手掛けていった。

後藤P151 2代目編集長 中野氏が、新年号の作家集合写真を考案した。ドクタースランプ連載当初の、鳥山先生のはじける笑顔が印象的だった。


西村P250 椛島良介は、麻布学園から早稲田と(西村の大学の後輩にあたり)、理性派。通常の漫画編集者が目につけない題材をこつこつと作品化していく遺書の編集者に育っていった。

後藤P207 椛島は、考古学をはじめとして、古代から現代までの西洋史に造詣が深く、マンガ編集者にはほとんどいない学者タイプの編集者だった。


後藤P249
1994年 週刊少年ジャンプが653万部の最高発行部数を記録する。
後藤は、幽遊白書のヒット、車田正美の変容 2つの要素を象徴として、ジャンプ黄金期の終了(頂点を下り、また次の時代に移っていく)を述べている。
幽遊白書は、作家と編集者による作品作りの実験場だった。人気漫画のおもしろさのツボを研究し、人気漫画のいいとこ取りをした連載漫画だったのではないかと自らの推測を述べている。
そしてまた、作品作りのこととは別に、幽遊白書の頃から、ジャンプマンガを基にテレビアニメ化するも、アニメで付いた新規ファンがジャンプ本誌を買わずコミックスだけを買い、追いかける現象が見られるようになってきた。
漫画雑誌の読まれ方が変わり、雑誌とコミックの乖離現象をはじめて経験した と述べている。

車田正美の変容とは、男坂の失敗を経て、聖闘士星矢が、はじめからメジャー路線をねらって描いたマンガとして描かれ、目論見どおり大成功した。
しかし、1990年代以降の車田正美は、熱血漫画を描かなくなってしまった。
車田は変容した。これにより、少年ジャンプにおける熱血漫画の灯は消えた というものである。


  ***


車田正美の変容を最後に、少年ジャンプから熱血漫画の灯は消えてしまった。 後藤氏の指摘は正しかったのか?

ここからは、ブログ著者(わたし)の私見を中心に述べていきたい。

1995年 ドラゴンボールが連載終了し、1997~98年 ジョジョの連載が5部中盤に差し掛かった頃、わたしは週刊少年ジャンプを読まなくなった。
はじめに目にした週刊少年ジャンプは、銀河 ー流れ星銀ーが表紙の号で、1983年頃 母親が(兄に頼まれ)買ってきたもの、それから足掛け15年近くほぼ毎週ジャンプを買って読んできたが、読まなくなったのは、自分が対象読者ではないと感じたからだった。

ワンピースの登場が象徴的で、鳥山明のマンガを読み育ってきた読者が漫画を描くようになった。
ワンピースは、(連載当初の1~2年 自分が目を通していた頃は)小学生~中学生前後の読者に向けて、少年主人公の活躍や成長を描く、折り目正しい少年漫画だった。
自分が少年漫画雑誌のターゲットから外れて、作り手の側の年齢、世代に回っていることを実感し、いい加減 もう、毎週 少年ジャンプを読んでる年ではないなと実感したものだった。
(最後に週刊少年ジャンプを買ったのは、ジョジョ5部 ドッピオがリゾットと戦い、逆転勝利を収めた回だった)

ドラゴンボール終了前後のジャンプで人気だった印象は、幽遊白書、るろうに剣心。
るろうに剣心が看板になっていったのを見て、ジャンプのカラーはたしかに変わった、と一読者のわたしも感じていた
(その頃に幕張というギャグマンガは論外な低基準のパロディ未満で、こんなマンガがジャンプに載るとは世も末だ、と内心苦々しく思っていた)

本宮~車田のラインが示してきた熱血少年漫画と、幽遊白書、るろうに剣心は、やはり作品のテイストが違う。
作者の資質が違うことはもちろん、全体的な方向性として作品がマニアックな方向に寄っていった印象があり、対象読者が中高生寄りになっていったように感じた。

ワンピース、ナルト、ハンターハンターなど、すこし後に出てきた作品群は、また、小学2年生~中学生を対象としたものに戻った印象がある。

自分語りが長くなったが、わたしが読んでいた少年ジャンプの記憶はかろうじてこの頃までである。
1995年~2026年までの少年ジャンプがどのように変遷していったのか、車田正美の熱血漫画、熱血少年漫画の系譜は少年ジャンプから途絶えたのか?
この20年間の少年ジャンプを読んでいないわたしには、答えることができない。

このあたりの変遷を追った作品として、バクマン、ブリーチ、鬼滅の刃などを読むと事情がよく分かる筈だが、私はあいにく、それらの作品を読んでいない。

わたしが知るところ、車田正美までに示された、少年ジャンプの熱血漫画の系譜を継ぐマンガが一つある。
それは、ジョジョである。


ジョジョは、荒木飛呂彦いわく、漫画の王道を描く作品である。

荒木先生は、自著 漫画術で詳しく自らの作品づくりを述べており、また近年のインタビューで「ジョジョは少年漫画の王道を意図して描いています」と度々述べている。
巨人の星、あしたのジョーなど梶原一騎作品の影響も根強い。(ジョジョマガジン6号にて、ジョナサンの死亡のシーンは、あしたのジョーのラストを意図して描いたとも述べていた)
同時にまた、ユリイカ 1997年、斎藤環によるインタビュー記事にて、荒木先生は、車田正美先生からの影響、また、自身はジャンプマンガの伝統に則っていると思います、と率直に述べている。

主人公を太眉毛で描かなければならないという「作画の呪い」を、1990年代中盤 ジョルノの頃に克服したこと。
(たしか、ジョジョアゴーゴーにて)巨人の星を、貧しさから脱却し皆で成り上がっていこうよ と、共感を得られるストーリーづくりの手本に荒木先生が挙げていたが、時代は、そこから変化している。

つまり、本宮~車田のラインで描かれた熱血少年漫画から、時代が変わり、社会状況が変わり、社会の問題意識や課題が移り変わる中で、姿かたちを変えながら、熱血漫画、熱血少年漫画は描かれ続けている。

車田正美が描いた少年漫画の灯は消えておらず、1つの後継として、ジョジョの奇妙な冒険の中にその灯はあり、描かれ続けている というのが、わたしの見解である。

 


ジャンプ編集者2冊の著書から、時代の移り変わりの面白さを読んでいた。

戦後。昭和30年代→高度経済成長期→オイルショックからバブルへ→653万部を達成したその後の時代へ。

子ども向け小説、英雄豪傑読み物の衰退 → マンガ雑誌の隆盛 → マンガとアニメ → ファミコン、テレビゲーム → インターネット、コンピュータへ


漫画スナックやスコというYouTubeで、巻来 功士「連載終了!」を取り上げていた。
当時の編集者が、巻来が大人気漫画家には脱皮しきれなかった要因、編集部サイドの反省として、面白いことを述べていた。

いわく、漫画には縦糸と横糸がある。
巻来くんは縦糸の人で、ストーリーを自分で作れる人だった。
編集者は(巻来の弱点である)横糸、キャラクター作りを手伝い補っていければ良かったのだが、編集者は経糸作りに長じた人が多く、そこで、作者と編集者の相互反応が生まれずに、作品をより洗練させ、読者への魅力を増し、ヒット作とする契機を逃してしまったのだ…という内容だった。


荒木飛呂彦の漫画術で、マンガには、基本4大構造がある。
ストーリー、キャラクター、世界観、テーマの4つ。これを表すのが絵であり、絵を補完するのがセリフである。

マンガの縦糸と横糸の表現は、後藤氏の著書でくり返し出てきた。少年ジャンプ編集者に伝わる編集技術の一つなのだろう。

荒木飛呂彦はマニアックな作家であり、椛島編集が、これを引き上げ一人前の作家に育てた、という趣旨の記述も、2冊の著書のどこかにあった。
荒木飛呂彦も相当な変わり者だったのだろうが、椛島編集も相当で、2人のコンビがあって、ジョジョは商業作品として成立し、今に至る展開の基礎を産み出した。
いつか、荒木飛呂彦と椛島編集が2人でジョジョを語り作す単行本を出してくれたらぜひ読んでみたい。
ジョジョマガジンの巻末企画 打合せ にて、2人の対談が散発的に掲載されており、ジョジョベラーにも2人のまとまったインタビューが掲載されているが、9部が近い将来に完結したら、キリの良いタイミングで、決定版の対談、ジョジョ創作史を振り返ってくれると嬉しい。
そんな未来を想像している。

ジョジョ名言集の巻末エッセイ、車田正美 人生を語らず、メジャーとマイナー 2つの重要発言

図書館でマンガ関係の本を借り、パラパラと読んでいる。
ざっくりとした読書メモ、忘備録。


●ジョジョの奇妙な名言集

2012年に発刊された上下2巻の新書。
企画趣旨に興味が持てず手にとらなかったが、巻末のエッセイ目当てに読んでみると、巻末部分は面白かった。

上巻 中条省平の解説。
1~3部、4~6部について、著者の教養をちりばめつつ、ジョジョの骨子がしっかりまとめられている。
見出しを並べてみても、グッとくるものがある。
 人間の超越をめぐる遍歴譚
 人間たる者の条件とは
 生命の連続性を問う、壮大な構成
 時間を超越する
 運命と自由意志の対立

下巻 荒木飛呂彦の語り下ろしエッセイ。
中条氏の解説に呼応するようなかたちで、荒木先生が、自作のテーマーー運命論、ルネッサンスの人間中心主義、人間賛歌 かなり深いところまで語り下ろしている。
しかし、この優れたエッセイのタイトルが「セリフは、ほとんどが天然で生まれています」なのは、ひどい。
こういう上っついたところが、ジョジョ関連書籍のイヤなところで、あまりお金を払って買いたくなくなる所以である。


●車田正美 人生を語らず
マンガ雑誌の人生相談を書籍化したもの。

見開き ページの左側に「読者からの相談」が載っていて、ページをめくると、「車田先生からの回答」が載っている。
マンガのように、あるいは漫才のように、読者のネタフリと、車田先生の返しの、やりとりの妙が楽しめる。

東大卒、外資系社員のイヤな奴をブチのめし、けなげで弱っている者にはやさしく声をかける。
硬軟の使い分けが面白く、車田先生の気風の良さは、人生相談でも、マンガ紙上でも変わらないことを確認させられる。

 

●「少年ジャンプ」黄金のキセキ

1986~1993年まで少年ジャンプ編集長を務めた、後藤広喜氏の著書。

まだ走り読みしている最中だが、マンガ編集者がどのようにマンガを読んでいるか、また、商売としてどう分析・解析、商品展開に繋げているかが垣間見えて面白い。

ジョジョ、聖闘士星矢について、(わたしのなかで、内容をはっきり覚えているが、どの媒体での発言だったか思い出せないもの2点。出典を示し引用されており、スッキリした)


・メジャーでマイナーをやろう 椛島編集の言葉

漫画家と編集者の出会いは「偶然」ってところがあります。
ぼくの場合も週刊少年ジャンプに持ち込みの電話をして、出たのがたまたま初代担当の椛島さんという方だった。
彼の影響がなければ、今のような漫画は描いていないんですよ。
彼がずっと「ジャンプでマイナーをやろう」と鼓舞してくれた。
「メジャー誌にマイナーが載ってるから面白いんだよ!」って。それで自由にやれたんです。

 (週刊文春2009年6月18日号より)


・聖闘士星矢は、連載開始当初より、メジャー路線をねらって開始したマンガだった

前の作品「男坂」が、無念の未完になってから、ほぼ一年半余り。
(略)
聖闘士星矢は、(略)最初からメジャー路線をねらってはじめたものです。

 (ジャンプコミック聖闘士星矢1巻 カバー袖の作者コメントより)

ドラゴンボールを振りかえる ストーリーマンガとギャグマンガの越境、交差

鳥山明先生のドラゴンボールについて、改めて思い返して考えた記事です。
原作マンガを最近に読み返したのではなく、頭にある印象を思い起こして、まとめたものです。


 ***


ストーリーマンガとギャグマンガ 大別して、マンガには2種類がある。
2つの要素が入り混じって一つのマンガになることも多く、単純に、2つを区分することはできない。

いまのわたしの感覚、最近の読書経験(楳図かずお、車田正美ほかの影響)に基づいて定義すれば、以下のとおり。

ストーリーマンガは、人生の苦悩、恐怖を描いたもの。
端的には、主人公が生まれ(物語に登場し)、成長し、衰退や喪失を経て、やがては死に向かうまで。人生の過程のいずれかを描いたものが、ストーリーマンガとなる。

ギャグマンガは、実人生からの解放、何かから解き放たれたことによる笑い。
永遠の日常。繰り返し。

構造と内容、2つの要素で対比するならば、ストーリーマンガの構造、後戻りしない一定方向への進展、ギャグマンガは循環。

内容面で言えば、ストーリーマンガは戦い(苦悩と恐怖)、ギャグマンガは笑いである。

 


ドラゴンボールは、ドクタースランプに続いて描かれた、鳥山明のマンガである。

ドクタースランプは、ほのぼのギャグマンガとして18巻を描き切り、10週置いた次作として、ドラゴンボールの連載が始まった。
前作と異なるいろいろな新機軸が導入され始まったが、1~2巻の展開は、ドクタースランプのテイストを残した、ギャグマンガよりの冒険ファンタジーだった。
ごちゃごちゃ整理されていない感じもあり、作品の模索期であったことも事実である。

悟空は何をしたいのか? 主人公を動かす動機は何なのか?
ピラフ大王との戦いを終えた後、作品の動機と方向性があらためて整理され、ドラゴンボールの物語は、いまに続くかたちで本格稼働していく。

ここから、作品中の印象的な場面、キャラクターのセリフを抜き出し(うろ覚えで書き出す)しつつ、物語を振りかえっていく。


コミック2巻 ピラフ大王との戦いを終えて、悟空が筋斗雲で空を飛んでいく。
「この世には、すごいやつがいっぱいいるんだな。 おもしれえぞ、それーっ!」

3巻 もっと強くなりたいと、亀仙人のもとを訪れた悟空。亀仙人より、修行の極意を教わる。
大切なのは、人生を楽しむこと。強くなった余力で、人を助ける。

亀仙人の元で学んだ悟空は、レッドリボン軍とはじめ、数多の戦いに乗り出していく。
戦いの連続、連続であるが、少年の冒険譚であり、(作中 登場人物の死は描かれるが、)子どもと大人の戦いであり、凄惨さや悲壮感はあまり強くなく、ファンタジック(ほのぼの感がある)。
子ども(悟空)がどこまで強くなれるか?を主軸に、物語が描かれていく。

主人公が青年に成長する。かつての敵との融和を描き、結婚し、青空に飛び立つ。

亀仙人が言うとおり、ここで、ドラゴンボールは1回完結している。
野生児だった子どもの悟空がどこまで強くなれるのか、神様に認められる存在になるまでに成長したところで、いちど、主人公の成長物語は描ききられ、ピークを迎えたと言っていい。


そのあとに続いたサイヤ人編以降の展開。
ここからのドラゴンボールは、わたしにとって、(毎週ジャンプで続きを読んでいたが)遠いところに行ってしまった、心の故郷から離れてしまった兄たちのような、そんな存在になった。

ドラゴンボール超全集(1995年 連載終了直後にまとめられたムック本)などによると、この頃の鳥山先生は、ほのぼのとしたギャグマンガ作家からの転身を図っていた。
悟空を青年に成長させたこと、ピッコロ大魔王という本当に悪いキャラクターをはじめて登場させたこと、それまでとは違う路線展開が見え、現れつつあったが、その転換が、サイヤ人編以降 決定的となる。

まず、絵が大きく変わった。カクカクとした線でキャラクターを描き、勢い、スピード感、迫力のあるバトルを描く。
もっと強く、もっと激しく。さらにスゴイバトルを求めて、戦いがどんどん激しく、強く、大きくなっていく展開に入っていった。

ドラゴンボールの作風が変わっていったのは、ナンバー1少年誌であった少年ジャンプの気風、バブル時代の高揚感などさまざまな環境要因があるだろうが、
作者の鳥山先生自身が、それまでとは違った、強く激しい、スゴイバトルマンガを描きたくなったことは事実である。
作者が30代とまだ若く、ギャグマンガだけではない、新たな表現に挑みたくなった、作家としての挑戦心、成長意欲が根本にあったのではないか と、わたしは思っている。


ベジータとの戦いが終わった後、悟飯、父、悟空たちが病院に集まり、誰がナメック星に向かうかを話し合うシーンがある。
悟飯がチチの制止を振り切り、死んでいった仲間を生き返らせるため、ぼくは戦いにいかなきゃいけない、と母に強く訴える。
そのようすを聞いて、悟空が「おめえは強くなった。 えれえぞ悟飯…!」と、ベッドで内心 頷いている という場面である。

わたしは、連載当時 このシーンを読んで、悟空の言動に違和感があった。
ストーリーの展開上 悟空チームがナメック星に行かなければいかないのは必定で、ストーリーを進めるために、キャラのかけあいが描かれている。
しかし、キャラクターの動機に無理があるように感じて、悟飯の発言はともかく、悟空が息子を褒め称える様子に、こんなことを言うキャラクターたち、戦いの連続の世界観だったかな…?と思った。

いま 考えると、鳥山明作品のベースにあるのは「やさしさ」であり、やさしさに基づくおだやかさ、和やかさ、朗らかさ、明るさといったものに魅かれて、わたしは、ドクタースランプ、ドラゴンボールを読んできた。
マジュニアが巨大化したり、ベジータが巨大猿になって、悟空がどうなってんだー!と驚くみたいなコマに、子どもだましの空々しさを感じたりしていたのだが、すこし冷めた目で、距離感をもって、ドラゴンボールを読むようになってきた時期だった。
「やさしさ」と、激しい戦いの連続の世界観は、そのままでは上手く接続できない。
車田正美ともゆでたまごともまた違う、鳥山明の根っこにあるやさしさ、ほのぼのさ、おだやかさと、ジャンプ流ストーリーマンガ(バトルの連続を描くマンガ)との距離感に、彼岸の差を感じた時期だった。


ドラゴンボールがほのぼのマンガから転身して、激しいバトルマンガに移っていく1988~1989年頃の移行期、わたしは小学6年~中学1年生だった。
小学校を卒業し中学に移っていく時期で、幼児から少年、少年から青年へ移り変わっていく過渡期でもあり、ジャンプマンガにおける一番の興味が、ドラゴンボールからジョジョ3部に移り変わっていった、そんな過渡期だった。


世間一般に大人気のドラゴンボールは、言うまでもなく、サイヤ人編以降に確立された、スーパーバトルマンガとしてのドラゴンボールである。
それはそれで良いのだが、そんな大人気バトルマンガを描いている一方で、フリーザ編、セル編のシリアスな展開を描いている最中でも、単行本の作者コメントで、作者は間の抜けた日常話を描いたり、身近なちょっとした失敗を描き通づけていた。
ドクタースランプ コミックのおまけページにあったような、「あのころのわし」のスタイルのエッセイである。

いま このあたりの作者エッセイを読むと、シリアスでスピーディーなバトルマンガを描きつつも、鳥山先生の根っこは変わっておらず、ほのぼのした、おだやかな日常を愛しむ精神性は変わっていなかったことがよく分かる。
しかし中学生だった当時のわたしには、自身が子どもから大人(次の何か)に移り変わろうとするような未確定な、さなぎの時期でもあり、作者の心中、複雑な大人の人間性を、全て理解することができなかった。
いま振り返って、鳥山先生は、読者のために、作品を待っているファンのために、ギャグマンガ時代も、バトルマンガ時代も、一生懸命、めんどくさがらずにペンを取り、作品を描き続けてきたことがよく分かる。


コミック27巻 悟空がスーパーサイヤ人に覚醒。その理由を、やさしい心を持ちながら、はげしい怒りによって目覚めた、と語る。

33巻 悟飯がセルに、ほんとうは戦いたくない。おまえだって殺したくないんだ、と語る。
悟飯が16号の死によって、はげしい怒りを抱きスーパーサイヤ人2に覚醒。セルを圧倒して戦っていく描写は、フリーザ編の悟空の覚醒とほとんど全く同じ描写である。

ドラゴンボールが終わるタイミングとしては、フリーザ編 悟空が宇宙1の強さを手に入れたところで、バトル描写の限界が極まっていたが、物語の流れ(連載の流れ)として、終りを結べなかった。
セル編では老成した悟空が描かれ、次世代 悟飯への継承、悟空の死と離別を描くことで、次なる展開を描こうと、作者の苦闘が始まった。

結果的に、ブウ編までを描いたことで、ドラゴンボールは、激しいバトルの連続のストーリーマンガから、ギャグマンガの地平に再び戻ってきた。
ビビディあたりの線の荒れた作画、やけにグロテスクな業者はきびしいものがあったが、ブウが現れ、ミスターサタン、ゴテンクスが表に出てきたところで、物語の行く末が定まった印象がある。


ゴテンクスが誕生するに先立ち、トランクスと悟天が戦う動機は、死んだ仲間を生き返らせるためでも、地球を救うためでもない。
魔人、魔術 見知らぬワクワクの存在に、ワクワクドキドキして、面白そう、やってみたい、行ってみたい!と2人で思い立ったことが、戦いへの参加の始まりだった。
ゴテンクスになった後、ギャグを織り交ぜてのブウとの戦いは、鳥山先生自身 けっこう楽しんで描いていたくだりで、「やっぱり自分はギャグマンガ家なんだな」と思いつつ、ペンを取っていたそうである。

犬を助けるために強く戦うミスターサタン。これは、ドクタースランプの千兵衛博士である。
鳥山先生は、はじめ 千兵衛博士を主人公にドクタースランプを構想したそうであるから、うがったことを言えば、千兵衛博士、ミスターサタンの人物像は、作者の原像、心の故郷に近い人物なのだろう。

ドラゴンボールを思い返すと、激しいバトル描写の迫力、素晴らしさも勿論あるのだが、
セル編後半 悟空と悟飯の親子問答、悟飯とビーデルのほのかな恋愛など、ドラゴンボールには、バトルだけでない、キャラクターのやりとりにさまざまな妙味がある。
激しいバトル、スピーディーで読者を飽きさせない展開の裏に、キャラクターの人間像、くすっと笑えるユーモア、作者の人間観・社会観などが織り込まれていたから、万人が読みやすいマンガだったのだと思う。


コミック42巻 最大のライバルであったベジータが、「負けないために戦うお前がナンバー1だ」と、悟空を褒め称える。
サンキュードラゴンボール!の声と共にブウを倒し、転生したウーブは、うぶ、武道家としての初心の象徴である。
セル編で描き切れなかった悟空の結末、次世代への継承をもう一度描きはじめたところで、悟空の物語は、ドラゴンボールの物語は、ようやく完結を迎える。

連載終了後 2004年頃にドラゴンボール完全版が発行されたときに、連載最終回は、けっこう描き直され、手を加えられている。
筋斗雲に乗り、ひゃあーっ!と歓声をあげるウーブのうしろに、少年の悟空の面影が映る。それを目にして、微笑む、中年の悟空の顔が描かれる。
大人になった今 ドラゴンボールを振りかえて、わたしがもっともエモくなるシーンの一つである。


ドラゴンボールを描き終わった後、鳥山明は、このモンスターヒット作から解放された嬉しさ、解放感を率直に語っている。
長期連載でズタボロになった、作者の、(1995年当時としては、本当にこれで終わらせるつもりだった)弱弱しい、読者に手を振る悟空のラストショットも描かれている。
このあたりは、ドラゴンボール超全集に詳しい。

鳥山明は、作家として、次に、COWA!を描いた。私としては、COWA!、これに続くサンドランドまでの短編群が、鳥山明作品の大団円だと思っている。
そのことは、下記、過去の記事に書いている。

ドクタースランプ→ドラゴンボール→COWA!へと続く、鳥山明作品の大団円 - ジョジョ読者のブログ

ご承知のとおり、ドラゴンボールは、1995年では終わらなかった。
映画「神と神」を契機に、作者原案の、作者のおおまかなアイデアに基づく作品群が作られ、現在に至っている。
わたしはドラゴンボールスーパー(テレビアニメ、マンガ)、さらに後続のテレビアニメも観ておらず、詳しく語ることができない。

ドラゴンボールスーパーのテレビアニメを大まかに観ていただけの感想だけで言うと、神と神以降の悟空は、すでに完成された主人公であり、この点は、完璧超人始祖編以降のキン肉マンと似ている。
キャラクターの動機、成長の可能性が極まっている、すでに頂点に到達している、という点で、悟空とキン肉マンは似ている。
(ちなみにキン肉マンは、スグルをここ一番のお目付け役に置き、超人軍団の各員を魅力的に描く群像劇とすることで、新作を描き続けている)

ドラゴンボールスーパーにおいては、悟空が主人公を張り続けているが、悟空は、すでに完成した主人公であり、これ以上の成長、変化の余地は無い。
作品上 いろいろな技を身につけたり、武術の奥義、頭髪の色が変わる変身をしたりしているが、それらは、人格の成長、変化を伴っていない。
主人公の動機として、もっともっと強くなりたいという行きつくところがすでに無くなっているが、変わらぬ日常を演じ続けている。 
それが、連載終了後の、映画やアニメで描かれている、悟空の現在像である。

つまり、悟空は、ストーリーマンガの主人公ではなく、永遠の日常、くりかえしを生きる、ギャグマンガの世界の主人公として、修行と戦いの毎日を生き続けている。
悟空だけでなく、ベジータもそうである。
神と神以降の、ゆるい世界観設定、シリアスなバトルというにはいくぶん気の抜けた、緊張感に欠けるところもあるドラゴンボール世界を、わたしは、そのように受け取っている。


ただし、マンガは、ひとりの作者が描く個人的な作品であるというわたしの芸術観に基づくと、やはり、ドラゴンボールは、ブウ編が終わり、悟空がウーブと飛び立ったところで、根本的に、完全に終わったマンガである。
映画やテレビアニメは、パラレルワールドの、鳥山先生がファンサービスを込めて構想してくれた、(もし有るとしたら、こんな展開、発展の可能性も有り得ましたよという)別物、ほかの世界線のドラゴンボール、という感じだ。

荒木先生が仮に死んで、ジョジョ第10部だとか、シュトロハイムのスピンオフ作品を誰か他の作家が描いたとしても、わたしは見向きもしないだろう。


 ***


最後に、ジョジョに話題を結びつけて、この記事を締めくくる。

かつて荒木先生は、ジョジョ4部は、「こち亀」を目指して描いていた と述べていた。
吉良吉影との戦いが終わって、その後 仗助たちがどうなったかは、作者自身も考えたことが無い。 それは、4部の物語を、作品世界を、永遠の日常に閉じ込めたかったから だとも。
(出典を忘れて申し訳ありませんが、どこかのインタビュー等で、端々で、そのように述べていました)

ジョジョシリーズの中で、4部が、典型的な、永遠の日常を尊ぶ、ギャグマンガ的な位相の作品である。
スピンオフを作りやすい構造になっており、カラスマタスク作画の4部前日譚のみならず、岸辺露伴は動かないシリーズの存在が、まさに4部の永遠性を象徴している。

7部が、分かりやすく、ストーリーマンガの構造を採っている。
旅が進み、レースが進み、スタートからゴールへ向かう中で、前の場所には二度と戻らない。時間と場所が前に進む中で、キャラクターが生き、死ぬ者は死んでいく。
その中で、キャラクターたちが何を見せ、表し、死んでいったかというのが、ジョジョ7部の物語である。

ジョジョ6、7、8部は、宗教とは何か、宗教と作者の対峙を描いた3部作である

ジョジョ6部、7部、8部は、宗教とは何か、宗教と作者の対峙を描いた3部作である。
6部は現代への懐疑。
7部は自然への回帰、原初の信仰。
8部は現代への福音が描かれている。

結論を先に述べるとこの通りであるが、これでは何のことか分からない。
「遠回りこそが俺たちにとっての近道だった」というジャイロの発言にしたがって、わたしの思考過程、結論に至るまでのあれやこれやを書き記していきたい。


 ***


シルバーウィークを漫画三昧にしようと考えて、車田正美、楳図かずおのマンガを読み耽ったことが契機となった。

ただ読みたいマンガ、以前から気になっていたマンガをまとめて読もうと思っただけなのだが、結果的に、テーマやストーリーに通底するものがあった。

車田正美 聖闘士星矢のハーデス編。
主人公たちが地獄、死後の世界を旅して戦うおとぎ話・昔話の様相で、難解な哲学問答が繰り広げられる訳ではない。戦いと友情が基本の熱血少年マンガである。
しかし、車田正美は熱く激しいだけでは決してなく、必殺技に至るまでの過程を描くのが本領で、キャラクターの心情やドラマを描き、一片の寂しさや親しみやすさを描いた上で、そこに熱さ激しさを乗せていく。
全編を通して、星矢や紫龍たちの生きざまを通して、作者の死生観、人生観が随所に語られていくが、
ハーデス編は文字通り死後の世界を描いており、死後の世界を束ねる者たちと生きる人間の戦いを描くことで、人生とは、人間とは何か?を象徴的に描いている。

聖闘士星矢でもっとも宗教的なキャラクターは、乙女座のシャカである。
一輝との十二宮での戦い。サガたちスペクターとの沙羅双樹の戦い。2つのエピソードに、シャカの魅力と、彼の死生観、人生哲学が凝縮されている。
幼児だったシャカと仏陀の問答があり、これに対する答えとして、シャカは、臨終の間際 一度しかない人生の、必ず死に向かう人間の、生きる意味、生きることの過程、生きる歓びを見出す。そして、アテナにメッセージを託し、安らかな顔で死んでいく。
(ストーリー上の辻褄、展開や設定の整合性?だけを追っていけば、)シャカは、処女宮で派手に戦って死ぬ必要は無く、エイトセンシズに目覚めているのだから、どこかに潜伏して、ハーデス城の大穴みたいなところから冥界に飛び込み、ハーデスを目指して行けたんじゃないか?という気もする。
しかし、シャカとサガたちの戦いで車田先生が描きたかったのは、シャカの臨終、シャカが自らの死を通して何を得るかという哲学的問答であろう。そのことは確かだ。
シャカが死んだふりをしてハーデス軍を欺き潜伏活動を企図していた、というのは、それこそ、沙羅双樹の戦いを描いた後に、後付けで考えた展開なんじゃないのか、とも、何が事実で何が妄想か分からない、思考のループに陥ってしまう。
車田マンガの勢いの良さ、瞬間瞬間の面白さの積み重ねには、キン肉マンとも似た、そんな悩ましい構造がある。

わたしは真悟も、宗教、精神世界の行く末を描いたマンガだった。
キリスト教を具体的に指している訳ではないが、真悟の誕生と成長、母 まりんを救うための奇跡の瞬間などは、キリスト教的な神話、物語の断片を思わせる。
特定の宗教との文脈がどうこうというより、楳図先生の描く、人間の精神の行きつくところ、精神が究極に発展していく様子を描いたのが、真悟が意識を持って産まれて、成長し、母を救うまでの一連の物語だろう。


そして、これらの傑作マンガを最近にまとめた読んだベースがあった上で、わたしの思い付きがあった。
深夜4時ごろ トイレに行くために目覚め、まだ朝には早く、うつらうつらと連想をして、眠気がくるのを待っていた。
頭がヒマになるように、ジョジョのあらすじでも、生成AI風に考えて文章を組み立ててみるか と考え、連想をしていた。

平板で簡潔な表現で、ストーリーのネタバレをしないような、あらすじの文章…。

1部、2部、3部は簡単にあらすじが思いつく。4部、5部も、何をしたい話かは、すぐに描ける。
生成AI風のそっけないあらすじから、少年ジャンプコミックの裏に書いてあるような、読者の興味を駆り立て、結末までの展開を煽るようなあらすじ紹介は何て書けばいいのかな…?などと思いつつ、遊んでいたが。
6部に至り、すごく、あらすじが書きにくいことが分かった。

6部のあらすじは書きにくい。
荒木先生がかつて、ジュラシックパークを「恐竜の映画!」、ジョーズを「サメの映画!」と、一言でその映画がどんな映画かを説明できるのが、名作の条件のひとつと述べていた。
車田正美マンガのように、電車の車内で、遠くから見ても何を読んでいるか分かるようなビジュアルのインパクト、個性の確立したマンガが良いとも述べており、
それらの意味で、6部は、一言で説明しにくく、複雑で、名作の条件から外れる。

6部はなぜ難解かを改めて考えるうちに、瞬間に着想が湧き、それらをまとめていくうちに、冒頭の結論に至ったのだった。


 ***


ジョジョ6部は分かりにくい。

一言でいうと、現代への懐疑、というところが、作品のテーマ、作品の背後にある作者の動機となっている。

20世紀が終わりを迎え、21世紀を迎えんとする、しかしその様相と行く末がいまだ見えない時代。
バブル経済が崩壊した日本も、冷戦構造が終結した欧米世界も、21世紀の行く末がいまだはっきり見えず、掴みづらかった時代。
ノストラダムスの大予言は外れたが、何が起こるかまだ分からない。そんな混沌と不安があった。

ジョジョの作品構造的にも、1~3部で一度の完結を見て、4部、5部と、ジャンプ編集部の要請もあり描き続けてきたが、5部が終わって、はてさてこの先ジョジョを続けるのか、続けるならどんな未来、どんな展開があり得るのか?という状況にあった。
5部まででかなりの数のスタンド能力を描き、さまざまなバトル、展開、事象のパターンも描いてきて、キャラクターの血縁のアイデアも相当に出し尽くしていた。
読者のわたしとしては、ジョジョはいい加減5部で終わるだろうと思っていたので、
5部連載終了後 (たしか)ダヴィンチのインタビューで荒木先生が「ぼくはもうジョジョしか描けない。それならいっそ、覚悟を決めて、ジョジョと心中ですね」という発言を読んだとき、荒木マンガの新作が読める嬉しさと共に、正直、ジョジョの物語の反復生産はもう限界なのでは?、しかし、新作を描き続けるなら、そこは読み続けていこう。承太郎の物語の再生産、何某かの繋がりと続きが読めるのなら…という気持ちだった。

6部で、プッチ神父が首謀する、DIOの残された意思の具現化。 天国に行く。天国への階段を探す。人類の究極の進化、行きつく先にわたしは行く…。 プッチの身を借りて、さまざまな言葉、哲学、世界観が語られた。
純粋なキリスト教の教義というよりは、キリスト教、ニーチェ、20世紀末の末法思想、新世紀への期待と不安、ヒットマンガ家としての今後の行く末など、当時の荒木先生が抱える葛藤、社会を見渡してのさまざまな意見や違和感、内省的な価値観を表していたのが、プッチ神父であり、6部の戦いであったのだろう。

6部で描かれたのは、究極の精神。究極のスタンド能力、究極の現象。
しかし、これらは、屋上屋を重ねる危険さがあり、もともと、(ある程度の)複雑さ、設定の構築がなされた上でバトルを描く荒木マンガで、設定の上にさらに設定を重ねる展開は、複雑で、分かりにくくなった。
何を描いているのか分かりにくい。何を目指して、どこに行きつくのかが分かりにくく、展開の最後にたどりついても今一つスッキリしない。そんな展開が多かったのが、ジョジョ6部だった。


ジョジョ7部は、自然への回帰、原初の信仰である。

ジョジョ6部 連載終了の間際で、作者が着想を変更し、(おそらく、ジョリーンたちがプッチ神父の陰謀を食い止め、21世紀初頭の現代で物語が終わるというラストから、)21世紀から19世紀末へ、宇宙が大回転するラストへと、物語が大幅に書き換えられた。
荒木先生的には、6部で物語は究極に行きついた、これでもう根本的に終わりだな、と思いつつ、6部終盤の展開を描いていたそうだが、クライマックス~ラストに向かって書き進める中で、自分の中の赤信号が点滅した。
そうしたことを思いつくこと自体が(マンガ家として、作家として)ヤバイ、という考えが閃き、今ある6部のラスト、7部以降の展開に繋がっていったそうである。
ジョジョメノンのインタビュー、6部文庫版のあとがきなどに、作者の生々しい肉声が語られている。

7部は当初、自然への回帰、アメリカ大陸の大自然を、2人の相棒コンビが旅をして、自然と戦う中で2人が成長していくーーというシンプルな物語で構想されていたと思われる。
ウルトラジャンプ移籍後 (それまで影も形もなかった)遺体の設定が追加され、遺体探しと大統領との戦いを描く中で、2人の相棒の物語がグッと膨らみ、深化していった。

7部で描かれる聖人は、荒木先生の心にある、聖なるもの、清らかなもの、信じたいと思うものを求める気持ち。原初的な信仰が描かれた、その象徴だと思う。

(いささか余談めくが、7部は、19世紀末という「近代の始まり」の時代で、新しいものと古いものがせめぎ合う戦いの時代である。ヴァレンタインやジャイロの造形にそれがよく現れているし、マジェントとウェカピポのコンビ、19世紀末に20 cetury boyを身にまとう、ヒコーキ好きのスカした野郎と、古風で小難しい中年のコンビは、ジャイロとジョニィの裏コンビのようでもあった。ウェカピポが言うところの「敬意を払え」が、荒木先生の、文化、伝統、社会へのスタンスでもあると思う)


ジョジョ8部は、現代への福音である。

8部で、物語は現代に帰ってくる。
(連載構想時 1970年代ごろ 荒木先生の少年時代、原風景の仙台を舞台にノスタルジックな物語を描こうとしていた??みたいな情報、噂をどこかで見た記憶があるが、定かでない。わたしの思い違い、思い込みかもしれない)
連載第1話を描き始めるとき、東日本大震災が起き、壁の目の設定が追加され、8部がドキュメンタルな、東日本大震災 発災後の、震災後を生きる人たちの、復興への祈りを描く物語となることも確実となった。

震災の要素とは別に、8部の初期構想として描かれていたであろう要素は、アイデンティティー、家族の物語である。

主人公 「定助」の名は仮名であり、主人公は名前を、家族を持たない。最終回で、俺は空条ジョセフミでもなく、吉良吉影でもなく…土の中からの定助なんだ、と康穂につぶやくのは、その象徴である。
その心中をつぶやける相手が居ることが、記憶のはじめから誰かとつながってこの世に産まれ直したそのことが、まず、彼にとっての福音だったのだろう。

主人公は名前を、家族を持たない者。
これに対置する者として、東方家の面々がいる。彼らには名前があり、社会的名声や権威があり、にぎやかな家族もいる。しかしどこか幸せそうでない、不穏で不気味な闇を隠し持っている。
ホリーの名を冠する、幸福や清らかさを象徴するホリーさんの一家。そこに入り込んだ吉良吉影という名の、不気味な影の存在。 康穂の一家、その他諸々。
家族を持つ者と持たない者の対比を描く、提示するという狙いが、8部の初期構想として設計されていたものと、わたしは思う。

(わたしはクリスチャンでなく、キリスト教の物語や諸事に疎く、すみません)
物語の途中で登場したロカカカの実は、おそらく、キリスト教の聖書の物語から着想を得たところがあり、
東方家の家族のありようは、主人公が出逢った原初の家族、聖家族??の歪んだ現代形ではないか と思われる。
(わたしの聖家族というフレーズの理解は、曽野綾子か誰かの書いた小説で、主人公の青少年や家族を描いた小説が、これはまさに聖家族だ、みたいな一文があり、その、断片的な理解、誤解?に留まっている。
 キリスト教に詳しいジョジョ読者の方があれば、このあたりをもっと厳密に、正確に、1対1対応の検証、考察を行えるのではないかと思う)

キリスト教的なモチーフを絡めながら、原初の信仰の確認から一歩進めて、現代への福音、現実の肯定。
はじめ名前を、家族を持たなかった主人公が、アイデンティティーを得て、あらたな家族の一員となるまでを描いたのが、8部の物語である。


  ***


ジョジョ6部は、現代への懐疑。
7部は、自然への回帰、原初の信仰。
8部は、現代への福音。

6部と7部が(時代的に、設定的に)断絶しているため、6、7、8部の三部作で語られることは少なく、その着眼点は持ちにくい。

発想のヒントをくれた車田正美マンガ、楳図かずおマンガに感謝を伝えたい。

ジョジョ8部をもって、数十年来の作者の内省的な問いが、一定の完結を得た。
そして、精神的に若返った、身軽になった作者が、いまの第9部、軽やかな15歳の少年の、ドラッグ密売人から成りあがるクズたちの、不条理との戦いのドラマを描いている。
荒木飛呂彦の精神史を、わたしはそのように位置づけている。

 

 

(参照記事)

ジョジョ6部→7部・8部へと通底するテーマ 「自然に帰れ」と2011年問題 - ジョジョ読者のブログ

スティール・ボール・ラン キリスト教と関わりつつの総括 - ジョジョ読者のブログ

まことちゃん 他、わたしのkindle本棚に並ぶギャグマンガまとめ

まことちゃん、ふしぎトーボくん、漫古知新。

まことちゃんを中心に、わたしのkindke本棚に並んでいる、ギャグマンガ(子どもを描いた、子どもに読ませる?ためのマンガ)まとめ記事です。


まことちゃん。
1970年代末に描かれたものと、1988年夏に描かれた続編(超まことちゃん)の2つがある。

わたし自身(1976年生まれの中年男性)が、ひとりの読者として、同作を読み始めた感想。 
2026年 オッサンである私が、はじめて、まことちゃんを読む。
1970年代末の子どもたち(うめぐみの子どもたち。おそらく年中~年長、4~5歳児)と母、姉のドタバタぶりは、今読んでも面白い。
乱暴で暴力的、あけすけでスカッとしているところが、1970年代末~80年代前半 昭和の世相、わたしが幼児だったときのリアリティと重なる。

まことちゃんが、構音がまだ未熟な舌ったらず、絵が頭足人だったり、幼児の特徴をよく捉えている。

第1話 先生が出すテスト(動物クイズ、記号の名前を問う。発達検査のような、幼児向けのテスト)で、まことは、間違った答えばかりを言う。はじめ 素で間違えているのか、わざと間違って答えているのか 様子がつかめないが、描写を見るうちに、わざとおかしな、間違った答えをしていることが明かされる。先生は、まことの父母にあてて、「まことは面白いことを言って、クラスの皆を笑わせています。おうちでも褒めてあげてくださいね」という手紙を渡す。しかしまことは字を読めず、手紙の内容を、反対に誤解する。うちに帰ったら(悪行を告発する手紙が読まれ、悪行がバレて)怒られる、と珍道中を繰り広げていくうちに、家に帰って、ほんとうに怒られる。という筋書きである。

第2話の冒頭 絵本をもとに、先生が子どもとやりとりをしている。次第に保育室がカオスになり、先生がだまれ、きさまら~っ!と激高するも、ちびってしまう。
1話で先生に怒られ子どもがちびってしまうギャグ(現実描写?)が描かれていたが、その意趣返しとなっている。

4話 桜の花見の話くらいまで読んだが、だいたい満足して、続きはゆっくり読んでいこうと思った。全20数冊あるが、全てを読むかまでは現時点で不明。

対して、1988年 超まことちゃんの第1話が描かれており、これを無料サイトで試し読みしたが、あまり面白くなかった。
「ビチグソビデオ」というタイトルで、はじめ、スカトロポルノみたいな題材を扱うのかなと思ったが、家族が8ミリでどんな映像を撮れるか競い合おうという話になり、まことが撮影したのが、近所の公園のノグソ。ノグソをしたと思しきが、TVデビュー直前の新人女子アナだった…という話。
8ミリカメラでノグソを撮影しよう、という発想は面白い。しかしその後の、新人女子アナがノグソをしたかもしれないという展開が、当時の八木亜希子など女子アナブームをなぞっていると思われるものの、今読んで、あまり面白い題材いえはない。
まことちゃんの、幼児の心理が主役というより、ビチグソと女子アナが主役になっているので、その観点が食い足りなかったのかもしれない。
1988年夏 少年サンデーにこの話は掲載されたらしいのだが、当時、ドラクエ3やスーパーマリオ3をプレイし、ジャンプ誌上でドラゴンボール、星矢、男塾、ジョジョ2部を読んでいた小学6年生のわたしが、このマンガを見て面白いいと思ったかと言うと…、たぶん、面白いと思わなかっただろう。
説明が難しいが、感覚的に、このマンガは古いと思っただろうし、ビチグソと女子アナというギャグの取り方に、「つまんね~」「いまさらウンコかよ」と冷笑した可能性が高い。
当時 コロコロコミックでは、おぼっちゃまくんという、ウンチ、下ネタをさらにハイテンションに、ぶっ飛んだ勢いで描き進めているマンガがあったし、それと比べると、超まことちゃんは、何というか、おとなしい。
弾けていないというか、時代の先端を行っていない。 若くない、くたびれたオッサンが描いてる。 ぬるい。面白くない!と感じていただろうと直観される。

まことちゃん 2つの第1話を比較して思い起こされるのは、ギャグマンガとは執筆当時の世相、流行、時代、価値観を映し出す鏡である。
描いている作者の若さ、熱量、テンションや体調などがはっきり反映されているものであり、作者の年令、体調、時期などにより、面白かったり、面白くなかったりする。


まことちゃんを読み始めて、はっきり言えるのは、楳図かずおが、まことたち幼児に向けるまなざしは優しい。
子どもたちのくだらないところ、弱いところ、ずるさ、純粋さみたいなものを含めて、子どもたちを肯定的に受け止めているところである。
先生から父母への手紙、母姉とまことのドタバタのやりとりに、それらが表れている。

きれいごとだけではない、タテマエを剥いだ家族像を描いている点で、あさりちゃん、クレヨンしんちゃんと似たテイストを感じる。


わたしのkindle マンガの本棚に並ぶのは、まことちゃんの他に、ふしぎトーボくん、漫古知新などがある。

ふしぎトーボくんは、ちばあきおが描いた、動物と話せるふしぎな少年 トーボくんと、周囲の関わりを描いたマンガ。

漫古知新は、漫画太郎が描いた、古今東西の名作小説を、子ども向けに?、小説をまだ読んだことが無い青少年向けにマンガでリライトした作品。

ふしぎトーボくんは抒情的な作品で、作者のナイーブな内面を、そのまま表したような作風。
作者の内面にいる、内なる子どもを、トーボくんに託して描いたような作品。(わたしの解釈です)

漫古知新は、蟹工船、ポリアンナ(少女パレアナ)など名作小説のエッセンスを抽出し、要点をかいつまんでマンガにしているのだが…。対象年齢は小学校3年生~中高生くらいまで、じゃっかん、大人向きのマンガである。


まことちゃん 2話の冒頭で、絵本の読み聞かせをしている先生が、子どもたちに結末のいかんを尋ね、子どもたちが、こんなラストがいい、こんなラストはイヤだ、とあれこれ感想を述べるくだりがある。

わたしも、幼稚園年長組のとき、先生が紙芝居を読み始めようとしているとき、「つまんね~」とうそぶき、先生に「だったら、観なくていい!」みたいなことを言われ、思いっきり怒られた記憶がある。
幼稚園でどんな行事をし、日常どんな遊びや生活をしていたかは思い出せないが、先生に、ピシャッと怒られた瞬間の衝撃は、痛烈に覚えている。
わたしは醒めた子どもだった。
そのとき沸き起こった衝撃は、大好きだった先生に怒られて悲しくなった、悪いことをいって先生を傷つけた後悔、とかではない。
紙芝居をつまらないと率直に思い、あえて悪いことをふざけて言ったところ、(優しさの模範たるべき)先生が思いっきり怒り、タテマエを脱いだ怒りの激しさに、素の感情を見て、ビックリしたのだと思う。

まことちゃん2話 先生が絵本の読み聞かせをして、やがてカオスになり、先生がだまれ、きさまら~っ!と激高、ちびってしまうギャグは、幼児体験を思い起こす縁にもなった。


まことちゃん、ふしぎトーボくん、漫古知新。わたしの本棚に並ぶkindleマンガは、どれも、親が子供に薦めたくなるような、学校の図書室においてあって文科省、教員が生徒に読ませたくなるマンガではない。
(いちど、ある保育園の年長組 保育室の本棚に、漫画太郎が描いた絵本を置いてあったことがあった。漫画太郎には悪いが、あの絵、あの世界観の人が描いた絵本を、大人から子どもに、4~5歳の子に薦めて読ませたいかというと…。……な感じがする)

ジョジョも、星矢も、わたしは真悟も、親が子どもに、学校がこぞって生徒に読ませたいマンガかと言うと、さて、どうだろう?と首をひねるところがある。

おそらくそれは、学校教育や家庭教育が、ある種のきれいごとを徹底して推進し、社会の規則や集団の調和を認識・遵守させることが目的であるのに対し、
わたしが好むマンガたちは、そうしたきれいごとから距離を置き、自由な、本音の世界に遊ぶことを良しとする作品たちだからであろう。

学校の教室と、近所の公園や裏山の違いみたいなものである。

両者は単純な対立関係でなく、相互補完し、同時に存在すべきものである。

だがしかし、小学校の先生が「まことちゃんって面白いよね」と言ったり、高校の先生が「わたしも、家族でドラゴンボールのアニメを観ているぞ」と言われたりすると、ちょっとイヤな気持ちになったりする。
学校や文科省、両親や国には、子どもたちの世界に入ってきてほしくない。子どもたちが子どもたちのままでいられる、あの世界に、大人が入って、包含、領土を吸収合併するようなことはしてほしくない。

ドラゴンボールが3兆円産業に育った?ドクターマシリトの独白と懺悔 みたいな、わけの分からないYouTube動画の見出しが目に入ってきたりするが、そういうものは、目に触れたくない。

たまが「ひるね」というアルバムを発表して、ラスト曲「鐘の歌」を聴いたのは、中2~3の時だった。
蛍光灯の下 じっとしていた子どもたちが、都に春が訪れて、さみしい子どもたちがいなくなる。 「それはみんな 魚釣りに行っちゃったのだから さがさないで さがさないでよ」という歌詞。


楳図かずおのギャグマンガ、SFマンガを読み、幼児性というものを改めて振り返り、以上の連想を抱いた。

このブログ全体が、歌でたとえれば、山下達郎「僕の中の少年」のような、自らの少年性、幼児性、内なる子どもを振りかえる試み。
ジョジョを中心に、心に触れたマンガ、映画、ゲームや音楽、個人的な体験、印象の記録をつづっていく構成になっています。

ジョジョの情報だけを観にきた人には、一種異様な風景となっていますが、ブログ著者のマインドマップ、自己を知るためのエッセーとなっています。