ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

The Rainbow Children 40歳の節目に抱いた、極個人的な感想



(下記 ジョジョとは殆ど関係のない記事となり、申し訳ありません。
プリンスのThe Rainbow Childrenを中心に、自らの思うところを述べた極個人的な記事です)


今年の夏 めでたく40歳を迎えることができた。
40歳という年齢は人生の折り返し地点を過ぎており、60歳まであと20年、意識と体力を高く保って働けるのはそれよりもさらに短いだろう。

40歳の節目を越えるにあたって、自分自身、どのような40代を送るべきか、
これまでと較べてどのような人生を送らねばならないか、ゴールから逆算して考える、想像することがままある。


映画を観るとき、1回目ではどんなストーリー、どんなラストになるかに気がそぞろでソワソワしていて、
一回 観終わった後、(後日)2回目を見返したときに、映画の全体像がよく分かり、作品の細部と全体をじっくり楽しめることがある。

映画でも小説、マンガでも同じだと思うが、作者の年齢、人生の歩みと呼応するように個々の作品は紡がれており、
ある作品を読むとき、読者(自分)の人生に重ねつつ読むことで、新たな発見が得られたり、感動・共感が深まることがある。


プリンスは2016年、58歳で亡くなったが、プリンスの死後 彼の人生が完結することで、作品像の全体が把握しやすくなり、
また、彼の年齢に読者(私)が近づくことで、これまで見えなかった彼の世界観が見え、理解が深まることがあった。

プリンスと私の出会いは1992~93年、私が高校生で、ジョジョ第4部の連載が始まった頃だった。
第4部の舞台設定がプリンスの1999に在ることを何かで知り、サイケなジャケットにも魅かれて、1999をレンタルしたのが始まりだった。
とても明るく拡がりのある世界観、キーボードのシンプルな和音が大好きで、カセットテープで繰り返し聴いたものだった。
(これより以前 パープルレインやバットダンスなど、TVでプリンスを聴く機会もあったのだが、自分からプリンスを求めて聴いたのは、1999が初めてだった)

1999を気に入って、その後 80年代の傑作群、元プリンスに改名してからのニューアルバムも買いこんでいったのだが、
プリンスの曲を聴いていて、どうも自己愛・自意識過剰が強すぎると思い、(近親憎悪のような)嫌悪感を抱きだしたのと、
マイテとの結婚がうまく行かなかったりしたニュースを聞いて「実生活に説得力がない!」と憤って、プリンスから離れることになった。
(その当時 自分はただのヒマな学生で、仕事もせず恋人もいなかったというのに、だからこそ?、プリンスに過剰に思い入れ、そして一方的に幻滅していたのだろう)

その後 大分時間が経って、今年になって、プリンスが死んだのをきっかけに、彼のアルバムを聴き返していた。
最近になって聴きなおしてみて、いちばん驚いたのは、1988年発表のLovesexyがとても素晴らしく、愛と人生をまっすぐに見つめた純粋な魂を表現しようとしている透明さだった。
学生当時に聴いたときは、件のカバージャケットはともかく、全曲が1トラックに結び付けられているのが我慢できず、ムダにせっかちな悪癖のある私は、「こんなワガママな1トラックの独り言を聴いてられるか」と思い、聴きこむ意欲が失せたものだった。

今はオッサンになって、ゆったり時間を過ごす方法、1時間くらいのあいだゆっくりアルバムを聴きこもうという余裕が持てるようになったので、
Lovesexyも、The Rainbow Childrenも、頭から最後まで、それなりに集中して聴いて楽しめるようになった。

ドルトムントコンサートを観、アルバムを聴き返して分かったのだが、
Lovesexyは、(プリンスらが扮する)天使たち、愛と真実の使い手たちが、地上に降り立って「愛を広めるコンサート」を行っているかのようなスタイルを採っている。
30歳前後のプリンスは音楽的才能の絶頂期で、体力・精神力の高まりもピークにあり、とてつもない切れ味でコンサートを取り仕切る。
Aiphabet St.からAnnna Stesiaに到る一連の流れが聴きどころで、1999の爆発的な高揚感からスタートして、Lovesexyで天を掴む、神の位置に限りなく近づこうとしているかのような、そんな幻を思わせるほどの迫力がある。

そして2001年発表のThe Rainbow Childrenは、Lovesexyに続く「神に捧げるゴスペルアルバム」である。
プリンスは40歳を越えており、結婚・離婚を経験し、子供との出会いと別れがあり、父母の老いを見、20年間の様々な音楽家のキャリアを経て、
色んなことが人生に起きて、そしてその人生が通り過ぎてしまう前に、波と波の間で、
今 在るところの、キリスト教の福音、自らの信じ、考えられるところの物語を綴り、一本のアルバムを書き起こした。そんなアルバムであったと思う。

The Rainbow ChildrenはLovesexyに較べると幾分地味で、落ち着いており、芸術家がピークにあるときの神がかった全能感と迫力は薄れている。
私はキリスト教の信者では無いが、他人の考えを知ることには興味があり、
プリンスが語るキリスト教の物語、彼が何を信じ、何を求めて人生を戦ってきたのか、これからどう生きていくのか、彼の宗教と哲学を知ることは興味深かった。

独断によるとThe Rainbow Childrenは、ラスト曲のLast Decemberに向けて全てが盛り上がっていくアルバムで、
1曲目から6曲目までの流れ、She Loves Me 4 Me辺りのタメを挟んで、キング牧師の演説からラスト曲までの異様な盛り上がりはとにかく素晴らしい。

アルバムの中で、The Rainbow Childrenを巡る、(プリンスの解釈による)聖書の新たな物語が紡がれていくが、
Family NameでThe Rainbow Childrenは現実の黒人(人種)の物語であり、永遠に在る今を語るEver Lasting Now、そしてLast Decemberが最後を締めくくる。

Last Decemberの歌詞は、プリンスが自分自身を鼓舞するように語りかけるでもあり、亡くなった我が子の魂に語りかけるようでもあり、そしてもちろん、聴き手のファンたちに語りかけるようでもある。
己の人生、これまでの道程を振り返った末に、僅かの静寂、沈みが有り、その後に爆発し畳みかけるのが、1999で聴いた、あのシンプルで華やかな、夜明けを告げるかのようなキーボードとギターの輝きであった。
「ここであの音が鳴るのか!」と感動し、胸が震えずにはいられなかったし、繰り返し聴いていても、やっぱりそう思う。
ーー私としては、高校生のときに1999に出逢って、そして今 40歳になってLast Decemberに出逢えて良かったとつくづく思った。


プリンスのアルバムで、最近によく聴くのはLovesexy、The Gold Experience、The Rainbow Childrenという辺りなのだけども、
今の自分にとっては、40歳を越えたプリンスの、ある種の達観、悟り、世間に期待しないが絶望もしないというような落ち着いた態度、
自意識や性欲の高ぶりが冷めて、しかしまだ熱い熱情が胸の中で燃えているような、そんな精神のありかたがとても気持ち良く、落ち着いてフィットする。


プリンスのアルバムは、特に2000年以降のモノはまだ聴けていないものが殆どで、これから先 新たな音源を発掘して聴き込んでいく楽しみがある。
ジョジョのシリーズは、1部開始以降 リアルタイムで読み続けているので、新たな作品を発掘する楽しみは少ないが、年代と共に読みどころ、作者の意図を新たに掘り起こす楽しみがある。
月並みな表現ですみませんが、「虎は死んで皮を残す。ヒトは死んで作品を残す」ということで、
プリンスやジョジョ、そして私自身も、死ぬまでにどんな作品を残せているのか、生きている間の足跡作りが全てなのだと理解、反省させられる。

最後になりますが、プリンスのLast December、この曲の歌詞を引用して記事を締めくくりたいと思います。
(興味のある方は、こちらのリンクから同曲を購入できると思います。ご参照ください)


"Last December"

If ur Last December came
What would u do?
Would anybody remember
2 remember u?

Did u stand tall?
Or did u fall?
Did u give ur all?

Did u ever find a reason
Y u had 2 die?
Or did u just plan on leaving
Without wondering y?

Was it everything it seemed?
Or did it feel like a dream?
Did u feel redeemed?

In the name of the Father
In the name of the Son
We need 2 come 2gether
Come 2gether as one

Did u love somebody
But got no love in return?
Did u understand the real meaning of love?
That it just is and never yearns?

When the truth arrives
Will u b lost on the other side?
Will u still b alive?

In the name of the Father
In the name of the Son
We need 2 come 2gether
Come 2gether as one

In ur life did u just give a little
Or did u give all that u had?
Were us just somewhere in the middle?
Not 2 good, not 2 bad?

In the name of the Father
In the name of the Son
We need 2 come 2gether
Come 2gether as ONE

 

 

1890年 スティール・ボール・ラン 記者会見

最近、仕事と趣味を兼ねて、にわかに世界史を勉強し出している。

宮崎正勝「スーパービジュアル版 早わかり世界史」という本が、最初に読んで面白かった本で、
暗記事項の詰め込みだと思い込んでいた世界史から、「理解して、歴史の動きを捉える」面白さに目覚めさせてくれた。

「マクニール世界史講義」(The Global Condition)という文庫本があり、
ヨーロッパ世界がいかにして拡大したか、フロンティアラインの発展が述べられていて面白い。

日本(国家)の行く末は勿論、官僚と市民の力関係、大企業とベンチャー企業の競争関係なども思い起こさせ、
さまざまな事象に当てはめ、物事の骨組を類推することができ、
「歴史をいかに活かすことができるか」は、これからの未来を生きるための、大切な勉強になると思う。


 ***


マクニール世界史講義 グレートフロンティアという論文で、
1890年 アメリカ国勢調査局が「フロンティアは消滅した」と発表した、と述べられている。

アメリカ大陸の西海岸まで、開拓の波が行き渡ったことを述べているのだが、
ジョジョにおける1890年とは、まさに、スティール・ボール・ランレースが開催された年である。

個人的な推測であるが、これは偶然の一致では無く、
荒木先生が「近代の始まり」「ジョジョの新たなシリーズの幕開け」を描くにあたり、意図を持って、1890年のアメリカを舞台に選んだのではないかと思っている。


アメリカの東海岸から始まった開拓の波が、西海岸にたどり着き、開拓の余地が無くなったとされた、国勢調査局の宣言。
ならば、今度は西海岸から東海岸へ逆ルートの旅を行い、「自分たちの開拓地」を見つけていこうとするのが、
スティール・ボール・ランレースのコンセプトだったのではないだろうか。

スティール・ボール・ランレースは、西→東にアメリカ大陸を横断する試みであり、
これは、(6部の)未来から19世紀への巻き戻しに一致する。

レースのゴールポイントには聖人(キリスト)の遺体があり、
すべての出発点、原点に立ち返り、自然と戦い、道を切り開く主人公たちを描いたのが、SBRの物語であったと思う。


ジョジョ1部の主人公 ジョナサン・ジョースターは、1868年生まれである。

日本では明治維新のあった年、明治元年で、荒木先生がどこまで意図したのかは分からないが、
「日本の、近代化の始まりの年」に、ジョジョの起点が置かれたことは興味深い。

ジョジョのこれまでのシリーズは、19世紀末~21世紀初頭までが物語の舞台に選ばれ、
未来の果ての物語や、古代や中世の秘密の歴史などが、主人公の舞台に選ばれたことは無い。

これは、荒木先生が「リアリティーあるサスペンス」を作品の基調とするために、作劇上 あまり日常(現代)とかけ離れた時代は描けないとインタビューで述べているし、
また、荒木先生の問題意識が「現代人(近代人)の在りかた」に向いているため、自ずと、近代に生きる人間たちが、描かれる対象として選ばれているのではないかと思う。


いわゆる名セリフ・名言の類をマンガに求めるのは、あまり個人的に好きではないのだが、
ジョジョを読んで燃えたメッセージの一つに、スティール・ボール・ラン 冒頭の、スティール氏の記者会見がある。

SBRレースが歴史上初の試みであり、アイデンティティーに開拓の精神があること。
そして、真の失敗とは興業が失敗することではなく、開拓の心を忘れ、困難に挑戦することに無縁のところにいる者たちを指すのだ、と。

このレースに失敗なんか存在しない、存在するのは「冒険者」だけだ!と叫んで、スティール氏の会見は締めくくられる。

冒険者の精神とは、まさに「ジョジョの奇妙な冒険」の物語の根幹であり、
近代のはじまりに立ち返った7部の冒頭で、スティール氏の口から、ジョジョのテーマの根幹が、改めて提示されたのだと思う。

SBRレースが始まった後は、スティール氏はほとんど活躍の機会が無く、
マジェントマジェントに銃撃された後は(連載期間で)2年以上も重傷のまま寝込み続けることになった。

しかし、スティール氏が列車のルーシーを連れ出しジャイロに託した時点から反撃の気運が盛り上がりを見せ始め、
レースの最後 無限の回転に崩れ落ち去ろうとしていたジョニィを助けたのは、かつて騎兵隊に加わった馬乗りのスティール氏であった。
ルーシーの活躍無くして、大統領の陰謀を食い止めることは出来なかったが、これもスティール氏という夫の存在があってこそで、
スティール氏こそは、7部の物語の陰の主役、物語の舞台と進行を裏で支える、基盤となる人物だったのだと思う。


サンドマンポコロコ、ホットパンツ、ジャイロの父も魅力的なキャラクターで、
可能であれば、彼らにスポットライトを当てた外伝話・短編を読んでみたい。

近年 岸部露伴を語り手にした短編が断続的に発表されているが、露伴だけでなく、
SBRのキャラクターのスピンアウト話、その他のキャラクターの外伝話も、できれば読んでみたい。

8部 ジョジョリオンが完結した後、荒木先生の気が変わって、そいういう外伝話・短編連作が発表されるようになったら嬉しい。)

ジョジョリオン55話の感想、予想  漫画ゴラク・サンデーへの追慕

ジョジョリオン 55話、ダモカンと決着し、東方花都が登場するまでの話を読んだ。

ダモカンとの戦いはスカッとする決着で、ゲスがゲスらしく振舞い、キッチリやっつけられるのがスカッとする。
ダモカンが頭を貫かれて「ぺぎゃ」と呟いたり、双子の頭に木の枝が刺さって「ポーッ」と白目を剥いたり、
奇声とも断末魔とも付かない叫び声をあげるのがいい感じである。

荒木先生によると、8部の杜王町は、他人どうしがお互いに無関心な、リアルな現代日本の街並みを描いているとのことで、
断末魔をあげて崩れ去るダモカンを「なんだ、フィギュアか…」と素っ気なく立ち去る通行人たちのシーンが面白かった。

ダモカンを倒した後、定助が「オレの正体は空条ジョセフミ」と呟くが、いよいよ主人公の正体(過去)が明らかになり、
ここから物語のクライマックスに向かっていく、盛り上がる展開になっていくと思う。

(次号予告によると、次回は常秀がイベントの列に並んだことから意外なトラブルに巻き込まれていく話らしいが、
常秀の活躍を織り込みつつ、クライマックスへの布石を打つエピソードになるのではないかと思う。)


今回の話の最後で、東方家の母 花都さんが出てきたのは、まったく予想外の展開だった。
常敏を生き残らせるため花都さんは死に、その替わりに家政婦さんを雇ってきたのだろうと思っていたので、ここで彼女がキーキャラクターとして登場するとは思っていなかった。

私個人の予想では、花都さんが15年間 刑務所に服役していたのは、
常敏を呪いの病から守るため、(東方一族以外の)誰か他人を身代わりに立て、呪いに差し出したのではないかと思う。
石化の病は法を越えた超常現象ではあるが、何らかの形で明らかとなり、花都さんが刑事罰を受けることになったのではないだろうか。

最初、花都さんの後ろ姿が登場したときは、パラレルワールドのアイリン(6部最終話に登場の人物)が現れたと思ったが、全くの別人だった。
ストーンオーシャンっぽい意匠の刑務所、イタリアンマフィアのような岩人間たちなど、4部・5部・6部のネタをそこかしこに詰め込んであるのが面白い。


ジョジョリオンのいろんな感想、予想などを読んでいると、
ジョジョリオンのラスボスはいったい誰になるのか、どんなスタンド能力なのか?」という話題が出てくる。

花都さんが東方家の陰謀の中心人物であり、彼女がヴァレンタイン大統領を越える女傑で悪の策謀家なのかというと、おそらくそうはならないと思う。
ジョジョリオンの裏の主人公は家長 憲助さんであり、東方家を中心に、現代日本の家族を描いていくのが、8部の眼目になっていると私には思われる。
憲助さんを中心とする東方家、吉良家、そして定助(空条家?) 3つの家族のありかたを通じて、人の暮らしのありよう、幸せのありかたを描く物語になるのではないだろうか。

花都さんと憲助さん、常敏とつるぎを巻き込んで、ロカカカの枝を巡る事件が巻き起こっていくと思われるが、
いわゆるラスボスが登場し、憎むべき相手を倒してスカッとしたカタルシスを得るという展開には、おそらくならないのではないかと思う。

そもそも、個人的には「ラスボス」という概念・表現が登場したのは、
ドラゴンクエストのヒットに影響を受けた鳥山先生が、ドラゴンボールフリーザを登場させ、悟空とフリーザの限界突破の戦いが少年ジャンプの歴史上 最も高い読者の盛り上がりと、最大の発行部数・コミック売り上げを記録した経緯によるのではないかと睨んでいる。

少年誌連載のバトルマンガであれば、「もっと強い敵を倒したい」「主人公がもっと強くなり、成長する姿を見届けていきたい」で盛り上がるのは分かるが、
ジョジョリオンは青年誌連載のマンガであり、読者の年齢層も20~50代くらい(?)と高め、
家族愛や郷土愛、自分探しのアイデンティティー回復を描く物語であろうから、ここにラスボスとの最終決戦を望むのは、ちょっと物語の筋道を読み違えてるんじゃないかと思う。


ーーと、ジョジョリオンの今後の展開について、ひとしきり偉そうに語っていますが、
この後 さらにとんでもない、予想を超えるラスボスが登場し、ホラーもサスペンスも家族愛もアイデンティティークライシスも全てを盛り込んだ、予想を超える面白い展開が描かれるかもしれず、
私などの予想は全く当てにならない。

ただし、思うところ 確かなこととして、

ジョジョリオンは少年ジャンプ連載・小中学生向けのバトルマンガでは最早なく、
ともすれば(かつての)漫画ゴラク漫画サンデーに掲載されていたような、人生の雑踏、おかしさと悲しみを描くようなしみじみとした路線にシフトしつつある。

作者の加齢と共に、すこしずつ物語の風合いや雰囲気は移り変わっていくのが自然であり、50代後半を迎える作者に、いつまでも「20代だからこそ描ける、トーナメント式バトルの頂点」を求め続けるのは少し酷であり、求めるピントがズレているように思う。

かつて、ジョジョ9部は老人の心境を描くしみじみとした物語になるのではないか?と予想したことがあったのだが、
憲助さんを中心とする家族のおかしみを描くのが8部で、老人となった主人公の死と再生を描くのが9部以降のテーマとなるのだろうか。いずれにしても、8部・9部と続く今後の展開を楽しみに読んでいきたい。

ギーガーの「エイリアン」と、ジョジョのスタンドたち

「ブックオブエイリアン(the book of alien)」という本があり、
映画「エイリアン」のさまざまなデザイン画、創作の裏話が掲載されている。

メビウスによる宇宙服のデザイン画があり、一目で観て分かる素晴らしさですが、
最も目を引くのは、H・R・ギーガーによる、エイリアンのデザイン画である。


同書によると、
ギーガーは「バイオメカニクス」というコンセプトを立てて、エイリアンのデザインに取り組んでいる。

バイオメカニクスでは、機械が有機的に見え、有機的なものに機械的な質感がある。
何よりも、「骨をいじるのが好きだ」とギーガーは言う。

エイリアン(成体)の頭部・顔面は、何とも言えない不思議で不気味な、魅力的な形態をしているが、
ギーガーは、彼の独創的なバイオメカニクス論を、エイリアンの舌に応用した。
頭部が横長になれば、恐ろしく実用的に、引込式の舌を備えられないかと考えたのだという。


ーーギーガーはじめ、SFXの職人たちによる「エイリアン」の創造過程は、
ゴジラ」や「ウルトラマン」 日本特撮草創期のモノづくりと重なるところを感じ、とても興味深い。


そしてまた、ギーガーのデザインーー有機的なようで機械的でもある、不思議な魅力とカッコ良さーーに通じる魅力を備えているのが、
ジョジョのスタンドデザインである。

ジョジョベラーのスタンド解説本を読んでいると、
スタンドデザインのコンセプトとして、「生物のような機械のようなデザイン」という表現がたびたび現れる。

荒木先生は「エイリアン」をSFホラーの教科書として絶賛していたし、
椛島編集からギーガーのデザイン画集を薦められたこともあったとかで、
ギーガーが提唱する「バイオメカニクス」を、アラキ流に噛み砕き、自己流のデザインとして百花繚乱に展開したのが、ジョジョのスタンドたちなのだろう。


個人的に、ジョジョ3部~8部(ダモカンの話まで)のスタンドを一堂に並べて、
「最もカッコいいデザインのスタンドは?」と言われれば、
キラークイーンとザ・ワールドが浮かんだ。

プッチ神父のメイドインヘブンもカッコいいが、単行本発売時に改名してしまったのが今イチで、
元の名前のステアウェイトゥヘブンのほうが、名前がデザインを引き立てて、よりカッコ良かったと思う。

クレイジーダイヤモンドやスタープラチナは、正直、デザインだけを見るとあまりカッコ良くなく、もっさりしてる感じがある。
主人公(本体、スタンド使い)のパーソナリティーの魅力と、能力の使い方の面白さで、とても魅力的なスタンドになっているが、
スタンド単体を観察すると、キン肉マン北斗の拳のあいだのような、人間の闘士っぽいデザインなのが、「スタンドらしさ」を低くしているのかもしれない。


ギーガーのデザイン画は独特のクセがあって、気持ち悪い感じの絵も多いのだが、
ギリギリの線で踏みとどまっているというか、気持ち悪さと美しさの両方を取り入れて、全体として一つの整合性ある世界を作り上げているのが素晴らしい。

人間、気持ち悪いだけの方向に傾いて走ったり、建前だけのキレイごとを述べて取り繕ったりすることは簡単だけど、
聖と俗 両方を併せ持った器量の大きさ、清濁併せ飲んで最後に「おいしい飲み物」を作りだすことはとても難しい。

ギーガーのクリーチャーデザイン、ジョジョの物語とキャラクターなどは、
清濁併せ飲んだ、飲み明かした夜明けの明るさを備えているようで、稀有な作品であると思う。

ジョジョで後付け設定が追加され、矛盾が生まれるのはなぜか?

ジョジョを読んでいると、後付け設定が追加され、矛盾が生じることがたびたびある。

有名なところでは、1部連載時 (ジャンプ誌上で)ツェペリさんの死に際で「自分には家族が居なかった」ことが語られたが、
2部になって、孫のシーザーが登場する展開となり、コミックスでは上記のセリフが差し替え、訂正された。
コミックスの後書きで、荒木先生が「大人はうそつきではないのです。間違いをするだけなのです…」とお詫びを述べた一件である。

登場人物の初期設定やスタンド能力が微妙に変わってきたかな…?と思うこともたびたびあるし、
連載中のジョジョリオンでは、作中に散りばめられた仄めかし・伏線の類が、けっこうな頻度でブン投げられたりもするので、
ジョジョというマンガは、例えばプログラミングの計算式のように、矛盾無く数学的合理性を持って出来上がっているものではない。
このことは、ジョジョをご存じの方であれば、皆さん同意していただけるところだと思う。


ジョジョで後付け設定が追加され、矛盾がたびたび生まれるのはなぜか?

巷の意見に目を通すと、
「荒木先生が忘れっぽい、トボけた性格の人だから」
「大物作家になってしまって、編集者が意見できず、周りが間違いを指摘・訂正できなくなった」
など様々な意見が出ているが、もう少し他の原因があるように私は思う。

私自身が推測する、ジョジョに矛盾がたびたび生まれる最大の原因は、ジョジョが週刊誌で連載されてきたことにあると思う。

ジョジョは長年に渡って週刊少年ジャンプで連載され、今は月刊誌(ウルトラジャンプ)で連載されているが、
荒木先生は昔と変わらず、週刊ペースで仕事(ネーム→作画)を続けているという。


2016年春 ミラクルジャンプにて、荒木先生が4部を語るインタビューが掲載された。
その中で、上記疑問への回答となるような一節があり、一部分を引用させていただきます。


ミラクルジャンプ 荒木先生のインタビューより、一部抜粋

ジョジョ4部 吉良とのクライマックスの戦いは、何週にも渡って伏線を張り、展開を積み上げていく構成になった。
 ネームがなかなかまとまらず大変だった、という話の中で……)

ミラクルジャンプ(以下MJ):一人の敵と何週にもわたって戦うことは過去にもありましたが、それとは違うものなのですか?

荒木:他の敵との戦いにも、もちろん大きな流れはあるのですが、一話で読み切れる内容にはしているんですよ。
「今回はあれをやろう」という、その話ごとの目的を入れている。
でもこの最後の戦いはそれだけじゃ済まなくて、クライマックスだし能力が能力だし…と。

無理矢理勝っちゃダメなんです。
勝つ理由と、キャラクターの意志の強さができていなければならない。

一つシーンを描くごとに可能性を限定していくことになるので、
駒を置いたら後戻りできない、チェスをやっているような雰囲気がありましたね。

敵が強すぎて「主人公、勝てるのかな?」と不安にもなりました。
敵を弱くして勝っても面白くない。
DIOもそうでしたけど、主人公達が上を行くのは難しいな…と思わせるキャラクターでした。


(以下省略)



ーー平たく、誤解を恐れずに言えば、
ジョジョの執筆スタイルは「週刊少年ジャンプ」に鍛えられたものであり、
キン肉マンドラゴンボール北斗の拳と同じく、行き当たりばったりを恐れない、毎週毎週の盛り上がりを極限まで高めていく、厳しい競争環境において作り上げられたものだということです。

逆に言えば、ジョジョ(1部 ジョナサンとディオの話)が描き下ろし単行本として最初から描かれたり、
あるいはジャンプでは無い、もっとマイナーな媒体で連載されていれば、今とは異なる別のマンガに育っていっただろう、ということです。


ミラクルジャンプでは、このあたりの話がもっと詳しく、荒木先生自身の肉声で語られています。
(「ジョジョは「少年ジャンプ」だからできた作品だと言える。それはなぜか?の疑問と回答)

同インタビューにはこの他にも、
ジョジョ4部連載開始時の裏話、リーゼントに対する美的評価の話、4部と8部 杜王町をめぐる構想の裏話など、面白い話がたくさん入っています。
なかなかおススメのインタビューでした。

 

また、ジョジョメノン 荒木先生と小説家・円城塔氏の対談においても、

小説とマンガの製作形態の違い、「週刊連載は、ジャズのライブだと思って描く」など興味深い発言のやりとりが収録されています。

 

ーー読者としては、「設定に矛盾無く、かつ面白く、読者を興奮・納得させるマンガ」がいちばん良いのでしょうが、

創作の現場はナマモノであり、(例えば、説明書にしたがってプラモデルを組み立てるように)誰もが再現可能では無い特殊な仕事なので、

結局のところは、作者と作品を受け入れられるかどうか、ダメだと思ったら読まない、これが読者に与えられた立場であり、自由なのだろうと思う。

「プリンスのこの曲が、ジョジョのこの部分に影響を与えたんじゃないか?」 

ミュージシャンのプリンスが亡くなり、寂しい気持ちではあるが、生前に製作された楽曲が数多あり、
ipod プリンスのプレイリストを、たびたび聴き返して楽しんでいる。

プリンスとジョジョ、両者の作品をご存知の方には自明の事柄であるが、
ジョジョ荒木飛呂彦のマンガ作品)は、プリンスから大いに影響を受けている。

常に前向きでポジティブ・王道を追求するストレートな感じ、
新しいものを取り入れ、自分なりに咀嚼し見たことないものをつくろうとする進取の気風、
ビジュアルがちょっと気持ち悪く、違和感があり、しかしその異常な感じが馴れると心地よくなる、独自の個性を内包しているところなど。

荒木先生はプリンスと誕生日が同じ(プリンスが年齢のサバ読みを修正するまでは、同年同日の生まれだったらしい)で、
荒木先生がかねてよりプリンスの大ファンで、プリンスのクリエイティブを自作に反映させてきたとのことであるから、
両者の作品に通底したところがあるのは、当然のことなのかもしれない。

かつてタモリが、赤塚不二夫先生の葬式において「私は、あなたの作品です」と白紙の弔辞を読み上げたことがあったが、
プリンスであったり、イーストウッドであったり、白戸三平やシャーロックホームズが様々な大きな母胎となって、
ジョジョというひとつの作品を作り上げてきたのだと思う。

(創作の連綿と繋がる「流れ」を観察していると、創作は、個人の著作であると同時に人類の共同作業でもあり、
著作権を講じて経済的利益を保護する活動は、経営的に重要だが、創作行為の全てを捉えていないと思わされる。

もちろん、プリンスの楽曲やジョジョのマンガを著作権フリーにせよ、無料で全て公開せよ、と述べたい訳では無く、
よい作品にはお金を支払って、しっかり自分のモノとして楽しみたいと思うのだけど、
「(自分が)お金を稼げばそれでよい」という経済原理と、「よいモノを作りたい」という芸術の衝動は、そもそも次元が違うところの存在で、
両者をかすかに繋ぎ合わせる奇跡的媒介が著作権法であり、ドクターマシリトの鎮座する集英社なのだろう)


ーーこの記事では、普段 プリンスの曲を聴いている中で、
「プリンスのこの曲が、ジョジョのこの部分に影響を与えたんじゃないか?」
という私個人の思い付き、独断を記していきます。


・Controversy


Controversy, controversy

Listen, people call me rude
I wish we all were nude
I wish there was no black and white
I wish there were no rules


プリンスが述べる「白と黒の論争」は、白人と黒人の社会的・文化的摩擦でもあり、
(自分が、自分らしく在るための障害となる)社会のルール、他人が押し付ける縛りごとを指しているのだろう。

この一節を聴いていると、
ジョジョリオンの吉良が「白と黒」を峻別したがり桜次郎をイジメ倒すシーン、
ジョジョリオンの全体構想ーー白と黒の摩擦、(摩擦から生まれる)呪いをいかに解くかの物語ーーを思い起こす。


・1999

I was dreamin' when I wrote this So sue me if I go 2 fast
But life is just a party, and parties weren't meant 2 last
War is all around us, my mind says prepare 2 fight
So if I gotta die I'm gonna listen 2 my body tonight

Yeah, they say two thousand zero zero party over,
Oops out of time
So tonight I'm gonna party like it's 1999


世紀末 1980~90年代に青少年期を過ごした人でないと分かりづらいかもしれませんが、
「2000年のパーティーはもう間に合わない。だから、今 1999年のパーティーを開く!」
という切迫感、開き直ったかのような明るさは、個人的に心に沁みるし、とてもよく分かる。

57年の人生を仕事一筋で駆け抜けたプリンスと違って、
荒木先生は徹夜仕事はやらず、計画的に休養を取りながら仕事を進めていくタイプとのこと。
どちらが良い/悪いというものではないが、仕事は一生懸命やったほうがいいと、お二方の迫力に気圧されながら、地味な感想を抱く。



・Emancipation

ワーナーブラザーズとの契約の解消、結婚を果たした自らの新境地として発表されたアルバムが、Emancipationである。

同作のクライマックスに、One of Usがあり、こんなサビとなっているーー

Yeah, yeah, God is great
Yeah, yeah, God is good
Yeah, yeah, yeah, yeah, yeah!

What if God was one of us?
Just a slob (slave) like one of us?
Just a stranger on the bus
Tryin' 2 make His way home

Like a holy rollin' stone
Back up 2 heaven all alone



One of Usのこの一節を聴いていると、ジョジョの5部 ローリングストーンズのエピローグが連想される。
スコリッピが解説役となって、「眠れる奴隷」と「運命への目覚め、運命に準じること」の尊さを説く、一連のシーンである。

The Gold Experience~Emancipationの頃のプリンスのサウンド、楽曲に載せたメッセージに、
5部執筆時の荒木先生は励まされていたのではないかーーと、思わないでもない。



・The Rainbow Children (2016/5/11 追記)

最近になってはじめて、2000年代のプリンスの新譜を聴くことができた。
(The Rainbow Childrenと3121の2枚を入手した)


2001年発表のThe Rainbow Childrenは、1999年発表 Rave Un2 the Joy Fantasticの続編である。

Raveのラスト曲 Wherever U Go, Whatever U Doを引き継ぐ形で、The Rainbow Childrenは始まり、産まれている。


Wherever U Go, Whatever U Doに、こんな一節がある。

Wherever U R, think of your dreams
Oh please, remember life ain't always what it seems
4 each rainy day (rainy day)
That comes your way
The sun will come shining and U'll be okay
Keep on smiling - every girl and boy
Remember when U were children U had toys
Wherever U R, think of your dreams
Remember that dreams become the life U lead


これを引き継ぐ形で産まれたのがThe Rainbow Childrenであり、
同作のラスト曲 Last Decemberは、こんなサビで締めくくられるーー

In the name of the Father
In the name of the Son
We need 2 come 2gether
Come 2gether as ONE


プリンスはマイテと結婚した後、男の子を授かるが、病気のため、生後間もなく亡くなってしまったそうである。
プリンスの父親はジャズミュージシャンで、「プリンス」は本名、父親の在籍していたジャズ・バンド「プリンス・ロジャー・バンド」から命名されたという。

そして、ジャズは西洋音楽とアフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽であり、
父親から受け継いだジャズをベースに、
自らの音楽、父から自分へ、そして子供たち(未来の人類)に引継がれていくべきものを描いた作品が、The Rainbow Childrenであった。


ーー実のところ、私自身は、The Rainbow Childrenを一通り聴いてみたばかりのところなのですが、
オープニング曲 'Just like the sun, the rainbow children rise'から始まる一連の響き、
ラスト曲の異様な盛り上がり、悲しみと明るさに感動しているところである。
(Last Decemberは、虹のように、七色に変化する曲調がとても美しい)

2006年発表 3121も聴いてみたが、

一周回ってアクが抜けたというのか、40~50代の中年となったプリンスの、さわやかで、しかし濃厚な曲作りがちょうどいい按配で良い。


ジョジョとプリンスの類似性を求めて、上記の新譜をまず聴いてみたのですが、
表面的な部分でどこそこが似ているということは無い感じである。
(せいぜいが、ストーンオーシャンの終盤で、七色の虹を多用したカラーイラストが多く描かれたくらいだと思う)

しかし、両者のファンとしての目線で独断的な深読みを行っていくと、
ジョジョの5部・6部で、作者の表現主義的な描画(エゴン・シーレのような人物描画など)が高まり、
5部→6部で作者の観念論が高まり、深まっていったものの、幾分 自己中心的というか自意識過剰で、やがて行き詰まりに辿り着いた。

しかし、行き詰まりに辿り着いた時点で筆を止めるのではなく、さらに前に進め、
創作の原点に立ち返ることで、新たな作品を生み出すことを可能にし、一周回って、40~50代の中年として、以降の作品を描き紡いでいった。

ジョジョ 5部→6部へのバーンアウト、近代の始まりに立ち返っての西部劇→現代劇のリメイクは、
プリンス Emancipation → the Rainbow Children → 3121 1990年代~2000年代の作品製作と、符号が一致する部分があるように思う。


ーー私自身のウンチクはともかくとして、
プリンスの死去直後 ペイズリーパークは雨模様で、雨が上がって、空に大きな虹がかかったという。
偶然か必然か分からないが、
57年の人生を駆け抜けたプリンスが、自らの長男坊、そして未来の子供たちと共に、やすらかに空を昇っていったことを、陰ながら祈りたい。
日本語で伝わるのかどうかはよく分からないが、プリンスさん、素晴らしい楽曲をつくって届けていただき、ありがとうございました。

Wherever U go, whatever U do  プリンスの死去を悼む

4月21日 夏目房之介の「ドラゴンボール試論」(「マンガの深読み、大人読み」に収録)を読み、
ペンギン村以来の鳥山明ファンが確かにいることに胸を熱くした後、
同日の夕方 事情があり、仕事/生計に関わる大きな取引を急遽 手配した。(普段からインターネットをチェックして、自分に関わる情報はこまめに確認しておくものだと思った)

その日の夜、取引に関わる周辺情報をチェックしていたところ、プリンス 死去のニュースが飛び込んできて、驚き、悲しんだ。


荒木先生の「ジョジョ」というマンガは、様々な映画、マンガ、音楽、小説、彫刻や絵画からインスパイアされている作品で、
私自身、ジョジョを読んで興味が湧いたミュージシャン、映画、小説などを手に取り、興味の幅を拡げてきたところがある。

プリンスは荒木先生 一押しのミュージシャンということで、
高校生になって、自分のオーディオを持つようになった辺りから、大学を卒業するくらいまで、よく聴きこんでいたものだった。

私が高校生~大学生だった1990年代後半は、プリンスが「元プリンス」になっていたややこしい時期で、
3枚組のEmancipation、New Power Soul、1999(1999 remaster)、Rave Un2 the Joy Fantasticまでをリアルタイムで買って、聴いていた。

大学生当時 3階建て(?)のアパートの一室に住んでいて、
壁や天井の薄い、安普請の部屋の中で、プリンスのCDを大きな音で聴いていたものだった。
(下の階に住んでいた看護婦さんなどには、迷惑をかけていたと思う。改めて、すみませんでした)


プリンスの作品で、一般的に知名度・芸術的評価が高いのは、1980年代に発表された1999~Sign of The Timesくらいまでの、一連の作品群だと思う。
「パープルレインとバットダンス以外知らない」「紫色のキモイ服を着たチビ」くらいの認識しかない方も多いと思う。

私 個人的には、ジョジョのマンガが好きな方であれば、
プリンスの作品ーー1980年代の名作群はもちろん、最近に発表された作品に到るまで、彼の個性と職人魂、楽曲の気持ち良さを楽しんで頂けるのではないかと思う。

(プリンスの作品のケレンミ、王道をガーンと進むストレートな感じは、荒木作品とよく似ている。気持ち悪い外見が人を選ぶところも…)


大学を卒業して、働き出した頃くらいから、プリンスだけでなく、新譜を探すこと自体をしなくなってしまったので、最近のCDのことはよく知らない。
(音楽をデータで購入したのは、最近 ハリーの災難のテーマを買ったときの一度だけ)

プリンスの作品で、Rainbow Childrenは一度 機会があれば聴いてみたいなと思っていたのだが、何となく聴かないままになってしまっていた。
プリンス関連で、ツタヤの品ぞろえはこれから充実していくようにも思うので、もう少し落ち着いたら、いちど聴いてみたいと思う。


渋谷陽一が、CDのライナーノーツなどでプリンスを評するとき、よく、
「プリンスの音楽は、密室性が高い。プリンスがリスナー一人一人に語り掛けるように、音楽を奏でる」と評していた。

ひとりきりの部屋の中や、自動車の運転中など、
こっそり一人で過ごす時間、ひとりきりになって音楽に耳を傾けたいときに、プリンスの妖しい裏声は、胸の奥までよく染みわたる。


この15年くらい、「心に沁みたなア」と思うプリンスの楽曲が幾つかあって、何かの機会に、頭の中でリプレイし、口ずさんでいる。

My Computer、 The Holy River、 One of Us。(「Emancipation」に収録)

「Rave Un2 the Joy Fantastic」の最後を飾るバラード、Wherever U go, whatever U do もお気に入りで、
身が固まる以前の若い時に聴いて、こっそり励まされた気持ちになったものだった。

同曲の歌詞を最後にご紹介して、プリンスの追悼、やすらかな旅立ちを祈りたいと思います。



Wherever U go, whatever U do

Wherever u go, whatever u do
Oh, please, remember that I'll always be there for you
You don't have to call, you don't have to say
Just think about me and I'll be on my way

I don't have to worry, I'm sure you'll be fine
'Cuz if you stay happy, then what's your's is mine
Wherever u go, whatever u do
Remember that I'll always be there for you
Oh, baby

Wherever you are, think of your dreams
Oh, please, remember life ain't always what it seems
For each rainy day that comes your way
The sun will come shining and you'll be okay

Keep on smiling, every girl and boy
Remember when you were children you had toys
Wherever you are, think of your dreams
Remember that dreams become the life you lead

Whatever you play, it's okay to lose
Ooh, sometimes, long as you learn from every game you choose
If one thing is sure, you'll always endure
If you try your best at everything you do

Say what you mean and mean what you say
The price for a broken heart's to much to pay
And nothing is worth it, if you don't have to try
The higher the stakes, the higher the sky

Wherever u go, whatever u do
Please remember, remember that I'll always be there for you