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ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ジョジョリオン 59話の感想(メモ書き)

ウルトラジャンプ11月号掲載のジョジョリオン 59話、極簡単なメモ書きの感想です。

「池の辺に住む男 ①」というタイトルの話で、
神社のほとりに住む四肢欠損の男、岩人間の長老格の男(?)が登場した。
一目見た時、「乙武さん」がジョジョに現れたと思ってしまったのだが、何とも際どい存在で、
身体に障害を持っているだけでなく、岩人間の秘密、中世から続く(?)杜王町の闇の歴史など、様々なモノを背負って生きてきただろうことを伺わせる。

憲助さんが嘘をつくとき、「アゴの無精髭を触る」くせがあることが明かされたが、
この話では2回、花都さんに脅しをかけるときと、常敏と岩人間の繋がりの推理話を聞かされたときにも、アゴ髭を触っている。
憲助は純粋素朴なただの善人では無く、定助に何か隠し事をしており、
ロカカカの所在が明らかになった時点で、東方家と定助の最後の争い・利害の対立が巻き起こるのだろう。


8部 ジョジョリオンのお話は、ロカカカの枝を巡る争いでクライマックスを迎えつつある。
最近 康穂とカレラの出番が無いが、
今やってる話の次くらいで、定助の三角関係(ほのかな恋愛)が整理され、憲助夫婦の関係に変化が起こるような、男女の機微の話が描かれるのではないだろうか。

ジョジョ 3部~7部、そして8部の展開を振り返ると、
クライマックスに向けて、毎回 パターンを変えて、都度ごとに盛り上がる展開を組み込んで、最後 面白く読めるように工夫しているのを感じる。
一般に不評な5部のクライマックス(矢じりを巡って、ボスとジョルノたちが争奪戦を繰り広げる展開)も、3部や4部と被らないよう作者が考えた工夫を感じる。

今回の8部がどんなクライマックスになっていくのか、連載期間で1年~1年半くらいではないかと思うが、楽しみに読んでいきたいと思う。
来月号は休載なので、次回 その②を読めるのは12月発売の1月号だけども…気長に待ちたいと思う。

見えないものを可視化する  手塚治虫の「アラバスタ―」、「マンガの描き方」

荒木飛呂彦の漫画術」に、絵とは何か、荒木先生が自説を述べるくだりがある。


 ここで改めて、絵とは何か、という話をしたいと思います。
 絵の本質的な役割は、見えないものを可視化して伝えることだ、と考えています。
 描き手はいったい何を伝えたいのか、と言えば、それは愛や友情、正義など目に見えないものであり、見えないものを絵にしないといけないのです。

 音楽も目に見えませんが、それを可視化しているのが音符で、見た目が美しい楽譜はやはりいい音楽なのだそうです。
 見えるものと見えないものがつながっているのは興味深い。

 シンボル化の意味も見えないものを描くことにあるわけで、
 ドラえもんミッキーマウスアンパンマンなどのキャラクターは、親しみやすさ、やさしさといったものを絵で伝えていると言えるでしょう。
 また、ひとつの絵だけでなく、マンガ全体で見えないものを伝えることもできます。

(以上、荒木飛呂彦の漫画術 第5章 絵がすべてを表現する より引用)


ーー漫画術ではこの後、大友克洋童夢」の超能力描写に触れた後、波紋・スタンドの解説に話が拡がっていく。
アナログの手書きを極めんとする、ライブ感を大切にする、マンガの神様が降りてくる瞬間を待つなど、
いずれも「見えないものを形にする」、見えないもの=超常的なもの・神と繋がる瞬間を求めて努力する、荒木先生の芸術観が現れている。


「見えないものを可視化する」という一節を読んでいてハタと思い出したのが、手塚治虫「アラバスタ―」である。

元々2chで「4部 透明の赤ちゃんとネズミ狩り(球撃ち)は、手塚治虫のマンガが元ネタになっている」との指摘があり、
元ネタと思しきアラバスタ―を見つけて、読んでみたのだが、表面的に重なりが無くはないものの、ジョジョ4部とアラバスタ―はテーマもストーリーも全然異なるマンガだった。

アラバスタ―は、透明人間の少女 亜美を巡る男たちの物語で、怪人アラバスタ―、ゲン、カニ平、ロック、4者4様の男の生き様を描いたピカレスクロマンである。
(強いて言えば、日常に潜むミステリーを描いたジョジョ4部では無く、ヤクザの抗争と成り上がりを描いた5部に近い)

アラバスタ―のテーマは「見えないものを描く」、真・善・美とは何か。
差別や迫害に苦しんだ主人公たちが、社会から逸脱し、社会に敵対しつつも、最後に何を見つけて死ぬのか、
悪人の生き様(死に様)を通して「ほんとうに美しいもの」を映し出す、逆説的なストーリーとなっている。


手塚治虫によれば、アラバスタ―は江戸川乱歩のグロテスクで隠微なロマン物を描こうと思って描かれたとのことで、その手のホラー・SFが好きな方にはお薦めです。
作者自身は、ネガティブ・ニヒルな方向に傾きすぎたとして、同作を気に入らなかったそうですが、
私などはそうでもなく、10点満点中 7点くらいの、なかなか面白く、読みどころのある作品だと思う。

「見えないものをどう描くか」というところで、主人公の亜美が透明人間であり、透明であるがゆえの迫害・差別に苦しみ、同じ苦しみを持つ怪人(アラバスタ―)に出逢った彼女は、善と悪、美と醜の狭間で揺れ続けることになる。

ロック、ゲン、ゲンの子分、カニ平とその母親、そしてアラバスタ―と、それぞれのキャラクターに背景があり、
ストーリーの要所要所の見せ場が面白く、やや展開が強引・つなぎ目の粗い所もあるが、演劇的な舞台転換の鮮やかさ、キャラクターの哲学のぶつかり合いが迫力を生んでいる。

物語の冒頭 人種差別に苦しむ黒人(アラバスタ―)の前半生、公害や貧困に追い込まれるゲンの家族たちなど、時事的な要素を盛り込みつつも、
より普遍的な美と醜の議論、何が正しくて何が間違っているのか、真実は何か、人間の本当の美しさは何か…という問題が、ストーリーを通して描かれていく。


残念な点が2つあって、
1つは、週刊連載が短期終了となり、また手塚治虫の筆も今一つ乗らなかったためか、物語の中盤以降 展開が駆け足になって、テーマの描き込みに、もう少し具体的に描ける余地が有った感じがすること。
もう1つは、亜美が終始 守られる立場のかよわい少女のままで、透明であることが最後まで報われず、かわいそうな異端の少女のまま死んでしまったことである。

アラバスタ―の亜美が、もし、ジョジョ4部の静・ジョースターであったとしたら、
アラバスタ―に導かれ奇顔城の王女となった後、どこかの時点でスタンド能力(=透明になる能力)に目覚め、自発的な意思を持った超能力者として、自らの運命に戦いを挑む。
透明な身体は不遇では無く、自らに備わった能力であるとして、ロックやアラバスタ―とのトリックバトルに挑んでいるような気がする。
ーーほとんどトリッシュかジョリーンのような展開になってしまうのだけど、現代の読者の視点からすると、亜美の置かれたありようがちょっと古臭く、悲劇の型にハマりすぎてる感じがした。


手塚治虫のマンガが面白いのは、ジャンルやストーリーの種類を問わず、作者の世界観、テーマに一本 筋が通っており、読む価値の無いモノを作らないことである。
絵作り、キャラクター作りの魅力もさることながら、ストーリー展開のうまさ、テーマと世界観の押し出し方のうまさ、作者の見識・哲学の面白さ、文芸面の魅力が手塚マンガを唯一無二の存在に押し上げていると思う。

「学研まんが NEW世界の歴史」を最近 読んだのだけども、これと共通する面白さ、物語の厚みが手塚治虫のマンガにはある。
つまり、社会の歴史、人間の生活の厚み、国家や地理の時間の重なり、人間が幾世代に渡ってどのように生き延びてきたのか、何を求めて何を失ってきたのか、
時間と経験の厚みがストーリー・キャラクター・世界観・テーマに反映されているからこそ、単なる紙に描かれたインク染み以上の、単なるコマ送りの動く映像以上の、目に見えないものを可視化して読者に伝えることができるわけである。


アラバスタ―と同じく、手塚治虫マンガ全集収録作品で、「手塚治虫のマンガの描き方」という本がある。
荒木飛呂彦の漫画術」と似た立ち位置の本で、手塚治虫のファン、(手塚を基礎とする)戦後マンガのファンの方ならば、いちど手にとって読んでみることをお薦めします。

現代マンガの高度なデッサン・デフォルメ、CGを用いた画面づくり等は学べませんが、
表面的な視覚効果以外のマンガのほぼ全ての要素は、手塚治虫によって基礎がつくられ、現在までの規範(=教科書)となっていることが確認できると思います。

マンガの描き方では、あとがきにかえて、作者自身による作者へのインタビュー(という短文)が掲載されています。
マンガは「批評」ですよ、という一文で同書は締めくくられる。
文章の切れ味が鋭く落語調の面白さがあり、マンガの根本は絵と話、ビジュアルと言葉の両方にある、ということがよく分かります。地味ですが、おススメの一冊です。

The Rainbow Children 40歳の節目に抱いた、極個人的な感想



(下記 ジョジョとは殆ど関係のない記事となり、申し訳ありません。
プリンスのThe Rainbow Childrenを中心に、自らの思うところを述べた極個人的な記事です)


今年の夏 めでたく40歳を迎えることができた。
40歳という年齢は人生の折り返し地点を過ぎており、60歳まであと20年、意識と体力を高く保って働けるのはそれよりもさらに短いだろう。

40歳の節目を越えるにあたって、自分自身、どのような40代を送るべきか、
これまでと較べてどのような人生を送らねばならないか、ゴールから逆算して考える、想像することがままある。


映画を観るとき、1回目ではどんなストーリー、どんなラストになるかに気がそぞろでソワソワしていて、
一回 観終わった後、(後日)2回目を見返したときに、映画の全体像がよく分かり、作品の細部と全体をじっくり楽しめることがある。

映画でも小説、マンガでも同じだと思うが、作者の年齢、人生の歩みと呼応するように個々の作品は紡がれており、
ある作品を読むとき、読者(自分)の人生に重ねつつ読むことで、新たな発見が得られたり、感動・共感が深まることがある。


プリンスは2016年、58歳で亡くなったが、プリンスの死後 彼の人生が完結することで、作品像の全体が把握しやすくなり、
また、彼の年齢に読者(私)が近づくことで、これまで見えなかった彼の世界観が見え、理解が深まることがあった。

プリンスと私の出会いは1992~93年、私が高校生で、ジョジョ第4部の連載が始まった頃だった。
第4部の舞台設定がプリンスの1999に在ることを何かで知り、サイケなジャケットにも魅かれて、1999をレンタルしたのが始まりだった。
とても明るく拡がりのある世界観、キーボードのシンプルな和音が大好きで、カセットテープで繰り返し聴いたものだった。
(これより以前 パープルレインやバットダンスなど、TVでプリンスを聴く機会もあったのだが、自分からプリンスを求めて聴いたのは、1999が初めてだった)

1999を気に入って、その後 80年代の傑作群、元プリンスに改名してからのニューアルバムも買いこんでいったのだが、
プリンスの曲を聴いていて、どうも自己愛・自意識過剰が強すぎると思い、(近親憎悪のような)嫌悪感を抱きだしたのと、
マイテとの結婚がうまく行かなかったりしたニュースを聞いて「実生活に説得力がない!」と憤って、プリンスから離れることになった。
(その当時 自分はただのヒマな学生で、仕事もせず恋人もいなかったというのに、だからこそ?、プリンスに過剰に思い入れ、そして一方的に幻滅していたのだろう)

その後 大分時間が経って、今年になって、プリンスが死んだのをきっかけに、彼のアルバムを聴き返していた。
最近になって聴きなおしてみて、いちばん驚いたのは、1988年発表のLovesexyがとても素晴らしく、愛と人生をまっすぐに見つめた純粋な魂を表現しようとしている透明さだった。
学生当時に聴いたときは、件のカバージャケットはともかく、全曲が1トラックに結び付けられているのが我慢できず、ムダにせっかちな悪癖のある私は、「こんなワガママな1トラックの独り言を聴いてられるか」と思い、聴きこむ意欲が失せたものだった。

今はオッサンになって、ゆったり時間を過ごす方法、1時間くらいのあいだゆっくりアルバムを聴きこもうという余裕が持てるようになったので、
Lovesexyも、The Rainbow Childrenも、頭から最後まで、それなりに集中して聴いて楽しめるようになった。

ドルトムントコンサートを観、アルバムを聴き返して分かったのだが、
Lovesexyは、(プリンスらが扮する)天使たち、愛と真実の使い手たちが、地上に降り立って「愛を広めるコンサート」を行っているかのようなスタイルを採っている。
30歳前後のプリンスは音楽的才能の絶頂期で、体力・精神力の高まりもピークにあり、とてつもない切れ味でコンサートを取り仕切る。
Aiphabet St.からAnnna Stesiaに到る一連の流れが聴きどころで、1999の爆発的な高揚感からスタートして、Lovesexyで天を掴む、神の位置に限りなく近づこうとしているかのような、そんな幻を思わせるほどの迫力がある。

そして2001年発表のThe Rainbow Childrenは、Lovesexyに続く「神に捧げるゴスペルアルバム」である。
プリンスは40歳を越えており、結婚・離婚を経験し、子供との出会いと別れがあり、父母の老いを見、20年間の様々な音楽家のキャリアを経て、
色んなことが人生に起きて、そしてその人生が通り過ぎてしまう前に、波と波の間で、
今 在るところの、キリスト教の福音、自らの信じ、考えられるところの物語を綴り、一本のアルバムを書き起こした。そんなアルバムであったと思う。

The Rainbow ChildrenはLovesexyに較べると幾分地味で、落ち着いており、芸術家がピークにあるときの神がかった全能感と迫力は薄れている。
私はキリスト教の信者では無いが、他人の考えを知ることには興味があり、
プリンスが語るキリスト教の物語、彼が何を信じ、何を求めて人生を戦ってきたのか、これからどう生きていくのか、彼の宗教と哲学を知ることは興味深かった。

独断によるとThe Rainbow Childrenは、ラスト曲のLast Decemberに向けて全てが盛り上がっていくアルバムで、
1曲目から6曲目までの流れ、She Loves Me 4 Me辺りのタメを挟んで、キング牧師の演説からラスト曲までの異様な盛り上がりはとにかく素晴らしい。

アルバムの中で、The Rainbow Childrenを巡る、(プリンスの解釈による)聖書の新たな物語が紡がれていくが、
Family NameでThe Rainbow Childrenは現実の黒人(人種)の物語であり、永遠に在る今を語るEver Lasting Now、そしてLast Decemberが最後を締めくくる。

Last Decemberの歌詞は、プリンスが自分自身を鼓舞するように語りかけるでもあり、亡くなった我が子の魂に語りかけるようでもあり、そしてもちろん、聴き手のファンたちに語りかけるようでもある。
己の人生、これまでの道程を振り返った末に、僅かの静寂、沈みが有り、その後に爆発し畳みかけるのが、1999で聴いた、あのシンプルで華やかな、夜明けを告げるかのようなキーボードとギターの輝きであった。
「ここであの音が鳴るのか!」と感動し、胸が震えずにはいられなかったし、繰り返し聴いていても、やっぱりそう思う。
ーー私としては、高校生のときに1999に出逢って、そして今 40歳になってLast Decemberに出逢えて良かったとつくづく思った。


プリンスのアルバムで、最近によく聴くのはLovesexy、The Gold Experience、The Rainbow Childrenという辺りなのだけども、
今の自分にとっては、40歳を越えたプリンスの、ある種の達観、悟り、世間に期待しないが絶望もしないというような落ち着いた態度、
自意識や性欲の高ぶりが冷めて、しかしまだ熱い熱情が胸の中で燃えているような、そんな精神のありかたがとても気持ち良く、落ち着いてフィットする。


プリンスのアルバムは、特に2000年以降のモノはまだ聴けていないものが殆どで、これから先 新たな音源を発掘して聴き込んでいく楽しみがある。
ジョジョのシリーズは、1部開始以降 リアルタイムで読み続けているので、新たな作品を発掘する楽しみは少ないが、年代と共に読みどころ、作者の意図を新たに掘り起こす楽しみがある。
月並みな表現ですみませんが、「虎は死んで皮を残す。ヒトは死んで作品を残す」ということで、
プリンスやジョジョ、そして私自身も、死ぬまでにどんな作品を残せているのか、生きている間の足跡作りが全てなのだと理解、反省させられる。

最後になりますが、プリンスのLast December、この曲の歌詞を引用して記事を締めくくりたいと思います。
(興味のある方は、こちらのリンクから同曲を購入できると思います。ご参照ください)


"Last December"

If ur Last December came
What would u do?
Would anybody remember
2 remember u?

Did u stand tall?
Or did u fall?
Did u give ur all?

Did u ever find a reason
Y u had 2 die?
Or did u just plan on leaving
Without wondering y?

Was it everything it seemed?
Or did it feel like a dream?
Did u feel redeemed?

In the name of the Father
In the name of the Son
We need 2 come 2gether
Come 2gether as one

Did u love somebody
But got no love in return?
Did u understand the real meaning of love?
That it just is and never yearns?

When the truth arrives
Will u b lost on the other side?
Will u still b alive?

In the name of the Father
In the name of the Son
We need 2 come 2gether
Come 2gether as one

In ur life did u just give a little
Or did u give all that u had?
Were us just somewhere in the middle?
Not 2 good, not 2 bad?

In the name of the Father
In the name of the Son
We need 2 come 2gether
Come 2gether as ONE

 

 

1890年 スティール・ボール・ラン 記者会見

最近、仕事と趣味を兼ねて、にわかに世界史を勉強し出している。

宮崎正勝「スーパービジュアル版 早わかり世界史」という本が、最初に読んで面白かった本で、
暗記事項の詰め込みだと思い込んでいた世界史から、「理解して、歴史の動きを捉える」面白さに目覚めさせてくれた。

「マクニール世界史講義」(The Global Condition)という文庫本があり、
ヨーロッパ世界がいかにして拡大したか、フロンティアラインの発展が述べられていて面白い。

日本(国家)の行く末は勿論、官僚と市民の力関係、大企業とベンチャー企業の競争関係なども思い起こさせ、
さまざまな事象に当てはめ、物事の骨組を類推することができ、
「歴史をいかに活かすことができるか」は、これからの未来を生きるための、大切な勉強になると思う。


 ***


マクニール世界史講義 グレートフロンティアという論文で、
1890年 アメリカ国勢調査局が「フロンティアは消滅した」と発表した、と述べられている。

アメリカ大陸の西海岸まで、開拓の波が行き渡ったことを述べているのだが、
ジョジョにおける1890年とは、まさに、スティール・ボール・ランレースが開催された年である。

個人的な推測であるが、これは偶然の一致では無く、
荒木先生が「近代の始まり」「ジョジョの新たなシリーズの幕開け」を描くにあたり、意図を持って、1890年のアメリカを舞台に選んだのではないかと思っている。


アメリカの東海岸から始まった開拓の波が、西海岸にたどり着き、開拓の余地が無くなったとされた、国勢調査局の宣言。
ならば、今度は西海岸から東海岸へ逆ルートの旅を行い、「自分たちの開拓地」を見つけていこうとするのが、
スティール・ボール・ランレースのコンセプトだったのではないだろうか。

スティール・ボール・ランレースは、西→東にアメリカ大陸を横断する試みであり、
これは、(6部の)未来から19世紀への巻き戻しに一致する。

レースのゴールポイントには聖人(キリスト)の遺体があり、
すべての出発点、原点に立ち返り、自然と戦い、道を切り開く主人公たちを描いたのが、SBRの物語であったと思う。


ジョジョ1部の主人公 ジョナサン・ジョースターは、1868年生まれである。

日本では明治維新のあった年、明治元年で、荒木先生がどこまで意図したのかは分からないが、
「日本の、近代化の始まりの年」に、ジョジョの起点が置かれたことは興味深い。

ジョジョのこれまでのシリーズは、19世紀末~21世紀初頭までが物語の舞台に選ばれ、
未来の果ての物語や、古代や中世の秘密の歴史などが、主人公の舞台に選ばれたことは無い。

これは、荒木先生が「リアリティーあるサスペンス」を作品の基調とするために、作劇上 あまり日常(現代)とかけ離れた時代は描けないとインタビューで述べているし、
また、荒木先生の問題意識が「現代人(近代人)の在りかた」に向いているため、自ずと、近代に生きる人間たちが、描かれる対象として選ばれているのではないかと思う。


いわゆる名セリフ・名言の類をマンガに求めるのは、あまり個人的に好きではないのだが、
ジョジョを読んで燃えたメッセージの一つに、スティール・ボール・ラン 冒頭の、スティール氏の記者会見がある。

SBRレースが歴史上初の試みであり、アイデンティティーに開拓の精神があること。
そして、真の失敗とは興業が失敗することではなく、開拓の心を忘れ、困難に挑戦することに無縁のところにいる者たちを指すのだ、と。

このレースに失敗なんか存在しない、存在するのは「冒険者」だけだ!と叫んで、スティール氏の会見は締めくくられる。

冒険者の精神とは、まさに「ジョジョの奇妙な冒険」の物語の根幹であり、
近代のはじまりに立ち返った7部の冒頭で、スティール氏の口から、ジョジョのテーマの根幹が、改めて提示されたのだと思う。

SBRレースが始まった後は、スティール氏はほとんど活躍の機会が無く、
マジェントマジェントに銃撃された後は(連載期間で)2年以上も重傷のまま寝込み続けることになった。

しかし、スティール氏が列車のルーシーを連れ出しジャイロに託した時点から反撃の気運が盛り上がりを見せ始め、
レースの最後 無限の回転に崩れ落ち去ろうとしていたジョニィを助けたのは、かつて騎兵隊に加わった馬乗りのスティール氏であった。
ルーシーの活躍無くして、大統領の陰謀を食い止めることは出来なかったが、これもスティール氏という夫の存在があってこそで、
スティール氏こそは、7部の物語の陰の主役、物語の舞台と進行を裏で支える、基盤となる人物だったのだと思う。


サンドマンポコロコ、ホットパンツ、ジャイロの父も魅力的なキャラクターで、
可能であれば、彼らにスポットライトを当てた外伝話・短編を読んでみたい。

近年 岸部露伴を語り手にした短編が断続的に発表されているが、露伴だけでなく、
SBRのキャラクターのスピンアウト話、その他のキャラクターの外伝話も、できれば読んでみたい。

8部 ジョジョリオンが完結した後、荒木先生の気が変わって、そいういう外伝話・短編連作が発表されるようになったら嬉しい。)

ジョジョリオン55話の感想、予想  漫画ゴラク・サンデーへの追慕

ジョジョリオン 55話、ダモカンと決着し、東方花都が登場するまでの話を読んだ。

ダモカンとの戦いはスカッとする決着で、ゲスがゲスらしく振舞い、キッチリやっつけられるのがスカッとする。
ダモカンが頭を貫かれて「ぺぎゃ」と呟いたり、双子の頭に木の枝が刺さって「ポーッ」と白目を剥いたり、
奇声とも断末魔とも付かない叫び声をあげるのがいい感じである。

荒木先生によると、8部の杜王町は、他人どうしがお互いに無関心な、リアルな現代日本の街並みを描いているとのことで、
断末魔をあげて崩れ去るダモカンを「なんだ、フィギュアか…」と素っ気なく立ち去る通行人たちのシーンが面白かった。

ダモカンを倒した後、定助が「オレの正体は空条ジョセフミ」と呟くが、いよいよ主人公の正体(過去)が明らかになり、
ここから物語のクライマックスに向かっていく、盛り上がる展開になっていくと思う。

(次号予告によると、次回は常秀がイベントの列に並んだことから意外なトラブルに巻き込まれていく話らしいが、
常秀の活躍を織り込みつつ、クライマックスへの布石を打つエピソードになるのではないかと思う。)


今回の話の最後で、東方家の母 花都さんが出てきたのは、まったく予想外の展開だった。
常敏を生き残らせるため花都さんは死に、その替わりに家政婦さんを雇ってきたのだろうと思っていたので、ここで彼女がキーキャラクターとして登場するとは思っていなかった。

私個人の予想では、花都さんが15年間 刑務所に服役していたのは、
常敏を呪いの病から守るため、(東方一族以外の)誰か他人を身代わりに立て、呪いに差し出したのではないかと思う。
石化の病は法を越えた超常現象ではあるが、何らかの形で明らかとなり、花都さんが刑事罰を受けることになったのではないだろうか。

最初、花都さんの後ろ姿が登場したときは、パラレルワールドのアイリン(6部最終話に登場の人物)が現れたと思ったが、全くの別人だった。
ストーンオーシャンっぽい意匠の刑務所、イタリアンマフィアのような岩人間たちなど、4部・5部・6部のネタをそこかしこに詰め込んであるのが面白い。


ジョジョリオンのいろんな感想、予想などを読んでいると、
ジョジョリオンのラスボスはいったい誰になるのか、どんなスタンド能力なのか?」という話題が出てくる。

花都さんが東方家の陰謀の中心人物であり、彼女がヴァレンタイン大統領を越える女傑で悪の策謀家なのかというと、おそらくそうはならないと思う。
ジョジョリオンの裏の主人公は家長 憲助さんであり、東方家を中心に、現代日本の家族を描いていくのが、8部の眼目になっていると私には思われる。
憲助さんを中心とする東方家、吉良家、そして定助(空条家?) 3つの家族のありかたを通じて、人の暮らしのありよう、幸せのありかたを描く物語になるのではないだろうか。

花都さんと憲助さん、常敏とつるぎを巻き込んで、ロカカカの枝を巡る事件が巻き起こっていくと思われるが、
いわゆるラスボスが登場し、憎むべき相手を倒してスカッとしたカタルシスを得るという展開には、おそらくならないのではないかと思う。

そもそも、個人的には「ラスボス」という概念・表現が登場したのは、
ドラゴンクエストのヒットに影響を受けた鳥山先生が、ドラゴンボールフリーザを登場させ、悟空とフリーザの限界突破の戦いが少年ジャンプの歴史上 最も高い読者の盛り上がりと、最大の発行部数・コミック売り上げを記録した経緯によるのではないかと睨んでいる。

少年誌連載のバトルマンガであれば、「もっと強い敵を倒したい」「主人公がもっと強くなり、成長する姿を見届けていきたい」で盛り上がるのは分かるが、
ジョジョリオンは青年誌連載のマンガであり、読者の年齢層も20~50代くらい(?)と高め、
家族愛や郷土愛、自分探しのアイデンティティー回復を描く物語であろうから、ここにラスボスとの最終決戦を望むのは、ちょっと物語の筋道を読み違えてるんじゃないかと思う。


ーーと、ジョジョリオンの今後の展開について、ひとしきり偉そうに語っていますが、
この後 さらにとんでもない、予想を超えるラスボスが登場し、ホラーもサスペンスも家族愛もアイデンティティークライシスも全てを盛り込んだ、予想を超える面白い展開が描かれるかもしれず、
私などの予想は全く当てにならない。

ただし、思うところ 確かなこととして、

ジョジョリオンは少年ジャンプ連載・小中学生向けのバトルマンガでは最早なく、
ともすれば(かつての)漫画ゴラク漫画サンデーに掲載されていたような、人生の雑踏、おかしさと悲しみを描くようなしみじみとした路線にシフトしつつある。

作者の加齢と共に、すこしずつ物語の風合いや雰囲気は移り変わっていくのが自然であり、50代後半を迎える作者に、いつまでも「20代だからこそ描ける、トーナメント式バトルの頂点」を求め続けるのは少し酷であり、求めるピントがズレているように思う。

かつて、ジョジョ9部は老人の心境を描くしみじみとした物語になるのではないか?と予想したことがあったのだが、
憲助さんを中心とする家族のおかしみを描くのが8部で、老人となった主人公の死と再生を描くのが9部以降のテーマとなるのだろうか。いずれにしても、8部・9部と続く今後の展開を楽しみに読んでいきたい。

ギーガーの「エイリアン」と、ジョジョのスタンドたち

「ブックオブエイリアン(the book of alien)」という本があり、
映画「エイリアン」のさまざまなデザイン画、創作の裏話が掲載されている。

メビウスによる宇宙服のデザイン画があり、一目で観て分かる素晴らしさですが、
最も目を引くのは、H・R・ギーガーによる、エイリアンのデザイン画である。


同書によると、
ギーガーは「バイオメカニクス」というコンセプトを立てて、エイリアンのデザインに取り組んでいる。

バイオメカニクスでは、機械が有機的に見え、有機的なものに機械的な質感がある。
何よりも、「骨をいじるのが好きだ」とギーガーは言う。

エイリアン(成体)の頭部・顔面は、何とも言えない不思議で不気味な、魅力的な形態をしているが、
ギーガーは、彼の独創的なバイオメカニクス論を、エイリアンの舌に応用した。
頭部が横長になれば、恐ろしく実用的に、引込式の舌を備えられないかと考えたのだという。


ーーギーガーはじめ、SFXの職人たちによる「エイリアン」の創造過程は、
ゴジラ」や「ウルトラマン」 日本特撮草創期のモノづくりと重なるところを感じ、とても興味深い。


そしてまた、ギーガーのデザインーー有機的なようで機械的でもある、不思議な魅力とカッコ良さーーに通じる魅力を備えているのが、
ジョジョのスタンドデザインである。

ジョジョベラーのスタンド解説本を読んでいると、
スタンドデザインのコンセプトとして、「生物のような機械のようなデザイン」という表現がたびたび現れる。

荒木先生は「エイリアン」をSFホラーの教科書として絶賛していたし、
椛島編集からギーガーのデザイン画集を薦められたこともあったとかで、
ギーガーが提唱する「バイオメカニクス」を、アラキ流に噛み砕き、自己流のデザインとして百花繚乱に展開したのが、ジョジョのスタンドたちなのだろう。


個人的に、ジョジョ3部~8部(ダモカンの話まで)のスタンドを一堂に並べて、
「最もカッコいいデザインのスタンドは?」と言われれば、
キラークイーンとザ・ワールドが浮かんだ。

プッチ神父のメイドインヘブンもカッコいいが、単行本発売時に改名してしまったのが今イチで、
元の名前のステアウェイトゥヘブンのほうが、名前がデザインを引き立てて、よりカッコ良かったと思う。

クレイジーダイヤモンドやスタープラチナは、正直、デザインだけを見るとあまりカッコ良くなく、もっさりしてる感じがある。
主人公(本体、スタンド使い)のパーソナリティーの魅力と、能力の使い方の面白さで、とても魅力的なスタンドになっているが、
スタンド単体を観察すると、キン肉マン北斗の拳のあいだのような、人間の闘士っぽいデザインなのが、「スタンドらしさ」を低くしているのかもしれない。


ギーガーのデザイン画は独特のクセがあって、気持ち悪い感じの絵も多いのだが、
ギリギリの線で踏みとどまっているというか、気持ち悪さと美しさの両方を取り入れて、全体として一つの整合性ある世界を作り上げているのが素晴らしい。

人間、気持ち悪いだけの方向に傾いて走ったり、建前だけのキレイごとを述べて取り繕ったりすることは簡単だけど、
聖と俗 両方を併せ持った器量の大きさ、清濁併せ飲んで最後に「おいしい飲み物」を作りだすことはとても難しい。

ギーガーのクリーチャーデザイン、ジョジョの物語とキャラクターなどは、
清濁併せ飲んだ、飲み明かした夜明けの明るさを備えているようで、稀有な作品であると思う。

ジョジョで後付け設定が追加され、矛盾が生まれるのはなぜか?

ジョジョを読んでいると、後付け設定が追加され、矛盾が生じることがたびたびある。

有名なところでは、1部連載時 (ジャンプ誌上で)ツェペリさんの死に際で「自分には家族が居なかった」ことが語られたが、
2部になって、孫のシーザーが登場する展開となり、コミックスでは上記のセリフが差し替え、訂正された。
コミックスの後書きで、荒木先生が「大人はうそつきではないのです。間違いをするだけなのです…」とお詫びを述べた一件である。

登場人物の初期設定やスタンド能力が微妙に変わってきたかな…?と思うこともたびたびあるし、
連載中のジョジョリオンでは、作中に散りばめられた仄めかし・伏線の類が、けっこうな頻度でブン投げられたりもするので、
ジョジョというマンガは、例えばプログラミングの計算式のように、矛盾無く数学的合理性を持って出来上がっているものではない。
このことは、ジョジョをご存じの方であれば、皆さん同意していただけるところだと思う。


ジョジョで後付け設定が追加され、矛盾がたびたび生まれるのはなぜか?

巷の意見に目を通すと、
「荒木先生が忘れっぽい、トボけた性格の人だから」
「大物作家になってしまって、編集者が意見できず、周りが間違いを指摘・訂正できなくなった」
など様々な意見が出ているが、もう少し他の原因があるように私は思う。

私自身が推測する、ジョジョに矛盾がたびたび生まれる最大の原因は、ジョジョが週刊誌で連載されてきたことにあると思う。

ジョジョは長年に渡って週刊少年ジャンプで連載され、今は月刊誌(ウルトラジャンプ)で連載されているが、
荒木先生は昔と変わらず、週刊ペースで仕事(ネーム→作画)を続けているという。


2016年春 ミラクルジャンプにて、荒木先生が4部を語るインタビューが掲載された。
その中で、上記疑問への回答となるような一節があり、一部分を引用させていただきます。


ミラクルジャンプ 荒木先生のインタビューより、一部抜粋

ジョジョ4部 吉良とのクライマックスの戦いは、何週にも渡って伏線を張り、展開を積み上げていく構成になった。
 ネームがなかなかまとまらず大変だった、という話の中で……)

ミラクルジャンプ(以下MJ):一人の敵と何週にもわたって戦うことは過去にもありましたが、それとは違うものなのですか?

荒木:他の敵との戦いにも、もちろん大きな流れはあるのですが、一話で読み切れる内容にはしているんですよ。
「今回はあれをやろう」という、その話ごとの目的を入れている。
でもこの最後の戦いはそれだけじゃ済まなくて、クライマックスだし能力が能力だし…と。

無理矢理勝っちゃダメなんです。
勝つ理由と、キャラクターの意志の強さができていなければならない。

一つシーンを描くごとに可能性を限定していくことになるので、
駒を置いたら後戻りできない、チェスをやっているような雰囲気がありましたね。

敵が強すぎて「主人公、勝てるのかな?」と不安にもなりました。
敵を弱くして勝っても面白くない。
DIOもそうでしたけど、主人公達が上を行くのは難しいな…と思わせるキャラクターでした。


(以下省略)



ーー平たく、誤解を恐れずに言えば、
ジョジョの執筆スタイルは「週刊少年ジャンプ」に鍛えられたものであり、
キン肉マンドラゴンボール北斗の拳と同じく、行き当たりばったりを恐れない、毎週毎週の盛り上がりを極限まで高めていく、厳しい競争環境において作り上げられたものだということです。

逆に言えば、ジョジョ(1部 ジョナサンとディオの話)が描き下ろし単行本として最初から描かれたり、
あるいはジャンプでは無い、もっとマイナーな媒体で連載されていれば、今とは異なる別のマンガに育っていっただろう、ということです。


ミラクルジャンプでは、このあたりの話がもっと詳しく、荒木先生自身の肉声で語られています。
(「ジョジョは「少年ジャンプ」だからできた作品だと言える。それはなぜか?の疑問と回答)

同インタビューにはこの他にも、
ジョジョ4部連載開始時の裏話、リーゼントに対する美的評価の話、4部と8部 杜王町をめぐる構想の裏話など、面白い話がたくさん入っています。
なかなかおススメのインタビューでした。

 

また、ジョジョメノン 荒木先生と小説家・円城塔氏の対談においても、

小説とマンガの製作形態の違い、「週刊連載は、ジャズのライブだと思って描く」など興味深い発言のやりとりが収録されています。

 

ーー読者としては、「設定に矛盾無く、かつ面白く、読者を興奮・納得させるマンガ」がいちばん良いのでしょうが、

創作の現場はナマモノであり、(例えば、説明書にしたがってプラモデルを組み立てるように)誰もが再現可能では無い特殊な仕事なので、

結局のところは、作者と作品を受け入れられるかどうか、ダメだと思ったら読まない、これが読者に与えられた立場であり、自由なのだろうと思う。