ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

螺髪のドクターと橋本陽馬

ウルトラジャンプの最新号と、岸部露伴は動かない2巻が同時に発売され、買って読んだ。

 

ジョジョリオンの連載は新展開で、密葉さんを誘惑するハンサムなドクターが出てきた。ロカカカの枝を奪いに来た2人のうちの1人で、岩人間の最後の一人と思う。

(個人的には、ジョジョリオンの「最後の戦い」は、常敏とその両親を巻き込んだ戦いで、憲助さんが最後の最後に悪に傾くのかどうか?みたいなせめぎ合いが描かれるのでは と予想している)

 

ハンサムなイケメンのドクターは、ちょっと見た目に気持ち悪い髪型をしていて、頭頂部や後頭部にブツブツが一杯出来ている。私自身 自分の身体に発疹や皮膚炎が出来ているのを見るのが苦手で、生理的に嫌な感じがしたのだが、よく考えてみると、これは、「仏さまの頭」に似ている。

螺髪(らほつ、らはつ)と言うそうですが、このドクターが、アーバンゲリラやプアートムとは違って、高尚・広大な思想を持ち、生死の境を超越しようとするような、何か崇高な目的を持っていることの表れかもしれない。

もう1人のドクター(? 救急隊員のもう1人)が、もしキリストのようなヘアスタイルをしていたら、まるで「聖おにいさん」のコンビになってしまうが、そこまであからさまな描写は、たぶん無いだろうと思う。

私の個人的憶測の線が強いですが、豆ずくさんがリフトの上で語っていたように、ロカカカの実(=8部のキーアイテム)は、生死の境を超える、賢者の死生観をも揺るがしかねない「悪魔の実」でした。

ドクターが単なるゲスではない、ひとかどの生命観・倫理観・社会観を持つキャラとして描かれることで、岩人間軍団の目的やルーツが語られることを期待しています。

 

 

また、「露伴は動かない2巻」は、雑誌連載で読んだものもあり、単行本で初めて読んだものもありの4つの短編でしたが、どれもなかなか面白かった。

D・N・Aは、自分の身近な家族や仕事に引き付けて、面白く読めた。

ザ・ランに出てくる橋本陽馬は、荒木先生が述べていたとおり、アラキマンガに久々に登場した「筋肉キャラクター」で、血湧き肉躍る展開が面白かった。

橋本陽馬が東京に出てきてスカウトされ、鏡の前でポーズをとるくだりは、オリジナルラブの「月の裏で会いましょう」の一節を思い出してしまう。「東京に憧れた若者、お上りさん」の表と裏が、よく描かれていると思った。

 

私自身は中年のオッサンだが、一読者の感想として、ハンサムな敵、カッコいいい敵や思想性のある敵、単なるゲスではない敵が出てくるのが、強敵感、ラスボス感があって盛り上がる気がする。

その伝で言うと、常秀がヒーロー的役割を担うことは無く、カレラにトリックスター的ピエロの役割を期待したいものの、プアートムやドロミテあたりでは、やはり、「最後に主人公が乗り越える敵」の風格は担えなかったのだろう。

ドロミテが8部杜王町のマスコットになりつつあるのはヤバい感じもするが、かつてのアンジェロ岩と同じような位置付けなのかもしれない。

チャンピオンで「ドカベンの最終回」を読んだ。

人生で(多分)はじめて週刊少年チャンピオンを買い、「ドカベンの最終回」を読んだ。

 

岩鬼と山田、陰と陽の2人の主人公に焦点を絞ったラストで、最後の見開きのホームランは圧巻だった。

ドカベンは、甲子園編は、二年の春まで読んで、殿馬がハイジャックされた?くらいのところで読むのを中座している。

プロ野球編以降は、里中が瓢箪というキャッチャーと新魔球の秘密特訓を始めたくらいで終わっていて、たぶん4~5巻くらいまでしか読んでいない。

 

あぶさん 雑誌掲載時の最終回は、コンビニで立ち読みして、最後の1ページが「作者からのお礼とあいさつ」みたいになっていて、あまり感心しなかった。

ドカベンの最終回は、雑誌を買って読んだが、作品世界が静かに、きっちり綴じ込まれるように終わって、とても良かったと思う。

 

10~20年前 何かのインタビューで、水島先生が「弱小の高校が甲子園をめざして野球を頑張る話」など、ドカベンあぶさんとはまた違った、野球少年の話を描きたいと話していた記憶がある。

水島先生が80歳になるまで連載を続けてきたのは驚きだが、やはり、この人の描く野球、人情味あるキャラクターの描写は随一である。

 

今でもふと、あぶさん5巻「いわし雲」の一節が胸に浮かぶことがある。自宅にあって、ときどき5巻を読み返しているからなのだが、胸に迫るマンガを描ける作家、いつまでも忘れられない名シーンを描ける作家は、そう沢山は居ない。

水島先生がお元気なのは幸いで、ジョジョの荒木先生も年をとりつつも、月刊連載マンガ家として頑張っている。原画展やアニメ化などの企画はソコソコとして、ジョジョリオンの連載を、集中して頑張ってほしいものだと思う。

ミュージシャンのプリンスが死んでも、彼の造った作品がプリンスとして残っているように、マンガ家が死して名を残すのは、やはりマンガだと思う。
山田と岩鬼景浦安武の立ち姿は、水島新司が死んだ後も、地上に永遠に生き続ける筈である。それこそが、マンガの金字塔だと思う。

ジョジョの旧世界と新世界 何をどう「語り直して」いるのか、推測のメモ

4月1日 日曜日の休日、近所のお寺に花見に行って、待ち合わせ中の暇つぶしに思いついたメモ。

ジョジョの旧世界(1~6部)と新世界(7、8部以降)について、
荒木先生のインタビューによれば、
新世界は旧世界の「語り直し」として、意識的にテーマやキャラクターを重ね併せている節があるといいます。

旧世界のどんな部分が新世界のどんなところにリンクしているのか?を洗い出してみました。


●1部、2部→7部

「初めて」の物語、近代の原点となる時代を舞台とするところ。

ジョースター、ツェペリ、ディオ 3人の主役が登場する。
三者の人間関係を基軸に、ドラマが進む。

ディオの復活。

最終回のいくつかのシーン、重ね合わせのシャレ。
(客船が大西洋を行くラスト、ディオが死んで首が残るか残らないかの違い)

ジョニィのキャラクターは、ジョナサンをベースにしている と作者が公言している。
ジャイロのキャラクター、陽気で向こう見ずな感じはジョセフに似ている?


1部から2部で、物語がイギリス(ヨーロッパ)からアメリカへと拡がった。

7部は、バチカン(≒ネアポリス)の死刑執行人が、アメリカ大陸に、自らの生き様を求めて旅に出る物語。

私自身 キリスト教西洋史に疎いため恐縮ですが、
ヨーロッパ(バチカンカトリックの総本山)から旅立ったジャイロが、プロテスタントが多数派を占めるアメリカに赴く。
聖人の遺体を求めアメリカ大統領、ジョニィたちが激しい戦いを繰り広げる様は、作者の複雑な宗教観・歴史観が滲み出ているように思う。

 

●3部、4部→8部

主人公が、病気の母を救うため奔走するところ。

地方都市の生活、街づくりを描く。

主人公は、現代日本の若者。 3、4部→8部、リアリティーに寄せて、超人的な性格では無くなっている

ジョセフミと吉良の融合、かつての善悪が混合している。作者の老熟を示す

 

●5部、6部→9部?(私の予想)

社会から弾かれた者たちの生き様。運命にあらがう主人公

世界の崩壊と再生

時間と意識

 


スティールボールラン 文庫本16巻が発売されていることを知り、荒木先生のあとがき目当てに、買って読んだ。
連載中のジョジョリオンを含めて、物語をどう終わらせるかについての作者の考え、スティールボールランのラストに触れた内容だった。

作者の思い入れの深さ(描いていて泣いてしまった場面)を含めて、原著にあたっていただけましたら幸いです。


 ***


表題の件 ジョジョのラストバトル、ボスのスタンドをAV機器の操作になぞらえる意見がある。

一時停止、巻き戻し、CMスキップ、最初から再生し直し…。
ディオに始まりプッチ神父まで、時間を操る超能力があまた登場している。


映画監督の黒澤明氏に、こんな言葉がある。(土屋嘉男 著「クロサワさーん!」P87より引用)

「映画は時間の芸術である。
 そして時とは事物の運動に外ならない。運動するものが存在せねば、時はないのである」


ディアボロが時を飛ばしたとき、ヴェネツィアブチャラティが見た「自己の姿」。
ゴールドエクスペリエンスレクイエムが発動したとき、ディアボロが見た、無限に振り向き続ける自己。

5部で描かれた2つのシーンは、悪夢的で、時間と意識の流れを象徴的に描いていると思う。

客観性というのは無限に続くタマネギの皮むきのようで、
生きている限り、時間が流れるかぎり、人間の意識は流れ続け、つねに「自分を見ている自分」が居る。


新約聖書より、イエスキリストはこう言ったという。
「明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その一日だけで十分である」

2007年頃 1部が劇場映画になったときのムック(または青マルジャンプのインタビュー)で、荒木先生も似たようなことを言っていて、
キャラクターが居ればマンガ(≒ストーリーの流れ)は出来ていくもので、日常生活で明日どうなるか分からないけど、明日になればその日を生きているようなものですよ と。

社会、現実というものは、もちろん、一人の人間の意識の流れだけでは出来ていない。
人間社会に焦点を絞ると、あまた居る人間の意識の流れ、生物の活動が織りなすタペストリーに例えられるのかもしれない。

「作品」は誰のものか?

ジョジョをはじめとする様々なマンガ、その他映像作品、音楽、さまざまに対して思う疑問。
「作品」は誰のものか?

著作権や商品化権のことではない。

私自身の感覚的なところを述べると、
「読者」である自分の立場からは、作者:読者=6:4、7:3、8:2。
自分が「作者」の立場に立ったならば、作者:読者=9:1くらいに感じるかもしれない。

好きなモノであればあるほど、作者と読者の境界線を越える(=50%を超える)ことは決して有り得ないものの、
元の作品を自らの中に取り入れ、血肉としたい。

作品世界を自分の中に取り込んで、自らのモノとして再利用したいというのが、
私の思うところ、読者(受け手)としての最大の贅沢である。


  ***


かつて、岸部露伴が「読者に読んでもらうため、マンガを描いている」と述べたことがあった。
4部執筆当時の、荒木先生の自己宣言であることは間違いなく、おそらく今でも、根本の考えは変わっていないのでは と思う。

「お金や名誉のためではない、ただ読者に読んでもらうために、そのためにマンガ家はマンガを描いている」。

高校生当時 この場面をはじめて読んだときは、ことばの意味がよく分からず、
「同義反復のような当たり前のことを言って、何を考えているのだ?」と思った。

私の考えるところ、このセリフの真意は「作品は、読者と作者のコミュニケーション」ということである。

2人以上の人間が居て、相互のやりとりを行うことで初めて、マンガを描く/読むという行為が成立する。
社会の中でしか存在し得ない、まさに社会的行為なのだろう。

けだし、人間は社会的存在であり、
いつの時代、どんな環境であっても、人間が人間であるためには、社会(=人間関係、他人との関係)の中で生きてきたに違いない。
友人の親戚の方で「山奥に一人で棲み、サルやシカと一緒に温泉に入る暮らし」をしている方が居たというが、
ある種の超人、仙人の域に達するほどでなければ、人はやはり、人々の中で暮らしていくものである。

作者と読者のやりとりだけでなく、物事は、上司と部下、家族の間柄、友達付き合い、何でも同じことだと思う。


ーー話が変わるが、私がインターネットを始めて、掲示板の2chにはじめて書き込んだのは、
宇多田ヒカルのストーカーになりかけていたU4さん」を諌める書き込みで、U4さんを心配する余り、U4ヲタとして苦言・注意を書き込んだものだった。
当時の2chでは、プロ野球板に「宇宙の野球」というHNの人が居て、たしかホークスファンだった。野球chで現在活躍中の「大阪鷹」さんと宇宙の野球さんは、果たして話が合うのだろうか。
もしかすると、宇宙の野球=大阪鷹、同一人物である可能性も捨てきれず、疑念は深まるばかりである。

何の話かというと、老婆心からの苦言ですが。
2chでも他のSNSでも同じだと思うが、インターネットで見かける「素人の意見」「ユーザーの意見」みたいなものは、
匿名性が高いためか、何でもかんでも好きな事を言って、「画面の向こう側に人が居る」ことを果たして考えているのだろうか? と首をひねることが多々ある。

今後 いろんな種類のSNSが開発されたり、パソコンとは異なるデバイスが現れたり、コミュニケーションの手段はいろいろと変わって、変化・進化していくかもしれない。
けれども、デバイス(メディア)を通じてやりとりする情報、やりとりする主体が人間同士であることは、太古の昔から未来まで、たぶん同じである。

ジョジョ3部コミックスのはしがきに、「人類最古の職業は、語り部ではないか」というエッセイがあった。
語り部、売春婦、そして野次馬のから騒ぎというものは、とても古く大昔から存在していたのかもしれない。
私(sougan1976)、U4、宇宙の野球(=大阪鷹?)を結び付けるミッシングリンクは、「人間は、くだらないものが好きだ」というその一点なのだろう。

カメ飼育 5年間の履歴と、随想

 

今年で5年くらいになるのであるが、自宅の中庭でカメを飼っている。
最初は近所を歩いていたイシガメを捕まえたのがきっかけで、
その後 ホームセンターでアカミミガメを2匹飼って、これを長く育てることになった。

「日本イシガメのよもぎさん」のような気の利いたウィット、カメの写真などは何も無く、私がカメを飼ってきた履歴、随想を記します。


  ***


・今朝 カメの水槽を掃除して、あれこれの整美をしていて気づいたのだが、カメの世話は「土いじり」や「盆栽」と似ている。
土いじりや盆栽、限られた空間に宇宙を見出す楽しみであり、自然と人の調和、エコロジーの体現である。

ジョジョ57巻 コミックスのはしがきで、荒木先生が庭の土いじりにはまっていて、ネコのウンコが嫌いだ というくだりがある。
クリスチャン・ディオールも土いじりにはまっていて、デザインの仕事が一段落した後、庭の手入れをしないではいられなかったらしい。


・カメというのは、ものを言わない。もしかすると人間には聴こえない超音波的な信号で会話しているかもしれないが、人間には「沈黙の生物」である。
カメをつまみあげたり、驚かせたときだけ「フーッ」と鼻息を鳴らすが、それ以外に物音を立てることは無い。静かな生物である。

・カメはとても怖がりで、専守防衛、甲羅に閉じこもって身を守ることで進化した生物である。
 カタツムリと似ていて、両方を飼育したことのある私は、ひきこもり的な精神性の生物なのであろう。

・カメは変温動物で、ヘモグロビンが無いため、血は赤くない。しかし、「爬虫類が冷血で感情が無い」みたいなイメージは只の偏見、誤りである。
 冬場 カメを、40度くらいのお湯が入ったバケツに入れると、まったり、とても気持ち良さそうにジッとしている。
 爬虫類も哺乳類も、基本 20~28度くらいの、温かな気温が大好きである。

 

・ペット業者が、コイのエサみたいな乾燥飼料を、カメのエサと称して販売している。それはそれで良いかもしれないが、当方では与えていない。
・煮干しとオキアミ(または干しエビ)、ちんげん菜。1週間に1~2回 サーモンなどの切り身を与えている。

・赤ちゃんカメのとき、ペットショップで買った「ミルワーム」という蛆虫みたいな幼虫を与えていたが、(私自身が)気持ち悪いので止めにした。
・人間が食べて美味いと思うものは、だいたい、カメも美味いと思って食べている気がする。
・カメの5歳が、人間の何歳に相当するか分からないが、サーモンやちんげん菜など、甘みのある食べ物を好んで食べている。


・自宅の中庭にトロ舟を置き、これに水を張り、カメは水の中で暮らしている。日向ぼっこができるよう、スロープを工夫すると良い。
・冬場 熱帯魚用のヒーターを4本くらい設置して、水を20度くらいまで温めている。水は比熱容量が高いので、外気より温かく、快適である。


ーー残念ながら、上記の飼育情報は、現時点でほとんど意味が無い。

なぜならば、アカミミガメ(ミシシッピアカミミガメミドリガメ)はアメリカ産の外来種で日本の自然を乱すとして、飼育禁止の方向で法制化が進んでいるためである。
アカミミガメもイシガメも、生態は変わらない気がするが、とにかく、これから先の日本で、アカミミガメを飼うことは少なくなっていくと思う。

・数年前 自動車で田んぼの脇を走っていると、大きな石コロみたいなものが道路を塞いでおり、違和感を感じた。
よく見ると巨大なアカミミガメで、体長30cm以上の大物、道路わきの田んぼが住宅地に開発途中で、住処を追われ彷徨っていたらしい。

クルマに曳かれて死にかねなかったので、自分の自動車に乗せ、近所の適当な川に連れていってカメを逃がした。
その後 どこで生き延びているのか、見かけたことは無い。

出川哲郎の「VSリアルガチ危険生物」というTV番組で、多摩川外来生物を捕獲して、自然環境の保護、(人間に翻弄される)外来種の哀れさを描くコーナーがある。
巨大魚を狙って網をしかけて、アカミミガメが引っかかることがしばしばある。ペットとして飼われた外来種が捨てられ、河川で生き延びているのである。

漁をてがける動物学者の真摯さに敬意を感じるが、鈴木奈々のリアクションが嘘くさいのに呆れている。


福沢諭吉の「学問のすすめ」 末尾に、こんな一節がある。

「人類多しといえども、鬼にもあらず蛇にもあらず、ことさらにわれを害せんとする悪敵はなきものなり。
 恐れはばかるところなく、心事を丸出しにしてさっさと応接すべし。
 ゆえに交わりを広くするの要は、この心事をなるたけ沢山にして、多芸多能一色に偏せず、さまざまの方向によりて人に接するにあり。

(中略)

 世界の土地は広く、人間の交際は繁多にして、三、五尾の鮒が井中に日月を消するとは少しく趣を異にするものなり。人にして人を毛嫌いするなかれ。」


この一節を読むと、引きこもり的気質から脱して「よーし、やるぞ!」と元気を誘発される。

自宅の中庭で飼っているカメは「井中の鮒」であるが、しかしよくよく考えてみると、中庭のカメが何を思って生きているのか、人間には分からない。
カメにはカメの、カメなりの幸せがあるのではないか とそんなことを思う。


大島弓子綿の国星」というマンガがある。
浪人生の青年が、(女の子の姿で描かれる)飼いネコのありように心洗われ、「ぼくはネコの視線で世界を見ていたのだ」と目を開くくだりがある。

けだし、ペットというものは何か具体的に生活の役に立つものではなく、あまり可愛くもなく、世話に手間のかかることが多い。
しかしながら、ペットの価値は実用性・経済性・合理性にあるのではなく、
社会生活から溢れだした非合理性、平々凡々と日向ぼっこを終日続けているような、何も考えず、何も進歩のない(ように見える)その暮らしぶりに、
何かを思い出し、拾い出しているのだと思う。

河崎実のウルトラマン評論本と、アカテン教師梨本小鉄 教育教材の「第3の道」

きっかけがあって、年末くらいから本腰を入れて、教育関係の勉強をしています。

教育関係の本とは別に、ジョジョウルトラマンプロ野球なんかの趣味に触れたりもするわけですが、
ウルトラマンはなぜシュワッチと叫ぶのか?」という本を読んだ読書メモ、連想を記します。


 ***


ウルトラマンはなぜシュワッチと叫ぶのか?」 河崎実 著。

河崎氏は映画監督で、円谷プロ的特撮に、ロリコン、プロレスなど作者の趣味を加味したB級コメディ作品をたくさん撮っているそうです。

下らない、バカバカしいお笑い的な本だろうと思って読み始めたのですが、読書前の予想は半分当たって、半分違っていた というところです。

全8章から成り立っていますが、表題 ウルトラマンのシュワッチの謎そのものは、3章までで解明されます。
その後 4章~6章までが「お笑いとしてのウルトラシリーズ」を、放送当時のTV・マンガ事情とあわせて解説する内容で、(1976年生まれの私には)知らない事が多く、新鮮でした。
7章は、いわゆるウルトラシリーズウルトラマンシリーズ(新マン以降のシリーズ)の違いを概説するパートで、はっきりオタク向けですが、個人的には納得できる内容でした。

ウルトラマンはなぜシュワッチと叫ぶのか」の解は、端的には、シュワッチの声を演じた俳優 中曽根雅夫氏の熱演に尽きます。
また、河崎氏自身の映画観・人生観と相まって「お笑いとしてのウルトラマン」の語り口には説得力があり、
こういう下らない、しかし人生の真実を一面突いている「考察」(=映像作品であり、その批評)は、なかなか世の中に残っていかないのだな…と、改めて感じ入ったのでした。


以下、同書の読書メモ、連想の箇条書きです。

・シュワッチ=SHWACH 「SHWAAAA…」から変化して、シュワッチに到った。
ウルトラマンの飯島監督によると、「GWAAAAOR」「ZHWAAAA」などアメリカンコミックの擬音表現から、宇宙的な新ヒーローにふさわしい掛け声を模索したらしい。

・アメリカンコミックの擬音表現をとりいれたマンガで、私が浮かぶのは鳥山明ドクタースランプ、そしてジョジョである。
ジョジョの擬音表現は、直接にはホラー映画の効果音、ヘビメタロックのギュンギュン来る感じをマンガに取り入れたものであるが、
ポップでアメリカンなテイストが取り入れられている点が、三者に共通していると思う。

・中曽根雅夫氏の友人である田中信夫氏、ウルトラマンの脚本家である金城哲夫氏、そして円谷プロの円谷 皐社長は、玉川学園の卒業生である。
玉川学園では、学校全体で演劇に取り組む文化があり、田中氏らは芝居の魅力にハマっていた。

田中信夫氏は、かつてのジョジョのOVAでディオの役をやった声優さんである。
ウルトラマンジョジョの縁が何となく繋がっているようで、少し嬉しい。

・本書の7章にて、「初代ウルトラマン=圧倒的なカリスマ、神、キリストであり、ティガ=人間が修行して神(仏)になる、ブッダ」になぞらえる一文がある。
・年末年始 ウルトラマンアントラーメフィラス星人の話、新マン 悪魔と天使の間に…、エース 最終回を観ていて、同じ感想を思っていた。
 ウルトラマンが特別に宗教的な背景・示唆を示している訳ではないと思うが、そのときどきの作家さんのバックボーンがあり、滲み出るものの違いがあったのだと思う。


堺正章坂上忍のハッチャキダンスは、ジャケットを見ただけだが、いかにもウザい。
こういう感じのウザいテレビ番組と、お茶の水女子大学の系譜が監修・推薦する「おかあさんといっしょ」「しまじろう」のいずれか、2つしか存在しないならば問題だ。
幼児教材に「第3の道」は無いのだろうか。

 
・この本を読んでいて、(人名の勘違いがきっかけだが、)春日井恵一 著 「アカテン教師梨本小鉄」というマンガを思い出した。

・はじめ、ゴージャスアイリンなんかも掲載していたジャンプ増刊号に、梨本小鉄の読みきりが載っていた。
運動音痴なメガネ、野球部のマネジャーをやっていた(?)男子学生がいて、「僕だって、本当は野球チームに入って活躍したいんですよ!」みたいなことを言って泣く。
その涙と絶叫の表情、小鉄が反省してひとりつぶやくシーンをよく覚えている。

・梨本小鉄は、その後 週刊少年ジャンプに連載開始となり、最終回が、修学旅行に行く話だったと思う。
生徒たちが見る夢の中で、小鉄坂本龍馬となり「日本の未来は明るいぜよ!」と大笑していた、その一コマをよく覚えている。

・「天に向かってつばを吐け!」と小鉄がつばを吐き、天からつばがついに落ちてこない。小鉄は天に赦されている というシーンがあった。

どういう意味で作者(=小鉄)は天につばを吐いたんだろうかと、今になって考える。

 


ーー梨本小鉄あたりの思い出をふり返ると、ほかに、当時の増刊号に、カマキリが巨大化して暴れるのと戦う話。
ゴージャスアイリンで大女が登場して、ネコを鉢植えに植えたり、男の顔を舌で舐めまわす気持ち悪さに、嫌悪感を感じた記憶がある。

梨本小鉄に限らず、男塾、北斗の拳、聖闘士聖矢、キン肉マンなんかの作品でも、心にひっかかるシーンというのがいくつかある。

聖闘士聖矢でシャカの術にかかった聖矢が、(仏教的な観点で)己の犯してきた罪をふり返る、一枚の扉絵。
キャプテン翼 フランス代表のキャプテンがドリブルしながら、ノートを破られるなどのイジメを受けるも、サッカーチームで友だちで得たことをふり返るシーン。

ほかにも、これらのマンガを手元に置いて読み返せば、「こんなことがあった」「このシーンを読んでこんなことを考えた」「これを読んでた当時、身近でこんなことがあった」
と思い返すことが沢山あるのだろう。

(少年ジャンプと離れてしまうが、)小学6年生くらいのとき、
学年誌か何かで「沢田ユキオが描いた、虹色に変化するビックリマンの7皇子」みたいなイラストグラビアを眺めていた。
そのそばで母親が誰かと「そろそろ、子ども達をどこの中学にやるか、受験のことを考えないといけないわね」みたいなことを話していて、
ビックリマンのグラビアを観て過ごしてるような子供時代は間もなく終わってしまうのか、と急に愕然としたことを思い出す。


何だかんだ言って、それから30年くらいが経ち、40歳を過ぎた今になって私はウルトラマンのDVDをじっくり観はじめたり、
沢田ユキオは当時から変わらず30年間、コロコロコミックに「スーパーマリオくん」を描き続け、ビックリマンジョジョも、なんだかんだで命脈を保ち今に到る。

おかあさんといっしょ」と「ハッチャキダンス」に続く「第3の道」、
私の場合は梨本小鉄でありジョジョであり、あまり上品でもなく元気一辺倒でもない、バロックな世界観をもって歩んできたのだと思う。