ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

「後付け」は良いことなのか、悪いことなのか

マンガの感想を語るとき、「後付けの設定」「後付けのお話」は良いことなのか、悪いことなのか 議論になることがある。

例えばジョジョ1部でツェペリさんは天涯孤独を謳っていたのに、2部になってシーザーが出てきたこと、
4部でジョセフに隠し子がいたことが発覚したり、6部でDIOが天国を求めていたことが発覚したりなど。
7部SBRで、当初 レース1位の恩赦を求める旅だったのが、ウルトラジャンプ移籍後 遺体と大統領が現れたのも、後付の設定変更だろう。

自分としては、後付でお話をつくったり、後付で設定がつくられることを悪いとは思わない。
「後付で作られたお話が面白ければOK。後付で面白くなくなれば、読者としてやがてフェードアウトする」という結論に至った。


ジョジョ以外の作品で、後付の例を見てみる。

鳥山明先生の最新作 銀河パトロールジャコを読んだのですが、これは「あまり良くない後付け」だった。
宇宙人とおじいさん、女の子を巡る本編と、オマケとしてドラゴンボールの前日譚がくっつく形になっている。
前日譚としてのお話がとってつけた感じで、ドラゴンボール映画の宣伝のため無理やり企画されたのか?と思ってしまった。
wikipedia等によると、本作は映画「神と神」にあわせて連載準備され、オマケ部分は作者本人の意思で書き足されたものらしい。

ジャコとおじいさんの本編自体は、絵も丁寧で面白かったので、良かった。ジャコ本編とドラゴンボールの前日譚と、他の本で分けた方が良かったかな?と思う)

ドラゴンボールは、作者いわく「行き当たりばったり」「来週の話がどうなるか、作者自身にもわからない」というマンガで、後付けで設定や展開を付け足していった。
リアルタイムで連載を読んでいて、悟空がサイヤ人と分かった辺りからは、絵も話の雰囲気も変わっていったとは思ったが、不自然には思わなかった。
マンガはやはりフィクションであるから、設定の整合性とか一貫性とかを求める以前に、面白いかどうかが重要なのだと思う。


後付けでお話をつくっていくことは、考えてみれば当たり前のことで、
マンガ作者だけでなく、事務職員や専業主婦、小学生の子供だって、明日どうなるかなんて分からない。

人間は未来を見通すことはできず、現実を一歩一歩つまづきながらも進んでいくしかないのだから、
毎日書き溜める物語が、日記のように、後付けでページを書き連ねていくのは当然のことである。

ただ、成田亨氏がかつてウルトラマンに角が生えたり乳房が生えたりするのを嘆き、カップラーメンのCMでマヌケを演じたりするのに耐えられず、
ウルトラマンのお墓を作るに至ったことがある。

ジョジョドラゴンボールも、まだまだ後日譚、最新のシリーズがつくられ続けていて嬉しいのだけど、
「あのシリーズは無いほうがよかった……」「あの話は、自分の中で無かったことにしよう」
と思うことがなければ幸いだ。