ジョジョを読んでいると、後付け設定が追加され、矛盾が生じることがたびたびある。
有名なところでは、1部連載時 (ジャンプ誌上で)ツェペリさんの死に際で「自分には家族が居なかった」ことが語られたが、
2部になって、孫のシーザーが登場する展開となり、コミックスでは上記のセリフが差し替え、訂正された。
コミックスの後書きで、荒木先生が「大人はうそつきではないのです。間違いをするだけなのです…」とお詫びを述べた一件である。
登場人物の初期設定やスタンド能力が微妙に変わってきたかな…?と思うこともたびたびあるし、
連載中のジョジョリオンでは、作中に散りばめられた仄めかし・伏線の類が、けっこうな頻度でブン投げられたりもするので、
ジョジョというマンガは、例えばプログラミングの計算式のように、矛盾無く数学的合理性を持って出来上がっているものではない。
このことは、ジョジョをご存じの方であれば、皆さん同意していただけるところだと思う。
ジョジョで後付け設定が追加され、矛盾がたびたび生まれるのはなぜか?
巷の意見に目を通すと、
「荒木先生が忘れっぽい、トボけた性格の人だから」
「大物作家になってしまって、編集者が意見できず、周りが間違いを指摘・訂正できなくなった」
など様々な意見が出ているが、もう少し他の原因があるように私は思う。
私自身が推測する、ジョジョに矛盾がたびたび生まれる最大の原因は、ジョジョが週刊誌で連載されてきたことにあると思う。
ジョジョは長年に渡って週刊少年ジャンプで連載され、今は月刊誌(ウルトラジャンプ)で連載されているが、
荒木先生は昔と変わらず、週刊ペースで仕事(ネーム→作画)を続けているという。
2016年春 ミラクルジャンプにて、荒木先生が4部を語るインタビューが掲載された。
その中で、上記疑問への回答となるような一節があり、一部分を引用させていただきます。
●ミラクルジャンプ 荒木先生のインタビューより、一部抜粋
(ジョジョ4部 吉良とのクライマックスの戦いは、何週にも渡って伏線を張り、展開を積み上げていく構成になった。
ネームがなかなかまとまらず大変だった、という話の中で……)
ミラクルジャンプ(以下MJ):一人の敵と何週にもわたって戦うことは過去にもありましたが、それとは違うものなのですか?
荒木:他の敵との戦いにも、もちろん大きな流れはあるのですが、一話で読み切れる内容にはしているんですよ。
「今回はあれをやろう」という、その話ごとの目的を入れている。
でもこの最後の戦いはそれだけじゃ済まなくて、クライマックスだし能力が能力だし…と。
無理矢理勝っちゃダメなんです。
勝つ理由と、キャラクターの意志の強さができていなければならない。
一つシーンを描くごとに可能性を限定していくことになるので、
駒を置いたら後戻りできない、チェスをやっているような雰囲気がありましたね。
敵が強すぎて「主人公、勝てるのかな?」と不安にもなりました。
敵を弱くして勝っても面白くない。
DIOもそうでしたけど、主人公達が上を行くのは難しいな…と思わせるキャラクターでした。
(以下省略)
ーー平たく、誤解を恐れずに言えば、
ジョジョの執筆スタイルは「週刊少年ジャンプ」に鍛えられたものであり、
キン肉マンやドラゴンボール、北斗の拳と同じく、行き当たりばったりを恐れない、毎週毎週の盛り上がりを極限まで高めていく、厳しい競争環境において作り上げられたものだということです。
逆に言えば、ジョジョ(1部 ジョナサンとディオの話)が描き下ろし単行本として最初から描かれたり、
あるいはジャンプでは無い、もっとマイナーな媒体で連載されていれば、今とは異なる別のマンガに育っていっただろう、ということです。
ミラクルジャンプでは、このあたりの話がもっと詳しく、荒木先生自身の肉声で語られています。
(「ジョジョは「少年ジャンプ」だからできた作品だと言える。それはなぜか?の疑問と回答)
同インタビューにはこの他にも、
ジョジョ4部連載開始時の裏話、リーゼントに対する美的評価の話、4部と8部 杜王町をめぐる構想の裏話など、面白い話がたくさん入っています。
なかなかおススメのインタビューでした。
また、ジョジョメノン 荒木先生と小説家・円城塔氏の対談においても、
小説とマンガの製作形態の違い、「週刊連載は、ジャズのライブだと思って描く」など興味深い発言のやりとりが収録されています。
ーー読者としては、「設定に矛盾無く、かつ面白く、読者を興奮・納得させるマンガ」がいちばん良いのでしょうが、
創作の現場はナマモノであり、(例えば、説明書にしたがってプラモデルを組み立てるように)誰もが再現可能では無い特殊な仕事なので、
結局のところは、作者と作品を受け入れられるかどうか、ダメだと思ったら読まない、これが読者に与えられた立場であり、自由なのだろうと思う。