ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

イーストウッドの「ダーティーハリー」

遅まきながら、クリント・イーストウッド主演「ダーティーハリー」を観た。

「悪は倒すのは悪」という記事の末尾で引用させていただいた通り、
イーストウッドのダーティーハリーは、承太郎をはじめ、荒木作品のヒーローの原像となっているとのこと。

承太郎は、ジョジョの中で最もお気に入りの主人公であったのですが、
ダーティーハリーは自分が生まれるより前の映画ということで、なんとなく古い感じがして、これまで観ずに過ごしていました。

映画を観てみて、温故知新というか、自分が知らない事柄を探って、知っていくことは大事なのだ、とまず反省した次第です。


ハリー・キャラハン刑事は、承太郎を実写化したらさもありなん、というキャラクターで、
二人の立ち姿、背筋のピンと張った、つま先まで緊張感の漲った出で立ちはまさに生き写しである。

ハリーが殺人犯を追い詰めていくストーリーはアクション/サスペンス映画の王道で、
タフでクールなヒーロー像は、普遍的なカッコ良さを漂わせている。

スタジアムに追い詰められたスコルピオが「I have the right for a lawyer!」と叫び、
'Dirty' Harryが有無を言わさぬ迫力で、射殺一歩手前の所まで追い詰める。
「映画の掟」で荒木先生が述べた、はみだし者のハリーのカッコ良さが、象徴的に発揮された名場面であった。


1971年に製作された映画ということであるが、
映画全編を貫くタイトなストーリー展開、直線的でシャープな映像のフォルム、BGMのジャジーな盛り上げ方など、
全体にとてもモダンな映画で、後に続く、さまざまな映像作品の模範になったであろうことが伺える。

イーストウッド映画は、ずっと前に「許されざる者」を観たことがあったのだが、
主人公がおじいさんだったという印象が強く、正直 そのときは、この映画と俳優の魅力はよく分からなかった。

ダーティーハリーを今 はじめて観て、承太郎のモデルであることは勿論のこと、
ドクタースランプのタロウのパパ、あぶない刑事舘ひろしなど、
70~80年代の男のカッコ良さの最先端のモデルとなったことが理解できた。

サンフランシスコの夜景でのチェイスは、3部OVAで描かれた、カイロの夜の空気感をどこか思わせるところがあった。
共に、70~80年代の世界の街並みを伝える映像資料であり、
OVAスタッフが実際の街並みを取材して画面を作り、実写映画が持つ空気感を表現できていた証左なのだろう。


トリビア的なところで、3つ。
ハリーが医務室でズボンを裁断されるのを断る場面、
「なぜ家族を失い、生死の危険をつねに冒して刑事の仕事を続けるのか」の問いにハリーが「分からん」と答える場面は、
明らかに承太郎の初期エピソードに組み込まれており、作者のオマージュと遊び心を示したものだろう。

それと、あまり作劇上の意味は薄いけども、
冒頭 白昼の銃撃シーンで、消火栓が破裂し、水しぶきが湧き上がる中をハリーが悠然と歩いていく。
消火栓が壊れて水しぶきが吹き上がる場面は、アヌビス神との戦いで、消火栓が破壊され噴水するシーンに似てる感じがした。


スコルピオは一旦 ハリーに倒される(捕まる)ものの、
法律と社会規範のために保釈され、ハリーは再び彼を追う。

法律に従うべき刑事という仕事の枠組みを超え、逸脱しながら、
ハリーは高架で待ち伏せし、スコルピオのバスにダイブ、ついには彼を射殺し、倒す。

サンフランシスコ警察のバッジを池に放り投げて、ハリーが踵を返したところで映画は終わる。
このときの、スコルピオとの決着の池からズームアウトして、採石場・高架・湾岸の街並みまでが俯瞰されるシーンは、
SBR ジョニィと大統領の戦いが決着したラストシーンを思い起こさせる。

荒木飛呂彦イーストウッドからどれだけ影響を受けたんだと、同作品のストレートなカッコ良さに唸らざるを得なかったのでした。

「総員玉砕せよ!」 女郎の歌と、生きるための戦い



水木しげるの「総員玉砕せよ!」を読んだ。

ペーソスあふれる太平洋戦記で、作者によれば90%が実話であり、かつ、自身がいちばん気にいっている作品であるという。


登場人物が急に出てきて死んだり、妙にリアルな似顔の登場人物が出てきて、
おそらく、実際に作者の身のまわりにいた戦友たちを描いただろうことが伺える。

太平洋戦争を評して「竹槍で爆撃機に立ち向かうようなものだ」と聞いたことがあるが、
この、パプアニューギニア諸島 ラバウルの戦記もまさしくで、丸山(水木しげる)の所属する部隊は陣地構築もままならず、ノンビリ、少しずつ人が死んでいく。
「こんなことで日本軍は勝てるわけがない」と思っていると、果たして本当に、そのまま日本軍の前線部隊は全滅してしまう。

丸山はじめ、物語に登場する日本軍の面々は、ほんとうに普通の、現代の若者・オッサンたちである。
週刊プレイボーイキン肉マンを読んだり、高崎聖子のグラビアに唸ったり、東京スポーツ 愛甲猛が語る野球賭博の打ち明け話に胸を痛めているような人間が、
軍服を着て、銃剣を身にまとい、軍隊の位階に連なりながら、前線突撃の指令を淡々と待っているのだ。

「わたしは なんでこのような つらいつとめを せにゃならぬ」
悲しさと明るさが混ざり合いながら、最後はただ涙を流して、兵士たちは女郎の歌をうたう。
まったく平凡な人たちが兵士となり、全く勝ち目のない前線に出て死んでいった現実があり、
「なぜ、つらいつとめをしなければならないのか?」との問いに正面きって答えられなければ、戦争の指揮官を務める資格は無いのだろう。


楠公の幻影を追う大隊長と、材木屋の中隊長が、玉砕の是非を問答する場面がある。
中隊長は、はっきりと「前線突撃しての玉砕は、喜劇だ」と言う。

淡々とした、明るく悲しいような軍隊生活の日常が、玉砕指示を境目に暗転し、
兵士たちが死ぬために戦い、死んでいく様は、痛ましいとしかいいようがない。

同年代 ヒッチコックが「疑惑の影」を撮り、ディズニーが「ファンタジア」を作り上げた、「テキさん」の豊かさは圧倒的で、勝てるはずがない。
手塚治虫はこの頃、短編アニメ映画「桃太郎 海の神兵」を観て涙したというが、涙の味は複雑であったに違いなく、彼我の差はあまりにも大きすぎた。

物語の最後 丸山(水木しげる)が半死半生の姿で現れ、
女郎の歌をうたい、誰にも看取られないまま死んでいく。

これはとりも直さず、水木しげる自身の、前線で死んでいった仲間たちへの鎮魂であり、生き残ったことの詫びと、やりようもない怒りの表明である。
ほんとうに、なぜ彼らは死ななければならなかったのか?--誰にも答えることができない。


水木しげるが、一番気に入っている作品だというのは道理で、ストーリーの展開が素晴らしく、登場人物の行く末に目を放すことができない。
欧米軍は「ジャップ」としか言わず、終始 リアルタッチの描きこみで背景と共に登場するが、
日本軍の兵隊たちは、間の抜けてのんびりした、しかし生き生きとした描線で描かれ、彼らの息遣いは、実際にそこにあったものだとしか思えない。

白と黒の画面のコントラスト、生き生きした人物と緻密な背景画のバランスも素晴らしく、
まさに一大傑作と呼ぶべき作品である。


ーー1976年生まれの私にとって、このマンガは、
戦争体験を「読ませていただく」という姿勢で、老翁の説話を拝聴するような面持ちだった。

ラバウルの戦い、太平洋戦争を含めて、人類の歴史は戦争と共にあったと言ってよい。
これからの未来においても、戦争は、「戦い」は避けられないのだろうか?



 ***



「戦い」は避けられないのか?

「総員玉砕せよ!」のあとがきによれば、兵隊と靴下は消耗品。
序列において、将校、下士官、馬、兵隊ーー兵隊は馬以下であり、「人間」ではなかったという。

大航海時代 南米大陸を発見したスペイン人・ポルトガル人たちは、
米原住民を「人間」とは思っておらず、虫を駆除するように虐殺を行ったという。

人間を人間と認める。対話を尊ぶ。平等と博愛を大切にする。
プリンスの One of Us は誰の耳にも喜ばれるだろうメッセージソングだが、たとえこの歌を鳴り響かせても、戦争を止めることはできないだろう。

美しい観念はたしかにあり、愛や正義の大切さは、世界中の誰もが認めるだろうが、
それぞれの立場があり、欲求・欲望があり、これまでの積み重なったいきさつがあり、
誰かと誰かが譲り合えない争いをしてしまえば、規模の大小こそあれ、それはもう「戦争」であり「修羅場」だ。

毎日の生活で、浴びるほど争いの種はあり、争いを避けるように穏便に生きようとしても、
行きついた先に「敵」がいれば、自分の身を守るため戦わざるを得ない。

せいぜい、自分自身に課せられるリアルな選択肢としては、
「総員玉砕せよ!」の中隊長にならって、土壇場の修羅場で、卑怯な選択肢を取らない、ということだ。

ジョナサン・ジョースタースピードワゴンを蹴り殺さなかったように、
大柳賢が露伴の洗脳を嫌ってトラックに飛び込んだように、
ギリギリの土壇場で、自分の正義を曲げず、自分と近しい人のために働く。

節を曲げずに、己を貫くということが、修羅場でこそ求められるのだと思う。



 ***



ジョジョは、「戦いのマンガ」である。

ジョジョの物語から、もし戦いが無くなったら、とてもつまらない顛末が目の裏に浮かぶ。
広瀬康一くんが学校に通って、犬の散歩をして、自転車を買い替える。
ジョナサンがエリナと結婚して、イギリスの地主として幸せに暮らす。

戦いがなくなった日常風景は、物語としてとてもつまらない。それだけは、ハッキリしている。


ジョジョの主人公の成長は、戦いによって描かれる。
善と悪の、主人公と敵役のぶつかり合いは、
お互いが人生を「前に」進もうとするがために発生し、戦いを乗り越えた先に成長がある。

荒木先生は、ジョジョにおいて「精神的なバトル」を描いている節がある。
ジョジョ ASBガイドブックのインタビューでも、ゲームグラフィックやモーションの美しさを称賛し、
「精神的なバトルの領域に入っていけますね」と発言している。


人類の歴史は戦争の歴史であったが、
争い、競争、対立があってこそ、世の中は進歩してきたとも言える。

右翼と左翼、戦争と平和、支配と平等の争いは、単純に対立するものではない。
世の中の営みの、矛盾する2つの相であり、何かがどちらかに極端に触れたとき、戦争や革命が起こる。

平和は、何一つ波風が起こらない静かな風景ではなく、緊張のほどけた隙間。
ライオンが獲物を仕留めて満腹し、次の狩に赴くまでの「昼寝のひと時」が、人間にとって求め得る、現実的な平和なのだろうと思う。

願わくば、戦争や革命、事件・事故といった極端かつドラマチックな展開によってではなく、
平々凡々の、五右衛門風呂でオナラをこいて、砂浜に座ってハナクソを食うような呑気な日常の積み重ねから、進歩と平和を維持向上させたいものだ。


水木、手塚 両先生とおよそ同年代で、アンパンマンやなせたかし先生は、
戦争を体験し、空腹の辛い思いからアンパンマンを産み出した。
アンパンマンは、スーパーマンのようにパワフルではないが、困った人に自分の顔を分け与える優しい男だった。

後のテレビアニメで、
そのアンパンマンが、バイキンマンと果てしないバトルを毎週繰りかえすことを、
意外にもやなせ先生は肯定していた。

人間の社会、生物の自然の営みにおいて、戦いは常にあるもの。
パンにバイキンは湧くものだから、その戦いを、2人のキャラクターに当てはめていたのだという。


ジョジョ7部 スティールボールランのクライマックスで、大統領がジョニィに、自らを窮地から蘇らせるため演説を打つ場面がある。
大統領の説く愛国主義・防衛論は、90%は正しいと思う。
大国アメリカのリーダーであれば、軍隊を率いて自他を統率させねばならない立場なら、誰もが彼のように考えるであろう。

ジョニィを説得するにあたり、最後にほころびが出て、大統領の起死回生策は失敗に終わってしまう。
ジョニィは泣き、大統領は死んで、聖人の遺体は只 黙ってルーシーのそばに横たわっている。

SBRの参加者たちは、いったい何を求めて、何を手に入れて死んでいったのか?
「わたしは なんでこのような つらいつとめを せにゃならぬ」とは、人生を生きる誰の胸にも鳴り響く哀歌なのかもしれない。



「女郎の歌」 作者不詳


私は くるわに散る花よ

ひるはしおれて 夜にさく

いやなお客もきらはれず

鬼の主人のきげんとり

私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ

これもぜひない親のため



私は くるわに散る花よ

ひるはしおれて 夜にさく

いやな敵さんもきらはれず

鬼の古兵のきげんとり

私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ

これもぜひない国のため

「ウラのウラはオモテ」  XTCが体現する、イギリス的価値観

ジョジョ、荒木作品の根底にあると思われる「ブラックユーモア」、
「イギリス的価値観(English Settlement)」についての断片的なメモです。

ジョジョと、その周辺にある諸作品(極個人的な意味で、自分の経験・感性の中で、近しい位置にある諸作品)を語るのが、このブログの主な目的になっています。
ブログ読者の方には、あまりまとまりのない記事・情報となっているかもしれず、申し訳ありません。


(なお、XTCはイギリスのミュージシャンで、ポップ/ロックに属し、80~90年代に傑作を発表しました。
アンディ・パートリッジのソングライティングに定評があります。)


 ***


XTCの歌、アンディ・パートリッジが体現するキャラクターには、
「ウラのウラはオモテ」と言うべき不思議な明るさ、したたかさ、悲しさと明るさが同居したような感覚がある。

個人的には、しっくり馴染む感覚で、ジョジョおよび荒木作品にも、似たテイストを感じる。
箇条書きで、連想するところを記していく。



・9月中旬 子供と近所の山を登山した時、XTCの歌を口ずさんでいた。歌を歌いながらの登山は楽しい。
山登り(人生)は、天国と地獄の連続。
アップダウンが絶え間なく繰り返し、登ったと思えば下り、良いこと悪いことが絶え間なく続く。

イッテQ登山部の貫田氏は、雪積る山間のテントを「天国」と評し、イモトに「天国じじい」と評された。
自分たちが山に登った時も、たまたま同行したお爺さん達の、一定速度で山間をたゆまず歩き続ける姿に、天国じいいの「真価」を見た思いだった。


・XTCの歌の明るさは、かつてI先生が説いた「子供が一通り泣き伏した後の、静けさと明るさ」に似ている。

マルクスは、「歴史は繰り返す。一回目は悲劇として、二回目は喜劇として」と説いた。

アインシュタインは「同じことを繰り返しておきながら、異なる結果を期待するとは、きっと頭がどうかしているのでしょう」と発言した。

・XTCの醸し出すアイロニーは、荒木先生の提唱する、ホラー映画的世界観と似ている。
死を受け入れる、ある種の諦観。不安と共に生きる、サスペンス映画の人生観。

鳥山明の描く、明るくも不穏な世界。

ヒッチコック監督が好む、イギリス人のブラックユーモア。
「ハリーの災難」に顕著だという、イギリス人の「アンダーステートメント」。
恐ろしい、シリアスな事柄を、控えめに語る。
(ハリーの災難は、死体を取り囲み、隠匿しようとするブラックコメディー)



XTCの曲とアンディ・パートリッジには、イギリス人のユーモアセンスが溢れている。

例えば、中島みゆきの「地上の星」は、中年男性なら誰もが感動できるだろう名曲だが、
同じテーマで、アンディパートリッジはAcross This Antheapを作ってしまう。

(極個人的な妄想としては、この2曲はテーマ・構成ともによく似ており、
Antheapを聴いた中島みゆきが、自分の体内で咀嚼し直して、地上の星を書いたのではないかと思っている)

キン肉マン Go Fight!の一節「ああ、心に愛が無ければ スーパーヒーローじゃないのさ」は誰が聴いても胸が熱くなるが、
アンディの歌うヒーローソングはThe Mayor of Simpletonであり、the mayorが自民党を押しのけて、市長に当選するとはどうしても考えづらい。


XTCのちょっとはみだした感じ、孤独な感じは、荒木作品のキャラクターの孤独感と重なってるところがある。
キン肉マン Go Fight!が真っ向から愛と友情を訴えて、それで成立してしまうのは、
作者 ゆでたまごの才能の凄さであるし、彼らがタッグを組んで、二人で漫画を描いている事実にも由来すると思う。

荒木先生は、基本的に一人で漫画を描いていて、
思春期に抱いた孤独感をバネに、自作のキャラクターや世界観を産み出してきたようなので、
その辺りは、キン肉マンとは大きく個性が異なっている所なのだろう。

ただし、荒木先生とジョジョの世界観が、XTCとベストマッチしているか?というと、必ずしもそうではないと思う。
荒木先生に合うアーティストを一人だけ挙げるならば、多分それは、プリンスになるだろう。

パープルレインからラブセクシーくらいまで、80年代の諸作品はとりわけ素晴らしく、
明るく前向きで、ちょっとひねくれていて、理想を追い求めるのに一生懸命な感じが、ジョジョとプリンスはよく似ている。

今 思いつくところで一曲だけを選ぶと、Pop Lifeが、ジョジョとプリンスを最も力強く象徴している。

 

「ウラのウラはオモテ」というアイロニーについて。

イギリス人に限らないと思うが、たぶん、歴史のある国は強い。どん底を経験した人間は強い。

人間にとって、最大の恐怖は死であろう。
死を笑いものにできるブラックユーモアの豊かさ、効用。
自分自身を突き放し、笑い者にできる強靭さ・したたかさは、知性のひとつの結晶であると思う。



 
追伸:

ジョジョを巡るキーワードで、当ブログへのアクセス解析を見ていると、
ジョジョ 気持ち悪い」「ジョジョ パクリ」等が多くあります。

連載当初から、ジョジョはたびたび、映画・小説等からのパクリ/オマージュが指摘されてきました。

果たして、XTCのアンディパートリッジは、「オリジナリティー」というものをどのように捉えているのか?
自分も唸り、頷かされたのですが、アンディの答はこうです。

「オリジナリティーとは自分が影響を受けた音楽をめった切りにすること。
自分のヒーローを肉挽き機に押し込む。出てくるものは独自のサウンドに聴こえるが実はヒーローの生の牛肉から作られたもの」


下記リンク「世界最高のバンドXTCよ永遠なれ!!!」にて、インタビューの全文翻訳が読めます。
ご興味のある方はどうぞ。
http://long-live-xtc.seesaa.net/article/410967871.html

Wrapped in Grey  「疑惑の影」に見る、杜王町の面影

連休の間に、親戚からディープな人生相談を受けることがあった。
当事者ではないので結論を決めることはできず、客観的な意見やアドバイスは行ったものの、
トラブルがどう収束するかは、当事者同士にゆだねることしかできない。
何とも苦しい、やきもちした気持ちになった。

人生相談を受けた日の夜、たまたま借りていた「疑惑の影」、
ヒッチコック監督がお気に入りであったという映画を観ることにした。

(マーニー、泥棒成金、疑惑の影と観てきたが、ハリーの災難と泥棒成金は対になるような映画、
南フランスロケの話、イギリス郊外の田舎の話と、ご当地紹介の趣ある喜劇で楽しめた)


「疑惑の影」(Shadow of a Doubt)は、1940年代のサンタ・ローザを舞台にした、家族の物語である。
ヒッチコック監督がこの映画をお気に入りだというのは、
アメリカに渡ってきて、はじめて納得できるシナリオライターと組んで仕事をできたこと、
人生の上り調子の機運をガッチリ掴むことができたろう充実作であること、
犯人探しのサスペンスと家族の物語がキッチリ描けたことにあるようである。

物語の主人公はYoung Charlie, Uncle Charlie 2人のチャーリーである。
(「映画術」でヒッチコックが述べたように)人間は黒と白にハッキリ分かれるものではなく、「灰色」の中にいる。
ヤングチャーリーの中に、死んだアンクルチャーリーの記憶は、ずっと生き残り続けるはずだという。

アンクルチャーリーが折りに触れて話す「金持ちの女はブタだ」「この世は地獄だ」などの発言は、ギョッと耳を疑う強さがあるが、一片の真実を含んでいる。

物語の最後 教会の定型弔辞が唱えられる中、ヤングチャーリーと恋人が問答し、恋人の発言が物語を総括する。(日本語字幕はまったくの誤訳をしていた)

 well, it's not quite as bad as that.
 but sometimes it needs a lot of watching.
 it seems to go crazy every now and then, like your Uncle Charlie.


映画を観ていただければ分かるのだけど、
1940年代前半 第二次世界大戦の真っ只中の、アメリカの片隅の田舎町で、
ときには人間はおかしくなるし、(ヒッチコックアンクルチャーリーであるような)辛らつな社会批評も巷間に溢れていた。

モノクロ映画の、光と影のコントラストが、ドラマチックに場面を演出している。

アンクルチャーリーは、後にサイコのノーマンベイツの原型となったとも言われている。
ヒッチコック監督の映画で、悪役を主役にしたのは上記2本のみ)
ヒッチコック監督は、悪役を通り一遍に描くことはしたくないと言い、
この映画では、主人公たちの家族(メガネの妹、お人よしの母、主人公)、サスペンスマニアの隣人、そしてアンクルチャーリーと、
多くのキャラクターに、人間的な、リアルな造形を与えることに成功していると思う。

「小さな静かな田舎町に、殺人鬼がやってくる」というのが本映画のコンセプトだそうで、
これは遠く、「新興住宅街の杜王町に殺人鬼が潜んでいる」ジョジョ4部の源流と捉えることもできそうだ。


it seems to go crazy every now and then という呟きは、正直なところ、私も週に1回くらいは呟いている気がする。
愚痴なのか批判なのか、その手の呟きは70年前から変わらずあって、白と黒 両方のバランスをとることが難しい。

私の親戚の人生相談も、願わくばバランスをとって、豊かなグレー色の生活の中に事態が収まってほしいと願う。
白黒付けることがすべての問題の解決法ではないし、矛盾を抱えながら曖昧な状況下を生きねばならないこともある。
Let's go crazy とかつてプリンスは歌ったが、
実生活でkeep going crazyすることは難しいし、プリンスも舞台を降りた時は、地道に研鑽を積んだり、地味な生活を送っているのだと思う。
嘘をつかず、狂ってしまうこともなく、何とか誠実に穏やかに、少しズルく生きていきたいものだ。

ストーンオーシャンを巡る連想、あれこれ

ストーンオーシャンを巡る連想、あれこれの雑記です。


・ジョリーンがプッチ神父と戦って死ぬ時、蝶が群れをなして飛び立っていく。
これは、ジョリーンたち主人公の魂の暗示であり、「胡蝶の夢」を連想させる幻想的な演出でもある。

新世界に蟻一匹がたどり着いたように、蝶の魂も、エンポリオの居る新世界にたどり着いたに違いない。
だから、(蜂のマークの偽物とは違った)可愛い姿のアイリンが、最後にエンポリオと巡り合うことができた。

・7部からの新世界は、6部ラスト エンポリオがたどり着いたアメリカ大陸のある地球である。
エンポリオが刑務所前バス停にたどり着いたのが2011年であるなら、同じ頃 杜王町では定助たちの冒険が始まっていることになる。

・6部のラストで、ジョースターとディオの因縁は解消し、6部の主人公たちは死んでしまった。
しかし、これはジョジョの物語を決着し、さらに描き続けるための措置であり、(創作上の)前向きな決断である。
1部から6部までの物語が無かったことになったのでもなければ、主人公たちの戦いがムダに消滅したわけでもない。

・フーファイターズは満足して成仏したので、新世界に転生していることはない。


ストーンオーシャンというタイトルは、石造りの刑務所、そして母性愛に溢れた女性の心を意味している。
どことなく「豊饒の海」を連想させるタイトルであるが、おそらく関係ないと思う。

プッチ神父のメイドインヘブン(個人的にはステアウェイトゥヘブンと呼びたい)は、ニーチェの超人思想に影響を受けている。
永劫回帰の思想を体現したかのごとき超人=プッチ神父が、一人の子供に破れて戦いが終わる。

プッチ神父には、ニーチェだけでなく、キリスト教の教義・荒木先生の宗教観が投影されているものと思われるが、
私自身がキリスト教に詳しくないため、分析して語ることができない。
キリスト教の神父で、ジョジョの愛読者であるような方が読めば、さらに興味深い考察・批評が行えるのではないかと思う。


・荒木先生によれば、6部は、3部までの単純な続編(人気者の承太郎を再登場させて、人気を繋ぐ)という作品ではなく、
父と子の物語を描きたいという原点があり、これに則り、承太郎を登場させるに至ったのだという。

(6部をめぐる各種インタビューおよび、「映画の掟」p160 シュレックを語るページより。

シュレックで、未完成で荒削りだった主人公が落ち着いたお父さんになってしまうことに不満がある、漫画を読んでても同じ疑問を感じる、と述べた後で)「そうそう、承太郎がジョリーンの父親になるのは、話が全く別物になっているということで、除外させてください」)


「6部は、承太郎が弱くなり、ジョリーンも承太郎も死んでしまうので嫌いだ」という3部ファンの声があるが、
それを言うなら、4部でジョセフが耄碌して登場したり、5部でポルナレフが半身不随になってしまうのも気の毒のような気がする。

ジョジョの物語は、一つの部が完結するごとにピシッと完結している感があって、
6部→7部だけの断絶ではなく、全てのパートごとが独立し、それぞれ完結している趣がある。

上記の、承太郎やポルナレフというキャラクターに感情移入したくなるのはよく分かるが、
行き過ぎると、「ミザリー」のアニーのように、自分の思うがままにキャラクターを束縛したいと、作家を監禁するような事態に陥らないだろうか。

キャラクターではなく作品を読む、作家と作品⇔読者の適切な距離感を知る、ということは大切だと思う。


(ーーすこし趣向を変えてーー)
ヒッチコック監督の「マーニー」を観た。
評論家によれば、サイコ→鳥→マーニーと続く絶頂期の3部作で、観てみれば成程、サイコに始まったモチーフ・テーマが連作するように3部作は描かれている。

マーニーは、一般的にあまり評価は高くなく、(白い恐怖など)前作とのネタ被りが指摘されている。
個人的には、マーニーは、サイコのノーマンベイツの救済を描いた後日譚のようでもあり、母と娘の絆が確かめられるストーリーに感動した。
ただし、ホラー・サスペンスの盛り上がりを期待した観客には物足らない点があり、
マーニーという主人公に感情移入できるか次第で、映画の評価が割れてしまうのだろう。
キャリーの母娘のアナザーストーリーであるような、マーニー母娘の人生ドラマは、個人的には面白かった。


ヒッチコック監督のマーニーがイマイチな評価を受けているのと、ジョジョの中でストーンオーシャンがイマイチな評価を受けているのは似ている。

・一言で言って、マーニーやストーンオーシャンは、マンネリに陥ってる嫌いがある。
リアルタイムで作品を長く観つづけてきたファンであれば、そんな感想を持ってもしょうがないと思う。

・これまでのキャリアを総括して、全てをまとめあげるような大作を作ることは、難しいのだろうとつくづく思う。
マーニー、ストーンオーシャン豊饒の海、いずれも単純明快なハッピーエンドの物語ではないが、
これまでの作者の創作の歩みと照し合せて、しみじみと人生を味わうような、石庭を鑑賞するような味わいがある。

・言うは易く、行うは難し。
作家の作品を鑑賞し、あれこれ感想を述べることは楽しいが、
翻って、自分の人生でどんな作品(結果、成果物)を描きつつあるのか、反省しなければならない。

豊饒の海 解題(あるいは個人的感想文の続き)

豊饒の海の解題、あるいは個人的感想文の続きです。


豊饒の海というタイトルは月面の盆地「月の海」のことで、
何も無い、生命体も存在しない大きな穴ぼこが太陽の光を受け、青く光り輝くという意味で、
「豊かの海(豊饒の海)」という名前が与えられている。

何もない所に豊かな何かがある、というパラドックス、意地悪めいた皮肉を含んだネーミングで、
文字通りの豊かな生命あふれる海をも内容したイメージで、三島由紀夫はタイトルを付けたに違いない。

井上隆史、橋本治 両氏の評論を読み、自分も同意したのですが、
豊饒の海というタイトルは、ハッピーエンドかバッドエンドか、幸せにたどり着くのか虚無に陥ってしまうのか、
作者自身が世界に挑戦状を叩きつけて、伸るか反るかの大勝負をかけて書き始められた作品であることは間違いないと思う。


豊饒の海 1巻と2巻は、平安貴族の恋物語と、源平合戦以降の武士の生き様の物語に相似している。
三島由紀夫自身の、文芸好きの祖母に育てられた生い立ちと、思春期の肉体から湧き出たヒロイズムに、それぞれ対応した物語である。
手塚治虫火の鳥(鳳凰編や乱世編)、橋本治の一連の古典翻訳物を連想してしまう)

1巻と2巻は、女の世界と男の世界をそれぞれ描いた物語といってもよく、
3巻で仏教の唯識論に物語が移ったのは、作者自身が、
この「男と女の、それぞれの世界」「戦前から戦中、そして戦後に続く現実世界」をどうまとめ、解釈すればよいのか、
発想のヒントを唯識論に求めたためではないかと考えている。


三島由紀夫という人の胸の内を慮り、楯の会などの政治活動を含めて詳細に語ることは私にはできないが、
創作上の行き詰まりと、戦後社会にイラつきながらも思うように立ち行かない焦りや絶望がない交ぜになって、
天人五衰のニヒルなラストと、楯の会の無謀な決起行動に到ってしまったのではないかと思われる。
(今から言ってもどうにもならないし余計なお世話なのだが、とても気の毒な死に方をしてしまったように思われる)


井上隆史氏「もうひとつの豊饒の海」39ページに、創作ノートの一部が引用されている。
第4巻の構想中、3人の偽の転生者が本多の前に現れるという展開を考えるが、そのプランをご破算にしてしまった時の書きこみである。

「もっと大きな、ドラマティックな展開、神と悪魔の大闘争のようなものがないと、4巻のラストとしての重みが無い。
この重みのため、「大対立」が必要。
この大対立は、本多と若者の対立だけではなく、別なところの、愛と死、政治と運命の大対立であるべきだ。
そこでは、行動者と記述者、存在と行為、肉体と精神等の人間の最重要の対立あるべきなり。

(三人の転生者が現れるという展開は)単なるお話の羅列で全体的必然性なし」

そしてこの、全体的必然性をもって人間世界をまとめあげようと構想していた詩的断片が、
第五巻のキーワード〈転生と同時存在と二重人格とドッペルゲンゲルの物語――人類の普遍的相、人間性の相対主義、人間性の仮装舞踏会〉であったのだと思う。


転生とは、過去から未来への時間軸の中で、同じ人間がふたたび現れること。
同時存在とは、ある一つの空間に、二人の人間が同時に存在すること。二重人格やドッペルゲンゲルは、その具体的アイデアだろう。
つまり、時間を超えて、空間を越えて、「私」が異なる顔を持って現れ、
その「私」はさまざまな顔を持ち、普遍的な正しさ美しさだけではなく、相対的なさまざまな諸要素をもった群れとして現れ、
仮面を被りつつその下に素顔を持っているような、どちらが真実でどちらが虚か分からないような、そんな人間たちがダンスパーティーを踊り続けているのが、
この人間の生きている世界ではないのかーー。

三島由紀夫は、豊饒の海で、そんな肯定的な、豊かな世界像を描いて、
そして作者自身だけでなく、読者も日本人も全人類をも含めた大きな視点で、全てを肯定する結末を描きたかったのではないかと思う。


手塚治虫のマンガは、火の鳥だけでなく、さまざまなマンガで、
時間や空間、物語の枠を超えて、キャラクターたちがさまざまな役回りを持って登場してくる。

手塚治虫のマンガの描き方」によれば、手塚漫画のキャラクターは自分自身の(経験や記憶の)投影であり、
ストーリーやテーマは、宝塚で生まれ、戦争を体験し、漫画描きとして生きてきた自分自身の心や人生の反映であったという。
つまるところ、手塚治虫のマンガは、繰り返し繰り返し、自分自身を語ってきたというわけである。


ジョジョもそんなところがある。
ジョジョは、豊饒の海をはじめとする全体小説の系譜に連なるマンガであるが、
ジョナサンとディオは、作者の人格を形成する二つの人格の投影であろうし、わが子を産み出すようにして8人の主人公を創造してきたそうである。
ジョジョのラスボスは作者の実年齢と近かったり、ジョースター一族の主人公たちに孤独の陰が濃いのも、作者自身の人生が映し出されているからに他ならない。
7部からの新世界では、文字通り時間と空間を巻き戻して(あるいは塗り替えて)、転生と同時存在の物語を描き続けている。


火の鳥ジョジョと較べて、気の毒に思うのは、
三島由紀夫という人があまりに優秀で、生真面目で、いろいろなものを背負って、生き急いでしまったように見えて仕方ないことだ。

手塚治虫荒木飛呂彦が不真面目で、世間の期待を背負っていない、泡沫の作家だという意味では無いのだが、
もう少し自由な立場で、自らをユーモアの対象にして笑い飛ばすたくましさがあって、大衆受けを厭わないふてぶてしさがあれば、
豊饒の海は、もっと違う結末を迎えられていたような気がする。
(しかし、ヒッチコック監督のようなスタンスとユーモアセンスを持ち合わせた三島由紀夫は、もう、それまでの三島由紀夫とは別物になってしまっている気がする)


三島由紀夫という人を知っているわけでもなく、作品をしっかり読み込んでもいないのに、
こんな知ったかぶりの文字の行列を書きこみしたくなるのは、やはり、三島由紀夫という人と作品の力のなせる業だと思う。

そして、私の亡くなったじいさんが、三島由紀夫と近い世代で、
軍隊に参加しながら、病気のため、同僚と共に戦地に赴く事ができず、仲間たちと死に別れて、戦後に生き残った。
じいさんは軍服を着て日本刀を振り回したりはしなかったが、
後年「戦争は良くない、みんな死ぬ」と言い、戦争で死んでいった仲間たちのことを想い、涙を流していたようだった。

そんなことが身の回りにあったので、
三島由紀夫の生真面目さ、
文学に忠実に生きようとしながら(おそらく満足に)豊饒の海を仕上げきれなかっただろう無念さを感じて、
2つのブログ記事を書いてきました。


豊饒の海」というタイトルはダブルミーニングのとても詩的なタイトルで、
全4巻に文字の列として描かれた、三島由紀夫が実際に描き込んだ物語と、
そしてもう一つ、三島由紀夫の作品を読んだ読者の、地球に生きる人間たちの現実の物語をも内包していると思う。

私にはまだ、この世が虚無で、生きるに値しない何物もないところだとは思えないので、
しばらくは楽しいことを見つけながら、周りの人に役に立つようなことをして、体と頭が動く限り生きていくつもりである。

でも、70歳くらいになって耄碌したら、周りに迷惑をかけて現世に居座るよりは、
さっさときれいに死んでしまえたら、そのほうがずっとよいとも思っている。

何も無い、きれいな虚無の中に落ち込むのはもう少し先だが、
それが夢に落ちる瞬間のように、幸せや安らぎ、好きな物に包まれるようにあったら、何よりありがたいと思う。

豊饒の海 幻の第五巻と、ジョジョの奇妙な冒険

年に1度のキャンプを終えて、楽しい旅行から自宅に帰った日の夜、
三島由紀夫の生首写真を閲覧していた自分がいた。

三島由紀夫横尾忠則美輪明宏のことなどがつらつらと心に浮かび、
軍服を着た自決事件のことが頭に浮かんだので、google検索した所、生首写真がヒットしたわけである。
(1980年代の写真週刊誌が創刊号で、警察のお蔵入り写真を公開したものらしいが、何とも悪趣味なものである)

三島由紀夫には、かねてよりジョジョとの超個人的繋がりがあって、
10年ほど前 文学に詳しい友人の発言で、頭に残っていたものがあった。
ジョジョのサーガと、三島由紀夫の「豊饒の海」は似ている」
ジョジョ1~3部は、豊饒の海より面白い。(これは、相当ほめている)」
「4部以降は、以前よりはどうしても落ちる。4部で、日常の街を描いているという面白さ・同化したい親しみやすさはあるが…」

三島由紀夫の、あまりに無残な生首写真を見て、横尾忠則の殉教者のごときタブローも思い出し、
三島事件三島由紀夫の論評や著作を読み始めている。


私は三島由紀夫の著作をほとんど読んだことがなく、
中学生のときに仮面の告白金閣寺を何となく読んで、難しい耽美的な話だなという印象を持ったのと、
大学生の時に小沢健二が薦めていたという理由で、不道徳教育講座というエッセイを読んだくらいで、
私に三島由紀夫を語る資格は無い。

これから、三島由紀夫の著作をゆっくり読む機会があったとして、
ジョジョとの繋がりを発見するに到ったならば、当ブログで報告していこうと思う。


この記事では、「豊饒の海」とジョジョの繋がりについて、10年前の友人の証言を検証したい。

豊饒の海は、「脇腹に三つのホクロをもつ主人公」が輪廻転生を繰り返し、
近代(1900年代~1975年)を駆け抜ける物語である。

4部作として発表され、貴族編・右翼編・インド編・未来編の4編から成り立っている。(4編の名前は、私が勝手につけた愛称)

豊饒の海は、手塚治虫火の鳥ともよく似ており、
キャラクターが輪廻転生を繰りかえす点、時代や国家を超えて壮大な物語が紡がれることで、人間世界の全体を描こうとしている。

実際、豊饒の海を元ネタに構想された「クラウドアトラス」という映画(小説)があり、その映画は、火の鳥ジョジョとも似た雰囲気を持つ作品らしい。

「漫画術」によれば、ジョジョは、
直接にはエデンの東やルーツなど、世代を超えて受け継がれる人間たちの物語を描きたいと構想され、
(後から思えば)ジョジョ開始前後に、作者のおじいさんが無くなったこともあり、人間の意思が世代を超えていく人間賛歌を描きたいと考えたのだという。

ジョジョ豊饒の海火の鳥も、大きな物語、
世代や時代、国家や社会を越えて受け継がれていく大きなストーリーを描こうとすると、おのずと様相が重なってきてしまうのだと思う。


ついでのように申し上げると、
上に書いたとおり、ジョジョ豊饒の海で、皮相的に似通ったポイントとしては、
豊饒の海で、三つのホクロを持つ主人公が輪廻転生するのが、ジョジョで、ジョースター一族に星のアザが受け継がれる点が似通っている。

(こういうトリビアを発見して、ジョジョは○○のパクリ、某五輪エンブレムは○○のパクリと指摘することは正しいが、あまり高級な思考・創造的行動とは言えないと思う。
著作権の侵害は親告罪であるし、そもそも個人的には、
創作活動そのものが大きくは先代のパクリ、過去からの歴史の積み上げに成り立っているものだから、
誰か一人だけが独創的な発想・発明をして、自分だけが特許権の利益を独占する、ということ自体があまり起こりえない、不自然な発想だと思うのだ)


豊饒の海は、(作品世界の設定で)1975年に完結する。
相前後して、私のような団塊ジュニア世代が生まれ、1980年代末にジョジョの連載がスタートする。

豊饒の海は、創作ノートによれば当初全5巻で構想されており、実現されなかった第五巻の構想がある。
第五巻は〈転生と同時存在と二重人格とドッペルゲンゲルの物語――人類の普遍的相、人間性の相対主義、人間性の仮装舞踏会〉であったという。

個人的には、三島由紀夫は現実世界の右翼活動に奔走するのではなく、
この幻の5巻を含めた、豊饒の海を執筆することに集中したほうが、三島由紀夫自身にも、日本の文芸のためにもずっと幸福だったのではないかと思う。
豊饒の海のあらすじを読んだだけの現時点でも、
1巻→2巻と続くテンションの高さは異様に面白く、3巻で変化球的な展開となり、ラストでどう締めるか?という所で、
4巻は、戦後民主主義の現代人のショボサを皮肉るような小さな世界の話となり、老人がさびしく人生を終えるようにして物語全体も終わってしまう。

第5巻の構想は、上記の一行を読んだだけなのですが、血沸き肉躍るスペクタルがあるというか、
明治末~戦後までの物語の展開を踏まえて、人間どもの全てを描きつくし、作品世界と現実の世界を全て呑みこむような、そんな壮大なラストを描きたいと考えていたんじゃないかと思うのだ。


三島由紀夫の熱心な読者の方が、このブログを読んでいたら、とても怒られるのではないかと思う。すみません。
ただし、これだけは思ったのは、豊饒の海 幻の第五巻 物語とテーマは(そして三島事件を起こしたことの意義も)、はからずも後世の作家たち、現実世界の人間たちにゆだねられることになった。

転生・二重人格・ドッペルゲンゲルーーこれは、「驚異の二重人格者 ジョジョ」、あるいはジョナサン一族とディオの白と黒の物語に重なりはしまいか。
人類の普遍的相とは、ジョジョがうたう人間賛歌そのものであるし、
人間性の相対主義とは、「人間、しょせん死ぬときは死ぬんだからさ」という諦観を含んだホラー映画的世界観であろう。
人間性の仮装舞踏会とは、ジョジョのコミック100巻で延々と描かれてきた、正義と悪の戦いに他ならないのではないかと思う。


三島由紀夫豊饒の海で描こうとした世界と、ジョジョで現在進行形で描かれている世界は、
そのようにどこか似通った、通底したものがあると思う。
そして、それらの物語を原語で読めて、時代背景のニュアンスも体感的に理解できる、同時代の日本人に生まれてラッキーだったと思う。