(前回 108本目の記事で「当ブログは完」と書いたのですが、
その後 いくつか、ネットに書き残したいジョジョの記事(情報)が出てきました。
ジョジョのルーツを探る、いくつかの記事です。
仗助と億康が弁当を持ちながら言い放ったように、
「人間の考えは時と共に移り変わる」ものだということで、
一つ、お見知り置きをお願いいたします。)
* * *
「荒木飛呂彦の漫画術」に、デビュー前後の荒木先生の奮闘を描いた箇所があります。
以下 要約し、一部を抜粋します。
荒木飛呂彦は20歳のとき、「武装ポーカー」でデビューしたものの、編集部から「これでは連載できないね」と突き返されてしまう。
編集部がほしいのは連載になるようなマンガで、サスペンス風の短編ではないということが分かり、新たな壁にぶつかってしまった。
荒木先生が好きな世界は、推理小説、サスペンス、忍者ものとジャンルを問わず、
まず「戦う」というシチュエーションが先にあって、「なぜこんな戦いをしているのか」がその後明らかになるといった具合に、わかりやすいメジャー路線からは外れていた。
荒木先生の弁(原文を引用)
「当時「スターウォーズ」が大ヒットしていましたが、好きだったのは「キャリー」で、
自分の嗜好がヒット作とは違うところにあることには気づいていました。
それでも、今ヒットしているものではなく、
自分がいいと思う、自分が好きなものに忠実でありたいという思いを曲げることはできませんでした。」
ーーこの後、荒木先生は、
自分の好きな世界(愛するマイナーなもの)と商業誌の要請するメジャー路線の折り合いを付けるべく、
自分が好きなものを描きながら、読者に受け入れられ、商業的に成立する漫画を描くための修行に入っていく。
そしてたどり着いたのが、初連載作となる「魔少年ビーティー」である。
魔少年ビーティーはご存じの通り、シャーロックホームズを下敷きにした作品である。
天才的な頭脳を持つ主人公が悪に勝つという部分はホームズと同じながら、
悪の少年が敵を上回る頭脳を使い、トリックで勝っていくという、
「悪を倒すのは悪」というテーマを描くことが作者の狙いであったという。
そばかすの不気味少年一家とビーティーの対決は、
「悪を倒すのは悪」というテーマが典型的に表現された好例だろう。
ビーティーは10週で連載終了してしまったが、
バオー、アイリン、ジョジョへと続く中で、「悪を倒すのは悪」というテーマは、繰り返し荒木作品中に現れてくる。
ディオ・ブランドーは、作者によれば、魔少年ビーティーの発展形として造形されたし、
ジョセフの飄々としたトリックバトルも、ビーティーのそれを思わせる。
ディオがDIOとなり、6部までの世界に連綿と影響を及ぼし続けたように、
ジョジョの作品世界で、悪は限りなく現れ、悪がそれを倒す物語が描かれてきた。
ここで、正義と悪を論理的・倫理的にキッチリ明確に定義するのは難しいのだけど、個人的に思う所はある。
それは、ジョジョにおける善(正義)と悪の境目は曖昧で、前向きに生きる人間たちの奮闘ぶりが、人間賛歌として描かれているという点だ。
ジョジョにはあまり、
「国連憲章や憲法でその正しさを保証されるような」、
「明らかに人々に受け入れられ、熱狂をもってその戦果をほめたたえられるような」、
明らかにヒーロー然とした、まぶしいばかりに輝くヒーロー、正義の味方は登場しない。
ジョナサンは最も正義の味方然とした性格の持ち主だが、
彼ですら「世間には知られることの無い、陰の歴史」の英雄であり、彼の一族以外にその人生を知る者はいない。
ジョセフからジョリーンまで、あるいは新世界のジョニィや定助を紐解いても、
他人のために冒険し、戦う魂はジョナサンから受け継いでいても、
世間から彼らの冒険を褒め称えられることは全く無いのだ。
つまり、ジョジョの世界の正義のヒーローは、単純明快な正義の味方では無い。
人に知られない所で孤独に戦い、何の評価も受けないがしかし、自らの誇りと他人を守るために戦う、そんな男たちがヒーローなのである。
視点をジョースター一族から他に移すと、
スピードワゴン、ツェペリ一族、シュトロハイム、ポルナレフや花京院、杜王町の住民、ブチャラティたち、GDSの囚人、SBRレースの参加者…。
皆、一様に善人とは言いがたく、さまざまな背景を背負い、時には悪事を行いながら、善のためにも戦ったキャラクターばかりだ。
悪役として登場したキャラクターたちの悪事ぶり、その哲学と行動のバリエーションには改めて触れるまでも無いだろう。
ことほどさように、ジョジョにおいては、正義と悪が入り乱れて、様々な人間模様を描き出している。
「正義が悪を倒す」単純明快な図式ではなく、「悪が悪を倒す」「人間が人間と出会い、生きるための過程として戦う」。
それが、荒木作品に通底して流れてきた根本テーマなのだろう。
追記:
本記事は、「悪を倒すのは悪」という逆説を何とか自分なりに噛み砕こうと考え書いたのですが、上手くまとまりませんでした。
後日 荒木先生の新書「長偏愛!映画の掟」 イーストウッドのダーティハリーに触れる所で、
まさに、このテーマを説明している箇所がありましたので引用いたします。
(刑事ハリーは)本来、黙秘権の行使を告げてから犯人を逮捕しなくてはいけないのに、それを無視して逮捕したり、
犯人に銃口を向けて撃つかどうかを選択させる。
はっきりいって刑事としてはメチャクチャです。
荒っぽい行為に「そんなことしていいのか?」と思わずにはいられません。
でも、その社会的にはみだした異質な存在感がいい。
ダーティーハリーが提示するのは、
社会正義のため、法律のルールを踏み外してでも悪党をつかまえようとするヒーロー像です。
ハリーは僕が求める「ヒーローの条件」を体現していました。
僕なりの定義では、
正義を貫いて悪を倒す者でも、社会から理解されていたらそれはヒーローではありません。
世間は誰も目を向けないし、仲間に慕われることも、お金が儲かったりすることもない。
常に孤独。
それでも社会のために行動するのがヒーローなのです。
誰からも認められないのになぜやるのかといえば、
それが人間の根底にある価値観に基づいているからです。
ジョジョニウムのあとがきによれば、承太郎やポルナレフは、集団で旅をしてはいるものの、戦うときは常に一人。
密漁海岸の岸部露伴などは、とくに分かりやすく、上記のヒーロー像を体現したキャラクターだろう。
シャーロックホームズとイーストウッド、2人の生みの親の手によって、
ジョジョの主人公たちは形作られたのかもしれない。