ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

デヴィッド・ボウイとプリンス

 「ジョジョ立ち」と呼ばれる、いわゆるジョジョ的なポージング。
中性的とも評される、男の色気を醸し出すヴィジュアルイメージ。

荒木先生の発言によれば、それらのルーツは様々で、
ルネサンスバロックの大理石彫刻、アントニオロペスのファッションイラスト、ヴェルサーチなどのイタリアンファッション、スタローンやイーストウッドなど映画スターの立ち姿。
そして、近著 ジョジョベラーの画集コメントによれば、デヴィッド・ボウイ 'Heroes'のジャケットが、最も原初の、ジョジョ立ちのルーツであったという。

また、荒木先生の最もお気に入りのミュージシャンはプリンスだそうで、
たまたま生年月日が一緒(らしい)という縁もあってか、プリンスとその音楽に熱狂し続けていることは、作者コメントでも度々触れられてきた。

この記事では、デヴィッド・ボウイとプリンスについて取り上げます。


 ***

 
デヴィッド・ボウイ 'Heroes'

ヒーローズ  <FOREVER YOUNG CAMPAIGN 2015>対象商品

 


●プリンス LOVESEXY

LOVESEXY

 

上記2枚のジャケットを見ていただければ、両者の個性の違いがお分かりになると思う。

デヴィッド・ボウイもプリンスも、
つねに前を向くというか、新しい音・アイデアを求めて作品を作り続けてきた音楽家で、
王道を少しひねった、歪んだ感じが、両者ならではの音を作りだしている。


デヴィッド・ボウイの'Heroes'は、とても感動的なメッセージソングで、
ヒーローの在りかた、現実世界にヒーローが存在し得るかどうか、真摯な問いかけを投げかけてくる。

(「一日だけ、僕らはヒーローになれる」というサビの盛り上がりは、結婚式のウェディングソングに良いんじゃないか…?とも思うけど、
出席者の方々や、両家の親戚方がデビッドボウイ好きでないと、ただノイジーで歪んだロックソングを流しやがって、と白い目で見られるのがオチかもしれない)


プリンスのLOVESEXYは、発売当時 物議をかもしたジャケットですが、今見ても、やはりヘンなジャケットであることには変わりない。

パブロ・ピカソ岡本太郎が、芸術家としての偏屈さ・揺るぎない個性を表に出して、世渡りを行っていたように、
プリンスの性的な露悪趣味も、彼一流の自己表現であり、セールスプレゼンテーションの一つである。

プリンスの楽曲は王道をひねった、前向きでストレートな感じが特徴。
5部と8部、二人の主人公のスタンド名に採用されており、
初期のパーティーチューン「1999」は、4部 1999年の杜王町のイメージソースの一つであろう。

最もジョジョ/荒木作品らしいプリンスの一曲は、Pop Lifeになるのではないかと思う。


ーー文章で、音楽作品の良さを語ることはとても難しい。
プリンスやデヴィッド・ボウイのアルバムは面白いものが多く、よい楽曲が揃っています。

百聞は一見にしかず、ということで、ジョジョのファンで、両者のアルバムは殆ど知らないよ、という方は、一度 試聴してみられることをおススメいたします。
映画に主演したり、さまざまなエピソードを積み重ねてきてもいるので、人物伝を探ってみるのも一興かと思います。 

複眼の映像ーー私と黒澤明

橋本忍氏の著書「複眼と映像ーー私と黒澤明」の記事です。

ただし、私は黒澤明監督の映画を「七人の侍」「わが青春に悔いなし」しか観たことが無く、
しかも「わが青春~」は祖父の家にあったホームビデオを借りてたまたま観ただけという、全くのニワカです。

橋本忍の映画も「幻の湖」を先日観たばかり、「砂の器」の小説は読んだが映画を観たかどうか定かではない…というニワカなので、
両氏の作品をまっとうに批評することはとてもできません。

時間と興味が湧けば、両氏が脚本・製作に関わった映画を、これからじっくり観ていきたいと思うのですが、
まず、この記事では「複眼の映像」の読書メモ、幻の湖の補足、ジョジョとの関わりを述べます。


 ***


橋本忍は脚本家である。
伊丹万作の弟子で、黒澤明と「羅生門」「生きる」「七人の侍」の脚本を共同製作し、
牡丹と薔薇」で近年有名な中島丈博の師匠でもある。

橋本忍のてがけた脚本は「八つ墓村」「日本沈没」「私は貝になりたい」「八甲田山」「砂の器」など名作が目白押しで、
キャリアの晩年にてがけた鬼っ子が「幻の湖」である。

黒澤映画がスピルバーグはじめ海外の映画作家に大きな影響を及ぼしたこと、
横溝正史作品(犬神家の一族八つ墓村などの金田一耕助シリーズ)はジョジョリオンのイメージモチーフの一つであることなどから、
橋本忍の脚本作品は、遠く、ジョジョのルーツの一つと位置付けてもよかろうと思われる。


 ***


「複眼の映像」は、橋本忍氏が自身のキャリアを振り返った自叙伝であり、
黒澤明らとの「脚本の共同製作」について、そのノウハウと記憶を存分に語った書物である。

荒木先生が「荒木飛呂彦の漫画術」を書いたように、
橋本忍が、自らの脚本/映画づくりのノウハウ、黒澤組の映画づくりを述べたもので、とても価値のある内容が述べられている。

テーマ、ストーリー、キャラクター 基本要素を設定することの大切さ。
「大箱」(起承転結の四段構造)に基づく長編映画と、1時間前後の中編~短編映画の違い。
上映2時間前後の一律な映画興行を脱して、国立映画製作所・国立映画館を設立し、多種多様な映画(映像作品)を創り出そうとした芸術運動の顛末などーー。

映画、マンガに通じる「作品づくりの王道」が述べられており、映像作家をめざす人、映画やマンガが好きな人はぜひ読んで損が無い内容だと思う。


本書中で述べられているのは、橋本忍氏 個人の経験則・体験、個人の価値観に基づく映画批評である。
橋本氏のほかに野村芳太郎氏、小國英雄氏、そして黒澤明氏、伊丹万作氏の作品批評、芸術観が随所に記されるが、
いずれも一級品の鋭さで、私のブログや「みんなの映画レビュー」など、凡百の井戸端話を遥かに超える切れ味がある。

橋本忍「乱」と「影武者」を失敗作と論じるなら、それはそれでしょうがない。
野村芳太郎が「ジョーズ」は傑作だが、それゆえに、以降のスピルバーグ映画は観る必要が無い、と言われればもう従うしか無い。
瞬間 そう思わせるような、野生のトラに睨まれたような、そんな迫力と含蓄を持ち合わせている。

映画、世に残る名作というものは、達人同士の斬り合い、命をかけたぶつかり合いで生まれてきたのだ、と改めて納得させられる。

江頭2:50がかつて、「例え、どんなにつまらない映画があったとしても、 批評するオレよりも映画のほうが上だ! もし、映画がウンコでも、オレはそれをエサにしてしか生きていけないハエなんだ。 批評することは簡単だけど、創ることは難しいぜ!」と述べ、
伊良部秀輝が、わけも分からず群がるマスコミに「あんたらは稲田に群がるイナゴや!」と声を荒立てた。

全くその通りで、
演歌歌手が「お客さまは神様です」と、神に通じる祈りを込めて舞台で歌い上げることも真実なのだろうと思うが、
一方で、「神が作った世界」に入らせていただく気持ちで、作家の作品世界に敬意と謙虚をもって接することも真実なのだろう。
つまり、人間はそれぞれが「神」であり、主体と客体のいずれもが、双方に敬意をもって働きかける関係が理想の美しさであると思われる。


***


ーー話がずいぶん拡がってしまいましたが、
「複眼の映像」からいくつかの興味深い記事、触りだけを触れていきます。

(原文を引用するととても長大になるため、図書館や本屋さんで、原書に触れていただけましたら幸いです)


幻の湖 マラソン構想の背景

本書P156 黒澤明にはシナリオについての哲学がある、と述べるくだりがある。
「仕事は一日も休んではいけない」。
彼にいわせればシナリオを書く作業は、42.195kmを走るマラソン競争に似ているという。……

また、黒澤明は能が好きで、いつも話題にするのが世阿弥であったという。
その世阿弥がある日、川船に乗り川を渡っていると、中程で向うから渡し船がやって来て、船頭がお互いに声を掛けあう。
 おう、いい天気だな。 ああ、いい天気でありがたいが、今日は体がしんどいよ。 しんどい?どうしてだ? 昨日は仕事を休んだからな。
世阿弥は思わず膝を叩く。
 これだ!これがコツだ、休めば逆に体が疲れる。稽古事には一日も体を休ませてはいけないのだ。


前回の記事で、幻の湖は、なぜお市と日夏のマラソン勝負を根本に据えたのか、その理由が分からないと述べました。
作家 橋本忍氏の回答が、上記の引用の中に含まれている。

黒澤明に追いつき追い越せ、少なくとも黒澤明に離されず、一本立ちの脚本家として人生を走り切れ……
そのような、人生への願いを込めて、お市とシロ、お市と日夏のマラソン構想が着想されたものと思われる。

また、琵琶湖の西岸と東岸 南岸と北岸の重ね合わせ、過去→現代→未来をオーバーラップさせる物語の構想は、
世阿弥が能舞台で表現したという「夢幻」の映像化と思われ、
幻の湖は、橋本氏自身は、決してフザけたカルト映画を作ろうとしたのではなく、自身の芸術観・人生観を叩きこむつもりで真剣につくった映画であることが窺える。

(そもそも、橋本氏自身が「複眼の映像」で幻の湖の分析・批判を行っているのは、前回記事の引用の通りである。

映画秘宝あたりの、同映画をバカ映画/カルト映画としての面白がり方には、半分同意、半分納得できない、という気持ちである。
死者に鞭打つような、弱った犬に石を投げて喜ぶような、思いやりのない楽しみ方はどうかと思う。
江波杏子が、同映画の上映時 大声で笑って同映画を観ていたという書きこみが「みんなの映画レビュー」にあったが、
江波杏子の豪快さ、気風の良さだけは認めざるを得ない……そんな複雑な心境だ)



●映画≒音楽 共同製作方式の、脚本づくりとは

本書P175からの引用。

「黒澤さんは映画についての法則や理論を好まず、一切口にしない。
その彼が珍しく、「映画評論」に寄稿した一文があり、
映画は他の芸術の何に似ているかで、彼は一番よく似ているものは音楽だという。

音楽は感覚を聴衆に伝えるだけで、何かを説明することができない。
映画も同じで、説明しなきゃいけないことを説明しても、観客には分からず、説明は一切不可能であり、
その本質的な部分で、両者はひどく似通った共通なものがあるという。

私(橋本氏)もこれには大賛成で、誰かにシナリオに一番よく似ているものはと訊かれた場合には、
躊いなく音楽の楽譜の譜面だと答える。

楽譜の譜面は演奏者に対し音楽を立ち上げる命令書、
シナリオは監督以下の映画のスタッフに対し絵と音を仕上げる命令書だが、
両者は単に命令書としての一致だけでなく、内容的に重要なものが共通している。

私たちの書くシナリオに最も重要なものは、文字の並びや配列が生み出す抑揚……テンポとリズムだが、
一方楽譜の譜面は、すべてがテンポとリズムそのものである。
私にとってシナリオを書くことは、小説や戯曲の類とはおよそ世界の異なるものーー交響曲を作曲しているような気がしないでもない。

黒澤組で用意ドン! 同じシーンをスタートする。
語り口は人それぞれに違うが、誰にしてもこのシーンが快調な二拍子か、それとも正常な順押しの四拍子、または嘆きや詠嘆の三拍子かは、大まかに分かっている。
だから出来上がったものから、音楽の場合にはフレーズごとの交換が容易なように、
シナリオでも、このフレーズ単位での交換や差し替えが、意外なまでに簡単なのだ。

(中略)

こうして同じシーンを(複数の人間が、同時に)書き揃えることで、それらからはどのような編集でも可能になり、
内容の充実した、イキのいい新鮮な脚本を作りだすのだ。

黒澤組の共同脚本とは、同一のシーンを複数の人間がそれぞれの眼(複眼)で書き、それらを編集し、
混声合唱の質感の脚本を作り上げるーーそれが黒澤作品の最大の特質なのである」


ーー長大な引用となってしまいましたが、
これを読んだ瞬間、「自分の意見・感性が同じで嬉しい!」と思いましたし、
小さな事柄ですが、ジョジョのテレビアニメが根本的にどのようにおかしいのか、改めて納得した次第でした。



●定規とコンパス

本書P51 「羅生門」と「藪の中」の折衷に苦しむ橋本忍氏が、「シナリオは映画の設計書か……」と心中呟く。

橋本氏が軍需工場の経理部員を務めていたとき、設計の仲間が話していたことを思い出す。

工場で生産される製品はすべて工作部の設計課で設計される。
海軍から送られてきた原図を元に各パートが図面を引き、現場ではその図面ひとつなしには何一つ製作できない。

設計課の技師が立ったまま、やや傾斜した大きな図面台に向かい、
馴れた手付きで定規とコンパスを使い、烏口でテキパキと書き上げる。
その様子に感心した橋本氏が、ある日、大学を卒業したばかりの一人の青年技師に話しかけた。

「ここで引く図面は簡単だが……零戦のエンジンともなると大変だろうね」
「そんなものは同じですよ」
「え?」
白面の青年技師はニコリともしなかった。

「物の大小とか、複雑とかは関係ない。
空を飛ぶ飛行機であれ戦艦大和であれ、また顕微鏡の必要な百分の一ミリ単位の小物であれ、なんだって、線を引くのはみんな同じ……
定規とコンパスさえあればね」


ーーついつい引用を繰りかえしてしまっていますが、
本書には他にも、黒澤明が脚本合宿の夜 秋田民謡を歌いあげる話など、面白い話が数多詰まっています。
橋本氏の筆ーーテンポとリズムに乗せられて、つい引用をしたくなってしまうのも、氏の力のなせる業でしょう。

黒澤映画のファンの方だけでなく、映画やマンガ、芸術が好きな方は、ぜひお読みになることをおススメいたします。



追伸:

「複眼の映像」というタイトルの由来は、橋本氏自身が、上記で述べた通りです。

橋本治が、かつて糸井重里との対談で「ひとりで主観、ふたりで客観」と述べたが、同じ意味を指すものだと思う。

どうでもいい情報ですが、
私のハンドルネーム sougan=双眼は、よいところも悪いところも共に見ようとするニュアンス、
肯定と否定・正常と異常など、二項対立の間のところを幅広く拾って見ていこう、というニュアンスで付けました。

このブログは、基本的に、著者(私)ひとりの見解・意見を延々と述べているものですが、
ブログ記事へのご意見・反論・抜け落ちの指摘など、何かありましたら、コメント欄にご意見をお寄せ頂けましたら幸いです。
よろしくお願い致します。

「幻の湖」 失敗の研究

(本記事は、ほぼ全くジョジョと関係がなく、すみません。
荒木先生の生まれた日本、同じ国の先輩作家・橋本忍の「幻の湖」についての記事です。)


橋本忍 原作・脚本・監督の映画「幻の湖」を観た。
近所のお店でレンタルできないので、2000円弱のDVDを購入し視聴。

インターネットで「バカ映画」と評された面白半分のネタバレを観た後だったので、初見時のインパクトは低かった。
予め設定・あらすじを知っていたということもあって、展開の飛躍に振り落されることなく、集中してラストまで観終えた。

駒沢公園でのマラソンシーン、日夏がペースをアップし、お市を振り切ってしまった所。
マンションから日夏が飛び出してきて、屈伸運動の後 走り出したのをお市が目で追うシーンは、やはり笑ってしまった。

しかし、DVDを観たいと思った当初は「バカ映画で、思いっきり笑いたい!」と思っていたのだが、
観だすと真面目につくってあり、ソープ嬢の交流や琵琶湖探索の情景など、よいシーンが結構あった。

私は滋賀県出身の人間で、沖島のことも、海津大崎周辺の絶景も、雄琴のソープ嬢の暮らしぶりのことも知っている。
その意味で、ご当地紹介的な故郷のイメージ映像から始まり、
社会の「底辺」で孤独に生きてきた筈のソープ嬢が、銀行員と出会い、アメリカ人のスパイソープ嬢と親友になり、
石仏や観音像に心洗われ、沖島の東西のありように孤独の極みと夢幻の境目を見、長命寺の石段で生きる決意をするという展開は、頷けるものがあった。

琵琶湖の南湖と北湖は、現代と古代の象徴であり、
琵琶湖の西岸は自分が孤独に住むクズのような現実で、東岸は、他人と共に暮らす幸せな未来の幻。

江戸の敵を長崎で討つかのごとく、東京の敵を雄琴で討つなど、対比や比喩の使い方がうまい。

ひとり、犬以外に頼る者なく生きてきたお市が、「現実」を手に入れ、形見の黒髪をローザ経由でNASAに贈るシーンがある。

主人公のお市の行く末は、ハッピーエンドでは無いものの、
雄琴のソープ嬢(=現代日本で、水商売に生きる女性)はいかに生きるべきか? ひとつの回答を示しており、
かつて雄琴のソープ嬢にお世話になったことのある私としては、--水商売の女性と出会い、関わった世の男性は皆同じだと思うがーー彼女たちの幸せを祈らずにはいられなくなる。


お市が、現代の象徴たる琵琶湖大橋の上で、日夏に止めを刺したとき、
過去と現代と未来がオーバーラップすることを象徴するように、スペースシャトルの打ち上げ映像にカットが変わる。
過去→現代→未来を繋ぐ壮大な永遠、世界の全体を描き出そうとした、壮大な創作意欲は素晴らしいと思う。

しかし、この映画で根本的にヘンだなと思うのは、
「主人公が、なぜマラソンにこだわるのか?」「主人公だけでなく、なぜ日夏もマラソン勝負を受け、同じ土俵で戦うのか?」である。

お市と日夏がスタンド使い同士で、余人には分からない超常的な戦い(魂を賭けたマラソンレース?)に巻き込まれているとか、
観客にヘンだな?と思わせないシチュエーションを設定してくれないと、やっぱりガクッと、真面目に観る意欲が失せてしまう。

お市やローザが、なぜソープで働かねばならないのか?など、主人公たちの行動の動機がほとんど示されず、
なんのために主人公が生きているのか分かりづらくなっているのもマイナスポイントだろう。


ただし、このあたりの作劇の分かりづらさ、キャラクターやシチュエーションの突飛さは、橋本忍自身が狙ったところで、
あえて訳の分からない話づくりに取り組んだようである。

幻の湖」1980年初版の原作小説 後書きから引用するとーー

「全体の長さの内の現実が70%、その中に少しずつ散りばめるが、仏像とLSIのからみはラストの三章の30%。
しかし、その関連づけや説明は一切しない。
自分の犬を殺した男に復讐していく女の姿から、なにか不可解で未知な永遠なもの……
それだけを読者に感じてもらえばと思っていたが、それさえ可能かどうか自分には自信がない」

この原作小説を書き上げた後、橋本監督は映画の撮影に入り、かの作品が出来上がったわけであるが、
私としては、ひとえにバカ映画・カルト映画と呼称して、後ろ指指して笑うだけが能だとは思わない。


「いいところもあれば、悪いところもある」
「人間、成功した人でも、ときにはとんでもない大失敗をする」
「前向きに倒れた人間の死に様は、無残であるが、美しくもある」

私としては、「幻の湖」の鑑賞後、突っ込み所の多さに半笑いながらも、不思議な安堵感・安心感に浸ってもいた。

SF・科学の描写にいい加減なところがあり、この辺りがしっかり考証され、
戦国編/現代編/宇宙編を繋ぐ6時間くらいの映画として、
橋本氏(脚本家)以外の適任者が監督を務めれば、もしかして、もっとよい作品に仕上がっていたかもしれない。

(地球上空 200km弱の高度で、果たして笛が静止軌道に入るのか?など、科学的考証がズサンな点はマイナスポイント。
ちなみに、宇宙パルサーという造語は、原作小説で宇宙航空士の長尾がニュートリノを研究し、素粒子物理学から宗教的な永遠を着想するくだりがあり、ここらあたりから連想した造語のようである。

幻の湖」というタイトルも、ラストで長尾が少しだけ触れているが、琵琶湖は年間数cmずつ北上し続けているという学説があり、これに基づいて、数百万年・数億年の後、琵琶湖は日本海に抜け、幻の湖になると述べられている。

しかし、この映画はとにかくシーンごとの繋ぎが粗く、描写の意味が分かりやすく解説されないので、バカ映画と批評されてしまうのもムリは無い。)


……文章量だけがやたら長くなってしまいましたが、
それだけ、幻の湖は奥が深く、語りたくなる内容を持っている作品だと言えるのかもしれません。

DVDレンタル料金ぶんの満足をもたらせるかは保証できませんが、
良し悪しを別にして、観た人の頭に生き残る引っかかりがあることは確かだと思います。

ジョジョリオンで新たな境地を描きつつある荒木先生ですが、同時に、ひとりよがりの偏り、構想力の衰えも見えています。
橋本忍氏が、黒澤明・小國英雄氏らと語り合い、ともに脚本を創作したように、
荒木先生の「間違い」を指摘できる同輩がいれば、もっとジョジョリオンは面白くなるのに……と思わないでもありません。


  ***


以下、「幻の湖」原作小説の後書き、橋本忍氏の自叙伝「複眼の映像」からの抜書きです。
当映画をご覧の方には、作品を補完するものとして、興味深くお読みいただけるのではないかと思います。よろしければご参照ください。


●「幻の湖」1980年 後書ーー創作ノート より


映画「八甲田山」の撮影中、橋本氏は、
八甲田山に独り立つブナの古木に、言いようのない孤独感・死の影を感じた時、死ぬまでにもう1本映画を撮ってみたいと思った。

「そのときに動く絵が浮かび上がったが、カラーではなく白黒だった。
日本髪を振り乱した若い女が、出刃包丁を構え体ごと男へぶつかっている。
5,6年前から企画に上がっていた、
縄文期から、過去、現在、未来に渡り、生まれ変わり生き変わる若い一人の女の徳川時代の幕切れの一コマである」


八甲田山が完成してから半年後、橋本氏は、琵琶湖の北岸 渡岸寺で、十一面観音の菩薩像に巡り合う。
「この顔はどれもこれもが生きた人間の顔をしている。
五十六億七千万年後に、生き変わり生まれ変わり、未来永劫を生き続ける菩薩像ーーそれが琵琶湖の畔にあるのを発見し、
衝撃と興奮のあまりしばらくはものもいえなかった」のだという。


「出刃包丁の若い女と、LSIだけではだめだが、仏像を基本におけばなんとか話は成り立つ。
出刃包丁を構えて男にぶつかっていく、日本髪を振り乱した黒い紋服の女ーーこれを徳川期ではなく現代にもってくる。
左には人間が創り出した全知全能ともいうべき科学の粋のLSI。
右には善も悪も包含し未来永劫まで生き続ける十一面観音の菩薩像。
この3つを組み合わせれば話は展開する。

いや、この女はLSIと仏像の中間にいる。
仏像から漂うものと、LSIのコンピューターから発するものがぶつかりこの女が生まれるが、それがドラマの中心であり、たとえ死んでも違う女に生き変わり生まれ変わる。」




●「複眼の映像ーー私と黒澤明」2006年 より

「「七人の侍」の時のことだが、仕事が終わったある日の夜、水割りのコップをテーブルの上に置いた小國旦那が突然に、
「橋本よ……死んだ万作に代わり、お前に言う」
私はドキッとして居住まいを正した。師匠の名前の一言で電気のようなものが五体を走る。

「いいか、シナリオライターには三種類ある。鉛筆を指先に挟み、指先だけでスラスラ書く奴、掌全体の力で書く奴、ほとんどがこの二種類だが…お前は肘で書く、腕力で書く」
「……」
「その腕力の強さじゃ、お前にかなう者は日本には誰もいないよ。
しかし、腕っぷしが強すぎるから、無理なシチュエーションや、不自然なシチュエーションを作る。
成功すれば拍手喝采だが……これは失敗する可能性のほうが高いし遥かに大きいよ」

小國旦那は入歯の下あごをガクガクさせ言葉を〆くくる。
「シナリオはな、冬があって、春がきて、夏がきて、秋がくる……こんなふうに書くんだよ」


(中略)


この小國旦那の言葉が、私の胸を痛恨で疼かせたことがある。

橋本プロ製作の「砂の器」「八甲田山」が成功したが、続く「幻の湖」が失敗した。

幻の湖」の企画の動機は単純だった。
砂の器」は親子の旅で、親子二人の歩き、「八甲田山」は青森の連隊と弘前の連隊の雪の中の歩きーー
人の歩く映画が二本続いたので、次は人が走る映画を作ってみたい。

走るのは女の子にする、これはいい。
職業は雄琴のソープ嬢にする、これもいい。
犬と一緒に湖畔を走る、これも絵になっていい。
ところが、その犬が殺され、こともあろうに、自分の犬を殺した男が、客として目の前に現れたのでカーッとなり、
犬が殺された時の出刃包丁で、男を刺そうとし、慌てて逃げ出す男を追いかける。

琵琶湖畔を逃げる男を女の子が追いかける。
男も普段から走りにはトレーニングを重ね足には自信があり、女の子が死にもの狂いで追いかけるが追いつけない。
しかし、琵琶湖大橋でついに男が走れなくなり、
追ってきて走り勝ちした女の子が、出刃包丁でひと突きに男を殺してしまい、犬の敵討ちになるがーー
ドラマの流れの勢いとはいえ殺しにまで至るのは、テーマの走りの限界を超え、明らかに不条理である。

その上、この女の子には、現実的な恋人の他に、強く心を惹かれる人があり、それが宇宙航空士、
しかも、その経緯には戦国期の時代劇の因縁が絡み、
ラストは宇宙航空士が地上75キロ(原文ママ)の宇宙空間からーー
犬を殺した男を殺害し、女の子が飛び込み自殺したと思える琵琶湖大橋の上に、二人を結びつけた戦国期以来の横笛を置き、
それが三日月形の琵琶湖に交差しあたかも十字架のように見える。

地球の自転と共に永遠に琵琶湖上空にあるその横笛には、美濃紙の付箋が付いており、墨で女の子の源氏名が書いてある。
雄琴お市のために」ーー。

話としてはなんとか強引にまとめているが、不条理すぎるし、シチュエーションにも不自然と無理が重なり合っている。

私はこの脚本には自信が持てないので野村芳太郎さんに読んでもらた。
野村さんが大丈夫といえばスタートするし、ホンには無理が多く、失敗の可能性が強いといえば、考え直し中止にしてもいいと思っていた。
ところが野村さんの意見は、
「ドラマの質がこれまでにはない、全く新しいもので、従来の映画の感覚や理論では判断の余地が無く、
正直にいって自分にもよく分からない。
このホンの善し悪しは出来あがった映画を見ないと、誰にも分からないのではなかろうか」

私は困惑した。その私に小國旦那の言葉が蘇ってくる。
無理なシチュエーションや、不自然なシチュエーションでも、ホンは腕力で書きこなせるし、現場もそのまま通過する。
しかし、最後の仕上げでフィルムが全部繋がると、根本的な大きな欠陥と失敗が間違いなく露呈してくる。
この脚本にはそれらが二重三重にも絡んで重なり合っているのだ。

「いっそ小國旦那に読んでもらおうか」
しかし、小國旦那は即座に、猛烈に反対するのが目に見えている。
あれこれ悩んでいるうちに制作の諸準備も進み、つい後へ引けなくなりスタートしたが、
結果としては脚本の無理がたたり、作品の出来はもう一つ、興業的にも惨敗し手痛い目にあった。」


ーーこのあと、本書は、筆者が小國旦那の廟を訪れるたび、ふっと連想される奇妙な光景で〆くくられる。


「もし、黒澤さんが私の立っているこの廟の前に立ち、小國旦那に向かい合えば、何と言うだろう。
意外にもそれは小國旦那への私の呟きに似た言葉かもれない。
「小國よ……御免……「乱」も「影武者も、ちょっと無理だったのかな、シチュエーションが強引すぎてな」

イーストウッドの「ダーティーハリー」

遅まきながら、クリント・イーストウッド主演「ダーティーハリー」を観た。

「悪は倒すのは悪」という記事の末尾で引用させていただいた通り、
イーストウッドのダーティーハリーは、承太郎をはじめ、荒木作品のヒーローの原像となっているとのこと。

承太郎は、ジョジョの中で最もお気に入りの主人公であったのですが、
ダーティーハリーは自分が生まれるより前の映画ということで、なんとなく古い感じがして、これまで観ずに過ごしていました。

映画を観てみて、温故知新というか、自分が知らない事柄を探って、知っていくことは大事なのだ、とまず反省した次第です。


ハリー・キャラハン刑事は、承太郎を実写化したらさもありなん、というキャラクターで、
二人の立ち姿、背筋のピンと張った、つま先まで緊張感の漲った出で立ちはまさに生き写しである。

ハリーが殺人犯を追い詰めていくストーリーはアクション/サスペンス映画の王道で、
タフでクールなヒーロー像は、普遍的なカッコ良さを漂わせている。

スタジアムに追い詰められたスコルピオが「I have the right for a lawyer!」と叫び、
'Dirty' Harryが有無を言わさぬ迫力で、射殺一歩手前の所まで追い詰める。
「映画の掟」で荒木先生が述べた、はみだし者のハリーのカッコ良さが、象徴的に発揮された名場面であった。


1971年に製作された映画ということであるが、
映画全編を貫くタイトなストーリー展開、直線的でシャープな映像のフォルム、BGMのジャジーな盛り上げ方など、
全体にとてもモダンな映画で、後に続く、さまざまな映像作品の模範になったであろうことが伺える。

イーストウッド映画は、ずっと前に「許されざる者」を観たことがあったのだが、
主人公がおじいさんだったという印象が強く、正直 そのときは、この映画と俳優の魅力はよく分からなかった。

ダーティーハリーを今 はじめて観て、承太郎のモデルであることは勿論のこと、
ドクタースランプのタロウのパパ、あぶない刑事舘ひろしなど、
70~80年代の男のカッコ良さの最先端のモデルとなったことが理解できた。

サンフランシスコの夜景でのチェイスは、3部OVAで描かれた、カイロの夜の空気感をどこか思わせるところがあった。
共に、70~80年代の世界の街並みを伝える映像資料であり、
OVAスタッフが実際の街並みを取材して画面を作り、実写映画が持つ空気感を表現できていた証左なのだろう。


トリビア的なところで、3つ。
ハリーが医務室でズボンを裁断されるのを断る場面、
「なぜ家族を失い、生死の危険をつねに冒して刑事の仕事を続けるのか」の問いにハリーが「分からん」と答える場面は、
明らかに承太郎の初期エピソードに組み込まれており、作者のオマージュと遊び心を示したものだろう。

それと、あまり作劇上の意味は薄いけども、
冒頭 白昼の銃撃シーンで、消火栓が破裂し、水しぶきが湧き上がる中をハリーが悠然と歩いていく。
消火栓が壊れて水しぶきが吹き上がる場面は、アヌビス神との戦いで、消火栓が破壊され噴水するシーンに似てる感じがした。


スコルピオは一旦 ハリーに倒される(捕まる)ものの、
法律と社会規範のために保釈され、ハリーは再び彼を追う。

法律に従うべき刑事という仕事の枠組みを超え、逸脱しながら、
ハリーは高架で待ち伏せし、スコルピオのバスにダイブ、ついには彼を射殺し、倒す。

サンフランシスコ警察のバッジを池に放り投げて、ハリーが踵を返したところで映画は終わる。
このときの、スコルピオとの決着の池からズームアウトして、採石場・高架・湾岸の街並みまでが俯瞰されるシーンは、
SBR ジョニィと大統領の戦いが決着したラストシーンを思い起こさせる。

荒木飛呂彦イーストウッドからどれだけ影響を受けたんだと、同作品のストレートなカッコ良さに唸らざるを得なかったのでした。

「総員玉砕せよ!」 女郎の歌と、生きるための戦い



水木しげるの「総員玉砕せよ!」を読んだ。

ペーソスあふれる太平洋戦記で、作者によれば90%が実話であり、かつ、自身がいちばん気にいっている作品であるという。


登場人物が急に出てきて死んだり、妙にリアルな似顔の登場人物が出てきて、
おそらく、実際に作者の身のまわりにいた戦友たちを描いただろうことが伺える。

太平洋戦争を評して「竹槍で爆撃機に立ち向かうようなものだ」と聞いたことがあるが、
この、パプアニューギニア諸島 ラバウルの戦記もまさしくで、丸山(水木しげる)の所属する部隊は陣地構築もままならず、ノンビリ、少しずつ人が死んでいく。
「こんなことで日本軍は勝てるわけがない」と思っていると、果たして本当に、そのまま日本軍の前線部隊は全滅してしまう。

丸山はじめ、物語に登場する日本軍の面々は、ほんとうに普通の、現代の若者・オッサンたちである。
週刊プレイボーイキン肉マンを読んだり、高崎聖子のグラビアに唸ったり、東京スポーツ 愛甲猛が語る野球賭博の打ち明け話に胸を痛めているような人間が、
軍服を着て、銃剣を身にまとい、軍隊の位階に連なりながら、前線突撃の指令を淡々と待っているのだ。

「わたしは なんでこのような つらいつとめを せにゃならぬ」
悲しさと明るさが混ざり合いながら、最後はただ涙を流して、兵士たちは女郎の歌をうたう。
まったく平凡な人たちが兵士となり、全く勝ち目のない前線に出て死んでいった現実があり、
「なぜ、つらいつとめをしなければならないのか?」との問いに正面きって答えられなければ、戦争の指揮官を務める資格は無いのだろう。


楠公の幻影を追う大隊長と、材木屋の中隊長が、玉砕の是非を問答する場面がある。
中隊長は、はっきりと「前線突撃しての玉砕は、喜劇だ」と言う。

淡々とした、明るく悲しいような軍隊生活の日常が、玉砕指示を境目に暗転し、
兵士たちが死ぬために戦い、死んでいく様は、痛ましいとしかいいようがない。

同年代 ヒッチコックが「疑惑の影」を撮り、ディズニーが「ファンタジア」を作り上げた、「テキさん」の豊かさは圧倒的で、勝てるはずがない。
手塚治虫はこの頃、短編アニメ映画「桃太郎 海の神兵」を観て涙したというが、涙の味は複雑であったに違いなく、彼我の差はあまりにも大きすぎた。

物語の最後 丸山(水木しげる)が半死半生の姿で現れ、
女郎の歌をうたい、誰にも看取られないまま死んでいく。

これはとりも直さず、水木しげる自身の、前線で死んでいった仲間たちへの鎮魂であり、生き残ったことの詫びと、やりようもない怒りの表明である。
ほんとうに、なぜ彼らは死ななければならなかったのか?--誰にも答えることができない。


水木しげるが、一番気に入っている作品だというのは道理で、ストーリーの展開が素晴らしく、登場人物の行く末に目を放すことができない。
欧米軍は「ジャップ」としか言わず、終始 リアルタッチの描きこみで背景と共に登場するが、
日本軍の兵隊たちは、間の抜けてのんびりした、しかし生き生きとした描線で描かれ、彼らの息遣いは、実際にそこにあったものだとしか思えない。

白と黒の画面のコントラスト、生き生きした人物と緻密な背景画のバランスも素晴らしく、
まさに一大傑作と呼ぶべき作品である。


ーー1976年生まれの私にとって、このマンガは、
戦争体験を「読ませていただく」という姿勢で、老翁の説話を拝聴するような面持ちだった。

ラバウルの戦い、太平洋戦争を含めて、人類の歴史は戦争と共にあったと言ってよい。
これからの未来においても、戦争は、「戦い」は避けられないのだろうか?



 ***



「戦い」は避けられないのか?

「総員玉砕せよ!」のあとがきによれば、兵隊と靴下は消耗品。
序列において、将校、下士官、馬、兵隊ーー兵隊は馬以下であり、「人間」ではなかったという。

大航海時代 南米大陸を発見したスペイン人・ポルトガル人たちは、
米原住民を「人間」とは思っておらず、虫を駆除するように虐殺を行ったという。

人間を人間と認める。対話を尊ぶ。平等と博愛を大切にする。
プリンスの One of Us は誰の耳にも喜ばれるだろうメッセージソングだが、たとえこの歌を鳴り響かせても、戦争を止めることはできないだろう。

美しい観念はたしかにあり、愛や正義の大切さは、世界中の誰もが認めるだろうが、
それぞれの立場があり、欲求・欲望があり、これまでの積み重なったいきさつがあり、
誰かと誰かが譲り合えない争いをしてしまえば、規模の大小こそあれ、それはもう「戦争」であり「修羅場」だ。

毎日の生活で、浴びるほど争いの種はあり、争いを避けるように穏便に生きようとしても、
行きついた先に「敵」がいれば、自分の身を守るため戦わざるを得ない。

せいぜい、自分自身に課せられるリアルな選択肢としては、
「総員玉砕せよ!」の中隊長にならって、土壇場の修羅場で、卑怯な選択肢を取らない、ということだ。

ジョナサン・ジョースタースピードワゴンを蹴り殺さなかったように、
大柳賢が露伴の洗脳を嫌ってトラックに飛び込んだように、
ギリギリの土壇場で、自分の正義を曲げず、自分と近しい人のために働く。

節を曲げずに、己を貫くということが、修羅場でこそ求められるのだと思う。



 ***



ジョジョは、「戦いのマンガ」である。

ジョジョの物語から、もし戦いが無くなったら、とてもつまらない顛末が目の裏に浮かぶ。
広瀬康一くんが学校に通って、犬の散歩をして、自転車を買い替える。
ジョナサンがエリナと結婚して、イギリスの地主として幸せに暮らす。

戦いがなくなった日常風景は、物語としてとてもつまらない。それだけは、ハッキリしている。


ジョジョの主人公の成長は、戦いによって描かれる。
善と悪の、主人公と敵役のぶつかり合いは、
お互いが人生を「前に」進もうとするがために発生し、戦いを乗り越えた先に成長がある。

荒木先生は、ジョジョにおいて「精神的なバトル」を描いている節がある。
ジョジョ ASBガイドブックのインタビューでも、ゲームグラフィックやモーションの美しさを称賛し、
「精神的なバトルの領域に入っていけますね」と発言している。


人類の歴史は戦争の歴史であったが、
争い、競争、対立があってこそ、世の中は進歩してきたとも言える。

右翼と左翼、戦争と平和、支配と平等の争いは、単純に対立するものではない。
世の中の営みの、矛盾する2つの相であり、何かがどちらかに極端に触れたとき、戦争や革命が起こる。

平和は、何一つ波風が起こらない静かな風景ではなく、緊張のほどけた隙間。
ライオンが獲物を仕留めて満腹し、次の狩に赴くまでの「昼寝のひと時」が、人間にとって求め得る、現実的な平和なのだろうと思う。

願わくば、戦争や革命、事件・事故といった極端かつドラマチックな展開によってではなく、
平々凡々の、五右衛門風呂でオナラをこいて、砂浜に座ってハナクソを食うような呑気な日常の積み重ねから、進歩と平和を維持向上させたいものだ。


水木、手塚 両先生とおよそ同年代で、アンパンマンやなせたかし先生は、
戦争を体験し、空腹の辛い思いからアンパンマンを産み出した。
アンパンマンは、スーパーマンのようにパワフルではないが、困った人に自分の顔を分け与える優しい男だった。

後のテレビアニメで、
そのアンパンマンが、バイキンマンと果てしないバトルを毎週繰りかえすことを、
意外にもやなせ先生は肯定していた。

人間の社会、生物の自然の営みにおいて、戦いは常にあるもの。
パンにバイキンは湧くものだから、その戦いを、2人のキャラクターに当てはめていたのだという。


ジョジョ7部 スティールボールランのクライマックスで、大統領がジョニィに、自らを窮地から蘇らせるため演説を打つ場面がある。
大統領の説く愛国主義・防衛論は、90%は正しいと思う。
大国アメリカのリーダーであれば、軍隊を率いて自他を統率させねばならない立場なら、誰もが彼のように考えるであろう。

ジョニィを説得するにあたり、最後にほころびが出て、大統領の起死回生策は失敗に終わってしまう。
ジョニィは泣き、大統領は死んで、聖人の遺体は只 黙ってルーシーのそばに横たわっている。

SBRの参加者たちは、いったい何を求めて、何を手に入れて死んでいったのか?
「わたしは なんでこのような つらいつとめを せにゃならぬ」とは、人生を生きる誰の胸にも鳴り響く哀歌なのかもしれない。



「女郎の歌」 作者不詳


私は くるわに散る花よ

ひるはしおれて 夜にさく

いやなお客もきらはれず

鬼の主人のきげんとり

私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ

これもぜひない親のため



私は くるわに散る花よ

ひるはしおれて 夜にさく

いやな敵さんもきらはれず

鬼の古兵のきげんとり

私はなんでこのような つらいつとめをせにゃならぬ

これもぜひない国のため

「ウラのウラはオモテ」  XTCが体現する、イギリス的価値観

ジョジョ、荒木作品の根底にあると思われる「ブラックユーモア」、
「イギリス的価値観(English Settlement)」についての断片的なメモです。

ジョジョと、その周辺にある諸作品(極個人的な意味で、自分の経験・感性の中で、近しい位置にある諸作品)を語るのが、このブログの主な目的になっています。
ブログ読者の方には、あまりまとまりのない記事・情報となっているかもしれず、申し訳ありません。


(なお、XTCはイギリスのミュージシャンで、ポップ/ロックに属し、80~90年代に傑作を発表しました。
アンディ・パートリッジのソングライティングに定評があります。)


 ***


XTCの歌、アンディ・パートリッジが体現するキャラクターには、
「ウラのウラはオモテ」と言うべき不思議な明るさ、したたかさ、悲しさと明るさが同居したような感覚がある。

個人的には、しっくり馴染む感覚で、ジョジョおよび荒木作品にも、似たテイストを感じる。
箇条書きで、連想するところを記していく。



・9月中旬 子供と近所の山を登山した時、XTCの歌を口ずさんでいた。歌を歌いながらの登山は楽しい。
山登り(人生)は、天国と地獄の連続。
アップダウンが絶え間なく繰り返し、登ったと思えば下り、良いこと悪いことが絶え間なく続く。

イッテQ登山部の貫田氏は、雪積る山間のテントを「天国」と評し、イモトに「天国じじい」と評された。
自分たちが山に登った時も、たまたま同行したお爺さん達の、一定速度で山間をたゆまず歩き続ける姿に、天国じいいの「真価」を見た思いだった。


・XTCの歌の明るさは、かつてI先生が説いた「子供が一通り泣き伏した後の、静けさと明るさ」に似ている。

マルクスは、「歴史は繰り返す。一回目は悲劇として、二回目は喜劇として」と説いた。

アインシュタインは「同じことを繰り返しておきながら、異なる結果を期待するとは、きっと頭がどうかしているのでしょう」と発言した。

・XTCの醸し出すアイロニーは、荒木先生の提唱する、ホラー映画的世界観と似ている。
死を受け入れる、ある種の諦観。不安と共に生きる、サスペンス映画の人生観。

鳥山明の描く、明るくも不穏な世界。

ヒッチコック監督が好む、イギリス人のブラックユーモア。
「ハリーの災難」に顕著だという、イギリス人の「アンダーステートメント」。
恐ろしい、シリアスな事柄を、控えめに語る。
(ハリーの災難は、死体を取り囲み、隠匿しようとするブラックコメディー)



XTCの曲とアンディ・パートリッジには、イギリス人のユーモアセンスが溢れている。

例えば、中島みゆきの「地上の星」は、中年男性なら誰もが感動できるだろう名曲だが、
同じテーマで、アンディパートリッジはAcross This Antheapを作ってしまう。

(極個人的な妄想としては、この2曲はテーマ・構成ともによく似ており、
Antheapを聴いた中島みゆきが、自分の体内で咀嚼し直して、地上の星を書いたのではないかと思っている)

キン肉マン Go Fight!の一節「ああ、心に愛が無ければ スーパーヒーローじゃないのさ」は誰が聴いても胸が熱くなるが、
アンディの歌うヒーローソングはThe Mayor of Simpletonであり、the mayorが自民党を押しのけて、市長に当選するとはどうしても考えづらい。


XTCのちょっとはみだした感じ、孤独な感じは、荒木作品のキャラクターの孤独感と重なってるところがある。
キン肉マン Go Fight!が真っ向から愛と友情を訴えて、それで成立してしまうのは、
作者 ゆでたまごの才能の凄さであるし、彼らがタッグを組んで、二人で漫画を描いている事実にも由来すると思う。

荒木先生は、基本的に一人で漫画を描いていて、
思春期に抱いた孤独感をバネに、自作のキャラクターや世界観を産み出してきたようなので、
その辺りは、キン肉マンとは大きく個性が異なっている所なのだろう。

ただし、荒木先生とジョジョの世界観が、XTCとベストマッチしているか?というと、必ずしもそうではないと思う。
荒木先生に合うアーティストを一人だけ挙げるならば、多分それは、プリンスになるだろう。

パープルレインからラブセクシーくらいまで、80年代の諸作品はとりわけ素晴らしく、
明るく前向きで、ちょっとひねくれていて、理想を追い求めるのに一生懸命な感じが、ジョジョとプリンスはよく似ている。

今 思いつくところで一曲だけを選ぶと、Pop Lifeが、ジョジョとプリンスを最も力強く象徴している。

 

「ウラのウラはオモテ」というアイロニーについて。

イギリス人に限らないと思うが、たぶん、歴史のある国は強い。どん底を経験した人間は強い。

人間にとって、最大の恐怖は死であろう。
死を笑いものにできるブラックユーモアの豊かさ、効用。
自分自身を突き放し、笑い者にできる強靭さ・したたかさは、知性のひとつの結晶であると思う。



 
追伸:

ジョジョを巡るキーワードで、当ブログへのアクセス解析を見ていると、
ジョジョ 気持ち悪い」「ジョジョ パクリ」等が多くあります。

連載当初から、ジョジョはたびたび、映画・小説等からのパクリ/オマージュが指摘されてきました。

果たして、XTCのアンディパートリッジは、「オリジナリティー」というものをどのように捉えているのか?
自分も唸り、頷かされたのですが、アンディの答はこうです。

「オリジナリティーとは自分が影響を受けた音楽をめった切りにすること。
自分のヒーローを肉挽き機に押し込む。出てくるものは独自のサウンドに聴こえるが実はヒーローの生の牛肉から作られたもの」


下記リンク「世界最高のバンドXTCよ永遠なれ!!!」にて、インタビューの全文翻訳が読めます。
ご興味のある方はどうぞ。
http://long-live-xtc.seesaa.net/article/410967871.html

Wrapped in Grey  「疑惑の影」に見る、杜王町の面影

連休の間に、親戚からディープな人生相談を受けることがあった。
当事者ではないので結論を決めることはできず、客観的な意見やアドバイスは行ったものの、
トラブルがどう収束するかは、当事者同士にゆだねることしかできない。
何とも苦しい、やきもちした気持ちになった。

人生相談を受けた日の夜、たまたま借りていた「疑惑の影」、
ヒッチコック監督がお気に入りであったという映画を観ることにした。

(マーニー、泥棒成金、疑惑の影と観てきたが、ハリーの災難と泥棒成金は対になるような映画、
南フランスロケの話、イギリス郊外の田舎の話と、ご当地紹介の趣ある喜劇で楽しめた)


「疑惑の影」(Shadow of a Doubt)は、1940年代のサンタ・ローザを舞台にした、家族の物語である。
ヒッチコック監督がこの映画をお気に入りだというのは、
アメリカに渡ってきて、はじめて納得できるシナリオライターと組んで仕事をできたこと、
人生の上り調子の機運をガッチリ掴むことができたろう充実作であること、
犯人探しのサスペンスと家族の物語がキッチリ描けたことにあるようである。

物語の主人公はYoung Charlie, Uncle Charlie 2人のチャーリーである。
(「映画術」でヒッチコックが述べたように)人間は黒と白にハッキリ分かれるものではなく、「灰色」の中にいる。
ヤングチャーリーの中に、死んだアンクルチャーリーの記憶は、ずっと生き残り続けるはずだという。

アンクルチャーリーが折りに触れて話す「金持ちの女はブタだ」「この世は地獄だ」などの発言は、ギョッと耳を疑う強さがあるが、一片の真実を含んでいる。

物語の最後 教会の定型弔辞が唱えられる中、ヤングチャーリーと恋人が問答し、恋人の発言が物語を総括する。(日本語字幕はまったくの誤訳をしていた)

 well, it's not quite as bad as that.
 but sometimes it needs a lot of watching.
 it seems to go crazy every now and then, like your Uncle Charlie.


映画を観ていただければ分かるのだけど、
1940年代前半 第二次世界大戦の真っ只中の、アメリカの片隅の田舎町で、
ときには人間はおかしくなるし、(ヒッチコックアンクルチャーリーであるような)辛らつな社会批評も巷間に溢れていた。

モノクロ映画の、光と影のコントラストが、ドラマチックに場面を演出している。

アンクルチャーリーは、後にサイコのノーマンベイツの原型となったとも言われている。
ヒッチコック監督の映画で、悪役を主役にしたのは上記2本のみ)
ヒッチコック監督は、悪役を通り一遍に描くことはしたくないと言い、
この映画では、主人公たちの家族(メガネの妹、お人よしの母、主人公)、サスペンスマニアの隣人、そしてアンクルチャーリーと、
多くのキャラクターに、人間的な、リアルな造形を与えることに成功していると思う。

「小さな静かな田舎町に、殺人鬼がやってくる」というのが本映画のコンセプトだそうで、
これは遠く、「新興住宅街の杜王町に殺人鬼が潜んでいる」ジョジョ4部の源流と捉えることもできそうだ。


it seems to go crazy every now and then という呟きは、正直なところ、私も週に1回くらいは呟いている気がする。
愚痴なのか批判なのか、その手の呟きは70年前から変わらずあって、白と黒 両方のバランスをとることが難しい。

私の親戚の人生相談も、願わくばバランスをとって、豊かなグレー色の生活の中に事態が収まってほしいと願う。
白黒付けることがすべての問題の解決法ではないし、矛盾を抱えながら曖昧な状況下を生きねばならないこともある。
Let's go crazy とかつてプリンスは歌ったが、
実生活でkeep going crazyすることは難しいし、プリンスも舞台を降りた時は、地道に研鑽を積んだり、地味な生活を送っているのだと思う。
嘘をつかず、狂ってしまうこともなく、何とか誠実に穏やかに、少しズルく生きていきたいものだ。