ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ゲームプレイの略歴と、ノスタルジーの検証

自分自身の好み・体験を振り返ろうということで、
私自身が遊んできたゲームの略歴を、まとめてみました。

年代順に、自分で買って遊んだソフトを箇条書きで並べています。
カッコ綴じになっているのは、友達から借りて遊んで、印象に残っているソフトです。

自分の遊んできたゲームを振り返る中で、懐かしい気持ちが湧きますが、
ジョジョを含めて「思い出のマンガ/ゲームは、ノスタルジーがあるから魅力的に思うのか?」と考えました。
年代一覧の後に、自分の連想を記しています。


 ***


任天堂との出会い ~1985年以前

ゲーム&ウォッチファミコンドンキーコングが近所で流行していたが、
液晶の小さな画面、黒っぽいモニタになじまず、自分ではやらなかった。

横井軍平氏のパズル「テンビリオン」が祖父の家にあり、時々いじって遊んでいた。


●1985年

クリスマス前後 親に、ファミコン本体と、キン肉マン・マッスルタッグマッチを買ってもらう。
父親の趣味で、同時にエキサイトバイクを入手した。

キン肉マンをはじめて起動したとき、緊張し、神聖な感じがしたが、
2016年の今も、あたらしくゲームを始めるときのワクワクした感じ、神聖な感じは変わっていない。


キン肉マン・マッスルタッグマッチ

エキサイトバイク

スーパーマリオブラザーズ

オバケのQ太郎・ワンワンパニック

忍者じゃじゃ丸くん

ハイパースポーツ

ジッピ―レース


●1986年

グーニーズ

忍者ハットリくん

アトランチスの謎影の伝説マイティボンジャック

ドラゴンクエスト

魔界村悪魔城ドラキュラ、1942)

スーパーチャイニーズ

じゃじゃ丸の大冒険

がんばれゴエモン高橋名人の冒険島迷宮組曲

プロ野球ファミリースタジアム

水晶の龍


●1987年

ドラゴンクエスト

エスパードリーム

もえろツインビー

ウルトラマン・怪獣帝国の逆襲

ドラえもんキングコング2、アルゴスの戦士

夢工場ドキドキパニック

ファンタジーゾーン、アルマナの奇跡、聖闘士聖矢、女神転生

SDガンダムスクランブルウォーズ

マイクタイソン・パンチアウト

(上海、ブロックくずし)

ファミスタ'87

1987年頃のクリスマスに、「おえかき せんせい」の最新版を買ってもらった。
タッチペンで描いた絵をテレビに映し出すことができ、データ保存はできなかったが、繰り返しモニターに絵を描いた。


●1988年

ドラゴンクエスト

ナゾラーランド第3号

バイオミラクル・ぼくってウパ

妖怪道中記ドラゴンボール・大魔王復活)

ファイナルラップ

スーパーマリオブラザーズ

桃太郎電鉄忍者龍剣伝テトリス

ロックマン


●1989年

ワギャンランド

MOTHER

スプラッターハウス

ふぁみこんむかし話遊遊記


●1990年

ドラゴンクエスト

ドクターマリオ

ロックマン

F-ZERO


●1991年

いただきストリート

ウルトラマン SFC版)

シムシティ

ファイナルファンタジー4)

ゼルダの伝説 神々のトライフォース

ファミコンジャンプ


●1992年

(ストリートファイタ-2)

スーパーマリオカート

ドラゴンクエスト

ファイナルファンタジー


●1993年

ジョジョの奇妙な冒険 SFC版

スーパーファミスタ


●1994年

スーパーファミスタ

MOTHER2


●1995年

実況パワフルプロ野球

クロノ・トリガー


●1996年

実況パワフルプロ野球

1996年 スーパーマリオ64、アークザラッド2が発売された辺りでゲームから離れる。
家族が上記タイトルをプレイしていたが、自分もやってみようとは思わなかった。


●1999年

ジョジョの奇妙な冒険 プレイステーション




●2013年

子供が6歳になった年、ニンテンドー3DSを買い与える。

ルイージマンション


●2014年

ポケットモンスターY、妖怪ウォッチ1・2、ソニックロストワールド 子供のヘルプに入る)


●2015年

子供がWiiUを入手。ヴァーチャルコンソールで、レトロゲームを再プレイし始める。

MOTHER1・2(再プレイ)

リンクの冒険

スーパーマリオメーカー

ロックマン2(再プレイ)

MOTHER3


●2016年 1月まで

ドンキーコング

ゼルダの伝説

ゼルダの伝説 神々のトライフォース(再プレイ)

エスパードリーム(再プレイ)

 
スーパーマリオUSA(ドキドキパニックの再プレイ)


 パルテナの鏡


悪魔城ドラキュラ


 ***


ーー以上です。

振り返って見ると、自分の好みはいたって普通で、
「マリオ」と「ドラクエ」、レースゲーム、野球ゲーム、ジョジョなどのキャラクターゲームである。

キン肉マンを楽しみ、オバQに引っかかったことで、以降 クソゲーには注意し、
ファミコン通信の情報を頼るなどして、慎重にゲームを選ぶようになった。

1985~1995年に、40本くらいのソフトを買っているが、
(小遣いを含めて)親のお金で買ってもらっており、両親にはあらためて感謝しなければならない。

「マリオ」と「ドラクエ」、両者の含む内容を解きほぐすと、
横井軍平宮本茂に引継がれる、アクションの操作性とパズル的な謎解き、対人対戦を楽しむアクションゲーム。
堀井雄二鳥山明のつくりだした、物語に入り込んで体験するRPGということになるのだろう。



ゲーム略歴を書き起こして気づいたのだが、自分の「ゲーム選択の基準」には2つあり、
ドクタースランプ/ドラゴンボールに連なる「かわいいキャラクター・世界観のもの」、
ジョジョ系譜にある「ホラー、オカルト、ロックのテイストが入ったカッコいい、恐ろしい感じのもの」。

自分のマンガ読書歴はドクタースランプ/ドラゴンボールジョジョと続いていったので、
マンガの好みとゲームの好みが、およそピッタリ一致しているのが面白かった。
人間の人格・精神性は幼少期に養われて、根本の人格はよくも悪くもずっと変わっていないのかもしれない。



私自身は1976年生まれで、1980年代 小学生の時が、もっともゲームに熱中していた。
中学→高校に進学し、1996年に成人するときまでに、段階的にゲームから離れていったように思う。

ゲーム略歴を見ると、平成以降 ゲームのプレイ本数が減り、遊んだのはシリーズものばかりになる。
表を見ていると、テレビゲームのシリーズ化・マンネリ化に飽きていった記憶が蘇る。


ーージョジョを含めて「思い出のマンガ/ゲームは、ノスタルジーがあるから魅力的に思うのか?」、
いわゆる思い出補正はどのくらい強いものなのか、という問いであるが、
私自身は、思い出補正=ノスタルジーの有無と、作品の面白さは全くの別物だと思う。

レトロゲームーードンキーコングスーパーマリオブラザーズゼルダの伝説ロックマン2etcーーを遊んでみて、
2016年の今 はじめてプレイしたものも、20数年ぶりにプレイしたものもあるが、
それぞれのゲームの面白さは、「今、プレイしている瞬間」に感じるもので、ゲームプレイの瞬間瞬間にしかゲームの面白さは生じ得ない。

ファミコン時代の「名作」ゲームは、グラフィックやSEが素朴、ボリュームが少ないなどの難点はあるが、
そんな難点をいつのまにか忘れて、ゲームの世界にプレイヤーを引きずりこむ術に長けている。

横井氏がアイデアマン、オモチャづくりの稀代の名人であり、
宮本氏が工業デザイナーのセンスと知識をもって、ゲームシステム・ゲームデザインをしっかり作り込み、
「ストーリーでは無く、ゲームで勝負する」「資金量ではなく、アイデアで勝負する」ところにファミコン時代の任天堂の強みがあった。


ゲームでもマンガでも、あるいは小説や映画、スポーツやレクリエーションでも同じだと思うが、
人間の行為は、今 その瞬間にそれを行い、それを楽しむものである。

今 なにかをしている瞬間に、過去や未来のことをあれこれ考える余裕は無く、
目の前にある対象に取り組む、頭の中に今あるものを外に描き出す、その連続こそが人生なのだろうと思う。

ジョジョゼルダドラクエ マンガ・ゲームの傑作は、いつ読んでも(プレイしても)面白い。
昔読んで面白くなかったものが、今読んで感想が変わることはあまり無い。

自分の子供を見ていても、子供の直観は鋭く、だいたいの場合は正しい。
宮本茂氏は、かつて松本人志との対談で、
「子供はバカじゃない。知識の量が足りないだけで、彼らにはちゃんと知性がある」と語り、
(「ゲームは女子供を適当にだまして売りつけるようなものだろ?」という)社会の無理解に憤っていた。

宮本茂は、本気で子供のためにゲームを作っている、この人たちの作るゲームはやはり信頼できる、と思った瞬間でした。


ゲーム・マンガは、基本的に子供のためのもの、あるいは子供の心を持った大人に向けた娯楽・文化なのだろうと思います。

40近い中年の自分が、マンガやゲームの感想を大っぴらに語るのは、少し気恥ずかしい思いもあるのですが、
昔を懐かしみながら、また未来への憧れを常に抱きながら、ゲームやマンガにこれからも触れ合っていきたいと思っています。

 

 

追伸:

今更ですが、任天堂の開発史についてご存じない方もあるかと思います。

任天堂の元社長 山内 溥氏の語録(http://crossing.blog.eonet.jp/blog/yamauchi.html

)、

横井軍平 - Wikipedia牧野武文氏による一連の著作がおススメです)、

宮本茂松本人志のインタビュー 書き起こし(http://blog.livedoor.jp/zot3six/archives/6324546.html)です。

各リンクをご参照いただけましたら幸いです。

 

MOTHER3 「END?」でそのまま終わってほしかったクソゲー

(本記事は、ジョジョとほぼ全く関係ない内容になっており、すみません。
否定的な感想を含むので、糸井重里氏とMOTHERシリーズの熱心なファンの方にもあまりお薦めではありません)


***


WiiUのヴァーチャルコンソールでMOTHER3をプレイし、クリアまで遊んだが面白くなかった。

ラスト 物語が終わったところで「END?」の文字が出て、画面が進まなくなる。
十字キーを操作すれば先に進むようになっているのだが、ゲームボーイアドバンスと違って、あいにくwiiUには、2つの方向キーがある。
円盤型の方向キーをふだん使って、(旧来の)十字キーを使うことが無かったので、意識に無く、全くここから進めなくなった。

ーー後にインターネットで攻略情報を検索して、エンディングクレジットを観るにいたったのだが、
「END?」マークでゲームが突然終わったほうが、いっそスッキリしてクソゲーの〆にふさわしかったかも、と今になっては思う。


「終わりよければすべて良し」が物語の基本だと思うが、MOTHER3はその逆を行き、終盤のやっつけ具合がひどかった。
ラストバトルの窮地に、それまで姿を見せなかった父親がいきなり飛び込んできたり、挙句の果てにはアンドーナツ博士まで飛び込んできて、ストーリーを真面目に考えているようにはとても思えなかった。
ゲーム全体で見ても、1~3章がとにかく退屈でプレイするのが辛く、4章から面白くなり始めるが、ドラクエ風の普通のRPGになってしまっている。

MOTHER1は、現代もののRPGをつくったところが革新的で、面白かった。
MOTHER3は、1の持っていた自らの強み・よさを、自らで打ち消したようにしか見えない。

MOTHER3のラスト 2からの繋がりが示され、1・2を匂わす演出がある。
しかし、3の物語と有機的につながっているとはいいがたく、感情移入がしづらい。
MOTHER1・2が懐かしければ、そっちのゲームを再プレイすればいいよ、と思う)

のっぽの男が世界の真相を語りだす場面で、エリックサティの曲をそのまんま使う陳腐な演出にもガッカリした
音楽・SEへのこだわりが、MOTHERリーズの独自性・魅力のキモだったはずなのに…。


皮肉ではなく、MOTHERの成功は、糸井氏のコピーライターとしての才能ゆえで、
MOTHER1は現実のアメリカをベースにした身近な物語だからこそ、現実世界の商品に軽妙なコピーをくっつける、氏のくすぐりのセンスが生きたのだと思う。
MOTHER3は、それまでと違ったものを作ろうとして、すべてが裏目に出てしまったと感じる。

MOTHER3が開発中止になったときの、宮本・岩田・糸井 三氏の対談が、糸井氏のサイトに残されている。(https://www.1101.com/nintendo/nin13/nin13_2.htm
「失敗を振り返り、分析する」同対談が、後に出来上がったゲーム本編よりも遥かに面白く、多くの示唆に富んでいたのは皮肉だし、残念だった。

糸井氏の発言・仕事にはアマチュアリズムへの賛美、自由な立場で物事を発想することの楽しさが現れている。
それはそれでいいのだが、宮本・岩田 両氏のゲーム製作への姿勢とは異なっているし、
同じお金を支払って遊ぶ身からすれば、素人の余興ではなく、プロの職人が作りこんだゲームで楽しく遊びたい。
MOTHER3は僅か500円のキャンペーン価格で遊べたので、値段分は楽しめたし、あまり文句ばかりを言う筋合いでもないけど……いろいろな意味で、残念なゲームだった。


商売の訓話で、「三代続けば末代続く」「三代続けば、家が潰れる」という。
事業経営・相続の難しさ、相続税への嘆き節でもある。

MOTHERは、三代続くことができなかった。
ドラクエは1,2,3でステップアップし不朽の名作となった。
ジョジョも、1,2,3で三部作のサーガを完結させ、30年近く一定以上の面白さをキープし続けている。

マンネリに見えて、一定のクオリティを維持し、長く続けることは難しい。
鈴木慶一氏が、最近のインタビュー(http://www.cinra.net/interview/201409-adanza)で、
「マンネリになるのは、新しいものを入れてないから。勉強し続けていれば、いくつになっても曲は書ける」と話していた。
日々生まれ変わっているその若さ、職人の探究心を見習いたいものだと思う。

 

ーーしかしながら、MOTHER3は20数年ぶりに掴まされた、久しぶりのクソゲー体験だった。小学生のとき バンダイに「オバケのQ太郎 ワンワンパニック」を掴まされたのと同様の悲しみと怒りが、胸の中に湧き上がってくる。

この心の傷は、「ゼルダの伝説 神々のトライフォース」を再プレイしてやり込むしかない。いやな記憶を上書きするしかない……と考えている、正月休みである。

「リンクの冒険」と「スーパーマリオメーカー」 / ジョジョのメディアミックスを概観する

引き続きヴァーチャルコンソールでレトロゲームをやり込んでいて、
最近は「リンクの冒険」と「ロックマン2」をプレイしていた。

リンクの冒険は、小学生当時 ビックリマンワールドと並ぶくらいの「やってみたかったが、結局買わないで素通りしたソフト」で、
今回 はじめてプレイしてみると、難しく、しかし下突きを覚えたくらいから異様に面白く、大神殿までクリアした。

WiiUヴァーチャルコンソールには、「どこでも保存/復元」というマルチセーブ機能が付いているので、
こまめに保存することで、ゲームの難所のみを繰り返しプレイし、突破口を見出すことができる。

アクションゲームの場合、ゲームオーバーになるたびにスタートからやり直すのは(時間・労力・眼精疲労に)つらいので、
マルチセーブをこまめに行いながら、アクション上の難所をクリアしていった。

大神殿のボルバが一番の難敵で、シューティング系のゲームは苦手なので苦労した。
ズルいとは思うが、ナイスプレイ(=ノーミスで、相手に1ダメージを与える)のたびに小まめにセーブして、
相手の体力が半分くらいになったところで、あとは普通に戦って倒すことができた。
影リンクは、攻略サイトの情報を見ていたこともあったが、
画面の左端に影リンクが飛び込んたところを、下突きすることでハメ込んだ状態になり、初対戦で倒すことができた。
(後日 影リンクともう一度戦ってみたが、4回めくらいの対戦で、二度目の勝利を収めることができた)


……小学生なみのゲームの感想文を書いているが、リンクの冒険は、それくらい、頭が真っ白になるような面白さがあった。
リンクの剣と盾を使ったアクションがカッコ良く、敵との戦い(アクション操作)がとにかく面白い。

ディスクシステムのゲームなので、テキストがカタカナ表示だったり、容量が少ないゆえの粗はあるものの、
マリオとリンク、2つのキャラクター・システムが重ならないように、それぞれ絶品のアクションゲームを仕立てあげていった、
宮本茂任天堂開発チームは、ゲーム界における「神の仕事」を行ったと、いくら褒めても褒め足りないくらいにスゴイと思う。

(ヴァーチャルコンソールで、あとは本当は「夢工場ドキドキパニック」があればプレイしたかったのだが、
キャラクタと音楽を一部差し替えの「スーパーマリオUSA」しか配信されていないのが残念)


最近は、子供とWiiUを奪い合って遊ぶ休日なのであるが、
子供は「スーパーマリオメーカー」を入手し、ゲームコースを作ることに熱中している。

スーパーマリオメーカーでは、4つの2Dマリオゲーム(スーパーマリオ、マリオ3、スーパーマリオワールド、newスーパーマリオ Wii)をベースに、ゲームコースを設計・遊ぶことができる。
4つのマリオで、ゲームのグラフィック・SEは大幅に向上しているが、ゲームシステムやアクションの面白さは、初代から一貫して変わっていない。
1985年 黄色いパッケージのスーパーマリオブラザーズが、いかに完成度の高いゲームソフトだったかを思い知らされる。
小学生当時 「キンタマリオ」のギャグ、「1-1で秘密の土管をくぐると、ワールド9に行けるらしい」という噂に熱中した身にとっては、
30年後 マリオが現役の人気ゲームで、子供がゲームコースをデザインしてインターネットに公開して遊べるようになるとは思ってもいなかった。

 

コースデザインは、(プレイヤーを取り囲む)時間や空間を操作し設計する作業ともいえ、

DIOやプッチ神父、大統領らの悪役が夢見た「神の視点」は、ゲームマスターの箱庭づくりの中に、部分的に実現されているのかもしれないと思う。

 

テレビゲームやパソコンの進化発展を見ると、
人類の未来は発展途上で、まだまだ明るい未来があるのだなという気がしてくる。

 

 

 ***

 


ーージョジョとほぼ全く関係のない記事を書いてきてしまい、すみません。

以下、ジョジョのメディアミックスについて、ゲームを中心に連想することろを記していきます。


最新作 アイズオブヘブンは、あまり面白そうなゲームではないが、
グラフィックだけ凝っていて、ゲーム(アクションの操作性)そのものが、もっさりして面白くなさそうなのがダメなんだと思う。

承太郎やDIOが、原作の画風を残しつつ3Dキャラになっているのは良く出来ていると思うが、
ゲームの面白さは、美麗なグラフィックや声優の演技、しょうもない(と言っては失礼か?)原作再現風のギミックとは別のところにあるわけで、
松山洋は、かつてジョジョのRPGをクソゲーと嘆いていたが、「岸部露伴のコスプレをしたアンタに言われたくないよ」と私は思う。

スーパーファミコンで発売されたジョジョのRPGは、あまりゲームそのものの出来は良くなかったが、
当時少なかったジョジョのメディアミックス製品で、3部の旅を追体験するものとして、けっこう楽しめたものだった。
ジョジョのはじめての単独ゲーム化だったので、思い入れをもって遊んだものだった。

ジョジョのメディアミックスで、2010年以降に出たアニメやゲームは、正直なところ、私自身の好みではなく、ひとつも買っていない。
ルーブル美術館とコラボしたくらいから、集英社ジョジョを随分持ち上げているな、ジャンプ系メディアミックスの種が尽きたので持ち上げてるのかなと思うのだけど、
最近につくられたゲームやアニメは、雰囲気がどうにも軽いというか、ホラー映画・オカルト・ロックミュージックのテイストが無くなってるので興味をそそられない。

最近に出たジョジョ商品(?)だと、やはり、荒木飛呂彦が描いたジョジョリオン11巻が、432円で新作を読めていちばん面白かった。
アイズオブヘブンを数千円出して買うくらいなら、ジョジョリオンを1~11巻まで買って読んだほうがよっぽど楽しめる。
8巻 岩人間との初戦くらいまでがかなりダルイのだけど、あらき100%さんの展開予想をヨコに置きながら、あれこれ展開予想を考えつつ読んでいくと、もっと楽しめるかもしれない。


ジョジョのメディアミックス、
2015年12月の現時点で、個人的ベストスリーは以下の通り。

1位 エジプト編のOVA
絵柄は原作と異なっているが、アニメーションの演出がカッコいい。
ンドゥール・ダービー・DIOの全6巻で、3巻・5巻がとくにお気に入り。5巻のDIOの、夜間飛行の浮遊感がとても良い。
自分に100億円(?)の資産があれば、当OVA並みのクオリティで、ジョジョ 1~3部までのアニメ化・映像化を製作させるのに……と妄想してしまう。

2位 カプコン格闘ゲーム
キャラクターのアクションがカッコいい。
3部のストーリーを、敵を漏らさず、追体験できる丁寧な作り込みも良い。

3位 SFCのRPG
このゲームが発売された当時、周りに友達が少なかったので、家でゲームをよくやっていた。
ジョジョ 3部の連載が終わった後に発売されたゲームで、3部のキャラクター(=仮想の友達?)と再び巡り合えたような感覚で、嬉しく遊んでいた。
キャラクターのバストアップしか映らないのが息苦しかったが、原作の旅を再体験できるだけで当時は面白かった。

次点 ファミコンジャンプ
最強の7人というサブタイトルで、7人の主人公の一人が承太郎だった。
ファミコンジャンプ1は、自分はプレイしていないので)はじめてゲームになったジョジョが、このゲームだった。
ストーリーは忘れてしまったが、7人のジャンプキャラ それぞれに見せ場があって、けっこう面白かった記憶がある。
荒木先生がデザインした「サボテンの敵キャラ」がヘンテコな出来で、鳥山明ドラクエはすごい才能なのだ、と妙に納得した記憶がある。


ジョジョ3部の連載当時を思い返すと、2015年の今 ジョジョがまだ連載が続いていて、多方面から高い評価を受ける作品になっているとは思いもしなかった。
荒木先生の努力・筆力の賜物だと思うけれども、25年~30年、ひとつの仕事を続けることの大切さ・偉大さを痛感する。

ゆでたまごも、キン肉マンの新作を描き続けていて、けっこう面白い。
ゆでたまごキン肉マン荒木飛呂彦ジョジョ、水島真司はドカベン
ペンが走る限り、一世一代の傑作を描きつづけてほしいと、エールを送りたくなる。

宮本茂も、マリオとゼルダ任天堂ブランドのゲームを心行くまで、好きなものを作り続けてほしものだと思う。

なぜ、ゲームは面白いのか? 「MOTHER2」への、微妙な感想

今 このブログを更新するのであれば、2015年12月17日発売「ジョジョの奇妙な冒険 アイズオブヘブン」を語るのが本来のはずである。

しかし、私はプレイステーション4を持っていないし、そもそもこのゲームを買うつもりが無い。
新品で買えば7500円、プレステ本体を一緒に買えば45000円近い買い物になってしまうが、
このゲームのために、それだけのお金を払う見返りがあるとはとても思えない。

……というわけで、WiiUのヴァーチャルコンソールで、MOTHER2が926円で配信されており、
価格の安さに釣られて、またMOTHER1の余韻を味わいたい思いから、これを購入し、プレイした。

以下、MOTHER2 1994年以来の再プレイの感想と、あれこれの連想を記していきます。


 ***


ヴァーチャルコンソールで、かつてやり込んだゲームを再プレイしていて思うのが、
「ゲームはなぜ面白いのか?」ということだ。

なぜ、ゲームは面白いのか?
どこが、どのように面白いのか。
どこがどうなるとクソゲーになるのか。

アクションゲーム、シューティングゲームパズルゲーム、RPGと、ジャンルによって楽しみの質は違う。
共通して言えることは、テレビゲームは、現実世界の遊びをコンピュータに落とし込んだもので、
リアルとファンタジーを行き来する隙間に、ゲームならではの「体験する楽しみ」が体感・表現できるところだと思う。

最近の遊園地で、妖怪ウォッチやハリーポッターなど、作品世界に入り込んで体験できるアトラクションが人気を博している。
しかし、作品世界に入り込んで体験できる楽しみは、RPGをはじめとするテレビゲームのほうが遥かに洗練された手法で提供している。


ゲームの面白さの本質は、遊びの面白さであり、人間関係の面白さに繋がっている。
鬼ごっこやドッヂボールが面白いのと同様に、テレビゲームは面白い。

ことはゲームに限らないのだが、漫画やアニメ、ドラマを観ていて、
「作者の人生経験・哲学が陳腐だから、こんなモノを観ていてもしょうがない」と思うことがある。

面白いゲームを作るには、ゲームだけではなく、
様々なジャンルの娯楽・文化に触れたり、ゲーム以外の要素をゲームに落とし込むことが必要なのだろう。


***


MOTHER2をプレイした感想は、一言でいえば微妙だった。
MOTHER1が面白かったので、その余韻を味わいたくて最後までプレイしたというのが本当のところだった。

(糸井氏によれば、MOTHER1・2のモチーフは、スティーブン・キングの「スタンドバイミー」「タリスマン」、スピルバーグをはじめとするアメリカ映画のエッセンスを詰め込んだというから、
ジョジョの冒険物語が好きな人には、MOTHERシリーズは相性が良いかもしれません。)


2は、1と較べて明るく派手、けばけばしい作品世界になっていて、
サイケデリックなデコレーションとハリウッド映画的演出が、やや鼻につく時がある。

糸井氏のテキスト・くすぐりが上滑りを起こしている場面も多く、
「寄り道の遊びに力を入れる前に、もっとゲームシステムを練り込んでくれよ」と言いたくなる場面も少なくない。


MOTHER2は、MOTHER1とストーリー的には繋がっておらず、
スーパーファミコンでリメイクされた「1」の改訂版、あるいは補完を施した完全版のような趣がある。

MOTHER1は1980年代のアメリカを舞台にした物語で、2はイーグルランドという(アメリカっぽい)架空の国を舞台にした物語である。
個人的には、1のほうが好みで、リアリティに寄ったファンタジーの中で、主人公がリアルに成長し、他人と触れ合っていく様子を体感できた。


MOTHER2で良いシーンだと思ったのは、
メガネの男の子が、首長竜の背中に乗って旅だっていくシーン(ウィンターズの音楽がとても良い)。
ランマの王子が、「無」を体得するための修行を行うシーンも印象深く、面白かった。

マジカントに着くまでの展開がどうにも単調・冗長だったのだが、
主人公が自らの心を見つめ直す、その場所がマジカントというあたりから盛り上がってきた。
2のテーマ曲が流れる中で、パパとママが主人公の出生を祝福するシーンは、明らかに泣かせにかかっているが、それでもとても良いシーンだった。


ゲームのエンディングで、
主人公たちの幸せな家族ーーパパやママが子供を待っている。子供を中心に、人間たちの繋がりが有るーーと、
ポーキー一家、ギーグとの対照が描かれる。

ポーキー・ピッキーの行く末は、捉えようによっては悲惨だが、
人間世界(大人たちのつくる社会)のありようをとらえた、糸井氏なりのリアリズムなのだろう。
自分自身も、糸井氏の娘さんと同じく(?)、親が離婚し、父親に会わない環境で育った人間なので、
MOTHER1・2の家族のありようには唸らされるものがあった。

MOTHER2はエンディングにたどり着くまでの過程が一本道で、あまり面白くないのだが、
ハリウッド映画のラスト20分のような、一気呵成の盛り上がりを見せてくれるので、
やっぱりゲームは、最後までがんばって遊ぶものだと思う。

ギーグとのラストバトルでは、子供が側にて、テレビ画面に「いのり」、一緒に盛り上がる感じが面白かった。
母からの手紙で、「グーギ」と呼び間違える適当な感じにウケて二人で笑っていた。


ーーちかぢかにヴァーチャルコンソールで、MOTHER3が配信開始されるそうである。
702円で購入できるとあって、クソゲーっぽい匂いを感じながらも購入して、クリアするまで遊んでしまうのだろう。

(この記事では否定的な物言いが多かったのですが)
コピーライターとして、糸井重里のテキストには魅力があり、ゲーム中 たびたびニヤッと笑ったり、ハッと気づかされたりした。

1994年にMOTHER2を初めてプレイした時以来、
(ゲームの出典は忘れてしまったのに)頭の片隅に残っていたセリフを、最後にご紹介させて頂きます。


「おれは敵じゃない。ただのもぐらさ。敵の見分け方を教えてあげよう。
 いかにも敵らしいやつは見ればわかる。

 人間の姿の敵は、えらく顔色が悪いからそれを注意すればいい。
 …でも、逃げてばっかりいたんじゃ、強くはなれないよ」

 せつめいモグラ

27年ぶりにプレイした、「MOTHER」の思い出

極個人的に、私の中で、ジョジョと極めて近しい位置にあるゲームということで、MOTHERのことを書きます。
(この記事で触れるのはMOHTER1、ファミコンで発売されたシリーズ初代作についてです)


MOTHERは平成元年の夏休みに発売されたゲームで、
究極ハリキリスタジアム平成元年版の広告と共に、ファミコン雑誌で紹介されていたのを覚えている。

ジョジョの第3部が始まったのが平成元年の春休みで、
MOTHERの主人公 4人を、じょうたろう、ジョナサン、ホリィ、ジョセフと名付けてプレイしたものだった。

夏休みにゲームに没頭している姿を見て、兄からは「オタク族の休日」などと揶揄されたのだが、
傍目には、TVモニターの前で茫然自失しているように見えるのも確かだが、
TVモニターの中の、作品世界の中に、ドップリと入り込んで、ゲームをプレイしていた。


MOTHERをクリアした前後に、関連グッズが発売され、
MOTHERのサウンドトラック(はじめて買ったCDだった)、MOTHER百科という単行本を買った。

それまで、ファミコン神拳ドラクエの攻略本などは買うことはあったが、
自分で選んで買った、初めての「大人っぽいアイテム」で、中学1年生なりの背伸びをした買い物だった。


大人になってからはゲームをやらなくなり、ファミコンは実家のどこかに眠ってしまって、
MOTHERのサウンドトラックのみを、ipodで時々聴く状態となっていた。

最近になって、子供のWiiU ヴァーチャルコンソールで、ファミコンの旧作が復刻していることを知り、
WiiUでMOTHERを600円で購入、27年ぶりにプレイしたのだが……これが面白かった。


平成元年 中学1年生でプレイしたときは、ストーリーの意図がよく分からず、
ラストの畳みかける展開に感動したものの、なぜギーグが歌でやられたのか、意味が分からないままだった。

大人になって、時間のある休日に、テキストをしっかり読みながらプレイしていくと、
MOTHERのゲーム画面に隠されたストーリー、テーマ、モチーフの造形が浮かび上がってくるようで、
とても大切に、昔読んだ絵本を読み直すようにして、じっくりプレイすることができた。

個人的に、ファミコンのシンプルな画面構成や電子音が好きで、
80年代後半~90年代前半くらいのファミコン/スーパーファミコンのグラフィック・音声は、心にグッとくるものがある。

自分がゲームを熱中して遊んだノスタルジーだけではなく、
テレビゲームがグググッと盛り上がっていった時代の高揚感と、クリエイティビティの高まりを、感じることができるからだろう。

27年ぶりにプレイして、最も感慨深かったのは、「主人公と女の子が告白するシーン」で、
中学生のときは、女の子の問いかけに適当に返事をしてしまって、そのままシーンが通り過ぎてしまい、後からやり直すのも大変でそのままだった。
ホーリーローリーマウンテンの山小屋のシーンであるが、今回はたまたま子供が横におり、
主人公と女の子がFallin' Loveに乗せて踊るシーンを観ながら、子供は「面白い」と呟いていた。

ちなみに、今回の主人公4人の名前は、とものり マリアンヌ メガネ ヤンキー である。


27年ぶりにプレイして、感慨深かったもう一つのことは、
MOTHER百科を読み返してみて、中学生当時は訳の分からなかったコラムやレビューの意味が、ほとんど手に取るように理解できたことだった。
初読当時 高橋源一郎糸井重里が何を言っているのか分からなかったが、今ではよく分かった。

MOTHER百科に、(ページ順で)最初にコメントを寄稿しているのが橋本治で、
初めて読んだとき、「不細工な顔の男が、訳の分からない、分かったような分からないことを言っている」と困惑した。
しかし、この本を読みとおした後、いちばん印象に残っていたのが橋本治でもあった。
後年 たまたま書店で購入した「蓮と刀」をきっかけに橋本治にハマっていったのだが、
MOTHER百科の時点で因果が芽生えていたような気がする。

MOTHERのシナリオ、テキストを書き、ゲームの全体像を企画したのは糸井重里だが、
橋本治糸井重里は仲が良かったらしく、MOTHERのセリフやくすぐりにも、橋本治っぽいユーモアを感じるところがある。

リメイク版のMOTHEにのみあるエンディングシーン、
女の子が主人公に「私たちのあいさつは「さよなら」じゃなく、「またね」だね!」とあいさつするのだが、
これは、橋本治桃尻娘からセリフを取っている。2人の友情の証と言えるだろう。


MOTHERは、ゲームシステムやゲームバランスなどを見ると、
粗があるというか、現代ゲームの親切設計・誰でもクリアできるユニバーサルデザインではない。

主人公がほどよく弱く、仲間たちはあまり役に立たず、
ヤンキーやロボットは異様に強いがリタイアしてしまうし、最後の宇宙生物たちはとてつもなく強い。

これは、「子供は弱い。世界は大きい」というようなテーマが裏にあると思われ、
一概にゲームバランスが悪いと責めるのは片手落ちだろう。

個人的には、MOTHERはフィールドがとても広く、リアルな拡がりを感じられたのがとても心地よかった。
初プレイ当時の前後 アメリカ大陸を旅行していたので、アメリカの風土の拡がりをリアルに感じられたこともあったのだろう。

レベル上げをやらないと展開が詰まってしまうのだが、
フィールドマップを歩くのが心地よく、音楽が軽快で美しいため、地道な作業を楽しんで行うことができた。
マザーズデイの北、いちばん北まで歩くと断崖があり、海が広がっているのだが、
(ゲーム上 何の意味もない)断崖と海の広がりに、無性に感動した。
ゲームの作品世界に浸っていたいという意味で、MOTHERはとても心地よい、いい雰囲気を作っていたと思う。


MOTHERの音楽を手掛けたのは、鈴木慶一田中宏和の二人で、
この二人の手がけたMOTHERの音楽・SEは、ゲーム史上ナンバー1と言ってよい輝きだと思う。

鈴木慶一はXTCの大ファンらしく、
やはり後年 ロクニシコージのマンガをきっかけにXTCにハマったのだが、今思えばMOTHER近辺から始まった縁でもある。

(ついでに、今思い返したのだが、ロアルドダールの「チョコレート工場の秘密」が、はじめてお気に入りとなった小説で、
ダヴィンチのインタビューで荒木先生が同書をお気に入りにあげていたり、
ティムバートンが同作を取り上げて、手の込んだ映画を作ってくれたのは、嬉しい気持ちがしたものだった)


ーー音楽の好みであったり、好きな物語の種類であったり、どういうメッセージを求めているかなど、
人間の人格は、(こと私自身においては)中学生の頃から、現在まで変わっていないのだと思わされた。

糸井重里のインタビューを読んでいると、
MOTHERでお父さんが家におらず、電話の向こうからだけ語り掛けてくるのは、
糸井氏自身が離婚をしており、離れて暮らす娘に向けたメッセージが、MOTHERというゲームであったかららしい。

MOTHERというゲームは「お母さんのようなゲーム」を目指して作られ、
母のような温もり、暖かさを表現すると共に、未来のゲームクリエイターが創作の原点(母胎)となるようなゲームを目指したのだという。

有名な話であるが、田尻智がMOTHERに感動し、ニンテンそっくりのサトシが活躍するゲームを作った。
自分の場合は、ゲームクリエイターの道には進まなかったのであるが、
今 こうして振り返ると、自分自身の人格形成にあたって、大きな影響、方向づけを与えられていたような気がする。

ジョジョもそうなのだが、自分の人生に影響を与えた座右の書はあって、
宗教的な信心ではなく、自分の心を見つめ直す鏡として、これらのマンガ・ゲームを、改めて側に置いておきたいものだと思う。


最後に、MOTHERというタイトルの由来について。
お母さんのようなゲーム、お母さんと暮らしてきた故郷、母なる星の地球、ギーグが乗ってきたマザーシップ。
このあたりの意味が混成されて、全体を象徴するものとして、MOTHERというネーミングが付けられたようである。

ファミコンの電源を入れると(バーチャルコンソールを起動させると)、
黒い画面にクレジットが入り、エイトメロディーズのイントロと共に、地球が回りだすタイトルロゴが現れる。
宇宙空間にMOTHERの地球が浮かんでいるようであり、
これは、かつてマリアが宇宙船から見た地球、プレイヤーが眺めるMOTHERの宇宙世界を表しているのだろう。


MOTHERは、1980年代のアメリカを舞台に、超能力をもった少年が友達をつくり、旅を行う物語である。
ジョジョの第3部も、現代(1980年代)を舞台に、超能力をもった主人公が仲間と共に旅をする話で、両者の物語はよく似ている。

インターネットのレビューなどを読んでいると、最近のマンガ読者・ゲーマーの方(10~20代の方)は、
1980年代前後の風俗・文化は知らず、古臭いチープなものとして敬遠される傾向があるとのこと。

自分が年を取ったのだなと思いますが、「自分が生まれた年代より以前の風俗・文化」、マンガやゲームにもよいものは沢山ありますので、
ジョジョは読んだけどMOTHERは知らない、という方は、何かの機会にプレイしてみることをお薦めいたします。
600~5000円くらいの、お金を払ったモトは取れると思います。

デヴィッド・ボウイとプリンス

 「ジョジョ立ち」と呼ばれる、いわゆるジョジョ的なポージング。
中性的とも評される、男の色気を醸し出すヴィジュアルイメージ。

荒木先生の発言によれば、それらのルーツは様々で、
ルネサンスバロックの大理石彫刻、アントニオロペスのファッションイラスト、ヴェルサーチなどのイタリアンファッション、スタローンやイーストウッドなど映画スターの立ち姿。
そして、近著 ジョジョベラーの画集コメントによれば、デヴィッド・ボウイ 'Heroes'のジャケットが、最も原初の、ジョジョ立ちのルーツであったという。

また、荒木先生の最もお気に入りのミュージシャンはプリンスだそうで、
たまたま生年月日が一緒(らしい)という縁もあってか、プリンスとその音楽に熱狂し続けていることは、作者コメントでも度々触れられてきた。

この記事では、デヴィッド・ボウイとプリンスについて取り上げます。


 ***

 
デヴィッド・ボウイ 'Heroes'

ヒーローズ  <FOREVER YOUNG CAMPAIGN 2015>対象商品

 


●プリンス LOVESEXY

LOVESEXY

 

上記2枚のジャケットを見ていただければ、両者の個性の違いがお分かりになると思う。

デヴィッド・ボウイもプリンスも、
つねに前を向くというか、新しい音・アイデアを求めて作品を作り続けてきた音楽家で、
王道を少しひねった、歪んだ感じが、両者ならではの音を作りだしている。


デヴィッド・ボウイの'Heroes'は、とても感動的なメッセージソングで、
ヒーローの在りかた、現実世界にヒーローが存在し得るかどうか、真摯な問いかけを投げかけてくる。

(「一日だけ、僕らはヒーローになれる」というサビの盛り上がりは、結婚式のウェディングソングに良いんじゃないか…?とも思うけど、
出席者の方々や、両家の親戚方がデビッドボウイ好きでないと、ただノイジーで歪んだロックソングを流しやがって、と白い目で見られるのがオチかもしれない)


プリンスのLOVESEXYは、発売当時 物議をかもしたジャケットですが、今見ても、やはりヘンなジャケットであることには変わりない。

パブロ・ピカソ岡本太郎が、芸術家としての偏屈さ・揺るぎない個性を表に出して、世渡りを行っていたように、
プリンスの性的な露悪趣味も、彼一流の自己表現であり、セールスプレゼンテーションの一つである。

プリンスの楽曲は王道をひねった、前向きでストレートな感じが特徴。
5部と8部、二人の主人公のスタンド名に採用されており、
初期のパーティーチューン「1999」は、4部 1999年の杜王町のイメージソースの一つであろう。

最もジョジョ/荒木作品らしいプリンスの一曲は、Pop Lifeになるのではないかと思う。


ーー文章で、音楽作品の良さを語ることはとても難しい。
プリンスやデヴィッド・ボウイのアルバムは面白いものが多く、よい楽曲が揃っています。

百聞は一見にしかず、ということで、ジョジョのファンで、両者のアルバムは殆ど知らないよ、という方は、一度 試聴してみられることをおススメいたします。
映画に主演したり、さまざまなエピソードを積み重ねてきてもいるので、人物伝を探ってみるのも一興かと思います。 

複眼の映像ーー私と黒澤明

橋本忍氏の著書「複眼と映像ーー私と黒澤明」の記事です。

ただし、私は黒澤明監督の映画を「七人の侍」「わが青春に悔いなし」しか観たことが無く、
しかも「わが青春~」は祖父の家にあったホームビデオを借りてたまたま観ただけという、全くのニワカです。

橋本忍の映画も「幻の湖」を先日観たばかり、「砂の器」の小説は読んだが映画を観たかどうか定かではない…というニワカなので、
両氏の作品をまっとうに批評することはとてもできません。

時間と興味が湧けば、両氏が脚本・製作に関わった映画を、これからじっくり観ていきたいと思うのですが、
まず、この記事では「複眼の映像」の読書メモ、幻の湖の補足、ジョジョとの関わりを述べます。


 ***


橋本忍は脚本家である。
伊丹万作の弟子で、黒澤明と「羅生門」「生きる」「七人の侍」の脚本を共同製作し、
牡丹と薔薇」で近年有名な中島丈博の師匠でもある。

橋本忍のてがけた脚本は「八つ墓村」「日本沈没」「私は貝になりたい」「八甲田山」「砂の器」など名作が目白押しで、
キャリアの晩年にてがけた鬼っ子が「幻の湖」である。

黒澤映画がスピルバーグはじめ海外の映画作家に大きな影響を及ぼしたこと、
横溝正史作品(犬神家の一族八つ墓村などの金田一耕助シリーズ)はジョジョリオンのイメージモチーフの一つであることなどから、
橋本忍の脚本作品は、遠く、ジョジョのルーツの一つと位置付けてもよかろうと思われる。


 ***


「複眼の映像」は、橋本忍氏が自身のキャリアを振り返った自叙伝であり、
黒澤明らとの「脚本の共同製作」について、そのノウハウと記憶を存分に語った書物である。

荒木先生が「荒木飛呂彦の漫画術」を書いたように、
橋本忍が、自らの脚本/映画づくりのノウハウ、黒澤組の映画づくりを述べたもので、とても価値のある内容が述べられている。

テーマ、ストーリー、キャラクター 基本要素を設定することの大切さ。
「大箱」(起承転結の四段構造)に基づく長編映画と、1時間前後の中編~短編映画の違い。
上映2時間前後の一律な映画興行を脱して、国立映画製作所・国立映画館を設立し、多種多様な映画(映像作品)を創り出そうとした芸術運動の顛末などーー。

映画、マンガに通じる「作品づくりの王道」が述べられており、映像作家をめざす人、映画やマンガが好きな人はぜひ読んで損が無い内容だと思う。


本書中で述べられているのは、橋本忍氏 個人の経験則・体験、個人の価値観に基づく映画批評である。
橋本氏のほかに野村芳太郎氏、小國英雄氏、そして黒澤明氏、伊丹万作氏の作品批評、芸術観が随所に記されるが、
いずれも一級品の鋭さで、私のブログや「みんなの映画レビュー」など、凡百の井戸端話を遥かに超える切れ味がある。

橋本忍「乱」と「影武者」を失敗作と論じるなら、それはそれでしょうがない。
野村芳太郎が「ジョーズ」は傑作だが、それゆえに、以降のスピルバーグ映画は観る必要が無い、と言われればもう従うしか無い。
瞬間 そう思わせるような、野生のトラに睨まれたような、そんな迫力と含蓄を持ち合わせている。

映画、世に残る名作というものは、達人同士の斬り合い、命をかけたぶつかり合いで生まれてきたのだ、と改めて納得させられる。

江頭2:50がかつて、「例え、どんなにつまらない映画があったとしても、 批評するオレよりも映画のほうが上だ! もし、映画がウンコでも、オレはそれをエサにしてしか生きていけないハエなんだ。 批評することは簡単だけど、創ることは難しいぜ!」と述べ、
伊良部秀輝が、わけも分からず群がるマスコミに「あんたらは稲田に群がるイナゴや!」と声を荒立てた。

全くその通りで、
演歌歌手が「お客さまは神様です」と、神に通じる祈りを込めて舞台で歌い上げることも真実なのだろうと思うが、
一方で、「神が作った世界」に入らせていただく気持ちで、作家の作品世界に敬意と謙虚をもって接することも真実なのだろう。
つまり、人間はそれぞれが「神」であり、主体と客体のいずれもが、双方に敬意をもって働きかける関係が理想の美しさであると思われる。


***


ーー話がずいぶん拡がってしまいましたが、
「複眼の映像」からいくつかの興味深い記事、触りだけを触れていきます。

(原文を引用するととても長大になるため、図書館や本屋さんで、原書に触れていただけましたら幸いです)


幻の湖 マラソン構想の背景

本書P156 黒澤明にはシナリオについての哲学がある、と述べるくだりがある。
「仕事は一日も休んではいけない」。
彼にいわせればシナリオを書く作業は、42.195kmを走るマラソン競争に似ているという。……

また、黒澤明は能が好きで、いつも話題にするのが世阿弥であったという。
その世阿弥がある日、川船に乗り川を渡っていると、中程で向うから渡し船がやって来て、船頭がお互いに声を掛けあう。
 おう、いい天気だな。 ああ、いい天気でありがたいが、今日は体がしんどいよ。 しんどい?どうしてだ? 昨日は仕事を休んだからな。
世阿弥は思わず膝を叩く。
 これだ!これがコツだ、休めば逆に体が疲れる。稽古事には一日も体を休ませてはいけないのだ。


前回の記事で、幻の湖は、なぜお市と日夏のマラソン勝負を根本に据えたのか、その理由が分からないと述べました。
作家 橋本忍氏の回答が、上記の引用の中に含まれている。

黒澤明に追いつき追い越せ、少なくとも黒澤明に離されず、一本立ちの脚本家として人生を走り切れ……
そのような、人生への願いを込めて、お市とシロ、お市と日夏のマラソン構想が着想されたものと思われる。

また、琵琶湖の西岸と東岸 南岸と北岸の重ね合わせ、過去→現代→未来をオーバーラップさせる物語の構想は、
世阿弥が能舞台で表現したという「夢幻」の映像化と思われ、
幻の湖は、橋本氏自身は、決してフザけたカルト映画を作ろうとしたのではなく、自身の芸術観・人生観を叩きこむつもりで真剣につくった映画であることが窺える。

(そもそも、橋本氏自身が「複眼の映像」で幻の湖の分析・批判を行っているのは、前回記事の引用の通りである。

映画秘宝あたりの、同映画をバカ映画/カルト映画としての面白がり方には、半分同意、半分納得できない、という気持ちである。
死者に鞭打つような、弱った犬に石を投げて喜ぶような、思いやりのない楽しみ方はどうかと思う。
江波杏子が、同映画の上映時 大声で笑って同映画を観ていたという書きこみが「みんなの映画レビュー」にあったが、
江波杏子の豪快さ、気風の良さだけは認めざるを得ない……そんな複雑な心境だ)



●映画≒音楽 共同製作方式の、脚本づくりとは

本書P175からの引用。

「黒澤さんは映画についての法則や理論を好まず、一切口にしない。
その彼が珍しく、「映画評論」に寄稿した一文があり、
映画は他の芸術の何に似ているかで、彼は一番よく似ているものは音楽だという。

音楽は感覚を聴衆に伝えるだけで、何かを説明することができない。
映画も同じで、説明しなきゃいけないことを説明しても、観客には分からず、説明は一切不可能であり、
その本質的な部分で、両者はひどく似通った共通なものがあるという。

私(橋本氏)もこれには大賛成で、誰かにシナリオに一番よく似ているものはと訊かれた場合には、
躊いなく音楽の楽譜の譜面だと答える。

楽譜の譜面は演奏者に対し音楽を立ち上げる命令書、
シナリオは監督以下の映画のスタッフに対し絵と音を仕上げる命令書だが、
両者は単に命令書としての一致だけでなく、内容的に重要なものが共通している。

私たちの書くシナリオに最も重要なものは、文字の並びや配列が生み出す抑揚……テンポとリズムだが、
一方楽譜の譜面は、すべてがテンポとリズムそのものである。
私にとってシナリオを書くことは、小説や戯曲の類とはおよそ世界の異なるものーー交響曲を作曲しているような気がしないでもない。

黒澤組で用意ドン! 同じシーンをスタートする。
語り口は人それぞれに違うが、誰にしてもこのシーンが快調な二拍子か、それとも正常な順押しの四拍子、または嘆きや詠嘆の三拍子かは、大まかに分かっている。
だから出来上がったものから、音楽の場合にはフレーズごとの交換が容易なように、
シナリオでも、このフレーズ単位での交換や差し替えが、意外なまでに簡単なのだ。

(中略)

こうして同じシーンを(複数の人間が、同時に)書き揃えることで、それらからはどのような編集でも可能になり、
内容の充実した、イキのいい新鮮な脚本を作りだすのだ。

黒澤組の共同脚本とは、同一のシーンを複数の人間がそれぞれの眼(複眼)で書き、それらを編集し、
混声合唱の質感の脚本を作り上げるーーそれが黒澤作品の最大の特質なのである」


ーー長大な引用となってしまいましたが、
これを読んだ瞬間、「自分の意見・感性が同じで嬉しい!」と思いましたし、
小さな事柄ですが、ジョジョのテレビアニメが根本的にどのようにおかしいのか、改めて納得した次第でした。



●定規とコンパス

本書P51 「羅生門」と「藪の中」の折衷に苦しむ橋本忍氏が、「シナリオは映画の設計書か……」と心中呟く。

橋本氏が軍需工場の経理部員を務めていたとき、設計の仲間が話していたことを思い出す。

工場で生産される製品はすべて工作部の設計課で設計される。
海軍から送られてきた原図を元に各パートが図面を引き、現場ではその図面ひとつなしには何一つ製作できない。

設計課の技師が立ったまま、やや傾斜した大きな図面台に向かい、
馴れた手付きで定規とコンパスを使い、烏口でテキパキと書き上げる。
その様子に感心した橋本氏が、ある日、大学を卒業したばかりの一人の青年技師に話しかけた。

「ここで引く図面は簡単だが……零戦のエンジンともなると大変だろうね」
「そんなものは同じですよ」
「え?」
白面の青年技師はニコリともしなかった。

「物の大小とか、複雑とかは関係ない。
空を飛ぶ飛行機であれ戦艦大和であれ、また顕微鏡の必要な百分の一ミリ単位の小物であれ、なんだって、線を引くのはみんな同じ……
定規とコンパスさえあればね」


ーーついつい引用を繰りかえしてしまっていますが、
本書には他にも、黒澤明が脚本合宿の夜 秋田民謡を歌いあげる話など、面白い話が数多詰まっています。
橋本氏の筆ーーテンポとリズムに乗せられて、つい引用をしたくなってしまうのも、氏の力のなせる業でしょう。

黒澤映画のファンの方だけでなく、映画やマンガ、芸術が好きな方は、ぜひお読みになることをおススメいたします。



追伸:

「複眼の映像」というタイトルの由来は、橋本氏自身が、上記で述べた通りです。

橋本治が、かつて糸井重里との対談で「ひとりで主観、ふたりで客観」と述べたが、同じ意味を指すものだと思う。

どうでもいい情報ですが、
私のハンドルネーム sougan=双眼は、よいところも悪いところも共に見ようとするニュアンス、
肯定と否定・正常と異常など、二項対立の間のところを幅広く拾って見ていこう、というニュアンスで付けました。

このブログは、基本的に、著者(私)ひとりの見解・意見を延々と述べているものですが、
ブログ記事へのご意見・反論・抜け落ちの指摘など、何かありましたら、コメント欄にご意見をお寄せ頂けましたら幸いです。
よろしくお願い致します。