ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

6億円の宝くじが当たったら何をする?

ジョジョ4部 岸部露伴が初めて登場したエピソードで、

「金やチヤホヤされるためにマンガを描いているのではない。ぼくは読んでもらうためにマンガを描いている」

と宣言する場面があった。

 

「これ以上、王道の漫画はない」と題する最近のインタビューで、荒木先生は愛用の机を指して、

「僕にはこの机さえあればいい。そうすれば漫画が描けるから……」 

 と述べている。

ジョジョ1部が映画化されたときのムックでも、「僕はマンガ描いていければ、アシスタント雇っていければそれでいいんです!」と意気軒昂に述べていた。

 

どういう意味合いで述べているのだろう?

「答え」の取りかたは人それぞれで、受け取る人の年齢や職業、人生のどんな状況に自分が居るかで、導かれる答は異なる気がする。

 

よく似た問いかけで、「6億円の宝くじが当たったら何をする?」みたいな問いがある。

税引後の手取りで6億円が手に入ったとして、あるいは世間に認められるほどの富と名声、人生や生活の安定が保証されたとして、そのとき、人は何をするのか?

 

荒木先生の場合は、つまるところ、愛用の机で、自作のマンガ台を使って、新作のマンガを描き続けることが、いちばん楽しい、人生で残った「やりたいこと」になるのだろう。

 

似たケースで、グレン・グールドやXTCのアンディ・パートリッジ、コンサートで人前に出るのを嫌って、世間的には隠遁生活のような態に入っていって、音楽への愛着は冷めず、好きな音楽をやることに傾倒し取り組んだ人たちがいる。

 

自分の場合はどうなんだろうか?ということで、人生を振り返る問いかけとしたい。

年棒6億円が手に入ったからといって、宅急便に変装してヤクザ紛いの情婦と密会するだけが、お金の使い道ではない。

沢木耕太郎のエッセイ「バーボンストリート」で語られていたが、「ギャンブルはやらない。自分の人生そのものが、いちばんの大事な、大きな勝負事だからだ」という按配である。

ジョジョのテーマ「成長する読者に、成長しない作品は必要ない」 大村はまが説く「教えるということ」

ジョジョ原画展の開催が近づいていて、ジョジョをめぐるさまざまな話題がメディアから出ている。
ジョジョサピエンスというアンケート企画で、ジョジョの好きな部を問う質問があったが、3~5部が人気で、現行の8部は1部と並んで最下位だった。

ジョジョリオンやSBRをめぐる世間の感想を読んでいると、少年誌から青年誌に移った頃から面白くなくなった、みたいな意見がある。
(面白いかつまらないかの意見自体は、読者次第で、さまざまな意見・好みがあって然るべきだと思います)

ジョジョリオンは青年誌で連載をスタートした初めてのシリーズであるが、
「エロシーンが多めだから、青年誌ならではのチャレンジだ」みたいな意見には、首を傾げてしまう。

ジョジョシリーズが、30年間の長期連載の間に、描かれるテーマが変わって、作風が変わって、若さの勢い、1ページ当たりの濃密さが落ちてきたことは確かである。
作者の加齢によるもので、仕方ないものだと思う。


荒木先生がインタビューを受ける機会が近年増えているが、「ジョジョシリーズは、王道の少年漫画だと思って描き続けてきた」と一貫して述べている。
1~3部の頃だけではなく、青年誌に連載を移したSBR、ジョジョリオンにおいても、
作品のベースは少年漫画、主人公が成長するマンガだと思って描き続けているとのことである。

2008年 荒木先生が文化庁メディア芸術祭の受賞インタビューで、
「成長している若い人たちにとって、成長しない作品は必要ない 」と述べている。
http://archive.j-mediaarts.jp/interview/2008/araki_hirohiko/

ほかの機会 ジョジョベラーか何かのインタビューでも、
「成長しようとしているこれからの読者に、成長しない作品は必要ないですから」と述べていたと思う。


SBRのジャイロとジョニィ、ジョジョリオンの定助は、単純明快な「少年漫画の、明朗快活な主人公」とは言い難い。
(そもそもを言い出すと、1部~3部、それ以降の主人公や悪役たちも定型的な善玉/悪玉に当てはまっていないが…)

彼ら彼女ら ジョジョのキャラクターたちに、「少年の心性」を見出せるかどうか、共感できるかどうかが、
ジョジョを少年漫画として面白く読めるかどうかの境目かもしれない。


もう1つ、大村はまという国語の先生がいます。
私自身 「総合教育の実践者」として高名な方だと受止めていますが、
大村はまさんが、1973年 教育関係者の集まる研究会で、「教師の仕事」と題する講演会を開いています。

この講演会の一節で、ジョジョのテーマとピッタリ一致するようなお話がありましたので、抜粋して引用します。

私自身 大村はまさんという方を最近に知ったばかりで恐縮ですが、
「教師の仕事」という講演だけをとりあげても、仏様の指の話、幸田文さんが結婚する娘さんを送り出す話など、良いエピソードが多数ありました。
教育関係に興味のある方、子育てしている若い方にもお薦めだと思います。
(当文庫本の帯にも、ちょうど同じようなセールストークが書かれていました)


  ***


大村はま 「新編 教えるということ」 ちくま学芸文庫より抜粋。

 

さらに、研究する、研修するということには、私たちがそうした力をみがくということだけでなく、もう1つ、たいせつな意味があります。
それは、私たちが子どもたちと同じ天地にいるためのくふうの1つでもあります。

(中略)

研修会に参加するということは、何か高いものを求めるからでしょう。
何か得たいという気持ちがあって、自分の成長を願うからこそ、そういう行動になるのだと思います。

自分を見つめたり、自分の至らないところを伸ばそうとしたり、それから高いものに憧れたり、一歩でも前進しようとしたりするということ、
それはそのまま少年という育ちざかりの人たちのもった自然な姿なのです。
子どもというのは、身のほども忘れて、伸びようとしたり、伸びたいと思っている人間です。

至らない子どもで、何もできない子どもでも、見ていて悲しいほど自分を伸ばそうと思っています。
私たち指導者は、その子どもたちと同じ気持ちになることが、まず大事でしょう。

かわいがるといっても、つまり、同じ気持ちになることです。
同じ気持ちになるということは、そういう、子どものもっている切ない伸びたい気持ちーー本人は意識していいないでしょうけれどーー、
そういうものを私たちが意識して、同じように研究や学ぶことの苦しみ、そして少しの喜び、そういうものを感じえているということだと思います。

いくつになっても、三十や四十になっても、少しもおそれることはないので、
そういう魂をもっていれば、世代をこえていつまでも子どもと共にあるということになるでしょう。

いくら二十代の若さだと言っても、伸びようという気持ちを切にもたない人は、どうして子どもの友でありえようか、と思います。

岩人間の発想はどこから来たのか? 個人的推測

インターネットの巷談を読んでいると、「ジョジョリオンの岩人間は、2部の「柱の男」のリメイクじゃないか」という意見を読むことがある。

1部→7部へのリンクと同じく、2部→8部への重ね合わせはありうるし、人間ではない超生物という点で、柱の男と岩人間は共通項も多い。壁や柱、地面や岩にめりこんで一体化するビジュアルイメージも一致している。

 

しかしながら、私個人の感覚では、柱の男と岩人間は、何となくパラレルの後継とは言いづらい、重なりづらい感じがある。たぶん、岩人間たちがマッチョな造形を目指しておらず、「究極の強さ、ただ1つの頂点」「神の域に達した絶対感」を求めるキャラクターでは無いからだと思う。

 

岩人間の構想は、たぶん、ジョジョリオンの連載を始めた当初には無く、つるぎが登場したエピソード、東方家を巡る石化病の呪いを描いたあたりで着想された。

「石化病」の発展形・ネガティブな意味での行きつく先を象徴したキャラクターとして、敵役として構想されたのではないだろうか。

ーー上記は私の推測・空想に過ぎませんが、ジョジョリオンの「呪い」と「清め」の物語がどのような決着に到るのか、螺髪のドクターと常敏、豆ずくさんたちの絡み合い、今後の展開が楽しみである。

 

※自宅の庭でカメを飼っていますが、今日 庭の風景にまったくカメが馴染んで、石や木、土に完全に同化していて驚いた。

荒木先生は、たぶんカメを飼育していないと思いますが、自然に生きる動物たちの生態、自然と一体化したライフスタイルを観て、そのエッセンスで、岩人間を発想したのかもしれません。

 

露伴「D・N・A」に出てきた真央ちゃんも、ストレスの高まったとき、

カメレオンのように透明化し周囲と一体化する体質(能力?)を持っていたが、

父親と巡り合って「きっといいヤツ」と呟いたのは、泣ける演出だった。

ウラのウラはオモテで、「ホラー映画から一周回った、感動演出」に、個人的・心情的に引っかかりやすくなっている。

螺髪のドクターと橋本陽馬

ウルトラジャンプの最新号と、岸部露伴は動かない2巻が同時に発売され、買って読んだ。

 

ジョジョリオンの連載は新展開で、密葉さんを誘惑するハンサムなドクターが出てきた。ロカカカの枝を奪いに来た2人のうちの1人で、岩人間の最後の一人と思う。

(個人的には、ジョジョリオンの「最後の戦い」は、常敏とその両親を巻き込んだ戦いで、憲助さんが最後の最後に悪に傾くのかどうか?みたいなせめぎ合いが描かれるのでは と予想している)

 

ハンサムなイケメンのドクターは、ちょっと見た目に気持ち悪い髪型をしていて、頭頂部や後頭部にブツブツが一杯出来ている。私自身 自分の身体に発疹や皮膚炎が出来ているのを見るのが苦手で、生理的に嫌な感じがしたのだが、よく考えてみると、これは、「仏さまの頭」に似ている。

螺髪(らほつ、らはつ)と言うそうですが、このドクターが、アーバンゲリラやプアートムとは違って、高尚・広大な思想を持ち、生死の境を超越しようとするような、何か崇高な目的を持っていることの表れかもしれない。

もう1人のドクター(? 救急隊員のもう1人)が、もしキリストのようなヘアスタイルをしていたら、まるで「聖おにいさん」のコンビになってしまうが、そこまであからさまな描写は、たぶん無いだろうと思う。

私の個人的憶測の線が強いですが、豆ずくさんがリフトの上で語っていたように、ロカカカの実(=8部のキーアイテム)は、生死の境を超える、賢者の死生観をも揺るがしかねない「悪魔の実」でした。

ドクターが単なるゲスではない、ひとかどの生命観・倫理観・社会観を持つキャラとして描かれることで、岩人間軍団の目的やルーツが語られることを期待しています。

 

 

また、「露伴は動かない2巻」は、雑誌連載で読んだものもあり、単行本で初めて読んだものもありの4つの短編でしたが、どれもなかなか面白かった。

D・N・Aは、自分の身近な家族や仕事に引き付けて、面白く読めた。

ザ・ランに出てくる橋本陽馬は、荒木先生が述べていたとおり、アラキマンガに久々に登場した「筋肉キャラクター」で、血湧き肉躍る展開が面白かった。

橋本陽馬が東京に出てきてスカウトされ、鏡の前でポーズをとるくだりは、オリジナルラブの「月の裏で会いましょう」の一節を思い出してしまう。「東京に憧れた若者、お上りさん」の表と裏が、よく描かれていると思った。

 

私自身は中年のオッサンだが、一読者の感想として、ハンサムな敵、カッコいいい敵や思想性のある敵、単なるゲスではない敵が出てくるのが、強敵感、ラスボス感があって盛り上がる気がする。

その伝で言うと、常秀がヒーロー的役割を担うことは無く、カレラにトリックスター的ピエロの役割を期待したいものの、プアートムやドロミテあたりでは、やはり、「最後に主人公が乗り越える敵」の風格は担えなかったのだろう。

ドロミテが8部杜王町のマスコットになりつつあるのはヤバい感じもするが、かつてのアンジェロ岩と同じような位置付けなのかもしれない。

チャンピオンで「ドカベンの最終回」を読んだ。

人生で(多分)はじめて週刊少年チャンピオンを買い、「ドカベンの最終回」を読んだ。

 

岩鬼と山田、陰と陽の2人の主人公に焦点を絞ったラストで、最後の見開きのホームランは圧巻だった。

ドカベンは、甲子園編は、二年の春まで読んで、殿馬がハイジャックされた?くらいのところで読むのを中座している。

プロ野球編以降は、里中が瓢箪というキャッチャーと新魔球の秘密特訓を始めたくらいで終わっていて、たぶん4~5巻くらいまでしか読んでいない。

 

あぶさん 雑誌掲載時の最終回は、コンビニで立ち読みして、最後の1ページが「作者からのお礼とあいさつ」みたいになっていて、あまり感心しなかった。

ドカベンの最終回は、雑誌を買って読んだが、作品世界が静かに、きっちり綴じ込まれるように終わって、とても良かったと思う。

 

10~20年前 何かのインタビューで、水島先生が「弱小の高校が甲子園をめざして野球を頑張る話」など、ドカベンあぶさんとはまた違った、野球少年の話を描きたいと話していた記憶がある。

水島先生が80歳になるまで連載を続けてきたのは驚きだが、やはり、この人の描く野球、人情味あるキャラクターの描写は随一である。

 

今でもふと、あぶさん5巻「いわし雲」の一節が胸に浮かぶことがある。自宅にあって、ときどき5巻を読み返しているからなのだが、胸に迫るマンガを描ける作家、いつまでも忘れられない名シーンを描ける作家は、そう沢山は居ない。

水島先生がお元気なのは幸いで、ジョジョの荒木先生も年をとりつつも、月刊連載マンガ家として頑張っている。原画展やアニメ化などの企画はソコソコとして、ジョジョリオンの連載を、集中して頑張ってほしいものだと思う。

ミュージシャンのプリンスが死んでも、彼の造った作品がプリンスとして残っているように、マンガ家が死して名を残すのは、やはりマンガだと思う。
山田と岩鬼景浦安武の立ち姿は、水島新司が死んだ後も、地上に永遠に生き続ける筈である。それこそが、マンガの金字塔だと思う。

ジョジョの旧世界と新世界 何をどう「語り直して」いるのか、推測のメモ

4月1日 日曜日の休日、近所のお寺に花見に行って、待ち合わせ中の暇つぶしに思いついたメモ。

ジョジョの旧世界(1~6部)と新世界(7、8部以降)について、
荒木先生のインタビューによれば、
新世界は旧世界の「語り直し」として、意識的にテーマやキャラクターを重ね併せている節があるといいます。

旧世界のどんな部分が新世界のどんなところにリンクしているのか?を洗い出してみました。


●1部、2部→7部

「初めて」の物語、近代の原点となる時代を舞台とするところ。

ジョースター、ツェペリ、ディオ 3人の主役が登場する。
三者の人間関係を基軸に、ドラマが進む。

ディオの復活。

最終回のいくつかのシーン、重ね合わせのシャレ。
(客船が大西洋を行くラスト、ディオが死んで首が残るか残らないかの違い)

ジョニィのキャラクターは、ジョナサンをベースにしている と作者が公言している。
ジャイロのキャラクター、陽気で向こう見ずな感じはジョセフに似ている?


1部から2部で、物語がイギリス(ヨーロッパ)からアメリカへと拡がった。

7部は、バチカン(≒ネアポリス)の死刑執行人が、アメリカ大陸に、自らの生き様を求めて旅に出る物語。

私自身 キリスト教西洋史に疎いため恐縮ですが、
ヨーロッパ(バチカンカトリックの総本山)から旅立ったジャイロが、プロテスタントが多数派を占めるアメリカに赴く。
聖人の遺体を求めアメリカ大統領、ジョニィたちが激しい戦いを繰り広げる様は、作者の複雑な宗教観・歴史観が滲み出ているように思う。

 

●3部、4部→8部

主人公が、病気の母を救うため奔走するところ。

地方都市の生活、街づくりを描く。

主人公は、現代日本の若者。 3、4部→8部、リアリティーに寄せて、超人的な性格では無くなっている

ジョセフミと吉良の融合、かつての善悪が混合している。作者の老熟を示す

 

●5部、6部→9部?(私の予想)

社会から弾かれた者たちの生き様。運命にあらがう主人公

世界の崩壊と再生

時間と意識

 


スティールボールラン 文庫本16巻が発売されていることを知り、荒木先生のあとがき目当てに、買って読んだ。
連載中のジョジョリオンを含めて、物語をどう終わらせるかについての作者の考え、スティールボールランのラストに触れた内容だった。

作者の思い入れの深さ(描いていて泣いてしまった場面)を含めて、原著にあたっていただけましたら幸いです。


 ***


表題の件 ジョジョのラストバトル、ボスのスタンドをAV機器の操作になぞらえる意見がある。

一時停止、巻き戻し、CMスキップ、最初から再生し直し…。
ディオに始まりプッチ神父まで、時間を操る超能力があまた登場している。


映画監督の黒澤明氏に、こんな言葉がある。(土屋嘉男 著「クロサワさーん!」P87より引用)

「映画は時間の芸術である。
 そして時とは事物の運動に外ならない。運動するものが存在せねば、時はないのである」


ディアボロが時を飛ばしたとき、ヴェネツィアブチャラティが見た「自己の姿」。
ゴールドエクスペリエンスレクイエムが発動したとき、ディアボロが見た、無限に振り向き続ける自己。

5部で描かれた2つのシーンは、悪夢的で、時間と意識の流れを象徴的に描いていると思う。

客観性というのは無限に続くタマネギの皮むきのようで、
生きている限り、時間が流れるかぎり、人間の意識は流れ続け、つねに「自分を見ている自分」が居る。


新約聖書より、イエスキリストはこう言ったという。
「明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その一日だけで十分である」

2007年頃 1部が劇場映画になったときのムック(または青マルジャンプのインタビュー)で、荒木先生も似たようなことを言っていて、
キャラクターが居ればマンガ(≒ストーリーの流れ)は出来ていくもので、日常生活で明日どうなるか分からないけど、明日になればその日を生きているようなものですよ と。

社会、現実というものは、もちろん、一人の人間の意識の流れだけでは出来ていない。
人間社会に焦点を絞ると、あまた居る人間の意識の流れ、生物の活動が織りなすタペストリーに例えられるのかもしれない。