ジョジョに限らないが、面白い物語には優れた悪役がいる。
ウルトラマンの主役はウルトラ怪獣、その造形とバリエーションにあると言う人もいる。
ジョジョにおいて、裏の主役たる悪役はディオに尽きるだろう。
ディオには、1部、3部、また6部の作中で語られたように、悪役の美学を持っている。美学を語るだけでなく行動に移す。
ンドゥールが語ったように、強く、大きく、美しい。その姿は、ライオンやサメ、ティラノサウルスやイクチオサウルスのように、生物の正しい姿、究極の追求なのだろう。
(カーズが求めた究極生物、プッチが求めた究極の精神も、ディオの造形の延長上にあると思われる)
物語とは、日常から逸脱し、非日常に起こった事件を経て、また日常に戻るものでもある。多くの物語は、そのような構造を持っている。
想像力を持つ人間が抱く、自然な想像・希望のあらわれなのだろう。
日常から逸脱させ、破壊と悪のかぎりを楽しませてくれるのが、ディオという悪役なのだ。
ウルトラ怪獣が暴れ、絵本「かいじゅうたちのいるところ」でマックスとかいじゅうたちがかいじゅうおどりで暴れまわるのも同じ構造だ。
ドクタースランプのドタバタや、赤塚不二夫のギャグなんかも近い位相にあるのかもしれない。
しかし、悪役の暴虐には限りがあり、ギャグキャラの逸脱には必ず限界があり、ヒーローが悪を倒し、あるべきモラルによってギャグは制せられ、読者は日常に戻ってくる。ありうべき、心地よい日常に戻ってくるのが、物語のもたらす浄化効果だ。
悪役の美学、悪役の役割とは、このような、読者をどれだけ日常から逸脱させ、隠れた願望や希望をかなえさせるかにかかっている。
ジョジョに限らず、多くの物語はシリーズが進むにつれネタ切れを起こし、設定だけがインフレーションを起こし見かけの数字だけは大きくなっていく。しかし、悪役の魅力はそのような数字ではあらわせないのである。