ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

正統と異端 (オカルトとは何か)

2014年の春 このブログで、「ジョジョはなぜ気持ち悪いのか?」という記事を書いたことがあった。

ジョジョは、なぜ気持ち悪いのか? - ジョジョ読者のブログ

 

当時 ムーなどの編集によるミニムック、拷問と処刑、天使と悪魔、心霊現象やカルトを取上げたものを数冊買って、ヒマつぶしに読んでいた。

「人間はどこまで異常になれるのか、人間はなぜ、ときとして異常を求めるのか?」という根源的な問いもあったかもしれないが、ムーのムックに求めたのはやはり、刺激的な娯楽・慰安だったと思う。

 

これらのあやしいミニムック(学研が版元になっているところが面白い。私は学研の「科学と学習」、マンガ偉人伝で育った世代である)を読んで、ああこれはジョジョっぽいな…と思って、上記の記事を書いたのだった。

 

そして最近、キリスト教福音書を読んでいたところ、

ヨハネ福音書をはじめとする普遍的な、正統な福音書と、トマス福音書ほかの正統誌からは抹消された福音書があることを知った。

「異端」福音書を取上げた本は玉石混交で、著者の立場や主張が色濃く編集されたものも多く辟易したが、これはまさに、正統福音書の編纂過程で起きたことのミニチュアだと思った。

この1~2か月で読んだキリスト教関係の本の中では、「禁じられた福音書ナグ・ハマディ文書の解明 エレーヌ ペイゲルス (著)」という本が抜群に面白く、内容が明解でよく整理されており、女性の著者の温かい人柄がにじみ出ていてとても良かった。

英語の原題はBeyond Beliefで、皮肉めいたダブルミーニングになっているらしい。(極東ブログというブログに、この本の書評があり、ダブルミーニングの由来をはじめ、含蓄深い記事を書かれています)

 

そして、正統と異端、カトリックとオカルトの対立というモチーフは、

まさに荒木先生が描いてきたジョジョ、アラキマンガの通奏低音(≒通底するテーマ)であったと思う。

少年時代に悪魔的なロックにハマっていたこと、荒木先生のおばあさんが東京に住む孫を心配されていたとか、作者個人のエピソードから取り上げることもできますが、

何より作品の中に現れている。

魔少年ビーティーの逆説的ヒーロー性、バオー来訪者の異端の悲しみ、

そして、ジョジョ1部以降に紡がれたジョースターとディオを中心とする物語の数々。

 

近年の著書(マンガ術と映画エッセイ)にて荒木先生は、

イーストウッドをはじめとする名優・名監督、ホラー映画やサスペンス映画の名作を賛美すると共に、究極のヒーロー像として、イエスキリストを挙げていた。

(私の解釈では)「隠れて善を行う、孤独に生きて正しいことを貫く人」というイエス像※を述べていて、

ジョナサンを典型に、言うまでもないことだが、荒木先生の哲学や実体験、人生を重ねて得られた認識といったものが、ヒーローや悪役の造形に反映されているのだろう。

 

※ちなみに、荒木飛呂彦の漫画術 第三章キャラクターの作り方 より、原文は下記の通りです。

 

主人公は「善なるもの」であり、さらに「ヒーロー」である必要があります。ここでヒーローの条件が何かと言えば、実は、孤独である、ということです。

究極の選択を迫られたとき、それは主人公だけが解決できる、というものでなければいけませんし、自分の力でその難問を解決しなければならない主人公の立場は、どうしても孤独にならざるを得ません。

 

 (中略。5部 ブチャラティチームの主人公たちが、チームであってもはみだし者同士の集まりで、戦うときはそれぞれが孤独である旨を述べる)

 

社会のルールから認められていなくてもかまわない、たとえ孤独であっても大切なものを追い求める、これが最も美しい姿ではないでしょうか。

究極のスーパーヒーローは、イエス・キリストのような人物です。誰かに崇められはするが、お金をもらったりするわけでもなく、ひっそりと死んでいくかもしれない、それでも自分の中の正しい真実を追う人、それが、ヒーローなのです。

 

(以上、引用終了。この後、クリントイーストウッドの描いたヒーロー像を述べた後、承太郎をはじめとする主人公たちのキャラクター造形に話題が移っていく)

 

 

ーーまとまりのない記事になりましたが、私としては、ムーの編集によるミニムックは案外あなどれず、天使と悪魔という一冊は、ドギつい見出しやエグい臭みも多かったが、宗教史や神学の内容をよくまとめてあり、常識をくつがえす驚きがあった。

ムー本誌を買ったことは今まで無く、これからも無い気がするが、一連のミニムックはよい買い物だったと思う。出会いに感謝したい。

 

 

追記:

この記事を書いた後、ふと 情報を検索したところ、ムー編集者(TVの心霊番組なんかに出ている、三上編集長)のインタビューがあった。

小学館 学年誌編集者(切通理作氏の著書にある、上野氏へのインタビュー)と同じく、子どもの頃に読んでいた本の舞台裏、謎を探る試みは刺激的で面白い。

 

三上編集長のインタビュー 一部を抜粋・引用しますが、ほとんどそのまま、ジョジョの製作スタンスだ… という感じです。

荒木先生は、2003年 週刊少年「」というTV番組の取材で、「座右の銘 あらゆることを疑う」と述べていたことがあった。

古代ギリシア犬儒派キュニコス派)よろしくシニカルで醒めた物言い、神秘的なものに魅かれつつそれを疑い、自らの立ち位置と血肉、「人間らしさ」(人間賛歌)を失わない姿勢が、荒木先生の創作スタンスなのだと思う。

 

月刊「ムー」40周年記念展を開催! 編集長が語るオカルトとの距離感 |好書好日


――世界のオカルト事象を次々と紹介しては、オカルトブームを牽引していきました。いっとき、類似誌が多数、発刊されましたが、今も続いているのは「ムー」だけですね。「生き残れている」理由とは。編集方針に特色があるのでしょうか。

 方針で言えば「ノンフィクション・ミステリー」なんですね。ミステリーというと、推理小説の意味合いが大きい。なので、敢えて「ノンフィクション・ミステリー」。「世界の謎と不思議に挑戦する」というテーマを掲げているんです。超能力とか心霊、魔術など、要は教科書で扱わないような、「本当かな?」みたいなテーマの括りで企画を集めると、ともすれば、「トリックだ」とか、初めから「こんなのあるわけないじゃん」って思われてしまう。

 そこで作り手が、こういうジャンルに対して小馬鹿にするような態度、スタンスだと、思いっきり誌面に出てしまう。かといって、思いきりハマっちゃうと、読者がドン引く。「これ、ヤバイ雑誌だよ」ってなる。競合誌が今までいくつかあったんですが、どれも続かなかったのは、おそらくそういう理由だったと思うんです。

――小馬鹿にするのではなく、のめり込み過ぎず、真摯に向き合う姿勢こそ大事ということですか。

 「やらせ」みたいなことは一切していない。ただ、どんな突飛な説でも、仮説として提示するのは良い。ただし、それに至るまでのロジックは、読者を納得させるようなものにする。いちおう理屈があって、その記事の中で、筆者の中では矛盾のないように理屈が通っている。