ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

ブルーハーツのトレイントレインと、ジョジョ30周年の原画展(を見る前の期待)

ジョジョ30周年の原画展が東京で始まって、見にいけた人が羨ましい。年末の大阪展を観に行くつもりであるが、まだもう少し先の話である。

 

ーー全然 関係ない話のようで恐縮ですが、最近になってブルーハーツが良いと思うようになり、CDを借りて聴いている。

私が中学生くらいのときにブルーハーツと(爆風スランプの)ランナーはすごく流行って、X JAPANを大きな音で聴くとお腹の調子が良くなってトイレ大に駆け込みたくなると言っていた人もいた。私は便秘ではなかったのと、これらの爆音っぽいミュージシャンはヤンキー系、不良系のノリを感じて苦手だったので、好きにはならず遠ざけていたものだった。

ブルーハーツでいうと、ろくでなしブルースの似顔絵キャラのイメージもあり、このマンガでは、真島にそっくりのキャラが安室奈美恵に似たキャラを「顔が嫌い」と言い放った一節と、小平二がトイレットペーパーが空なのに気づいて「なにーーっ」と狼狽したコマを良く覚えている。主人公で覚えているのは、一話冒頭 ジャンプのカラーページでエロビデオ談話をしていたシーンと、鬼塚にたこ焼の串(?)で左ひざを刺されたシーンだった)

 

ーー何の話かと言うと、「太鼓の達人」でブルーハーツトレイントレインを叩いて遊んでいたこと、今年の初め 急な法事でレンタカーを借りて移動していたときにラジオでトレイントレインを聴いていたことがきっかけで、最近 ブルーハーツの曲が気になって、聴きたくなったのだった。

たぶん、私が今 転職準備中で不安定・流動的な事情の中で、ブルーハーツやレッドホットチリペッパーズ、グレングールドなどを聴きたいテンションになっているのだと思う。

 

そして、トレイントレイン太鼓の達人で遊んでいて、歌詞とボーカルが良いと思って好きになったのだが、歌詞カードにある歌詞だけを読んでも、今ひとつピンと来ない。

当たり前のことだが、歌詞は歌詞だけであるのではなく、作詞と作曲、ボーカルと楽器の演奏が組み合わさって、全てが一体となって「詩」が出来ている。

 

ジョジョの原画展も、描き下ろしの等身大壁画があったり、かつてのカラーイラストが展示されていて、創作の現場に迫るファンならではの楽しみは、他に替えがたいものがある。

ただし、考えてみれば当たり前のことだが、ジョジョはマンガであり、カラーイラスト1枚、原稿用紙1枚だけを取り出して、マジマジと鑑賞するものではない。

ページを束ねて、一つの作品としてまとまって、お話と場面、絵で描かれた「流れ」を楽しむものである。

その意味では、ジョジョの原画展が開催されたり、作者のインタビューがあちこちで企画されるのはそれはそれで良いのだが、最新作の連載が進んだり、コミックでまとまったお話を読めるのが、やはり、マンガ家の本領であり、いちばん良いもののような気がする。

 

ファン目線のニーズで言えば、ジョジョシリーズの完結後、荒木先生が書き続けているというキャラクターの「身上調査書」が読めれば嬉しい。

マンガに描かれたキャラクターたちの裏側、どこからどこまでがマンガに盛り込まれたか、いないかを探る「答え合わせ」の ようなものである。

あまり全部を表舞台に見せるべきでない気もするが、創作の周辺を探るものとして、シリーズ完結後(作者の死後?)にでも部分公開されれば嬉しい。

 

ーー妄想のようなことを書いているが、私が中高生でジョジョがジャンプに載っていた当時、ジョジョの原画展が2018年に開催されるとは夢にも思っていなかった。3部でディオを倒して連載が終わる筈だと思っていたので、そのツテで言えば、今後10~20年後にどんなことが起きているか、少なくとも私には予想できない。

私が50~60代になっている頃で、どんな社会生活を送っていて、ジョジョを読んだりあれこれ過ごしているのだろうか? というところである。

岡田あーみんとさくらももこ りぼんマンガの思い出

漫画家のさくらももこさんが亡くなって驚いた。
53歳で乳がんで亡くなられたということだが、(10才ほど若い)自分たちの家族も、健康管理と余命に気をつけなければ と思う。

 

もう1つ、別の意味で驚いたのは、さくらももこさんが亡くなった今年のお盆頃、
実家の本棚からジョジョ1~4部を取り出したとき、岡田あーみんの「お父さんは心配症」1~6巻を発見。
2004年頃に買ったきり読んでいなかった「お父さんは心配症」を読んで、
さくらももことあーみんの合作(昔 かすかに読んだ記憶がある)を読んで、さくらももこの意地悪な観察眼を思い出していた、まさにそのときに訃報が入ったからだった。

ーーこのブログを書いていて、デビッドボウイとプリンス、水木しげるさんなど、
ブログの記事を書き込んだ直後くらいに、取り上げた方が亡くなることが続いた。

何かしらの霊的な力、オカルト的な働きがあるのだろうか?と訝しんだが、
冷静に考えると、これは、取り上げた方が有名・高名な方で、名作と呼ばれる作品を作り、年をとっていた方が多かったためである。
東村アキコとか西川史子とかは死んでないので、やはり、年を取るにしたがって、自分を含めて人間は死に近づいていくのだろう。


(ほとんどジョジョに関係が無いので)このブログに書こうかどうかと思っていたのだが、「お父さんは心配症」は、なかなか面白いギャグ漫画だった。
昔 妹が買っていた「りぼん」を読んでいて、覚えているのは、岡田あーみんさくらももこ、ねこねこファンタジア、星の瞳のシルエット
浦川まさるという作家が里見八犬伝をなぞらえたようなマンガを描いていて、「手の温かい人は心が冷たいというけど、ウソやな…」と彼氏役が呟いたシーンを覚えている。
矢沢あいは、天使なんかじゃないの冒頭は面白かったが、基底にあるヤンキー体質が、自分の肌には合わなかった。
茶畑るりの4コママンガは、さくらももこやあーみんには劣ると思いながら、14歳の連載開始を眺めていた。
…描きはじめると、けっこう思い出してきた。

昔のりぼんで、岡田あーみんさくらももこギャグマンガは抜きん出て面白かった。
さくらももこは、小市民的な素朴さを打ち出しながら、醒めた観察眼、底意地の悪さが滲み出るのが面白さだった。
さくらももこは、自分の妹に筆跡が似ていて、顔だちも何となく似ているので、悪くは言えないが、身近に居た妹の何とも言えない「女らしさ」を宿している… そんな作家だった。


岡田あーみんのマンガは、私個人の好みだが、さくらももこと較べても、かなり面白い。
赤塚不二夫しりあがり寿と並んで、「面白いギャグマンガ家の個人的トップスリー」である。

ママはテンパリスト東村アキコなど、岡田あーみんに影響を受けたギャグマンガ家は、私と同世代、30~40代くらいのギャグマンガ家には多いのではと思う。

昔のりぼんでも読んで、今回 よく覚えていたのは、「岡田あーみんの好き放題劇場」である。
どう面白いかは説明しにくいのだが、リボンマスコットコミック 心配症の6巻に収録されているので、よかったら読んでほしい。

ただし、作者のあーみん本人は、好き放題劇場のようなハチャメチャな殴り書きだけを褒められるのは不本意だったようで、
後のルナティック雑技団のような、ストーリーとギャグが噛み合った、しっかりとした少女漫画を描くのが、作家としての目標だったようである。
お父さんは心配症も、作者の意図としては、山本周五郎のような人情物語を目指して描きはじめたとのことで、頷ける所がある)

岡田あーみんのマンガが面白いのは、ハチャメチャで破壊的なだけではなく、
作者本人の生真面目さが滲み出ているというか、
作者のナイーブさ、純粋さ、「人間愛への志向」が作品の基底にしっかり描かれているところである。


ーー半ばむりやりに話題をジョジョに繋げると、
岡田あーみん荒木飛呂彦の両者で、作家の資質に、重なるところがあると思う。

荒木飛呂彦はホラーとサスペンスのマンガを描いているが、美しい人間愛や正義の力強さだけでなく、人間社会の「酷い現実、見にくいほうの真実」に目を向けている。
岡田あーみんのマンガは一見 荒唐無稽で、人間社会の酷さを描いているが、大らかな人間愛で作品世界を包み込んでいる。

どこに視点を向けるかの違いで、
人間社会の現実に目を向けた後、荒木飛呂彦はホラーとサスペンスを描くことを選んだ。岡田あーみんはギャグを描くことを選んだ。ということなのだろう。

6億円の宝くじが当たったら何をする?

ジョジョ4部 岸部露伴が初めて登場したエピソードで、

「金やチヤホヤされるためにマンガを描いているのではない。ぼくは読んでもらうためにマンガを描いている」

と宣言する場面があった。

 

「これ以上、王道の漫画はない」と題する最近のインタビューで、荒木先生は愛用の机を指して、

「僕にはこの机さえあればいい。そうすれば漫画が描けるから……」 

 と述べている。

ジョジョ1部が映画化されたときのムックでも、「僕はマンガ描いていければ、アシスタント雇っていければそれでいいんです!」と意気軒昂に述べていた。

 

どういう意味合いで述べているのだろう?

「答え」の取りかたは人それぞれで、受け取る人の年齢や職業、人生のどんな状況に自分が居るかで、導かれる答は異なる気がする。

 

よく似た問いかけで、「6億円の宝くじが当たったら何をする?」みたいな問いがある。

税引後の手取りで6億円が手に入ったとして、あるいは世間に認められるほどの富と名声、人生や生活の安定が保証されたとして、そのとき、人は何をするのか?

 

荒木先生の場合は、つまるところ、愛用の机で、自作のマンガ台を使って、新作のマンガを描き続けることが、いちばん楽しい、人生で残った「やりたいこと」になるのだろう。

 

似たケースで、グレン・グールドやXTCのアンディ・パートリッジ、コンサートで人前に出るのを嫌って、世間的には隠遁生活のような態に入っていって、音楽への愛着は冷めず、好きな音楽をやることに傾倒し取り組んだ人たちがいる。

 

自分の場合はどうなんだろうか?ということで、人生を振り返る問いかけとしたい。

年棒6億円が手に入ったからといって、宅急便に変装してヤクザ紛いの情婦と密会するだけが、お金の使い道ではない。

沢木耕太郎のエッセイ「バーボンストリート」で語られていたが、「ギャンブルはやらない。自分の人生そのものが、いちばんの大事な、大きな勝負事だからだ」という按配である。

ジョジョのテーマ「成長する読者に、成長しない作品は必要ない」 大村はまが説く「教えるということ」

ジョジョ原画展の開催が近づいていて、ジョジョをめぐるさまざまな話題がメディアから出ている。
ジョジョサピエンスというアンケート企画で、ジョジョの好きな部を問う質問があったが、3~5部が人気で、現行の8部は1部と並んで最下位だった。

ジョジョリオンやSBRをめぐる世間の感想を読んでいると、少年誌から青年誌に移った頃から面白くなくなった、みたいな意見がある。
(面白いかつまらないかの意見自体は、読者次第で、さまざまな意見・好みがあって然るべきだと思います)

ジョジョリオンは青年誌で連載をスタートした初めてのシリーズであるが、
「エロシーンが多めだから、青年誌ならではのチャレンジだ」みたいな意見には、首を傾げてしまう。

ジョジョシリーズが、30年間の長期連載の間に、描かれるテーマが変わって、作風が変わって、若さの勢い、1ページ当たりの濃密さが落ちてきたことは確かである。
作者の加齢によるもので、仕方ないものだと思う。


荒木先生がインタビューを受ける機会が近年増えているが、「ジョジョシリーズは、王道の少年漫画だと思って描き続けてきた」と一貫して述べている。
1~3部の頃だけではなく、青年誌に連載を移したSBR、ジョジョリオンにおいても、
作品のベースは少年漫画、主人公が成長するマンガだと思って描き続けているとのことである。

2008年 荒木先生が文化庁メディア芸術祭の受賞インタビューで、
「成長している若い人たちにとって、成長しない作品は必要ない 」と述べている。
http://archive.j-mediaarts.jp/interview/2008/araki_hirohiko/

ほかの機会 ジョジョベラーか何かのインタビューでも、
「成長しようとしているこれからの読者に、成長しない作品は必要ないですから」と述べていたと思う。


SBRのジャイロとジョニィ、ジョジョリオンの定助は、単純明快な「少年漫画の、明朗快活な主人公」とは言い難い。
(そもそもを言い出すと、1部~3部、それ以降の主人公や悪役たちも定型的な善玉/悪玉に当てはまっていないが…)

彼ら彼女ら ジョジョのキャラクターたちに、「少年の心性」を見出せるかどうか、共感できるかどうかが、
ジョジョを少年漫画として面白く読めるかどうかの境目かもしれない。


もう1つ、大村はまという国語の先生がいます。
私自身 「総合教育の実践者」として高名な方だと受止めていますが、
大村はまさんが、1973年 教育関係者の集まる研究会で、「教師の仕事」と題する講演会を開いています。

この講演会の一節で、ジョジョのテーマとピッタリ一致するようなお話がありましたので、抜粋して引用します。

私自身 大村はまさんという方を最近に知ったばかりで恐縮ですが、
「教師の仕事」という講演だけをとりあげても、仏様の指の話、幸田文さんが結婚する娘さんを送り出す話など、良いエピソードが多数ありました。
教育関係に興味のある方、子育てしている若い方にもお薦めだと思います。
(当文庫本の帯にも、ちょうど同じようなセールストークが書かれていました)


  ***


大村はま 「新編 教えるということ」 ちくま学芸文庫より抜粋。

 

さらに、研究する、研修するということには、私たちがそうした力をみがくということだけでなく、もう1つ、たいせつな意味があります。
それは、私たちが子どもたちと同じ天地にいるためのくふうの1つでもあります。

(中略)

研修会に参加するということは、何か高いものを求めるからでしょう。
何か得たいという気持ちがあって、自分の成長を願うからこそ、そういう行動になるのだと思います。

自分を見つめたり、自分の至らないところを伸ばそうとしたり、それから高いものに憧れたり、一歩でも前進しようとしたりするということ、
それはそのまま少年という育ちざかりの人たちのもった自然な姿なのです。
子どもというのは、身のほども忘れて、伸びようとしたり、伸びたいと思っている人間です。

至らない子どもで、何もできない子どもでも、見ていて悲しいほど自分を伸ばそうと思っています。
私たち指導者は、その子どもたちと同じ気持ちになることが、まず大事でしょう。

かわいがるといっても、つまり、同じ気持ちになることです。
同じ気持ちになるということは、そういう、子どものもっている切ない伸びたい気持ちーー本人は意識していいないでしょうけれどーー、
そういうものを私たちが意識して、同じように研究や学ぶことの苦しみ、そして少しの喜び、そういうものを感じえているということだと思います。

いくつになっても、三十や四十になっても、少しもおそれることはないので、
そういう魂をもっていれば、世代をこえていつまでも子どもと共にあるということになるでしょう。

いくら二十代の若さだと言っても、伸びようという気持ちを切にもたない人は、どうして子どもの友でありえようか、と思います。

岩人間の発想はどこから来たのか? 個人的推測

インターネットの巷談を読んでいると、「ジョジョリオンの岩人間は、2部の「柱の男」のリメイクじゃないか」という意見を読むことがある。

1部→7部へのリンクと同じく、2部→8部への重ね合わせはありうるし、人間ではない超生物という点で、柱の男と岩人間は共通項も多い。壁や柱、地面や岩にめりこんで一体化するビジュアルイメージも一致している。

 

しかしながら、私個人の感覚では、柱の男と岩人間は、何となくパラレルの後継とは言いづらい、重なりづらい感じがある。たぶん、岩人間たちがマッチョな造形を目指しておらず、「究極の強さ、ただ1つの頂点」「神の域に達した絶対感」を求めるキャラクターでは無いからだと思う。

 

岩人間の構想は、たぶん、ジョジョリオンの連載を始めた当初には無く、つるぎが登場したエピソード、東方家を巡る石化病の呪いを描いたあたりで着想された。

「石化病」の発展形・ネガティブな意味での行きつく先を象徴したキャラクターとして、敵役として構想されたのではないだろうか。

ーー上記は私の推測・空想に過ぎませんが、ジョジョリオンの「呪い」と「清め」の物語がどのような決着に到るのか、螺髪のドクターと常敏、豆ずくさんたちの絡み合い、今後の展開が楽しみである。

 

※自宅の庭でカメを飼っていますが、今日 庭の風景にまったくカメが馴染んで、石や木、土に完全に同化していて驚いた。

荒木先生は、たぶんカメを飼育していないと思いますが、自然に生きる動物たちの生態、自然と一体化したライフスタイルを観て、そのエッセンスで、岩人間を発想したのかもしれません。

 

露伴「D・N・A」に出てきた真央ちゃんも、ストレスの高まったとき、

カメレオンのように透明化し周囲と一体化する体質(能力?)を持っていたが、

父親と巡り合って「きっといいヤツ」と呟いたのは、泣ける演出だった。

ウラのウラはオモテで、「ホラー映画から一周回った、感動演出」に、個人的・心情的に引っかかりやすくなっている。

螺髪のドクターと橋本陽馬

ウルトラジャンプの最新号と、岸部露伴は動かない2巻が同時に発売され、買って読んだ。

 

ジョジョリオンの連載は新展開で、密葉さんを誘惑するハンサムなドクターが出てきた。ロカカカの枝を奪いに来た2人のうちの1人で、岩人間の最後の一人と思う。

(個人的には、ジョジョリオンの「最後の戦い」は、常敏とその両親を巻き込んだ戦いで、憲助さんが最後の最後に悪に傾くのかどうか?みたいなせめぎ合いが描かれるのでは と予想している)

 

ハンサムなイケメンのドクターは、ちょっと見た目に気持ち悪い髪型をしていて、頭頂部や後頭部にブツブツが一杯出来ている。私自身 自分の身体に発疹や皮膚炎が出来ているのを見るのが苦手で、生理的に嫌な感じがしたのだが、よく考えてみると、これは、「仏さまの頭」に似ている。

螺髪(らほつ、らはつ)と言うそうですが、このドクターが、アーバンゲリラやプアートムとは違って、高尚・広大な思想を持ち、生死の境を超越しようとするような、何か崇高な目的を持っていることの表れかもしれない。

もう1人のドクター(? 救急隊員のもう1人)が、もしキリストのようなヘアスタイルをしていたら、まるで「聖おにいさん」のコンビになってしまうが、そこまであからさまな描写は、たぶん無いだろうと思う。

私の個人的憶測の線が強いですが、豆ずくさんがリフトの上で語っていたように、ロカカカの実(=8部のキーアイテム)は、生死の境を超える、賢者の死生観をも揺るがしかねない「悪魔の実」でした。

ドクターが単なるゲスではない、ひとかどの生命観・倫理観・社会観を持つキャラとして描かれることで、岩人間軍団の目的やルーツが語られることを期待しています。

 

 

また、「露伴は動かない2巻」は、雑誌連載で読んだものもあり、単行本で初めて読んだものもありの4つの短編でしたが、どれもなかなか面白かった。

D・N・Aは、自分の身近な家族や仕事に引き付けて、面白く読めた。

ザ・ランに出てくる橋本陽馬は、荒木先生が述べていたとおり、アラキマンガに久々に登場した「筋肉キャラクター」で、血湧き肉躍る展開が面白かった。

橋本陽馬が東京に出てきてスカウトされ、鏡の前でポーズをとるくだりは、オリジナルラブの「月の裏で会いましょう」の一節を思い出してしまう。「東京に憧れた若者、お上りさん」の表と裏が、よく描かれていると思った。

 

私自身は中年のオッサンだが、一読者の感想として、ハンサムな敵、カッコいいい敵や思想性のある敵、単なるゲスではない敵が出てくるのが、強敵感、ラスボス感があって盛り上がる気がする。

その伝で言うと、常秀がヒーロー的役割を担うことは無く、カレラにトリックスター的ピエロの役割を期待したいものの、プアートムやドロミテあたりでは、やはり、「最後に主人公が乗り越える敵」の風格は担えなかったのだろう。

ドロミテが8部杜王町のマスコットになりつつあるのはヤバい感じもするが、かつてのアンジェロ岩と同じような位置付けなのかもしれない。

チャンピオンで「ドカベンの最終回」を読んだ。

人生で(多分)はじめて週刊少年チャンピオンを買い、「ドカベンの最終回」を読んだ。

 

岩鬼と山田、陰と陽の2人の主人公に焦点を絞ったラストで、最後の見開きのホームランは圧巻だった。

ドカベンは、甲子園編は、二年の春まで読んで、殿馬がハイジャックされた?くらいのところで読むのを中座している。

プロ野球編以降は、里中が瓢箪というキャッチャーと新魔球の秘密特訓を始めたくらいで終わっていて、たぶん4~5巻くらいまでしか読んでいない。

 

あぶさん 雑誌掲載時の最終回は、コンビニで立ち読みして、最後の1ページが「作者からのお礼とあいさつ」みたいになっていて、あまり感心しなかった。

ドカベンの最終回は、雑誌を買って読んだが、作品世界が静かに、きっちり綴じ込まれるように終わって、とても良かったと思う。

 

10~20年前 何かのインタビューで、水島先生が「弱小の高校が甲子園をめざして野球を頑張る話」など、ドカベンあぶさんとはまた違った、野球少年の話を描きたいと話していた記憶がある。

水島先生が80歳になるまで連載を続けてきたのは驚きだが、やはり、この人の描く野球、人情味あるキャラクターの描写は随一である。

 

今でもふと、あぶさん5巻「いわし雲」の一節が胸に浮かぶことがある。自宅にあって、ときどき5巻を読み返しているからなのだが、胸に迫るマンガを描ける作家、いつまでも忘れられない名シーンを描ける作家は、そう沢山は居ない。

水島先生がお元気なのは幸いで、ジョジョの荒木先生も年をとりつつも、月刊連載マンガ家として頑張っている。原画展やアニメ化などの企画はソコソコとして、ジョジョリオンの連載を、集中して頑張ってほしいものだと思う。

ミュージシャンのプリンスが死んでも、彼の造った作品がプリンスとして残っているように、マンガ家が死して名を残すのは、やはりマンガだと思う。
山田と岩鬼景浦安武の立ち姿は、水島新司が死んだ後も、地上に永遠に生き続ける筈である。それこそが、マンガの金字塔だと思う。