ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

正統と異端 (オカルトとは何か)

2014年の春 このブログで、「ジョジョはなぜ気持ち悪いのか?」という記事を書いたことがあった。

ジョジョは、なぜ気持ち悪いのか? - ジョジョ読者のブログ

 

当時 ムーなどの編集によるミニムック、拷問と処刑、天使と悪魔、心霊現象やカルトを取上げたものを数冊買って、ヒマつぶしに読んでいた。

「人間はどこまで異常になれるのか、人間はなぜ、ときとして異常を求めるのか?」という根源的な問いもあったかもしれないが、ムーのムックに求めたのはやはり、刺激的な娯楽・慰安だったと思う。

 

これらのあやしいミニムック(学研が版元になっているところが面白い。私は学研の「科学と学習」、マンガ偉人伝で育った世代である)を読んで、ああこれはジョジョっぽいな…と思って、上記の記事を書いたのだった。

 

そして最近、キリスト教福音書を読んでいたところ、

ヨハネ福音書をはじめとする普遍的な、正統な福音書と、トマス福音書ほかの正統誌からは抹消された福音書があることを知った。

「異端」福音書を取上げた本は玉石混交で、著者の立場や主張が色濃く編集されたものも多く辟易したが、これはまさに、正統福音書の編纂過程で起きたことのミニチュアだと思った。

この1~2か月で読んだキリスト教関係の本の中では、「禁じられた福音書ナグ・ハマディ文書の解明 エレーヌ ペイゲルス (著)」という本が抜群に面白く、内容が明解でよく整理されており、女性の著者の温かい人柄がにじみ出ていてとても良かった。

英語の原題はBeyond Beliefで、皮肉めいたダブルミーニングになっているらしい。(極東ブログというブログに、この本の書評があり、ダブルミーニングの由来をはじめ、含蓄深い記事を書かれています)

 

そして、正統と異端、カトリックとオカルトの対立というモチーフは、

まさに荒木先生が描いてきたジョジョ、アラキマンガの通奏低音(≒通底するテーマ)であったと思う。

少年時代に悪魔的なロックにハマっていたこと、荒木先生のおばあさんが東京に住む孫を心配されていたとか、作者個人のエピソードから取り上げることもできますが、

何より作品の中に現れている。

魔少年ビーティーの逆説的ヒーロー性、バオー来訪者の異端の悲しみ、

そして、ジョジョ1部以降に紡がれたジョースターとディオを中心とする物語の数々。

 

近年の著書(マンガ術と映画エッセイ)にて荒木先生は、

イーストウッドをはじめとする名優・名監督、ホラー映画やサスペンス映画の名作を賛美すると共に、究極のヒーロー像として、イエスキリストを挙げていた。

(私の解釈では)「隠れて善を行う、孤独に生きて正しいことを貫く人」というイエス像※を述べていて、

ジョナサンを典型に、言うまでもないことだが、荒木先生の哲学や実体験、人生を重ねて得られた認識といったものが、ヒーローや悪役の造形に反映されているのだろう。

 

※ちなみに、荒木飛呂彦の漫画術 第三章キャラクターの作り方 より、原文は下記の通りです。

 

主人公は「善なるもの」であり、さらに「ヒーロー」である必要があります。ここでヒーローの条件が何かと言えば、実は、孤独である、ということです。

究極の選択を迫られたとき、それは主人公だけが解決できる、というものでなければいけませんし、自分の力でその難問を解決しなければならない主人公の立場は、どうしても孤独にならざるを得ません。

 

 (中略。5部 ブチャラティチームの主人公たちが、チームであってもはみだし者同士の集まりで、戦うときはそれぞれが孤独である旨を述べる)

 

社会のルールから認められていなくてもかまわない、たとえ孤独であっても大切なものを追い求める、これが最も美しい姿ではないでしょうか。

究極のスーパーヒーローは、イエス・キリストのような人物です。誰かに崇められはするが、お金をもらったりするわけでもなく、ひっそりと死んでいくかもしれない、それでも自分の中の正しい真実を追う人、それが、ヒーローなのです。

 

(以上、引用終了。この後、クリントイーストウッドの描いたヒーロー像を述べた後、承太郎をはじめとする主人公たちのキャラクター造形に話題が移っていく)

 

 

ーーまとまりのない記事になりましたが、私としては、ムーの編集によるミニムックは案外あなどれず、天使と悪魔という一冊は、ドギつい見出しやエグい臭みも多かったが、宗教史や神学の内容をよくまとめてあり、常識をくつがえす驚きがあった。

ムー本誌を買ったことは今まで無く、これからも無い気がするが、一連のミニムックはよい買い物だったと思う。出会いに感謝したい。

 

 

追記:

この記事を書いた後、ふと 情報を検索したところ、ムー編集者(TVの心霊番組なんかに出ている、三上編集長)のインタビューがあった。

小学館 学年誌編集者(切通理作氏の著書にある、上野氏へのインタビュー)と同じく、子どもの頃に読んでいた本の舞台裏、謎を探る試みは刺激的で面白い。

 

三上編集長のインタビュー 一部を抜粋・引用しますが、ほとんどそのまま、ジョジョの製作スタンスだ… という感じです。

荒木先生は、2003年 週刊少年「」というTV番組の取材で、「座右の銘 あらゆることを疑う」と述べていたことがあった。

古代ギリシア犬儒派キュニコス派)よろしくシニカルで醒めた物言い、神秘的なものに魅かれつつそれを疑い、自らの立ち位置と血肉、「人間らしさ」(人間賛歌)を失わない姿勢が、荒木先生の創作スタンスなのだと思う。

 

月刊「ムー」40周年記念展を開催! 編集長が語るオカルトとの距離感 |好書好日


――世界のオカルト事象を次々と紹介しては、オカルトブームを牽引していきました。いっとき、類似誌が多数、発刊されましたが、今も続いているのは「ムー」だけですね。「生き残れている」理由とは。編集方針に特色があるのでしょうか。

 方針で言えば「ノンフィクション・ミステリー」なんですね。ミステリーというと、推理小説の意味合いが大きい。なので、敢えて「ノンフィクション・ミステリー」。「世界の謎と不思議に挑戦する」というテーマを掲げているんです。超能力とか心霊、魔術など、要は教科書で扱わないような、「本当かな?」みたいなテーマの括りで企画を集めると、ともすれば、「トリックだ」とか、初めから「こんなのあるわけないじゃん」って思われてしまう。

 そこで作り手が、こういうジャンルに対して小馬鹿にするような態度、スタンスだと、思いっきり誌面に出てしまう。かといって、思いきりハマっちゃうと、読者がドン引く。「これ、ヤバイ雑誌だよ」ってなる。競合誌が今までいくつかあったんですが、どれも続かなかったのは、おそらくそういう理由だったと思うんです。

――小馬鹿にするのではなく、のめり込み過ぎず、真摯に向き合う姿勢こそ大事ということですか。

 「やらせ」みたいなことは一切していない。ただ、どんな突飛な説でも、仮説として提示するのは良い。ただし、それに至るまでのロジックは、読者を納得させるようなものにする。いちおう理屈があって、その記事の中で、筆者の中では矛盾のないように理屈が通っている。

座右の銘、心の泉

いわゆるミッションスクール、キリスト教系の学校法人に就職することになって、キリスト教西洋史、中近東地域の古代史をいろいろと調べて読んでいた。

 

いろいろとものを見る目が拡がったのは良かったし、楽しかったのだが、結論として、自分はクリスチャンに入信することもないし、仏教などの信徒になることも無いだろうな、と思った。

 

自分自身の場合は、であるが、「信仰する」という態度がどうも自分にはシックリ来ず、人間が自分で考え自分で行動し、自分たちの努力や友情によって問題を解決する という価値観がシックリ来るからである。

分かりやすく言うと、ドクタースランプキン肉マンに始まり、ドラゴンボールからジョジョに繋がった少年ジャンプ(のある世代の作家たちが紡ぎ提示した)価値観が、自分にとっては、人格の基礎を決定していたのだ と思う。

 

キリスト教や仏教、なかんずく開祖であるイエスブッダの言葉、言動には興味深いもの、感動し、取り入れたいと思うものがあまたある。

それらをひとつひとつこのブログで取り上げることはできないが、

これら宗教とズレたところ、別の立ち位置にある言葉(概念)で、ハタと胸を打つものも沢山ある。

今朝方 見たところでは、ソクラテスが説いた「無知の知」、サルトルが「実存は本質に先立つ」と言い、その奥さんのボーヴォワールが「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と言ったとか。 --昔から知っている言葉ではあるが、折に触れて見返したとき、グッと来る。それは、その言葉が含むものが多く、豊かだからだろう。

 

エスが言った「汝の敵を愛せよ」という言葉は、子どものときはじめてこれを聞いて、不思議なことを言うなと思い、さっぱり理解できなかった。

最近になって、マタイ福音書からトマス福音書までを読み、イエスが言わんとしたことを、福音書の文脈からたどり、ようやく理解できるようになった(少なくとも、私の解釈で読むことはできた)

こうしたことは、人生の大きな恵みの一つだと思う。

 

ジョジョシリーズは、自分の中では、ドクタースランプキン肉マンドラゴンボールジョジョと続く、人生の中で続く「心の中にある基盤、心の泉」と言っていい、大切な存在である。

自分の子どもが今、約束のネバーランドブラッククローバーを読みはじめていて、なかなか面白いらしい。出水ぽすか先生は、ポケモントレッタ(?だったかのホビームックに付いていた、おまけマンガ)、オレカバトル ジンジャーエールのマンガを描いてときは、ここまでの作家で、あんな流麗な絵を描く人だとは思わず、ぽすかの本気はポケモントレッタには表れていなかった。

座右の銘、心の泉のようなものは人によってそれぞれだと思うが、誰かから誰かにその良さをムリヤリ伝えるのではなく、自然に拡がって、共有されるのがよいと思う。

 

イチロー引退会見より、抜書き

私が転職活動を行っていた昨年秋~今年の冬にかけて、作家の橋本治さんが亡くなり、貴乃花はカエルの絵本を発表し、イチローが東京ドームで試合に出て引退した。

自分が二十代のとき、橋本治の本をよく読んだり、貴乃花は少年ジャンプにまで登場した破竹の勢いで悲恋の物語を演じたし、イチローは神戸のオリックスに在籍時、よく試合のゆくえを追っていた。

私自身は40代の中盤にさしかかり、イチロー貴乃花は少し年上で、橋本治は自分の両親と同じ年代である。親の世代がこの世を去り、自分たち子どもの世代も人生の節目に差し掛かりつつあって、いろいろと転換期を迎えているのだな と思う。

 

イチローが日本に居た最後の頃、「インパクト!」という雑誌を出して、好きな映画はベイブ、巻末の言葉が「こんなもんで終わると思うなよ!」と意気軒昂だったことをよく覚えている。実際のところ、イチローが積み重ねた安打数はアメリカのそれが日本の二倍以上であり、日本プロ野球での積み重ねた履歴は、まだまだこんなものでは無かった。 途中、選手として苦しい辛い時期も多かったと思うが、一貫してやり通したのは素晴らしいことだと思う。

 

昔 二十代のころ、「プロ野球選手でいうと、松井秀喜が中学生リーグに参加してるみたいな感じ」と、友人に評されたことがある。いわゆるモラトリアム、内向的にカラに閉じこもりがちだったのを指して、発破をかけられたのだと思う。

好きなプロ野球選手は前田智徳、落合、イチロー、清原…といったところで、松井は、キャラクターの面白みが薄くケレンミが無く、一歩落ちる。

イチローの現役最終戦を見て、また引退会見を見てあらためて思ったが、「オレ流」を貫くには努力が要り、覚悟も必要で、ゆえに尊いのだと思う。

 

最後に、イチローの引退会見(フルカウントからの書き起こし)より、

2点、印象深かったくだりを引用し、締めくくりとします。

ティール氏がSBR記者会見で述べた一節とも重なる、開拓者の精神。自分自身も肝に銘じて、4月からの仕事に臨んでいきたいと思いました。

 

――子供たちに是非メッセージを。

「シンプルだなぁ。メッセージかぁ。苦手なのだな、僕が。まぁ、野球だけでなくてもいいんですよね、始めるものは。自分が熱中できるもの、夢中になれるものを見つけられれば、それに向かってエネルギーを注げるので。そういうものを早く見つけてほしいなと思います。それが見つかれば、自分の前に立ちはだかる壁に向かっていける。向かうことができると思うんですね。それが見つけられないと壁が出てくると諦めてしまうということがあると思うので。色んなことにトライして、自分に向くか向かないかというより自分が好きなものを見つけてほしいなと思います」

 

(中略)

 

――プロ野球選手になるという夢を叶えて成功してきて、今何を得たと思うか?

「成功かどうかってよく分からないですよね。じゃあどこからが成功で、そうじゃないのかというのは、全く僕には判断できない。成功という言葉がだから僕は嫌いなんですけど。……メジャーリーグに挑戦する、どの世界でもそうですね、新しい世界に挑戦するということは大変な勇気だと思うんですけど、でもここはあえて成功と表現しますけど、成功すると思うからやってみたい、それができないと思うから行かないという判断基準では後悔を生むだろうなと思います。やりたいならやってみればいい。できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。そのときにどんな結果が出ようとも後悔はないと思うんです。じゃあ自分なりの成功を勝ち取ったときに、達成感があるのかといったらそれも僕には疑問なので。基本的にはやりたいと思ったことに向かっていきたいですよね。

 で、何を得たか……まぁ、こんなものかなあという感覚ですかねぇ。それは200本もっと打ちたかったし、できると思ったし、1年目にチームは116勝して、その次の2年間も93勝して、勝つのってそんなに難しいことじゃないなってその3年は思っていたんですけど、大変なことです。勝利するのは。この感覚を得たことは大きいかもしれないですね」

椛島勝一氏は挿絵画家で、椛島編集のおじいさんだった。

ウルトラジャンプの最新号を買うと、「荒木飛呂彦原画展ー冒険の波紋ー」を、2020年1月 長崎県美術館で巡回開催します、とニュースが載っていた。

 

それだけなら、なぜ長崎?とは思ったものの、原画展がそこそこ人気あるのだな というだけの感想だったが、キャプションの記述を読んで驚いた。

 

荒木先生の初代編集 椛島良介氏の祖父である椛島勝一氏(挿絵画家)の作品が、長崎県美術館に所蔵されている縁もあり、同原画展の開催が決定した とのこと。

www.nagasaki-museum.jp

椛島編集は、荒木先生のデビュー前からの担当で、ジョジョ3部終了までを手掛けた方。

エジプトの古代文字が読めたり、澁澤龍彦やコリンウィルソンを荒木先生に薦め、「DIOはエジプトに居る」とアイデアを出し合っていた編集者である。

ジョジョベラーにて、2人の対談が載っています)

椛島編集のおじいさんがイラストレーターだったのは驚きで、半端なく絵が上手く、孫の椛島氏に到るまで、文化的な血脈が受け継がれていたんだ と納得した。

 

上記リンク 長崎県美術館の情報で、椛島勝一氏の原画もいくつか紹介されています。

もし長崎に行く機会があれば、市川森一ウルトラシリーズほかの脚本家)ゆかりの図書館や教会を訪ね、長崎県美術館にも立ち寄ってみたい。そんなことを思った。

ジョジョ8部、キリスト教に基づいたテーマと認識する(覚え書き)

仕事の関係でキリスト教のあれこれを調べていて、新訳聖書 4つの福音書を読んだ。

福音書を読んで、クリスチャンに入信しようとは思わなかったが、とても面白く、興味深い示唆や学びを得た。

 

そして、福音書を読んで今更ながらに気づいたのだが、

現在連載中の第8部 ジョジョリオンのテーマは、はっきりと、キリスト教に基づいて構想されている。

罪、病気、呪いの克服またはそれらからの解放が、同作品のテーマである。

 

ジョジョリオン1話のラスト 康穂がつぶやく、意味深なナレーションがある。

(下記 あらき100%さまの書き起こしより、引用します)

 

この物語は「呪い」を解く物語。これが、その始まり。

「呪い」とは、遠い先祖の犯した罪から続く「穢れ」。坂上田村麻呂が行なった蝦夷征伐から続いている「恨み」。人類が誕生し、物事の「白」と「黒」をはっきり区別した時、その間に生まれた「摩擦」。

様々な解釈はあるものの、とにかく「呪い」は解かなくてはならない。さもなくば、「呪い」に負けてしまうか。

 

はたして、康穂が予告した冒頭の示唆、最新話までに描いてきた展開を、どうやって解決するのか?

物語上の事件をどのように解決するか。

抽象的に言えば、どのような状態、どのような観念を提示して、

物語の解決、「福音」がやってきた と提示するのか。

ジョジョリオンというタイトルは、ジョジョであることの福音を意味する。

 

下記 個人的な考えですが、

主人公の過去話 ダモカン一派との戦いにて、
ジョセフミと吉良が、お互いを助け合って、さらに違う他人(ホリーさん)を助けようとするエピソードで、

物語のテーマと解法は、だいたいを描いている と思う。

ただし、これから先のクライマックス 定助がもう1回死んで、誰か他人を救う。

同じ展開の焼き直しでは芸が無いし、味気ないラストになってしまうと思う。

どういう落しどころになるだろうか?

ジョジョシリーズ 「究極の肉体」と「究極の精神」描写の移り変わりと、5部~8部への辛めの評価

ジョジョ5部と6部のコミックスを、実家から取り寄せてひさしぶりに通読した。
(下記、私自身の率直な感想ではありますが、「過激」な意見も含み、万人向けではありません。あしからずご了承ください)


5部の中盤、イルーゾォの辺りからとみにバトルが分かりにくくなって、6部のバトルの殆どは読み飛ばしてしまった。
スタンド能力がムリ繰りになってきて、今迄に無いネタでよりすごく、よりすごくと「アイデアのインフレ」が悪い方向に出ていたんだと思う。

飛ばし読みをする中で、キャラクターの折に触れた決めゼリフ、場面場面の盛り上がりは有ったのだが、
何分 ページの大部分を占めるバトルがよく分からなくなっているので、残念ながら読み飛ばしてしまった。

5部、6部を読んでいて、だんだんストーリーとテーマが主導になって、キャラクターの活きた交流みたいなものがすり減っていったとも感じる。
いわゆる少年誌的な熱いキャラクターが減ったというだけでなく、登場人物の行動原理が分かりづらくなり、共感を持ちにくくなっていったのが残念だった。
5部では、ブチャラティらとフーゴが別れる場面の、それぞれの心情。6部では、自殺志願者マックィーンとエルメスのやりとり、プッチ神父の一貫した狂信的な行動原理は面白かった。

6部 プッチ神父とFFらの対比を通じて、彼が求める「天国」が何なのか、謎を追って物語が進んでいく。
ジョリーンたち主人公がアリ一匹の群れのように転生したのと、ミジンコの集合体であるFFが満足して成仏したのは、「人間らしい生き方」の象徴で、どことなく東洋思想的。
一方のプッチ神父が、キリスト教的なBody, Mind, Spiritsの三位一体を目指して、Spirits(精神、魂)の究極として、時を加速し運命を支配する能力、究極の精神(スタンド能力)を目指したのとは対照的である。
プッチ神父がヘビーウェザーの拳から運命的に窮地を逃れたが、結局はヘビーウェザーの能力に倒れたのは、東洋的な(?)因果応報のなせる業だったのかもしれない。
ケンゾー爺の暗殺風水が登場し、刑務所脱獄後に陰陽のタオバックルをジョリーンが身につけたのも、(プッチ神父の、歪んだ)キリスト教理解に対置して、東洋思想の触りを作者が持ち出してきたのだと思う。
ケンゾーのモデルとなったマンソンファミリー、KKKのネタを含めて、6部は何かと、宗教的なモチーフが散りばめられた話で、
この頃の作者コメントなどを見ても、オカルト的な小話が多く、「新宿には行くけど、銀座はイタリアよりも遠いよ!」と担当編集を一喝したエピソード(ジョジョベラーより)など、
作者自身が内向的になって、どんどんと宗教的観想を積み重ねていた時期だったのだと思う。


ジョジョのシリーズは、波紋法と超生物の戦いで始まった1部、2部は、「究極の肉体」を志向して描かれた節がある。

その後 第3部になって戦いの技法がスタンドに移り、「究極の精神」を志向して、正義と悪のバトルストーリーが紡がれていった。
3部~4部にかけてのスタンド能力、スタンドバトルは、頓智やトリック、人間同士の駆け引きや知力の応酬。
三位一体でいう、Mind 知性、知能、知力。明晰な精神、強い意思のぶつかり合いによって、勝敗の境目を描いてきた感じがある。

5部の中盤~終盤にかけて、スタンドバトルがどんどん観念的になっていった。
レクイエムの暴走によりキャラクターたちの「魂」が入れ替わる、魂のかたちと匂いを頼りにドッピオが偽装する、レクイエムが精神を支配する理屈。
知恵比べや駆け引きで勝負するのではなく、宗教的な領域へ、MindからSpiritsへと主眼が移っていった端境期だったと思う。

ーー5部のラスト 62~63巻で示された「スタンド能力の、その先の展開」は、6部の全編を通じて描かれた感がある。
なので、6部のスタンドバトルは読みづらく、何をどうやって勝ち負けがきまったのか、とても分かりづらい。
「究極の精神」を追求して、宗教・哲学の領域に踏みこんで「天国の時」を深く掘り下げ、その思索と結論の出し方は、とても面白かった。
しかしながら、(アラキマンガのマナーとして)裏に隠されるべきテーマが表に出て、滑らかで読みやすいストーリー展開、キャラクターたちの自然な有り姿はかなり省かれ描かれなかった。
エンターテインメントのマンガとしては、ちょっとバランスを欠いた問題作というのが、私の6部への評価である。


5部→6部に到って極大化した複雑さをほどいて、シンプルであらたな地平線に立ち帰ろうとしたのが、スティール・ボール・ラン 7部の新世界である。

ジャイロとジョニィ、サンドマンやディエゴたちを含めて、アメリカ大陸の大自然に挑む旅を続けたのは、
「肉体」の回復であり、「自然と共にある、人間のありかたのルネッサンス」である。

プッチ神父の妄執により極まった、観念的・偏執的すぎる人間理解からの揺り戻し。
作者が思う理想のところ、Body, Mind, Spirits 三位一体のほんとうの回復である。

マウンテン・ティム命名により、スタンド能力は「立ち向かうもの」としてあらたに定義された。
SBR10巻の巻末解説にて、(作中で公式に、)スタンド能力のありようがあらたに定義されてもいる。


つぎのジョジョリオンはまだ未完であるが、
大陸横断レースの反動から、狭い街に留まる構造のお話となり、
「レース選手たちが故郷に帰った後」の「家族のありよう」を描く話となった。

作者の実年齢とあいまって、ジョジョリオンは「老い」「病気」「生命と死」をモチーフに選び、
こまごまとした日本人の日常生活を選んで描いている感じがある。
常秀とブチャラティスタンド能力は似ているが、2人の性格は全く異なり、スタンドの使い方も、描かれる結果も異なる。

物語のしくみや構成に老いや衰えを感じるところもあるが、
8部のストーリーとキャラが、これまでに無かった展開を描こうとしていることも確かである。
岸部露伴やトニオさんなどの人気キャラは出てこないと思うが、今の作者が描く、現実社会の実相にあわせたリアリティ寄りの、もう1つの杜王町である。

スティール・ボール・ラン キリスト教と関わりつつの総括

ジョジョキリスト教の関わりに主眼を置きつつ、7部のストーリーとテーマを総括しようとする記事です。

 


ジョジョ展みたいなシリーズ歴代主人公集合企画があるとき、
ジョナサンがシーザー風バンダナ、ジョセフが飛行帽、7部からはジョニィが登場するのが恒例になった。
ジョナサンの後付けデザインも気になるが、それ以上に私がしっくり来ないのが、7部主人公としてジョニィのみがフィーチャーされジャイロの姿が無いことだ。

個人的な感覚では7部を引っ張った主人公はジャイロ、ジャイロとジョニィのコンビであり、
ジャイロツェペリ=荒野をひとり馬で行く、謎の男 のイメージが無ければ、SBR以降の新世界が描かれることも無かったかもしれない。

1部映画が公開された頃、ツェペリ家の2人が馬に乗り、ジョースター7人の馬車を導き進むような大型ポスターが描かれた。
「ツェペリさんがカラーで描かれるのは初めてで、ツェペリさんもジャイロのおかげで復活できました!」との作者コメントが付いていたが、
すこし大げさに言えば、ジャイロのイメージが産まれて、これを核に、SBRレースや19世紀末新世界が産まれたのを示唆しているのではないか と思う。


ジャイロツェペリは、ネアポリス王国出身の死刑執行人で、
ネアポリス王国のモデルはヴァチカン市国、実在した中世フランスの死刑執行人をモデルに、ジャイロの出自を設定している。

ヴァチカンはカトリックの総本山であり、死刑執行人は王に仕える忠実な家臣。

そして、ジャイロが「謎の男」であるのは複雑な二面性を持っているためで、
彼は、祖国、父親と家業からの「独立」を志向しながら、
同時に、一族の誇りと鉄球の技術を受け継ぎ、キリスト教や祖国への忠実さを失った訳でも無い。

ただのヤンキーや跳ねっ返りではなく、自らの足元を踏まえて理解しており、
いわば「運命」を受け入れつつそれに抗おうとする現代的苦悩の持ち主で、
「納得」を求めて旅をしていた。

ヨーロッパからアメリカへ、大陸横断レースに参加したジャイロは、
象徴的な意味で、旧来秩序からの脱出、新世界への旅を象徴するキャラクターだった。


ジャイロとリンゴォの戦いは、ジャイロの心の叫び、魂の叫びがほとばしったとても熱い戦いだった。

ジャイロと対照的なのが、(リンゴォ戦に共演した)ジョニィとホットパンツで、
ジャイロから「意志の力」を諭され、馬に乗る意志と鉄球の技術に目覚めていったジョニィは、最後は自らの足で歩きだすまでに成長する。
ジョニィは聖人の遺体を求めてはいたものの、自分のため、現世的なご利益を求めてすがったもので、信仰心は無かった。

ホットパンツはヴァチカンからの使者で、修道女だった。
男装の麗人として登場したホットパンツは、マイクOとの戦いまで相当強かったのだが、
シビルウォーの館で修道女の正体がバラされ、大統領との戦いで「罪を清めるため、神さまに全てを捧げます」と告白した後 あっけなく死んでしまう。
ジャイロジョニィとの違いは、「自らの意志」を持っていたかどうかで、そこが死生の分かれ目だったのではないか? と思う。


6部→7部の展開を俯瞰すると、
6部を通じて、既存のキリスト教文化、西洋文化、複雑に発展しすぎた作品世界からの脱出を試み、
7部にて、世界の再生、ルネッサンス(再興)、シンプルであらたな空白地点から物語を語り直していこうとの試みを行っている。

SBRレース 1stステージのゴールは教会。
そして、アメリカ大陸を西から東に横断して、最後にたどり着くのはニューヨークの三位一体教会、納骨堂で完結する。

ウルトラジャンプに連載が移籍した頃、何かのインタビューで作者が、SBRは「巡礼」の旅、と答えていた。
(読者の反応は気にせず、描きたいことを描いていきます、と意気軒昂なコメントも載っていた)

5部ゲーム本インタビューなどによると、3~6部の物語は3年単位で描かれていて、
1年め キャラクターの登場 → 2年め 物語を発展し、膨らませる → 3年め 終演に向かう
リズム・サイクルだったらしい。

SBRでも同く、1st~3rdステージくらいまでに主要人物の登場を済ませた後、
3rdステージの終盤、主人公たちの瞳に「光」が描かれるように変わってからは特に面白く、
3rd~7thステージまで物語中盤の旅は、

人間の生きるべき「道」を求めて、それぞれ毛色の違った、示唆的なテーマを盛り込んだエピソードが続いていったと思う。

主人公2人は、聖人の遺体、宗教的奇跡への距離感が異なっていた。

サンドマンの「裏切り」は、フーゴのときに描けなかった、キリスト教のユダの裏切りを、青年誌移籍後に実現させたものだろう。

ウェカピポとジャイロ父のエピソード、シビルウォーの話、シュガーマウンテンの泉で物々交換する話なども、キリスト教的な含蓄を多く含んでいると思う。


レース終盤 遺体を総取りし、敵役として登場してきたヴァレンタイン大統領。
大統領の髪型(ウィッグのような、くるくるカール)は、アメリカ合衆国初代大統領 ワシントンを模していると思われる。

SBRの時代はアメリカ建国の100年後であり、ウィッグを着ける風習はすでに無くなっていたが、
ヨーロッパからのキリスト教文化を引継ぐ移民、またワシントン以来「開国、独立」の開拓者精神を表す象徴として、
大統領一派は古風な、くるくるカールの髪型をしていたのだろう。

大統領の野望は、アメリカ大陸に散らばった聖人の遺体を集め、宇宙の法則、神の奇跡とご加護を丸ごとわが身に引き寄せようという壮大なものだった。
スタンド能力のスケールもさることながら、胆力があり、演説にも長け、「切れ味鋭いけどあたたかい」人物の魅力は、他に無いものがある。

ヴァレンタイン大統領はとても強く、
ジャイロとジョニィ、ルーシーとスティール氏、ディエゴとホットパンツ レースの登場人物が束になってかかって、ようやく遺体争奪戦が終わった。

遺体は結局のところ誰のものにもならず、人間の思惑、善悪や人智を超えた存在だった。
最後に納骨したであろうルーシーに光が差し込んだのは、
聖人からの思いやりというよりは、(作中 随一の過酷な経験をさせた)作者からのフォローだったかも と思う。

物語のラスト ジョニィは親友の「遺体」を持って、大西洋を反対に渡り、ネアポリス王国を目指す。
故郷を飛び出したジャイロを故郷に連れて帰る旅で、作中 あれほど執着した聖人の遺体ではなく、親友の遺体を持って、鉄球を形見に祖国へ帰る。

ジョニィのモノローグで、この物語は「祈り」と「再生」の旅であった と語られる。
これは作者自身の独白でもあり、
物語世界の再生を目指して、作者自身のあらたな祈りを求めて、スティール・ボール・ランの旅は、巡礼と開拓の旅は描かれていったのだと思う。