ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

「絵本」としてのウルトラマンタロウ

ジョジョに殆ど関係のない話題ですみません。円谷特撮、ウルトラマンタロウを視聴した感想の記事です)


ウルトラマンタロウ DVDボックスを購入し、1年近くかけて全53話を視聴した。

ウルトラマンシリーズを視聴するのは「老後の楽しみ」で、各シリーズのDVDをあちこちバラバラに観てはいたが、
第1話から最終話まで、全話を通して視聴したのはタロウが初めてだった。

ウルトラマンタロウは荒唐無稽なおとぎ話で、アラビアンナイトや桃太郎のような、子供に分かりやすい、明るく楽しい「現代のおとぎ話」を目指して製作されたそうである。
そして、その試みは実際に成功している。
私の皮膚感覚では、今なお ウルトラマンシリーズの1番・2番人気は初代マンとセブン、3位がタロウ、4位が現行の最新作という按配で、幼児の支持は分厚い感じがする。
タロウが製作された1973年は、私(1976年生まれ)が生まれ育った時代にほぼ近く、幼い頃の原風景を観る面白さもあり、全話 概ね興味深く視聴することができた。

タロウの第1話 東光太郎がアストロモンスに飛び乗って振り落され、アイタタタで済まされるシーン。
シンドバッドが怪鳥の足にしがみつき空を飛ぶ、冒険物語の明朗さに付いていけるかどうかで、タロウを観れるかどうかの分かれ道になっている。

(荒木先生曰く、)物語にはリアリティーとファンタジーの境界線がある。
クリントイーストウッドの映画は綿密なリアリティ描写の中にファンタジーを宿らせるが、タロウは違う。
ウルトラマンタロウは「絵本」であり、特撮と人情ドラマと親子の情愛を合体させた「動く絵本」がウルトラマンタロウなのである。

絵本、ファンタジーとしてのリアリティを追求し、子どもにとっての真実、物語の筋道を描き出そうとしたのがウルトラマンタロウである。

タロウの1話と最終話は対になっていて、ウルトラの母からバッジを譲り受けた東光太郎が、母にバッジを返し、再び旅立つところで物語が終わる。
(昔から、怪獣図鑑を読んでいて)なぜタロウ最終回の敵はサメクジラなのか、テキトウで間に合わせのような怪獣が最後の敵なのはなぜか? 疑問に思っていた。
しかし、1話から最終話まで通して視聴して、白鳥家の船に乗ってやってきた光太郎と白鳥健一のドラマを観てはじめて納得を得、最終回のドラマにいたく感動した次第である。

1年間の連続ドラマのあいだに光太郎とタロウは成長し、健一君は声変わりし、そしてTVを観ている視聴者も(一年分)大きくなった。
そしてウルトラの母を演じるペギー葉山が優しく諭したとおり、光太郎は最後に、「生きる歓び」を自分で見つけ、掴み出したのである。
光太郎が健一の模範となり、タロウと別れ、タロウが地球から宇宙へ再び飛び出していくシーン。
特撮シーンは第1話のものの再使用なのだが、脚本の妙で、「オギャー」と正面に飛び出してくるタロウがとても晴れ晴れしいラストショットであった。

うろ覚えの記憶なのだが、ペギー葉山さんという歌手は、たしかひらけ!ポンキッキなどにも出演していて、子供向けの歌番組で歌唱を披露していたと思う。
(最近に亡くなられたとき、ドレミの歌を日本語向けに翻訳・歌手として歌っていたと聞いて、その功績を今更ながら知った)

タロウの全てが優れているという訳ではなく、ポリバケツで水をぶっかける特撮シーンには興ざめしたし、
全53話のうち 40%くらいはあまり面白くない話で、オカリヤンの話を観ているときに途中で眠ってしまい、巻き戻す気力が湧かなかったのも事実である。
しかし、概ね 全体としては面白く、一冊の絵本としてTVドラマシリーズを描き切ったまとまりの良さ、「どこに筋を通すか」で一本筋を通しきった漢気に感服している次第である。


ーー最後に、年寄りの繰り言めくが、昭和の頃の特撮ドラマは「大人が子どもに向けて作っている」感があり、安心感をもって視聴することができる。
そうでないドラマが悪い、一律にダメという訳ではないのだが、
子供向けの作品として、「大人の確かな視座」が無いものはどうにも違和感があり、個人的には遠ざけてしまう。

「誰が、誰に向けて何を語るか」というのは物語を成り立たせる根本的要素で、まさにセンテンスの骨格である。
翻って、ジョジョの物語は誰から誰に向けて何を語る物語なのか?
私自身の人生や仕事は誰に向かって、何を語る物語なのか? --そのように、連想が拡がる膨らみを、ウルトラマンタロウは持っていると思う。