(ほとんどジョジョと関係無い記事になり、すみません。キン肉マンシリーズについて語っている記事です)
キン肉マン1~36巻、37巻~現在までのコミックを揃えて読んでいるが、
キン肉マン2世については、まだ読んだことが無い。
何となく、「2世もの」という発想が好きでは無くて手が伸びないのだが、
この前 ふと思いついて、キン肉マン2世のあらすじをネットで調べて読んでいた。
弁護士でキン肉マンファンの方が居り、悪行超人の血統(ヒカルド、アシュラマンの一家、時間超人)に触れたものがある。
誠実な筆致、ひかえめな文章から覗くお人柄に、弁護士として仕事を依頼したいと思わせる方だった。
熱心なゆでたまごファンの方々には申し訳ないのですが、キン肉マン2世のあらすじを読んで、コミックを読んでみたいな とあまり思うことは無かった。
実物を読んでいないのに感想や批評を語ることはできないものですが、
あくまで現時点の、大まかな考えの整理ということで、お許し頂きたいと思います。
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キン肉マンの旧作(1~36巻) → キン肉マン2世 → キン肉マンの新作(37巻~の展開)
キン肉マンには、大きく分けて3つのシリーズがある。
時系列上は、キン肉マンの後にキン肉マン2世が続くことになっているが、
シリーズ間の辻褄が合わなくなってきており、2世と始祖編はパラレルワールドなのだろうか、あるいはどちらかを黒歴史として抹消しようか という意見もある。
設定上の辻褄はともかく、作者 ゆでたまごの意図として、どちらかを黒歴史として無かったことにするなんてヒドイことは有り得ない。
作家の執筆活動の必然として、キン肉マン→2世→キン肉マン 新作は繋がっている。
キン肉マン→2世→キン肉マン 新作の展開は、正→反→合の弁証法にそっている。
ーーそんなことを、キン肉マン2世のあらすじを読みつつ考えていました。
キン肉マン2世のあらすじ、悪役超人たちのエピソードをたどっていくと、
人間には覆せない壁があり、出自や育ちによって正義と悪人が決まるのかどうか みたいな話が描かれていることを知りました。
アシュラマンの家族 息子のシバは、サカキバラ事件から着想を得ていると思しく、
あらすじを読むだけで来るものがあるというか、キン肉マンでそれを描くのか!?という嫌悪感があった。
少年漫画家だったゆでたまごにとって、サカキバラ=シバを描くのは、かなりのタブーを、あえて犯す気で描いたはずだと思う。
時間超人 2人組の出自も、少年誌でこういうキャラクターは書かないかもな、という感じがある。
キン肉マンは王位争奪編のラストで、いちど完結した作品である。
なので、初代キン肉マンのアンチテーゼとして、2世を描いた節がある。
ただし、2世の次世代超人たちが、前作を越えることを目標としていたとは思いますが、
そこまで描ききれない とどこかで見切りを付けて、タッグトーナメントの話を切り上げ、
心機一転 初代の続編に原点回帰することになったのではないか と思う。
38巻より再開した、キン肉マンの新作は、楽観的な世界観を、意識して取り戻した節がある。
3つの派閥 それぞれに主張があり、それぞれに正しさがある。
これは、正義と悪が2つに分かれて、悪には救いが無い と言わんばかりの、
2世で描いたテーマとストーリー、その反省から成り立つものだろう。
キン肉マン2世のあらすじをたどりつつ、キン肉マン→2世→現行作の、内的な必然性、作品のテーマやストーリーの繋がりというものを考えていました。
キン肉マン 新作が、いわゆる大人向けのキン肉マンとなっているのは、
やっぱり、ゆでたまご先生が年を経て、20代の若者から大人になって、いろんなことを経験して、その深みが作品に投影されているからだと思います。
2世のシリーズも、10年以上に渡って長期連載されたもので、
読んでみると、ゆでたまごの年令的な成熟、老い、反骨心みたいなものが反映されて面白いんじゃないかな? という気もするんですが、
今 2世の全巻を読むまでのヒマが持てそうにないのと、いわゆる青年誌向けのエログロ路線はあまりスキでなく、何となく手が伸びないというところです。
正→反→合。
無邪気で朗らかな少年 → 世間の厳しさに直面する → 大人になる というリンクになぞらえてみると、
キン肉マン2世のテイストは、(ゆで卵だけに)ハードボイルドすぎたのかも というのが、あらすじを見た時点の印象です。
自分の場合は、小学生前後の小さなときにキン肉マンを読んでいたので、
この作品の世界観や絵のタッチは、小さな子どもの朗らかさ、前向きな明るさを持っていてほしい という価値観がある。
悪行超人たちのキャラクター付け、ストーリー展開で訴えたいところは分かるのですが、キン肉マンの絵と話で読みたいのはそこじゃないんだよな…という違和感、ズレを感じる。
かつてジョジョ5部で、フーゴが離脱した後 敵にするかしないかの葛藤が荒木先生にあったという。
最終的には、
「かつて仲間だったフーゴが裏切り者で、敵として出てきたら、読者もイヤな気持ちになるんじゃないか」
「少年マンガの読者には、正義や希望を伝えることが大切ではないか」
との判断にて、フーゴはヴェネツィアで別れたまま物語からフェードアウトすることになった。
キン肉マン2世に感じるジレンマ、近づきたいような近づきたくないような感じは、これに似たものがあると思う。
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今日 ついさっきのことであるが、キン肉マンのweb連載が更新され、
「ジャスティスマンが登場し、サタンに対峙。オメガマンに教えを諭す話」を読むことができた。
ジャスティスマンがオメガマンに述べたセリフで、「罪人の子孫は罪人ではない」。
ここから先は私の予想・憶測ですが、
ジャスティスマンのセリフは、2世で描いた悪行超人の問いを、作者があらたに問い直したものだと思う。
オメガマンが出てからの話は、何を描こうとしているのか テーマやストーリーが見切り発車でグラグラ揺れ、固まっていない感が強かったのですが、
アタルがオメガマンに勝ったくらいから急展開で、今後の筋道が見えてきた。
作者はオメガマンに思い入れがあり、けっこう自己投影をしている感じがあり、もう1人のキン肉マンとしてこのシリーズで成長を描いていきたい。
そういうストーリーで、今後の方向性が、嶋田先生たちの中で固まってきたのだと思う。
時間超人 2人組が報われない悪役のまま死んでいったのも、その時期のゆでたまごであれば、
今描きつつあるオメガマンたちの一団で、時間超人の描き直しをしようとしているのではないか。
そんな気がする。
キン肉マンの展開で、今後 どうやって物語を見せていくのだろう? と思うのは、
「神」よりも「悪魔」は弱いに決まっているだろう ということがある。
キン肉マンは王位争奪編でいちど完結している。
物語の最後で「王」=神に認められた存在となり、ヒーローを極めた。
本来ならば、その先は無かったはず。
このあたりは、ドラゴンボール 神と神以降の展開に似ている。
映画上映前後 鳥山先生にて、悟空たちが成長して強くなりすぎてしまったので、
あたらしい敵(≒主人公のライバル、目標値)としてネコの神さまを設定した という旨を述べていた。
(ゆで先生にとっては、全くのお節介だが)キン肉マンの新作で悩ましいのは、
先に、神であるザ・マン、神の弟子である完璧超人始祖のエピソードを、かなり見事に、二度と描けないくらいの高みで描いてしまったことだと思う。
神のあとに、神に劣る悪魔を出しても、物語は二番煎じとなり、同じことの繰り返しで、前作を超える盛り上がりが得られる筈が無い。
キン肉マンの後にゆうれい小僧がやってきた、キックボクサーマモルでプロレス的展開をやって、人気が出なかった。
聖闘士聖矢のあとのサイレントナイト翔、北斗の拳のあとのサイバーブルー。
原哲夫先生が、サイバーブルーのあとに花の慶次で息を吹き返したように、
ジョジョが1~3部でDIOとの宿命を描き切った後に、4部で仙台の日常話に軸足を移したように。
キン肉マンで、始祖編のあとに、異なるあたらしいシリーズを描くのであれば、
なにか物語の軸足、座標軸や向かうところを他にズラす必要があるのではないか というのが、私自身 僭越ながら思う次第である。
「キン肉マン なぜ新作を描くのか?」の答は、作者自身でないとわからない。
このあたりの問いは、人間はなぜ生きるのか? ひとつの目標を達した人間は何に向かって生きるのか? 余生が訪れたら人間は何をするのか? みたいな問いである。
ゆで先生が新作を描きたければ描く。
読者はそれを読みたかったら読む。
何を受け取るかは読者しだい というところだろう。