ジョジョ読者のブログ

ジョジョの奇妙な冒険の感想、批評、考察を書いています。

イチロー引退会見より、抜書き

私が転職活動を行っていた昨年秋~今年の冬にかけて、作家の橋本治さんが亡くなり、貴乃花はカエルの絵本を発表し、イチローが東京ドームで試合に出て引退した。

自分が二十代のとき、橋本治の本をよく読んだり、貴乃花は少年ジャンプにまで登場した破竹の勢いで悲恋の物語を演じたし、イチローは神戸のオリックスに在籍時、よく試合のゆくえを追っていた。

私自身は40代の中盤にさしかかり、イチロー貴乃花は少し年上で、橋本治は自分の両親と同じ年代である。親の世代がこの世を去り、自分たち子どもの世代も人生の節目に差し掛かりつつあって、いろいろと転換期を迎えているのだな と思う。

 

イチローが日本に居た最後の頃、「インパクト!」という雑誌を出して、好きな映画はベイブ、巻末の言葉が「こんなもんで終わると思うなよ!」と意気軒昂だったことをよく覚えている。実際のところ、イチローが積み重ねた安打数はアメリカのそれが日本の二倍以上であり、日本プロ野球での積み重ねた履歴は、まだまだこんなものでは無かった。 途中、選手として苦しい辛い時期も多かったと思うが、一貫してやり通したのは素晴らしいことだと思う。

 

昔 二十代のころ、「プロ野球選手でいうと、松井秀喜が中学生リーグに参加してるみたいな感じ」と、友人に評されたことがある。いわゆるモラトリアム、内向的にカラに閉じこもりがちだったのを指して、発破をかけられたのだと思う。

好きなプロ野球選手は前田智徳、落合、イチロー、清原…といったところで、松井は、キャラクターの面白みが薄くケレンミが無く、一歩落ちる。

イチローの現役最終戦を見て、また引退会見を見てあらためて思ったが、「オレ流」を貫くには努力が要り、覚悟も必要で、ゆえに尊いのだと思う。

 

最後に、イチローの引退会見(フルカウントからの書き起こし)より、

2点、印象深かったくだりを引用し、締めくくりとします。

ティール氏がSBR記者会見で述べた一節とも重なる、開拓者の精神。自分自身も肝に銘じて、4月からの仕事に臨んでいきたいと思いました。

 

――子供たちに是非メッセージを。

「シンプルだなぁ。メッセージかぁ。苦手なのだな、僕が。まぁ、野球だけでなくてもいいんですよね、始めるものは。自分が熱中できるもの、夢中になれるものを見つけられれば、それに向かってエネルギーを注げるので。そういうものを早く見つけてほしいなと思います。それが見つかれば、自分の前に立ちはだかる壁に向かっていける。向かうことができると思うんですね。それが見つけられないと壁が出てくると諦めてしまうということがあると思うので。色んなことにトライして、自分に向くか向かないかというより自分が好きなものを見つけてほしいなと思います」

 

(中略)

 

――プロ野球選手になるという夢を叶えて成功してきて、今何を得たと思うか?

「成功かどうかってよく分からないですよね。じゃあどこからが成功で、そうじゃないのかというのは、全く僕には判断できない。成功という言葉がだから僕は嫌いなんですけど。……メジャーリーグに挑戦する、どの世界でもそうですね、新しい世界に挑戦するということは大変な勇気だと思うんですけど、でもここはあえて成功と表現しますけど、成功すると思うからやってみたい、それができないと思うから行かないという判断基準では後悔を生むだろうなと思います。やりたいならやってみればいい。できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。そのときにどんな結果が出ようとも後悔はないと思うんです。じゃあ自分なりの成功を勝ち取ったときに、達成感があるのかといったらそれも僕には疑問なので。基本的にはやりたいと思ったことに向かっていきたいですよね。

 で、何を得たか……まぁ、こんなものかなあという感覚ですかねぇ。それは200本もっと打ちたかったし、できると思ったし、1年目にチームは116勝して、その次の2年間も93勝して、勝つのってそんなに難しいことじゃないなってその3年は思っていたんですけど、大変なことです。勝利するのは。この感覚を得たことは大きいかもしれないですね」

椛島勝一氏は挿絵画家で、椛島編集のおじいさんだった。

ウルトラジャンプの最新号を買うと、「荒木飛呂彦原画展ー冒険の波紋ー」を、2020年1月 長崎県美術館で巡回開催します、とニュースが載っていた。

 

それだけなら、なぜ長崎?とは思ったものの、原画展がそこそこ人気あるのだな というだけの感想だったが、キャプションの記述を読んで驚いた。

 

荒木先生の初代編集 椛島良介氏の祖父である椛島勝一氏(挿絵画家)の作品が、長崎県美術館に所蔵されている縁もあり、同原画展の開催が決定した とのこと。

www.nagasaki-museum.jp

椛島編集は、荒木先生のデビュー前からの担当で、ジョジョ3部終了までを手掛けた方。

エジプトの古代文字が読めたり、澁澤龍彦やコリンウィルソンを荒木先生に薦め、「DIOはエジプトに居る」とアイデアを出し合っていた編集者である。

ジョジョベラーにて、2人の対談が載っています)

椛島編集のおじいさんがイラストレーターだったのは驚きで、半端なく絵が上手く、孫の椛島氏に到るまで、文化的な血脈が受け継がれていたんだ と納得した。

 

上記リンク 長崎県美術館の情報で、椛島勝一氏の原画もいくつか紹介されています。

もし長崎に行く機会があれば、市川森一ウルトラシリーズほかの脚本家)ゆかりの図書館や教会を訪ね、長崎県美術館にも立ち寄ってみたい。そんなことを思った。

ジョジョ8部、キリスト教に基づいたテーマと認識する(覚え書き)

仕事の関係でキリスト教のあれこれを調べていて、新訳聖書 4つの福音書を読んだ。

福音書を読んで、クリスチャンに入信しようとは思わなかったが、とても面白く、興味深い示唆や学びを得た。

 

そして、福音書を読んで今更ながらに気づいたのだが、

現在連載中の第8部 ジョジョリオンのテーマは、はっきりと、キリスト教に基づいて構想されている。

罪、病気、呪いの克服またはそれらからの解放が、同作品のテーマである。

 

ジョジョリオン1話のラスト 康穂がつぶやく、意味深なナレーションがある。

(下記 あらき100%さまの書き起こしより、引用します)

 

この物語は「呪い」を解く物語。これが、その始まり。

「呪い」とは、遠い先祖の犯した罪から続く「穢れ」。坂上田村麻呂が行なった蝦夷征伐から続いている「恨み」。人類が誕生し、物事の「白」と「黒」をはっきり区別した時、その間に生まれた「摩擦」。

様々な解釈はあるものの、とにかく「呪い」は解かなくてはならない。さもなくば、「呪い」に負けてしまうか。

 

はたして、康穂が予告した冒頭の示唆、最新話までに描いてきた展開を、どうやって解決するのか?

物語上の事件をどのように解決するか。

抽象的に言えば、どのような状態、どのような観念を提示して、

物語の解決、「福音」がやってきた と提示するのか。

ジョジョリオンというタイトルは、ジョジョであることの福音を意味する。

 

下記 個人的な考えですが、

主人公の過去話 ダモカン一派との戦いにて、
ジョセフミと吉良が、お互いを助け合って、さらに違う他人(ホリーさん)を助けようとするエピソードで、

物語のテーマと解法は、だいたいを描いている と思う。

ただし、これから先のクライマックス 定助がもう1回死んで、誰か他人を救う。

同じ展開の焼き直しでは芸が無いし、味気ないラストになってしまうと思う。

どういう落しどころになるだろうか?

ジョジョシリーズ 「究極の肉体」と「究極の精神」描写の移り変わりと、5部~8部への辛めの評価

ジョジョ5部と6部のコミックスを、実家から取り寄せてひさしぶりに通読した。
(下記、私自身の率直な感想ではありますが、「過激」な意見も含み、万人向けではありません。あしからずご了承ください)


5部の中盤、イルーゾォの辺りからとみにバトルが分かりにくくなって、6部のバトルの殆どは読み飛ばしてしまった。
スタンド能力がムリ繰りになってきて、今迄に無いネタでよりすごく、よりすごくと「アイデアのインフレ」が悪い方向に出ていたんだと思う。

飛ばし読みをする中で、キャラクターの折に触れた決めゼリフ、場面場面の盛り上がりは有ったのだが、
何分 ページの大部分を占めるバトルがよく分からなくなっているので、残念ながら読み飛ばしてしまった。

5部、6部を読んでいて、だんだんストーリーとテーマが主導になって、キャラクターの活きた交流みたいなものがすり減っていったとも感じる。
いわゆる少年誌的な熱いキャラクターが減ったというだけでなく、登場人物の行動原理が分かりづらくなり、共感を持ちにくくなっていったのが残念だった。
5部では、ブチャラティらとフーゴが別れる場面の、それぞれの心情。6部では、自殺志願者マックィーンとエルメスのやりとり、プッチ神父の一貫した狂信的な行動原理は面白かった。

6部 プッチ神父とFFらの対比を通じて、彼が求める「天国」が何なのか、謎を追って物語が進んでいく。
ジョリーンたち主人公がアリ一匹の群れのように転生したのと、ミジンコの集合体であるFFが満足して成仏したのは、「人間らしい生き方」の象徴で、どことなく東洋思想的。
一方のプッチ神父が、キリスト教的なBody, Mind, Spiritsの三位一体を目指して、Spirits(精神、魂)の究極として、時を加速し運命を支配する能力、究極の精神(スタンド能力)を目指したのとは対照的である。
プッチ神父がヘビーウェザーの拳から運命的に窮地を逃れたが、結局はヘビーウェザーの能力に倒れたのは、東洋的な(?)因果応報のなせる業だったのかもしれない。
ケンゾー爺の暗殺風水が登場し、刑務所脱獄後に陰陽のタオバックルをジョリーンが身につけたのも、(プッチ神父の、歪んだ)キリスト教理解に対置して、東洋思想の触りを作者が持ち出してきたのだと思う。
ケンゾーのモデルとなったマンソンファミリー、KKKのネタを含めて、6部は何かと、宗教的なモチーフが散りばめられた話で、
この頃の作者コメントなどを見ても、オカルト的な小話が多く、「新宿には行くけど、銀座はイタリアよりも遠いよ!」と担当編集を一喝したエピソード(ジョジョベラーより)など、
作者自身が内向的になって、どんどんと宗教的観想を積み重ねていた時期だったのだと思う。


ジョジョのシリーズは、波紋法と超生物の戦いで始まった1部、2部は、「究極の肉体」を志向して描かれた節がある。

その後 第3部になって戦いの技法がスタンドに移り、「究極の精神」を志向して、正義と悪のバトルストーリーが紡がれていった。
3部~4部にかけてのスタンド能力、スタンドバトルは、頓智やトリック、人間同士の駆け引きや知力の応酬。
三位一体でいう、Mind 知性、知能、知力。明晰な精神、強い意思のぶつかり合いによって、勝敗の境目を描いてきた感じがある。

5部の中盤~終盤にかけて、スタンドバトルがどんどん観念的になっていった。
レクイエムの暴走によりキャラクターたちの「魂」が入れ替わる、魂のかたちと匂いを頼りにドッピオが偽装する、レクイエムが精神を支配する理屈。
知恵比べや駆け引きで勝負するのではなく、宗教的な領域へ、MindからSpiritsへと主眼が移っていった端境期だったと思う。

ーー5部のラスト 62~63巻で示された「スタンド能力の、その先の展開」は、6部の全編を通じて描かれた感がある。
なので、6部のスタンドバトルは読みづらく、何をどうやって勝ち負けがきまったのか、とても分かりづらい。
「究極の精神」を追求して、宗教・哲学の領域に踏みこんで「天国の時」を深く掘り下げ、その思索と結論の出し方は、とても面白かった。
しかしながら、(アラキマンガのマナーとして)裏に隠されるべきテーマが表に出て、滑らかで読みやすいストーリー展開、キャラクターたちの自然な有り姿はかなり省かれ描かれなかった。
エンターテインメントのマンガとしては、ちょっとバランスを欠いた問題作というのが、私の6部への評価である。


5部→6部に到って極大化した複雑さをほどいて、シンプルであらたな地平線に立ち帰ろうとしたのが、スティール・ボール・ラン 7部の新世界である。

ジャイロとジョニィ、サンドマンやディエゴたちを含めて、アメリカ大陸の大自然に挑む旅を続けたのは、
「肉体」の回復であり、「自然と共にある、人間のありかたのルネッサンス」である。

プッチ神父の妄執により極まった、観念的・偏執的すぎる人間理解からの揺り戻し。
作者が思う理想のところ、Body, Mind, Spirits 三位一体のほんとうの回復である。

マウンテン・ティム命名により、スタンド能力は「立ち向かうもの」としてあらたに定義された。
SBR10巻の巻末解説にて、(作中で公式に、)スタンド能力のありようがあらたに定義されてもいる。


つぎのジョジョリオンはまだ未完であるが、
大陸横断レースの反動から、狭い街に留まる構造のお話となり、
「レース選手たちが故郷に帰った後」の「家族のありよう」を描く話となった。

作者の実年齢とあいまって、ジョジョリオンは「老い」「病気」「生命と死」をモチーフに選び、
こまごまとした日本人の日常生活を選んで描いている感じがある。
常秀とブチャラティスタンド能力は似ているが、2人の性格は全く異なり、スタンドの使い方も、描かれる結果も異なる。

物語のしくみや構成に老いや衰えを感じるところもあるが、
8部のストーリーとキャラが、これまでに無かった展開を描こうとしていることも確かである。
岸部露伴やトニオさんなどの人気キャラは出てこないと思うが、今の作者が描く、現実社会の実相にあわせたリアリティ寄りの、もう1つの杜王町である。

スティール・ボール・ラン キリスト教と関わりつつの総括

ジョジョキリスト教の関わりに主眼を置きつつ、7部のストーリーとテーマを総括しようとする記事です。

 


ジョジョ展みたいなシリーズ歴代主人公集合企画があるとき、
ジョナサンがシーザー風バンダナ、ジョセフが飛行帽、7部からはジョニィが登場するのが恒例になった。
ジョナサンの後付けデザインも気になるが、それ以上に私がしっくり来ないのが、7部主人公としてジョニィのみがフィーチャーされジャイロの姿が無いことだ。

個人的な感覚では7部を引っ張った主人公はジャイロ、ジャイロとジョニィのコンビであり、
ジャイロツェペリ=荒野をひとり馬で行く、謎の男 のイメージが無ければ、SBR以降の新世界が描かれることも無かったかもしれない。

1部映画が公開された頃、ツェペリ家の2人が馬に乗り、ジョースター7人の馬車を導き進むような大型ポスターが描かれた。
「ツェペリさんがカラーで描かれるのは初めてで、ツェペリさんもジャイロのおかげで復活できました!」との作者コメントが付いていたが、
すこし大げさに言えば、ジャイロのイメージが産まれて、これを核に、SBRレースや19世紀末新世界が産まれたのを示唆しているのではないか と思う。


ジャイロツェペリは、ネアポリス王国出身の死刑執行人で、
ネアポリス王国のモデルはヴァチカン市国、実在した中世フランスの死刑執行人をモデルに、ジャイロの出自を設定している。

ヴァチカンはカトリックの総本山であり、死刑執行人は王に仕える忠実な家臣。

そして、ジャイロが「謎の男」であるのは複雑な二面性を持っているためで、
彼は、祖国、父親と家業からの「独立」を志向しながら、
同時に、一族の誇りと鉄球の技術を受け継ぎ、キリスト教や祖国への忠実さを失った訳でも無い。

ただのヤンキーや跳ねっ返りではなく、自らの足元を踏まえて理解しており、
いわば「運命」を受け入れつつそれに抗おうとする現代的苦悩の持ち主で、
「納得」を求めて旅をしていた。

ヨーロッパからアメリカへ、大陸横断レースに参加したジャイロは、
象徴的な意味で、旧来秩序からの脱出、新世界への旅を象徴するキャラクターだった。


ジャイロとリンゴォの戦いは、ジャイロの心の叫び、魂の叫びがほとばしったとても熱い戦いだった。

ジャイロと対照的なのが、(リンゴォ戦に共演した)ジョニィとホットパンツで、
ジャイロから「意志の力」を諭され、馬に乗る意志と鉄球の技術に目覚めていったジョニィは、最後は自らの足で歩きだすまでに成長する。
ジョニィは聖人の遺体を求めてはいたものの、自分のため、現世的なご利益を求めてすがったもので、信仰心は無かった。

ホットパンツはヴァチカンからの使者で、修道女だった。
男装の麗人として登場したホットパンツは、マイクOとの戦いまで相当強かったのだが、
シビルウォーの館で修道女の正体がバラされ、大統領との戦いで「罪を清めるため、神さまに全てを捧げます」と告白した後 あっけなく死んでしまう。
ジャイロジョニィとの違いは、「自らの意志」を持っていたかどうかで、そこが死生の分かれ目だったのではないか? と思う。


6部→7部の展開を俯瞰すると、
6部を通じて、既存のキリスト教文化、西洋文化、複雑に発展しすぎた作品世界からの脱出を試み、
7部にて、世界の再生、ルネッサンス(再興)、シンプルであらたな空白地点から物語を語り直していこうとの試みを行っている。

SBRレース 1stステージのゴールは教会。
そして、アメリカ大陸を西から東に横断して、最後にたどり着くのはニューヨークの三位一体教会、納骨堂で完結する。

ウルトラジャンプに連載が移籍した頃、何かのインタビューで作者が、SBRは「巡礼」の旅、と答えていた。
(読者の反応は気にせず、描きたいことを描いていきます、と意気軒昂なコメントも載っていた)

5部ゲーム本インタビューなどによると、3~6部の物語は3年単位で描かれていて、
1年め キャラクターの登場 → 2年め 物語を発展し、膨らませる → 3年め 終演に向かう
リズム・サイクルだったらしい。

SBRでも同く、1st~3rdステージくらいまでに主要人物の登場を済ませた後、
3rdステージの終盤、主人公たちの瞳に「光」が描かれるように変わってからは特に面白く、
3rd~7thステージまで物語中盤の旅は、

人間の生きるべき「道」を求めて、それぞれ毛色の違った、示唆的なテーマを盛り込んだエピソードが続いていったと思う。

主人公2人は、聖人の遺体、宗教的奇跡への距離感が異なっていた。

サンドマンの「裏切り」は、フーゴのときに描けなかった、キリスト教のユダの裏切りを、青年誌移籍後に実現させたものだろう。

ウェカピポとジャイロ父のエピソード、シビルウォーの話、シュガーマウンテンの泉で物々交換する話なども、キリスト教的な含蓄を多く含んでいると思う。


レース終盤 遺体を総取りし、敵役として登場してきたヴァレンタイン大統領。
大統領の髪型(ウィッグのような、くるくるカール)は、アメリカ合衆国初代大統領 ワシントンを模していると思われる。

SBRの時代はアメリカ建国の100年後であり、ウィッグを着ける風習はすでに無くなっていたが、
ヨーロッパからのキリスト教文化を引継ぐ移民、またワシントン以来「開国、独立」の開拓者精神を表す象徴として、
大統領一派は古風な、くるくるカールの髪型をしていたのだろう。

大統領の野望は、アメリカ大陸に散らばった聖人の遺体を集め、宇宙の法則、神の奇跡とご加護を丸ごとわが身に引き寄せようという壮大なものだった。
スタンド能力のスケールもさることながら、胆力があり、演説にも長け、「切れ味鋭いけどあたたかい」人物の魅力は、他に無いものがある。

ヴァレンタイン大統領はとても強く、
ジャイロとジョニィ、ルーシーとスティール氏、ディエゴとホットパンツ レースの登場人物が束になってかかって、ようやく遺体争奪戦が終わった。

遺体は結局のところ誰のものにもならず、人間の思惑、善悪や人智を超えた存在だった。
最後に納骨したであろうルーシーに光が差し込んだのは、
聖人からの思いやりというよりは、(作中 随一の過酷な経験をさせた)作者からのフォローだったかも と思う。

物語のラスト ジョニィは親友の「遺体」を持って、大西洋を反対に渡り、ネアポリス王国を目指す。
故郷を飛び出したジャイロを故郷に連れて帰る旅で、作中 あれほど執着した聖人の遺体ではなく、親友の遺体を持って、鉄球を形見に祖国へ帰る。

ジョニィのモノローグで、この物語は「祈り」と「再生」の旅であった と語られる。
これは作者自身の独白でもあり、
物語世界の再生を目指して、作者自身のあらたな祈りを求めて、スティール・ボール・ランの旅は、巡礼と開拓の旅は描かれていったのだと思う。

「運命」と戦う主人公たち ジョジョシリーズの通観、ジョジョリオンのクライマックス予想

実家に本を取りに行き、ジョジョ5部6部のコミックスなどを手元に取り寄せた。
5部コミックスを47巻から読み直して、5部文庫本あとがきなど周辺の資料を見返していた。

5部文庫本の作者あとがき、ジョジョメノンの作者インタビュー、4部リミックス本の巻末 吉良吉影の出自にまつわるインタビューなど。


5部文庫本のあとがきにて、1~3部、5部に到る作品のテーマが語られている。

3部のDIOは、高祖父(ジョナサン)あるいはそのひとつ上の世代から続く、「宿命」「因縁」の象徴として現れる。
承太郎は、DIO本人に出会ったことは無く、運命的に戦うことを義務付けられるが、一族の誇りを力に戦った という概説だった。

1部→2部→3部の三部作で、大きなひとつの物語、ジョースター家とDIOの対決を描いているのはご存じの通りである。

(ちなみに、5部コミックスを読み返していて、毎回毎回 バトルのたびに細かい展開、二転三転をよく考え続けてきたものだと感心している。
 1部から2部へのひっくり返し、純潔なジョナサンの次が破天荒なジョセフで、一族のルール(=1部での展開)をひっくり返していくのも痛快で、
 武装ポーカーや魔少年ビーティーの頃から一貫して、頓智やトリック、二転三転の駆け引き、クライマックスのどんでん返しが好きな作風だと思う)


3部以降 ラスボスは時間を操る能力者で、DIOからプッチ神父に到るまで、それぞれのやりかたで時を操り、主人公たちの行く手を阻む。
SFのアイデアをアラキ流にパワーアップさせていて面白く、端的にはAV機器の操作ボタンになぞらえることもできる。

5部 キングクリムゾンが登場するくだりを読んで(遅まきながら)気づいたのだが、
ラスボスたちの能力は、時間を操作するというSF的テーマに加えて、「運命」が主人公たちに襲いかかってくる、その象徴として描かれている。

メタ的に見て、ストーリー展開上 最大・最後の障害が「ラスボス」であり、
時間を操作し支配する能力は、作品世界(=運命)を支配する能力だからである。


ジャンプでの週刊連載を読んでいた当時から、
ジョジョのシリーズは4部以降は「外伝」、あるいはファーストシーズン(初期構想)が終わった後のシーズン2、3、4…が続いている気がしてきた。

実際、ジョナサンとDIOの対決から始まったストーリーは3部のラスト コミックス28巻でいったん幕を降ろしているのだが、
椛島編集に賛辞を届けるあとがきの後、幕間を挟んで、
29巻から杜王町の日常が静かに語られ、毎日の暮らしが幕を開けていく。

しかしながら、作者の中にあるテーマ、運命に立ち向かう主人公たちの物語としては、
1~3部のシーズン1を終えた後、4部、5部、6部、7部…と、首尾一貫して、人間たちの物語を描いてきた流れが見える。

たぶん、私がバオー来訪者ジョジョ1部を週刊連載で読んできた(古株の)読者で、
連載当時 ディオブランドーが登場した1部が小4、承太郎とDIOの決着が中3の終わりで、年令的に、少年マンガに最も熱中してハマり込む時期だった。

その頃の印象が強いため、4部5部以降はどうしても「外伝」感を感じてしまうが、
たとえば、私よりもっと若い方で、5部から読み始めた方は5部を基準に前後の物語を読みはじめるだろうし、7部や8部から読みはじめる方もある。
テレビアニメから興味を持ってシリーズ全巻を通して読んでいった方もあるだろうし、
このあたりの感想は、個々人の年令・状況・体験によって、さまざまに幅が出て違いがあるのだろう。


人間賛歌の物語は6部で時間軸が巻き戻り、7部以降の月刊誌連載が続いている。

7部 ヴァレンタイン大統領のスタンド能力は、時間テーマからは外れて、パラレルワールドを操作する能力になっている。

メタ的に見て、AV機器的な時間テーマはネタが尽きており、
物理的世界=作品世界=「運命」をつかさどる究極の能力を、時間テーマ以外の、物理学のさまざまなエッセンスから求めているのだと思う。

私自身 宇宙の仕組みや素粒子の構造を探るような物理の先端分野に疎く恐縮ですが、
「時間」と「空間」が物理的世界を構成する根本の要素であり、
このあたりから元ネタをとって、マンガ的にパワーアップしたスタンド能力が最後に現れてくるのではないか と思う。


8部 ジョジョリオンは、収穫へのカウントダウンがはじまり、
目下 つるぎの行動の謎を巡って、ストーリーが折りたたまれはじめた最中である。

ジョジョリオンのいわゆるラスボス(=スタンド能力を使って戦う、定助の最後の対戦相手)は、
岩人間の医院長、常敏のいずれか、あるいはその両方だろう。

ただし、いわゆるラスボスとのスタンドバトルが終われば物語が解決するかというとそんなことは無く、
ジョジョリオンの主眼は「家族」と「街」を描くことにあり、「現代日本の家族」と「一族の誇り」が回復されるまでは、物語が意味をもって終わることが出来ない。

ストーリー上の最大・最後の障害は、定助たち3人チーム(康穂と豆ずくさん)の未来、東方家と吉良家の未来、呪いの病を誰がどのように克服していくのか である。
主人公たちの生き方を含めて、杜王町の行く末に明るい希望が見えるまでは、ストーリーを閉じることができないだろう。


ウルトラジャンプの最新号 つるぎが血まみれのノリスケをどこかに隠そうとしているシーンは、
「誰がノリスケを殺した(殺そうとした)のか!?」が伏せられており、様々な予想、ミスリードを導入している。

わたし個人の予想では、つるぎがノリスケを殺したのではなく、
何かしら、さまざまな事件、岩人間の医院長とのロカカカ争奪、ホリーさん・吉良との因縁、常敏一家と主人公の争い、ノリスケ夫婦の不和、街と生家を巡るいろいろなウラオモテみたいなものが重なり合って、
さまざまな事情と行く末の果てに、上記のつるぎのシーンに到達するのでは と思う。
(月刊誌連載で、このシーンに到達するまで、1年後、2年後 3つくらいのエピソードを経て、2021年までには到達するんだろうか… しばらく先の話である)

今の折りたたまれた、さまざまな因縁が重なった状況は、
糸がからまって毛玉になったような、あるいは、一枚の紙から折り紙が折りたたまれたような、原型の見えない、複雑怪奇な状況である。

定助と康穂たちの行動が、状況を進めて、ものごとの解決に向かっていくと思うが、
シャボン玉に隠された「超ひも理論」の謎は、どこかの段階で、意味をもって現れストーリーを動かし、ときほぐすのでは と思う。
スタンドバトルの大技として使われるかもしれないし、
こんがらかった状況、キャラクターたちの生命や死、置かれた状況を解決する、なにがしかの超能力を発揮するのではないか と予想している。

ただし、どうやってストーリーやキャラクターたちがラストまで推し進んでいくのか、予想はつかない。
二転三転のひっくり返し、チープなトリックや頓智問答が好きな作風であり、
「魔法の剣」や「超常的な奇跡」に頼らず、主人公たち人間の、現実的な努力にそって解決されると思うので、落しどころが楽しみである。

ジョジョ6部 キリスト教と関わりつつの総括

ジョジョキリスト教の関わりに主眼を置きつつ、6部のストーリーとテーマを総括しようとする記事です。

 


6部は、5部で示された「運命の奴隷」モチーフの進化、「人間は、産まれながらに罪を背負う」ことの深化と追求が図られた。

「罪人」として、罪を背負って生まれてきた(=物語の舞台に登場してきた)主人公。

ジョリーンは、父の愛に恵まれなかった娘であり、
(コミックス1巻のはしがきによれば)聖母マリアさまのような大きな人類愛を持つべくイメージされたキャラクターである。

また、アナスイやプッチとウェザーの兄弟も、罪を背負って登場してきたキャラクターである。

ジョリーンが作中で強くなっていくのは、
父と娘の人間関係を回復し、喪失したものを取り戻し強くなっていくからである。
父のDisc(記憶と能力)をわが身に取り戻す展開は、その象徴である。


連載時 ジョリーンの罪状がどんどん重くなって、物語が膨らみ、どうやって収拾するのか?
脱獄をしたとしても、罪を犯したことの償い、精算をどうやってするのか?と思いながら読んでいた。


敵役のプッチ神父は、(ジョジョ読者であり、正統なキリスト教会の神父さまから見ると)
これは認められないもので、キリスト教とは異なる全くの異端、カルト的な思考・行動の持ち主 という評価であった。

プッチ神父が異端であるのは、作者の意図をもってのことだと思う。

何故ならば、プッチ神父は、作者の宗教観を問い質すために作られたキャラクターだからである。

荒木先生が、(自身の中にあるであろう)キリスト教への矛盾・疑問、自問自答を行い、
既存の宗教観から己の宗教観・哲学を見出すために描かれた、あるいは描きつつそのような意図が深まっていった。
私はそのように思っている。

プッチ神父が「真の邪悪」とウェザーに断罪されるのは、
それだけ、このキャラクターが重い意味を背負って、舞台の役割を演じたことの証しである。

ほとんど神がかり的な、偶然を味方につける力までをもって、
DIOの息子(≒神の子、悪魔の子)すらも味方につけて、
「天国」に向かって、プッチ神父は進んでいく。

果たしてその先どうなるのか?というところで、プッチ神父が物語をグイグイと引っ張り、
立ち姿や身のこなし、いわゆるポージングも気合が入って決まっており、表情や発言にも切れがある。
荒木先生自身 6部の中で、プッチはお気に入りの悪役だったようで、ビジュアルと哲学、行動がバッチリはまって、決まっている実感があったのだろう。


物語の最後 プッチ神父の野望は潰えて、倒されて終わる。

ジョリーンからエンポリオに託されたウェザーリポートの能力が、プッチを倒す。
承太郎からジョリーンへ、あるいはジョナサン・ジョースターの世代から受け継がれた意思や魂の繋がりによって、DIOの一派の末裔を滅ぼす。

エンポリオとプッチ、直接にはジョースター一族ともDIOとも血縁が繋がらない「他人たち」によって、100年余りの善と悪の戦いが幕を降ろす。


プッチ神父が求めた「天国」は、おそらく、ニーチェの超人思想「永劫回帰」にヒントを得ている。

ニーチェは、既存の宗教(19世紀当時のキリスト教)を克服しようと、自らの哲学、生きるべき道筋を思索と著述から見つけ出そうとした。
その苦闘は、プッチ神父の物語にそって、あるいは5~6部を通じて描かれた、作者の苦闘に重なる。

あるいは、ジョジョ1部の開始当初から遡って、もっと遡って作者の幼少時代からの精神的成長の総決算だったのかもしれない。
(荒木先生の通った高校はプロテスタントのミッションスクールであり、幼少時から西洋芸術(絵画や音楽)に造詣深い両親のもとで育ったそうである)


プッチ神父を倒した「正義の力」は何だったのか?
一口で言い切ることはできず、様々な意味、重ね合わせ、象徴の深読みが可能だと思う。

私の思う、気づいたところを箇条書きで述べていくとーー

・超常的な宗教観念に対する、人間の絆

・隣人愛
 (キリスト教の根本であり、イエスキリストが説いた言葉の根本)

プッチ神父とウェザーの間にあった、兄弟の因縁。仏教用語で言う、因果応報

・ジョリーンのベルトバックルに、(たしか、脱獄後 ロメオとの再会話から現れた)「陰陽マーク」を思わせるバックル。
 道教の陰陽、自然を賛美する東洋思想
 
・ジョリーンの最後に現れた、蝶が舞う、胡蝶の夢
 道教の開祖 荘子が語った夢は、(私なりに言えば)「自然に還れ」のテーゼに重なる。

・仏教的な輪廻転生を思わせる、キャラクターたちの魂の転生

最後の審判を乗り越えた先?に、ほんとうの「天国」が有った?
 全てをもう一度やり直す、パラレルワールド、新世界の誕生


ジョジョのストーリーと舞台は、そうして、6部から7部へ、19世紀末のアメリカ大陸に繋がっていく。

7部では、イエスキリストを荒木流に純化・表出したと思しき、「究極の聖人」が登場する。
(7部の劇中 究極の聖人が倒れ、復活し、東方への旅を続けアメリカ大陸に到達するエピソードが描かれる。これはある意味で、「究極の開拓者物語」だと思う)

ジョジョ7部の舞台は19世紀末、1部と同じ時代設定である。

物語世界の原初に帰り、大自然に還って、どんな冒険を描くのか?
作者は、一度終わったジョジョの舞台装置を使って、何を「語り直そう」としたのか。

ティーブンスティールは、なぜリスクを冒してSBRレースの開催を企画し、
ジャイロやジョニィ、レースの登場人物たちは、なぜ、旅に出なければいけなかったのか?

ーーそれはまた、別の話である。